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2012年3月11日 (日)

オーケストラ・ダスビダーニャ ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」 & 伊福部昭 日本組曲 3/11 ②

【まったく新しいイメージで、内側から】

さて、ショスタコーヴィチである。交響曲第7番、俗称「レニングラード」は、ショスタコーヴィチの作品を愛する者なら、まず特別に思わない人がないような作品である。ダスビのメンバーならば、ムラヴィンスキーやスヴェトラーノフは言うに及ばず、テミルカーノフ、バルシャイ、チェリビダッケにカエターニ、ビシュコフなど、たくさんの録音を所有して、それらの精悍な演奏に、少なからぬ愛情を感じてきているはずだ。しかし、彼らの演奏は、それらのどれにも似ていない。当たり前のアーティキュレーションをぶっ壊し、響きの質も一から考えなおしたのがハッキリわかるのだ。

特に第1楽章の戦闘シーンには、唖然とさせられた。まず、弦楽器がノン・ヴィブラートで統一、イン・テンポで前のめりにアンサンブルを前進させる。その響きは凄烈で迫力があるが、孤立無援で頼るものは何もない。打楽器、管楽器が被さってくるが、それらは応援の手というにはあまりにも客観的だ。このきれぎれのアーティキュレーションに分解されたメロディを、どのようにして全体の反物のなかに織り込んでいくかは見ものであった。その秘密はいまもってよくわからないが、あるいは、周囲の響きが一転して協調的である点に、その一端は求められるのかもしれない。イン・テンポなうえに、速めのテンポ設定。戦闘シーンは主に、勇壮で苛烈なメロディと背景音のうえに、ストリングスを中心とする機銃掃射と、打楽器による大砲の音色にわかれるが、大方の録音ではやはり、大砲の響きが優位に来る。

だが、今回の演奏では、機銃掃射のほうが「ちかい」。この過程で、音量の面では予想よりも、早めにピークが来ていた。私はこれ以上、上にはいけないはずだと心配した。その危惧に反し、ショスタコーヴィチの巧みなオーケストレーションは、響きの飽和をおこさせず、より深い高揚へとシーンを導くが、その先導者はどう考えても弦であった。道案内だけはオーボエが買って出るが、それ以後、アンサンブルの中心は常にストリングスの手もとにあり、それらを金管と打楽器、木管楽器のけたたましいサウンドが凌辱する。さらに遡ってみれば、勇壮さのある旋律と牧歌的な響きによる部分がおわり、最弱奏でこのシーケンスが始まるときにも、弓で楽器の弦を叩く動作が通常よりも明瞭におこなわれていた。

こうした背景に基づく、機銃掃射の優先である。徳川対豊臣戦「大坂の陣」における偽りの和睦にも役立ったように、大砲の響きは人々のこころを深く寒からしめるものだが、こうして機銃掃射が前面に出てみると、これはころで、またリアルな恐怖感を抱かせるものだ。恐怖が、よりちかい。今回の演奏では、この「ちかさ」もひとつのキーワードである。ダスビの演奏は、この作品が常に内側・・・悲劇の内側から描写されたものであることを強調している。それはこの戦闘シーンに限らず、その前段となるまだしも穏やかな対話的な旋律の繰り返しにもみられる。高揚してからは悲劇の象徴となるテーマは、プログラムの指摘によれば、レハールの喜歌劇のメロディからとられているということだが、今回の彼らの演奏によれば、そのような部分に現れる旋律は田舎の農夫の会話のように穏やかで、のんびりしたものであった。響きが高揚し、ついに「敵」の全体像が明らかになったあと、この農夫の旋律はメチャクチャに引き裂かれ、まるでSF映画の序盤で、あっという間に無防備にも命を落とす人たちのように、痛いくらいに切り裂かれてしまうのである。なんとも、ちかい!

私たちは、そういう内側の痛みに寄り添って音楽のなかにのめり込んでいくことができた。

【アンサンブル・ダスビダーニャ】

だが、ダスビの演奏では、そうした全奏の派手なシーンばかりが目立つわけではないのだ。確かに、そうした部分での遠慮のない激しいアクションも持ち味のひとつではあろうが、それは彼らの本質を成すものではない。ときに、私は先刻、Twitterでこの演奏会の感想を探ろうとして、ある間違いを犯した。検索ワードに私が打ち込んだのは、「アンサンブル・ダスビダーニャ」であったからだ。もちろん、1つもヒットしない。この団体が「オーケストラ」・ダスビダーニャというのは言うまでもない。察しの良い方ならば、私が何を言いたいかはもうわかったであろう。彼らの本質とはつまり、小さなアンサンブルを丁寧に描き、それを厳しい研磨によって組み合わせていく作業のなかにあるということだ。オーケストラというよりは、アンサンブル的なサウンド。今回、ダスビがめざしたものはそれだったのである。

その面で、第1楽章はもとよりだが、後半3楽章に私は大きな感銘を受けた。先回りして言っておくと、この作品でショスタコーヴィチが描いたのは、戦時のペテルブルクの風景であった。それは戦闘シーンに限らず、家族と夜を過ごし、男女がベッドで愛を語り合い、ときには音楽のレコードでもかけてみるという、日常生活の延長線上にある。温かく、ふかふかのベッド。家族の迎えるわが家。教会での祈りのとき。そして、自然の恵みを我が物にするペテルブルクの暮らし。戦陣のドイツ軍にはない、自分たちだけがもつリソースがファシストを打ち破ると、ショスタコーヴィチは本気で信じていたのであろう。

第2楽章と第3楽章は、同じような構図になっている。つまり、トリオとでも呼ぶべき真ん中の部分に、戦闘シーンのつづきが僅かに描かれ、それが両端の穏やかな部分と対比されることだ。私は、映画的な1シーンを思い浮かべた。それは非現実的な夢のようだが、次のようなものになる。主人公が家族と温かい暖炉のなかで過ごす平穏のなか、窓を覗くと、その外で激しい戦闘がおこなわれている。オーボエの発する野鳥の呻きを合図に、カメラが急転回して、その戦闘シーンを大写しに映し出す。だが、ひととおり描写がおわると、再び響きは穏やかなものに変わる。このメリハリが、ダスビの演奏は申し分ない。特に、第2楽章においては、その穏やかな響きの部分で、助け合う響きのバランスがとてもよく決まっており、構造の明晰さを引き立てる。

第3楽章は上記の意味で、第2楽章と対応するだけではなく、第4楽章とも対応している。それは冒頭の、バロック的な響きである。楽章の切り分け方は、今回の演奏では工夫がみられる。それは第3楽章後半のバロック的な展開を第4楽章に組み入れるようにして、後半2楽章をバロック的な序奏と、それに対する展開としてワイドに捉えていることである。こうしてみると。フーガは「第4楽章」でよりハッキリと展開する。これに対し、第3楽章はその祈りの響きと早めに分かれる決断をし、ナポレオンをも撃退した寒さの描写に変わる。ペテルブルク市民が愛する寒さこそ、外敵を防ぐ最大の砦である。そして、包囲を無力化したのも、この寒さによる結氷のせいであったとされている。その美しさを描くのは、ロシアの作曲家たちにとっては得意中の得意であろう。チャイコフスキーの『雪娘』ひとつをとっても見事なものだ。これを描く木管アンサンブルの美しさは、これまた印象ぶかいものになる。

既に述べたような、カメラが戦闘の場景にパーンしてからの見事な響きの切り替えは、多分、こうした穏やかな部分での伏線が細やかに構築されているこことの功である。ショスタコーヴィチが自ら挙げたようなリソースに対して、それらすべてをまとめ上げるものとして、彼が選んだのはもちろん音楽であった。包囲戦では、厳しい欠乏と恐怖のなか、それでも、いつものように奏でられた音楽が市民を元気づけたことが知られている。ここでは、マリー・アントワネットの思想を真似ることはまったく正しいことなのだ。パンがないなら、音楽を聴けばよろしいのに・・・。パンばかりを求める大阪市長の考え方では、民族は滅びてしまうであろう。

【ペテルブルク市民の強かさ】

大阪市民はどうか知らぬが、ペテルブルクの市民は明らかに強かだ。遡って、第1楽章を振り返ってみると、そこには、例の交響曲第15番でショスタコーヴィチの名前を永遠に轟かせたチャカポコの妙味にちかい響きが聴き取れるであろう。あの激しい戦闘のあとに、敵の帰営ラッパが鳴り響くなか、市民は早くも、こうして結びつこうとしていた。引き裂かれた農夫のテーマが、密かに復活する。ペテルブルクの市民は、ナチスと同じくらい凶暴な敵をいつも背中に背負っていた。スターリンと共産党のことだ。突進してくる機甲師団など、なにも恐ろしくはない。最初の恐怖が去れば、彼らはその強かさを発揮するだけだった。家族と彼らの待つ家、そして、信仰心、それらをまとめ上げる音楽の力で、ペテルブルク市民はいつでも力に満ちていた。ショスタコーヴィチは、アダージョで、そうしたことを信じる歌をうたった。

ダスビのメンバーは、その想いを繊細な結びつきに満ちた響きの織物で表現してみせただけである。

終楽章も、そのような結びつきだけで表現を高めていく。響きの盛り上がる部分の凝縮も素晴らしいが、それ以上に、より動きのみられない部分での室内楽的な繋ぎこそが、今回の演奏の素晴らしさの本質であることは既に述べたとおりだ。前半と後半のトゥッティ(全奏部分)では、勝利の予感が激しく鳴り響く。前半部分は全員が魔法にかかったように、弦の燃えるようなボウイングが横溢して、これまでの総決算を迎える。後半では、より余裕のある大きなアクションが印象的で、主役を他の楽器に譲っている。最後の勝利の歌は、ダスビのメンバーの自画自賛とも受け取れる巨大な爽やかさに満ちていた。まっすぐに伸びるシンバルの響き。金管の自信に満ちた唸りとと、弦の柔らかなベースの逞しさ。想いがきっちりと伝わる表現に、私はすっかり脱帽した。

【まとめとアンコール・ステージ】

勇壮にして、きっちりした弾きおわりとともに、感極まったかのような表情をした長田氏につられてか、私もすこしだけしゃくり上げてしまう。それほど、素晴らしい演奏であった。それはしかし、演奏終了とともに激しく始まった拍手によって、掻き消えてくれた。称賛は、この上もないほどに温かい。

演奏会は、まだ終わっていなかった。アンコール・ステージは、今度は観客を励ますためにあったようである。弦楽四重奏曲第1番終楽章の、団員による素晴らしい編曲を経て、最後、外山雄三のラプソディで、演奏会はあくまで明るく幕を閉じた。伊福部と似たような素材を使ってはいても、なんとも下卑た曲なのであるが、ダスビの演奏では、その下卑たところがやはり、作曲者の意図以上に見事な高貴さで響き渡るのであった。吹奏楽ではお馴染みのスタンディングなども取り入れ、オーディエンスを十分に楽しませた。東北はブラスの盛んな地域でもあるので、あるいは、それに対するオマージュなのかもしれない。

私は好きなのだが、あまり評判のよくないディスクにアシュケナージ指揮ロイヤル・フィルによるものがある。その冒頭には、実際に放送されたショスタコーヴィチ本人によるメッセージが収録されている。そこで彼は市民が自分たちの役割を果たして、ドイツ軍から祖国を守ろうという趣旨のことを話す。ダスビが訴えたかったのも、ちょうど、そのようなことだったのにちがいないし、また、彼らはアマチュアとはいえ、こうした演奏会でその役割の一端を果たそうと試みた。もちろん、私たちだって、こうした音楽に支えられて、日々の仕事に勤しむことはまったく倫理的な問題ではない。しかし、その日常から窓の外を眺めれば、厳しい戦火が広がっているペテルブルクがあったことを忘れてはならない。私たちの窓の外には、同じようにまだ復興の進まぬ街々がある。

ただし、ショスタコーヴィチに関しては、彼らは伊福部の場合とはちがって、震災の惨事と直接、重ね合わせるような意図はまったくなかったと言ってよい。彼らの愛するショスタコーヴィチはショスタコーヴィチとして、あくまでいつものように弾ききっただけである。それでよかったのだ!

今回、私は彼らの凄さを思い知ることになった。交響曲第15番における見解は、いまや放棄せざるを得ないだろう。蓋し、名演である。彼らの渾身の演奏に対して、深々とこうべを垂れてお礼を述べたい。スパシーバ!

【プログラム】 2012年3月11日

1、伊福部昭 管弦楽のための『日本組曲』
2、ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」

 於:すみだトリフォニーホール

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