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2012年3月 6日 (火)

小倉喜久子 コジェルフ クラヴィーア三重奏曲 op.12-3 ほか モーツァルトのクラヴィーアのある部屋 3/6

【企画趣旨とL.A.コジェルフについて】

小倉喜久子はピリオド楽器を使った鍵盤奏者であり、著述家でもある。そのリサイタルは個性的なテーマ性をもつものも少なくなく、以前から評判であった。今回、初めて聴くことになったが、予想以上に面白かったのでリポートを書く。今回の企画は「モーツァルトのクラヴィーアのある部屋」というシリーズで、モーツァルトの作品を中心としながらも、それ以外の同時代の作曲家たちにも「部屋」に来てもらい、知名度に関わらず、優れた作品を演奏するというコンセプトになっている。初回は、レオポルト・アントニン・コジェルフ(従兄にヨハン・アントニン・コジェルフという作曲家もいるので、最初はフルネーム表記で)がゲストである。

コジェルフは1747年、プラハ近郊に生まれたボヘミア出身の音楽家である。高名なヴァーゲンザイールの後任として、ウィーンの宮廷楽長となり、教育にも携わった人物だが、キャリア後期にはモーツァルトやベートーベンなどの革新家によって批判を受けたという。ボヘミア出身だが、この時期のボヘミアは完全にハプスブルク帝国の一部分であり、取り立ててそれを特徴とできるような要素は見当たらない。

【よく工夫されたコンサート】

リサイタルは前半が小倉による独奏で、後半はヴァイオリンの桐山建志とチェロの花崎薫を招いてのトリオによる演奏であった。ところで、いま言った「リサイタル」という言葉が適切かどうかは、いささか微妙なところである。というのは、この言葉にはどことなく一方的な発表のニュアンスがあるが、小倉の場合は、どのような形で客席を味方につけるかということを徹底して追求しており、彼女の言葉どおり、演者と客席の壁を取り払うということが理想となっているのが明らかなせいである。彼女は節々にトークも交え、双方向とはいかないまでも、表情や楽器の紹介も交えて、多層的な内容で客席を楽しませることを狙っている。

よく工夫されたコンサートだ。私のような人間からすれば、その「工夫」の一部にある種、鼻持ちならないものを感じるとしても、つまり、作り物めいた部分が露骨になっているとしても、全体のパッケージは、特に彼女のファン層にとっては喜びを与えるものであろうし、ほかの「プレーンな」ピアニストにとっては参考になる面も多いと思う(もちろん、そのまま真似してほしいとは思わない)。

だが、私はあくまで演奏というものによって、音楽家を判断したいと思っている。いかに気に入らないオバチャンであったにしても、小倉の演奏は決して作り物などではあり得ないものだった。今回、マチネとソワレのダブル・ヘッダーで、演奏の集中力にも注文がついたが、これも申し分ない。私は演奏については、全面的に満足した。

【楽器の内部からみた感想】

演奏会の冒頭には、モーツァルトのごく短い K.1c の『アレグロ』が開幕のベル代わりに弾かれて、いきなりコンサートが始まった。企画の趣旨説明と、コジェルフを紹介するトークのあと、 op.15-2 のソナタが演奏された。会場の方は名前ぐらいしかご存じないでしょう・・・的なおはなしだったが、私はこのあたりのボヘミア出身の作曲家はひととおりカヴァーしている。ただし、50曲以上もあるという鍵盤作品は初めてだ。この作品はハ長調による急緩急の3楽章構成。装飾の華麗さや、響きのゆたかさは、決してモーツァルトにも劣るものではない。

小倉の演奏は、とても親密な感じがする響きが特徴的だ。今回はクラヴィーア(フォルテ・ピアノ)の蓋を外してあり、ハンマーやダンパーの動きがよく見える状態だったので、その秘密を論じるのにも役に立つ。なお、使用楽器は1795年、アントン・ヴェルナー製のレプリカで、高名な調律師の加屋野木山氏によりA=430のピッチで調律されている。

さて、いきなり脇道に逸れるが、このクラヴィーアの動きがとても可愛らしく、私は音楽そっちのけで、それに虜になってしまったことを告白したい。可愛らしいハンマーがぴょんぴょんと跳ね上がり、膝で押し上げる(ところは見えない)ペダルに反応してダンパーが動くと、まるで楽器そのものが呼吸しているように見えるのだ。まるで『ガリバー旅行記』の小人たちが、巨人の得体の知れない持ち物を押し上げているような感じで、その部分だけをみても、どこかメルヘンティックな味わいがある。楽器の内側に金属はなく、すべてが木で出来ているせいもあるのだろう。しかし、いかに愚かな私であっても、やがて気づくことになる。耳に届いている響きと、この目前に展開するメルヒェンが密接に関係していることに!

このダンパーの動きをつぶさに見ていると、あることに気づくだろう。それは、この動きが大きく分けて2種類あることである。ダンパーが鋭く動き、ザン、ザンと響きが断絶する場面と、もうすこし緩やかな動きで、響きが滑らかに切り替わっていく場面で、明らかに動きが異なっている。そして、これこそがアーティキュレーションの鍵を握っており、作品の緩急を一手に担っているのは間違いないところだ。これに対し、ポコポコとアタマを突き上げてくるハンマーの動きは、もちろん、一定である。だが、その位置は当然、音高と関係する。この音高との関係でも、鍵盤奏者は微妙にペダルの動きを調節しなくてはならない。

コジェルフの作品は装飾も多彩で、激しいが、その響き以上に、こうした鍵盤全体のアクションはより複雑である。単にすべての音を正確に押さえた(叩いた)だけでは音楽にならない。むしろ、音の叩き方や、その後の減衰の仕方に、音楽の生命や表情が浮かんでくるのであって、その意味で、この楽器は近代ピアノよりは、よりオルガンにちがいと言うべきなのかもしれない。よっぽど、オルガンのストップ(レジスター)の構造と比べれば、簡素化が進んでおり、音楽家はより直感的な操作が可能だ。そのうえ、表現の可能性は現代ピアノよりは豊富であり、その点に、こうした楽器の醍醐味がありそうである。

さて、コジェルフはこうした可能性を最大限に活かすことで、この時代のトップに君臨したことが、小倉の演奏からよくわかる。ハンマーやダンパーの動きは複雑で、非常に多彩である。2種類の動きを精巧に使い分け、華麗なパッセージを自由自在に使いこなす。その結果、オペラのようなカンタービレが豊富に湧き上がり、作品は管弦楽の重みをもって進行する。

【モーツァルトは内部をなるべく動かさない】

これに対して、モーツァルトの音楽はどうだったのであろうか。セットで出版された K.475 のファンタジーと、K.457 のソナタをつづけて演奏したが、相変わらず楽器の内側に夢中の私は、先程とはいささか事情がちがうのを見て取った。コジェルフと比べると、モーツァルトの作品を演奏するアントン・ヴェルナ―・レプリカ君の動きは、もっとおっとりしていたのだ。最初に演奏したのが動きの少ないファンタジーだったせいもあろうが、そもそもダンパーの動きはより少なく、ハンマーの動きもより狭くて、シンプルに選び抜かれているようであった。

しかし、だからといって、音楽の表情はコジェルフの作品に比べて薄くなっているわけではない。モダン・ピアノでこうした作品を聴いた場合には気づかなかったが、この僅かなリソースで、モーツァルトが彫り出した表情の多彩さは実に驚くべきものだ。特にアダージョの美しさ、つまり、その表情のゆたかな充実は比類ない。ベートーベンの「悲愴」ソナタに出てくる主題と似たモティーフは、なんと感情ゆたかに奏でられたことか。

こうして小倉は、2人の作曲家の特徴を、明確に弾き分けていたのである。

【トリオは軟の演奏】

前半が「硬」のコンサートとすれば、後半は「軟」のコンサートであった。東京オペラシティ内にある近江楽堂は、ピアノ・トリオをやるにも狭すぎる空間だが、序盤は、花崎のチェロの低音がすべてを押し潰すようであった。これだからオケマンの室内楽はダメなんだと嘆息していたが(よっぽど、花崎は新日本フィルを退団している)、徐々にアジャストが効いてくると、良いアンサンブルが聴かれるようになった。小倉もトークで述べていたように、クラヴィーアの低音とチェロの響きは質が似ており、ヴァイオリンの高声部の華やかさをじっくり支えるのに適している。トリオにおいては、独奏のときほど楽器の面白みが伝わらない憾みはあるが、演奏自体はとても面白かった。

ここでも、やはりコジェルフとモーツァルトとを比較的に論じてみたい。

まず、コジェルフの op.12-3 のトリオは、ト短調による急緩急の3楽章構成だ。短調であるが、今回の演奏ではそれほどマイナー・コードの下降的な味わいには拘泥していない。無論、その厳しさをコジェルフのひとつの特徴として捉えているが、アントン・ヴェルナーの柔らかく、明朗な響き。そして、桐山のヴァイオリンのカラッとした音色のサバサバした美しさが、響き全体を上方に押し返す感じであった。途中では、モーツァルトばりの鋭い転調もみられるが、そのあと、返ってくることができない。モーツァルトの場合は、僅か1音のギャップや短い休符をうまく使い、長調と短調のあいだを行ったり来たりして聴き手を煙に巻くが、コジェルフにはそれができない。しかしながら、鍵盤ソナタの特徴をそのまま引き写したような作品の奥深い表情、その鋭い切り替えによる多彩なストーリー・テリングはやはり非凡の域に達している。

10年前からの悲願であったという演奏がおわると、先程までの作り物めいたスマイルがすこし弾けて、ようやく、彼女らしい表情を拝むことができた。あの表情にだけは、嘘がなかったと信じたい。

最後は、モーツァルトの K.502 のトリオである。これは3人とも肩の力が抜けたようなパフォーマンスで、とても充実していた。特に、最後のロンド・フィナーレが逸品で、同じような楽想が繰り返されるのが特徴のロンドー形式にもかかわらず、二度と同じ音楽が響いたとは思えないような巧みな表情づけが印象ぶかい。小倉というピアニストは、一にも二にも、この「表情」というキーワードで語りたいピアニストである。

【まとめ】

ここまで書き終えたところで、そろそろソワレのコンサートもおわったころであろう。マチネは主婦、高齢者、学生、そして、私のようにウィーク・エンドに休めない労働者が対象になるが、ソワレは会社員やOLなどが主な客層に変わるであろう。なお、アンコールは、次回予告を兼ねてハイドン。その次は、ヨハン・クリスチャン・バッハが来室するとの次第である。このシリーズを6回聴いて、プログラムについている応募用紙を台紙に貼りつけて出すと、小倉演奏の録音のうち、どれでも1つがプレゼントされるということだ。こういったサーヴィスも、彼女のファン層には有効な手なのかもしれない。とりもなおさず、様々な工夫がみられた演奏会である。

【プログラム】 2012年3月6日 マチネ

1、モーツァルト アレグロ K.1c
2、コジェルフ ソナタ op.15-2
3、モーツァルト 幻想曲 K.475
4、モーツァルト ソナタ K.457
5、コジェルフ クラヴィーア三重奏曲 op.12-3
6、モーツァルト クラヴィーア三重奏曲 K.502

 *5、6曲目/vn:桐山 建志 vc:花崎 薫

 於:東京オペラシティ(近江楽堂)

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