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2012年3月 4日 (日)

パウル・バドゥラ=スコダ シューベルト ソナタ D960 / 「さすらい人」幻想曲 ほか 3/1

【余白の作曲家とピアニスト】

パウル・バドゥラ=スコダについては、昨年10月のリサイタルについてもリポートしている。それから半年と経たないうちの再来日は、それなりに頻繁といえるだろう。また、次回は11月のリサイタルが予告されており、年間2回の来日が恒例となってきているのは喜ばしいことだ。1927年生まれの高齢であるが、メカニカルな部分での落ちも少なく、自分にあったピアニズムというものを適切に調整しながら、それを自然な作品解釈と衝きあわせている老匠の仕事には、私もこころ打たれるものがある。チッコリーニ、プレスラーとともに、バドゥラ=スコダを加えた3人のアルテンマンがもしも亡くなったりしたら(人間いつかはそうなるものだが、それはずっと遠いいつかであろう!)、ピアノのファンでいる楽しみもずっと小さくなるであろう。

さて、今回のリサイタルはオール・シューベルト・プログラムとなった。このうち、D960 のソナタは前回のリサイタルでも弾いているが、それについて述べた私の記事では、【音の保持と支持体の美しさ】なる小見出しでこの作品の演奏についてピック・アップしているので、何卒、ご参照を願いたい。ここで主に述べているのは、バドゥラ=スコダが響きの保持を徹底し、その残響を絵画の支持体のように使って和声の化学反応を立体的に表現していることについてであり、この効果はホールのキャパシティが広くなり、残響が薄くなるほどに感じにくくはなるだろうが、それでも、このピアニストの音楽性を知るには恰好のテーマであるのは間違いないところだろう。

老年期に入ると、少しずつ聴覚が弱まっていくことはよく知られている。しかし、バドゥラ=スコダに関する限り、この面における老化現象は少なくとも、彼の素晴らしい演奏を損なうほどには進行していないようだ。彼は自らの響きを聴き、それを楽しむという姿勢で音楽をしている。バドゥラ=スコダの演奏を目の前で聴くことができれば、彼が執拗なまでに自分の弾いた音に耳を傾け、それに反応して打鍵やペダルを工夫しているのが単に視覚的な情報だけからもハッキリと認識できることであろう。楽譜に書き込まれた1拍なら1拍の響きが適度に減衰して、ちょうど1拍が「鳴りおわった」ことを確認しなければ、バドゥラ=スコダは次のアクションを起こすことはない。

このような演奏姿勢は、実のところ、ほとんどお目にかかることのできないほどの慎重さと評することができる。大抵のピアニストは、空間をいかに埋めるかということに神経を尖らせている。その方法として、響きの重厚さを選ぶか、あるいは、敏捷性を選ぶかというタイプのちがいこそあれ、その本質は空間をいかに上手に埋めて、聴き手の集中を放さないかということに集約してくる。バドゥラ=スコダのピアニスムは、こうした浅薄な音楽美学を見事に打ち砕くものだ。ある意味では日本的な、「余白を愛する」という世界が彼の音楽には潜んでいるのである。そして、そのような余白にこだわった音楽家として、私が真っ先に思いつくのはブルックナーであり、シューベルトだ。同じウィーンの音楽家というだけでなく、バドゥラ=スコダはシューベルトの音楽の本質に寄り添うような音楽センスを備えているのだ。

そういう意味で、今回のリサイタルにはとても示唆的なものが多かった。

【楽興の時~死と再生の物語】

演奏会冒頭の、『楽興の時』(D780)がおわった時点で、既に私はもとを取った気になっていた。なんと高貴な気品溢れる、なおかつ、ロマンティックな演奏であったろうか。いわば6つの気分が並ぶだけのシンプルな作品に、バドゥラ=スコダが包み込んだのは正に、あるひとりの青年の人生であったろう。そこでは1曲1曲に、複雑で人間的なテーマが含まれ、それをピアニストは圧倒的な集中力で丁寧に引き出していった。素材のシンプルさや素朴なメロディの美しさなど、もはや聴き手の関心事ではない。

第1曲(ハ長調)では沈潜するメランコリックな短い楽想を手掛かりに、青春につきものの揺らめきがしっとりと浮かぶ。しかし、これはまだ前奏曲だ。第2曲(変イ長調)は、シューベルトの歌曲を想像させるゆたかな詩情が、曲想の明暗の対比によって劇的におこなわれる。特に前半の短調への移行はバドゥラ=スコダらしい絶妙の余白のコントロールから、モーツァルト的な激しい表情の切り替えでアッと言わせる。完全に響きが消失するギリギリのところで始まる打鍵が、この効果を明らかに高めていた。これに対し、後半の転調はもっと穏やかである。こうして青年は、人生の転変に慣れていくのだろうか。有名な第3曲(ヘ短調)は、ある意味で間奏曲的なものになっている。舞曲の自然さに基づいたアーティキュレーションの面白さや、ルバートの味わいがこの上もない。

第4曲(嬰ハ短調)あたりから、ドラマは動き出す。録音では、この曲に関してバッハ的な精巧さを際立たたせているが、この日はより人間的なこころのドラマに注目し、師であるエトヴィン・フィッシャーの教え「この楽章は雨である」に忠実な精神の優しいドラマを響かせた。その悲劇性は、つづく第5曲(ヘ短調)でハッキリと増幅されている。バドゥラ=スコダがプログラム・ノートで書いているように、確かに、この作品にはベートーベンを越える力強いエネルギーが感じられる。ただし、音どうしのコントラストをハッキリさせ、揺るぎない強靭さを描くセンスはリスト的なもの(無論、リストのほうが後続世代)である。この第5曲は、稀にみる凄絶さで奏でられ、バドゥラ=スコダとしても、会心の出来ではなかったろうか。

変イ長調によるフィナーレは、シューベルトの作品ではよく言われる死との親密さを指摘できる演奏だ。青年はこうして、短い運命を閉じる。それが肉体的な死であるかどうかは、わからない。若者にとっては、ひとつの失恋が死と等価であるかもしれないからだ。そのことを示すように、同じような曲想でありながら、繰り返し的な要素では、シューベルトは死と同時に再生を描いているように思える。作品は徐々に肉感から自由になり、背筋も伸びる清らかな響きが静かに浮かび上がる。形式がもういちど発展しそうになるギリギリのところで、音楽は止まる。音楽は明らかに、若者の再生を物語っているのだ。

最後の低音が鳴りおわると、多くのオーディエンスはこころを合わせてその余韻に浸ろうとするが、別の一群は、あっという間に拍手を始める。この層が2つに分かれて、最初の一群の動きが弱まったころに、バドゥラ=スコダが悪戯っぽく顔をこちらに向ける。ここで、満場のアプローズが始まった。

【徹底的な新しさ~『さすらい人』幻想曲】

2曲目は、「さすらい人」幻想曲(D760)である。この曲は、私が特に愛する1曲でもあるが、そんな私もアッと驚くような演奏であった。ここでバドゥラ=スコダが示したのは、シューベルトの圧倒的な新しさである。しかしながら、その演奏には、この作品のひとつの特徴である華麗さはあまり発見できない。冒頭からグイグイ飛ばして、ダイナミズムで攻めていくような演奏も多いが、彼はあくまで自然な流れに沿って作品の構造を使っていくというスタイルである。その解釈は、ここにリンクする録音のものよりずっと進化しており、主により柔らかくなったアーティキュレーションを中心に、素材の扱いがずっと丁寧に研ぎ澄まされ、実質的にはソナタ作品とも言われるその特徴が明瞭になっていた。

必要な素材が生み出されていくアレグロとアダージョは、とりわけ慎重に素材の彫琢に集中力が使われている。また、このあたりから目立ってくる特徴は、バドゥラ=スコダの打鍵では、低音域・中音域・高音域の重みにさほどちがいがなく、つまりは、音価の揺らぎがあまりないということである。この作品は音高の動きが大きく、そのため、低音の響きと高音の響きによる揺らぎが作品の構成をどうしても困難にする。かつてのバドゥラ=スコダの録音では、これがもろにデモーニッシュな響きにつながり、アダージョ楽章の変奏における華麗な動きはいびつなイメージで捉えられていたものだ。これに対して、今回の演奏では作品全体のコントラストが非常に美しく決まり、過度におどろおどろしい雰囲気にはなっていない。

そのため、プレストへの移行はきわめてスムーズであり、「さすらい人」の旅は、いっそう前向きに進行する。こうしてお膳立てされた後半2楽章が、圧倒的である。特に、第4楽章のフーガは、大胆な演奏であった。ただし、その前奏は既に第3楽章後半で鳴り響いている。シューベルトは周到に間合いを図り、まったく対位法的に関係しそうもない2つの素材を、遠回りにぶつけ合わそうとしているのは間違いない。そして、それが最後の楽章で、とうとう思いきられるのであった。

もちろん、これは単純化した見方であるが、フーガ製造装置というものがあるとして、作曲家たちはその装置の両端から甲という旋律線と乙という旋律線を入れて、あとは自動的に響きをミックスして紡ぎ出していくというのが、その装置の使い方である。しかし、このミキサーのなかに入れることのできる素材は、大体、決まっているものであり、その範囲において、製造装置は心地よい天上の響きを地上へと響き渡らせることができるものだ。ところが、シューベルトが突っ込んだ旋律線は、甲はあくまで一般的な(=伝統的な)ものであるとしても、乙はもう絶対に入れることは憚られるような強烈な素材である。それは音の選び方をみても、リズムやその強調をみても、どこにも教科書がないような組み合わせなのだ。

驚くべきことに、シューベルトがこの作品を書いた年には、まだ、彼の尊敬する巨匠、ベートーベンはまだこの世の中にいた。老巨匠が最後のピアノ・ソナタを書き終えて、あとは交響曲と弦楽四重奏曲、そして、大ミサ曲の世界へと臨んでいこうとするときに、シューベルトはそれとはまったくちがう古典的規範の組み替えを狙っていたと思われる。以前のバドゥラ=スコダはその革新性をもっと尖った表現と見做して、力づよい不協和の音楽に「さすらい人」の辿り着いた境地を見出していた。一方、この日の演奏では素材そのものの回帰がより見事に、くっきりと描かれており、単なる不協和音の意外性から脱し、音楽の弛まぬ緊張を運命づけたシューベルトの澱みない天才性を裏打ちするような演奏にしていたのである。

【明るさをエネルギーにしたシューベルト】

後半は、珍しい『6つのアッツェンブルック舞曲』(D145とD136よりの抜粋)を枕に、巨大なソナタ D960 の演奏である。初期作品の舞曲集はシューベルトにとって、まだしも明るい運命の開けていた時期の作品で、これをバドゥラ=スコダが一気呵成に弾き上げた。そして、アプローズもそこそこに、すぐさまソナタの演奏に入る。よく聴くと、これらの素材は互いに似通ったところもあり、シューベルトがバロック時代のようなメンタリティで仕事をしているのは明らかだ。バロック時代には常に新しい作品が求められ、旧作が繰り返し演奏されることは珍しかったという。そのため、作曲家たちは自然と多作になったが、いかにも惜しいと思われる素材は度々、ほかの曲のなかにも埋め込まれたのである。

シューベルトも、自作品からの引用が非常に多い。例えば、先の『さすらい人』の例もそうであるし、『ロザムンデ』の有名なメロディはあらゆる分野で繰り返し応用された。劇付随音楽『キプロスの女王ロザムンデ』の序曲は、劇付随音楽『魔法の竪琴』との共用であることもよく知られている。こうしてみると、シューベルトの描く素材は、それほど多様ではない。似通っている。しかし、それにもかかわらず、それらの作品のそれぞれが独創的な味わいに欠けるとは言えないのも事実なのだ。

それはともかく、この明るい舞曲が前奏されたのは、何故なのであろうか。バドゥラ=スコダは、拍手が起きても立ち上がることはなく、顔をちょっとこちらに向けただけで、次の演奏に移った。彼がなるべく舞曲と、ソナタをつづけて演奏したかった意図をもっていたのは明らかであろう。いかにも重々しい最後の作品を弾くに当たって、この陰鬱そのもののような作曲家にも、人並みに明るい体験があったことを前提するために、バドゥラ=スコダはこうしたのではなかろうか。そして、その明るい体験というのは、ソナタの第1楽章冒頭から流れる美しい主題に関係していく。

ソナタを描くにあたって、バドゥラ=スコダが重くみたのはこの歌謡的な主題の明るい提示と、それとは対照的に、ゴッホの絵にときおり登場する渦巻きのように、すべてを呑み込んでしまいそうな不気味さをもった、フレーズ最後の低音のモティーフである。音楽は、その間の経過区であるかのように、非常に丁寧に組み立てられたアーティキュレーションで繊細に磨き上げられる。打鍵はどこまでも柔らかく、力づくの表現は一切みられない。力づくは、例の渦巻きの部分だけでよいのだ。ダイナミズムさえ、彼はそんなに重くみない。彼はただ2つの異次元を、鋭いコントラストで描き出すだけである。それは人間の幸福と、孤独である。

マイナーで描かれる部分は、確かに多く、またそのマイナー・コードの甘さはシューベルト演奏にとっての生命線でもあろう。しかし、バドゥラ=スコダは、その体験を芸術へと高める巨匠のエネルギーが、やっぱり、力強い明るさのなかになくてはならぬと断じたのである。

そのことは、特に後半2楽章において、はっきりと提示されていた。スケルッツォは型どおりの均整のとれた進行を丁寧に示すことで、その音楽の明朗さが自然と浮かび上がる。しかし、全体は舞踊のリズムで常に踊っており、バドゥラ=スコダの遊びごころが、節々に染み込んでいる名演である。ABABときて、最後のAは意図的にエネルギーを小さくし、既に水をフィナーレに向かって流し下ろそうとしているのは明白だ。ほとんど間もなく演奏されるフィナーレは、前楽章の最後の音や雰囲気と直結している。響きは諧謔的で、もちろん、構造的にはちがいがあるが、形を変えた第2スケルッツォとしても話が通りそうなぐらいである。

バドゥラ=スコダはキビキビと曲想を入れ替え、このような構造的な面白さをデフォルメなく描いていく。とりわけ終楽章の明朗さは、今回の演奏を印象づけるようなものである。重々しくなりそうな打鍵を完璧にコントロールして、自らの解釈をきれいに示しているのは天晴れというものだろうか。コーダに至れば、天の明るさに照らされたアーメン・コーラスが華々しく響くように、最後、ようやく表れた強調に深い感動がのっていくのは当然である。

一方、これらと対になるのは、アンダンテ・ソステヌートによる第2楽章の主部である。ここにおけるバドゥラ=スコダの打鍵は、二度と忘れられない体験であろう。右手をふうわりと飛び越していく左手の優しい打鍵はもう、「鍵盤を打つ」というこの言葉が不適切なほど、軽く、柔らかい。奇跡的なほどに! その魔法の左手に導かれて、深々とバロック宗教曲を模倣したシューベルトの境地に、我々は身体の内側からこころを温められるのを感じる。これがさらに表側に展開するのが、トリオである。このトリオのメッセージのゆたかさについても、本来は申し述べるべきであろうが、割愛する。

もちろん、こうした要素は常に、シューベルトの作品にとってのパートナーである。先に述べたフィナーレの終盤でも、深いパウゼによって、こうした短調が鋭く対比されて印象を構成する。だが、それはフェイクとして使われるだけで、本流がどこをながれるのかはバドゥラ=スコダの場合、もはや明らかであったのだ。

なお、これらの楽章は間にほとんど時間を置かずに演奏され(アタッカではないものの)、オーディエンスも固唾を呑んで見守るしかなかった。そうするよりほかないという雰囲気であったのだ。

【まとめ】

きっと良いリサイタルになるとは信じていたが、これほど大きな刺激を得られるとは思っていなかっただけに、こうして数日ほど経って、記事を書き上げるという状態でもまったく印象が薄らいでいないのに、自分でも驚いているところである。シューベルトという作曲家も誤解の多い人だが、特に、後世に与える影響はあまりなかったと信じている人も少なくないはずだ。しかし、この演奏会のなかで感じたところを参考にすれば、後続のシューマンやショパン、そして、リストなどに多大な影響を与えたのは間違いないところと思える。

なお、前回の浜離宮朝日ホールでの演奏会ではスタインウェイだったと記憶しているが、今回、バドゥラ=スコダはウィーンのピアノ、ベーゼンドルファーを選んでリサイタルに臨んだ。ダイナミズム等において、スタインウェイよりもアクションが控えめなのは感じるが、ことシューベルトに関しては、それぐらいがちょうどよいという雰囲気も感じられた。こうしたホール(東京文化会館小ホール)でさえ、広すぎるように感じられるような親密な音こそ、バドゥラ=スコダの示した究極である。シューベルト=ベーゼンドルファー、そして、バドゥラ=スコダというパッケージでこそ実現したウィーンの香りただよう演奏会であった。あのベーゼンドルファー君もきっと、バドゥラ=スコダの懐かしい手触りのおかげで、こころのなかで里帰りを果たすことができただろう。

そして、この歴史上も稀有な、溢れんばかりの詩情と、力づよい革新性で短い生涯を燃やした「さすらい人」について、バドゥラ=スコダは本当に見事な造形を与えてくれた。シューベルトについては、彼自身の優れた録音も多数あるが、その解釈はハッキリと進んでいる。若くして、昔を懐かしむようなアーティストも多いなか、バドゥラ=スコダはこの高齢にして、なお進化を遂げているのだろう。そして、しっかと先を見据えている。彼を高齢者扱いして、健康が心配だの、ナンだのというのは適切ではない。停滞や、せいぜい維持することが、彼の目標ではないのだ。今後とも、バドゥラ=スコダの弛まぬ前進を報告できるように、私としても頑張りたいと感じた。

【プログラム】 2012年3月1日

 1、シューベルト 楽興の時 D780
 2、シューベルト 「さすらい人」幻想曲 D760
 3、シューベルト 6つのアッツェンブルック舞曲
  (D145-1、3/D365-29/D145-2/D365-30、31)
 4、シューベルト ピアノ・ソナタ D960 

 於:東京文化会館小ホール

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