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2012年3月24日 (土)

アンゲロプロス追悼特集 『ユリシーズの瞳』『霧のなかの風景』『シテール島への船出』 新文芸坐

【概要】

映画監督のテオ・アンゲロプロス(アンゲロプーロス)が、本年1月24日に事故死した。これを悼んでの企画が、都内でもいくつかのシアターで予定されてるが、池袋・新文芸坐がそのトップ・バッターといっても過言ではないだろう。アンゲロプロスの10作品を1週間、日替わりで上映した。私は、『ユリシーズの瞳』『霧のなかの風景』『シテール島への脱出』の3本を観た。それ以前に、『永遠と一日』と『エレニの旅』を観ているから、これで、1980年代以降の8作品のうち、5作品をスクリーンで確認したことになる。

まず、『ユリシーズの瞳』(1995年)は、アンゲロプロス作品のなかでも傑出した作品であろう。その構成はきわめて大胆で、バルカン各国、ドナウ中・下流域の悲哀あるいは弱みをめぐる物語は、国ごとのオムニバス形式といってもよいほど、独立した味わいをもつ。名前すらない主人公の映画監督は、そのなかで一から人生を送り、母親を含む「同じ女」たちと知り合っていく。女は一人四役のマヤ・モルゲンステルンが演じるところであった。ギリシアの街頭を歩く謎めいた美人。モナスティアの映画博物館の学芸員で、主人公にとって最初の伴走者となる女性。少年時代のブカレストに生きる、主人公の母親。河流に住み、サラエヴォへの入国を手伝う、夫を亡くした哀れな妻。そして、サラエヴォの映写技師の娘。ブカレストの回想のあと、主人公は母親と同じ面影をもつ伴走者に、君を愛することができないといって深く慟哭する。これが映画のなかで、もっとも文学的なクライマックスになっていた。

【明るい作品】

それにしても、この映画は、アンゲロプロスの作品のなかでは特に明るいものだといえるのではなかろうか。その秘密のひとつは、ギリシア出国のためにアンゲロプロスが用いた英語の作用であるように思われる。主演のハーヴェイ・カイテルもファミリーが東欧などに起源をもつとはいえ、米・ハリウッドで活躍した俳優で英語をよくする人物だ。船乗りと外交官、そして、商人たちによって世界中に広められた言語は、明けひろげで、ギリシア語のように神秘的、いくぶん内向的で哀切な感じとは似ても似つかない。

このうえに、様々な冗句が重ねられる。印象的なのは、汽車での別れのシーン。例の学芸員の彼女が別れ際の主人公のはなしに夢中になり、ついにはポンと汽車へと飛び乗ってしまう場面だ。汽車の速度上昇と、音楽のテンポ・アップ、そして、主人公が思い出ぶかいエピソードを滔々と語るときに熱してきて早口になってしまうのとが、上手に一体化している。さらに、それを聴く女性の昂揚が一体となり、このあと、客車における猛獣的な愛しあいへとつながっていくのである。アンゲロプロスの遊びは、この映画ではとても多い。ドナウ川を遡ってドイツへ運ばれていくレーニン像。ブカレストでの帰宅シーンでは、ピアノの伴奏で年代を追って歴史を辿る家族舞踏会。ベオグラードで、酒をあおりながら線路を辿る友人との一時。サラエヴォでは、完成間近の映写フィルムを覗き、老技師と一緒にこぼれるような、子どもじみた笑顔をつくる。霧の祭典における若者たちによるロミジュリ劇や、市民オーケストラの演奏。

この映画の序幕ともいえるギリシアでのシーンも、滑稽的に明るい。低音のドローンが怪奇劇のような雰囲気を醸しだし、傘をもった一団が主人公である監督の支持者、ロウソクをもち讃美歌のようなものを歌っている一団が監督の排斥者という形で、二分される街の様子が描かれている。監督一行は当然、排斥者の灯を避けて動くわけだが、巧みなカメラワークと音響効果で怪奇映画の雰囲気はいっそう高まっていく。友人と別れ、首尾よくタクシーに乗り込もうとするところで、例の女がぬっとフレーム・インする。女を追う監督。ナレーションとともに、2つの集団に挟まれるようにして、消えていく女の姿。滑稽のシーンが、息を呑むアンゲロプロス的な神秘にすり替わっていく瞬間だ。アンゲロプロスは怪奇映画の滑稽な手法をこうして手玉に取りながら、こうして自らの映画を巧みに肉付けしていくのであった。

【明るさのなかの闇】

ほぼすべての場面が、このように明るい。しかし、明るさのなかに忍び込んでくる闇ゆえに、我々はいっそう得体の知れないものとして、これを受け取るであろう。そのあとの2つのシーケンスも、非常に滑稽だ。1つのエピソードは生き別れの親族を40何年ぶりに訪ねる老婆のはなしで、彼女のめざす土地に連れていってやると、街はまったく変わり果てていて、老婆はあまりのことに足がすくんで動けない。時間の流れや、そこに住む人間の歴史の冷酷なまでの激しい変異を、このエピソードは端的に物語っているが、それはまるで冗句のように物語られている。

雪のギリシア=アルバニア国境の峠では、タクシーの運転手が監督との対話に臨む。運転手はギリシア庶民的諦念の代表であり、彼はもう、すべてを諦めている。男は雪の谷に向かってビスケットを投げつけながら、なかなかに見逃せない愚痴をこぼす。彼は監督と友達になろうと呼びかけるが、それに対して、主人公は鋭く切り返す。私はもっと遠くに行くと・・・。こうして、2人の別れは運命づけられた。先の老婆のシーンと合わせ、一見、この作品のプロットからみて、それほど重要とは思えないエピソードである。だが、実際には、そうではない。

老婆の戸惑いは、この作品のすべての部分と関係しており、また、タクシーの運転手と監督が意気投合してしまえば、この作品につづきはない。監督がもっと遠くに行くと決めて、ギリシア的な、あまりにもギリシア的な運転手との訣別を決めなければ、すべての創造はないのである。そして、別れとはアンゲロプロスの映画においては、あらゆる意味で重要なファクターになってくる。

【筋書きに秘められた深い意味】

アルバニア国境は、後日の『永遠と一日』の場面と比べれば、まだ余裕がある。国境の柵にへばりついて、凍り付いていた人たちは、まだ力なくも歩いているからだ。その後、モナスティアで先述の学芸員と出会い、監督はブルガリア行きの列車に乗る。スコピエで、女性が列車に飛び乗る例の滑稽劇を演じたあと、再び国境では、捕えられて銃殺されたマナキスの追体験を(想像のなかで)する。その後、検問を抜けるとき、監督は「フィリッポポリス」にいくと言い、官吏によって「プロウディフといえ」と糾される。そして、そこにあったはずの川はなく、平地に舗装道路が走っているだけだ。フィリッポポリスはかなり古い時代の地名だが、生々流転する国境の象徴として、主人公の頭のなかに浮かぶ。

このあたりから、徐々に筋書きは追いにくくなる。マナキス兄弟の足跡を追うシナリオが途切れ、より複層的な足取りがフーガのように積み重なっていくからである。ブカレストの場では、監督は自らの子ども時代を追体験し、学芸員と同じ顔をした母親と再会する。その混乱は、例の「君は愛せない」の台詞へとつながっていく。2人の別れは、ドナウ川を伝って運ばれるレーニン像の前である。この表情ゆたかなレーニン像は2つのシーケンスにまたがって重要な役割を果たし、特に1つ目のシーケンスではカラインドルーのつくる音楽が間奏曲的に用いられる。多分、社会・共産主義の敗北を示すレーニン像の2つ目のシーケンスでの役割は、ドナウを遡った国境地帯で3ヶ国語で呼びかけられるところにある。「乗客は?」と聞かれて、「誰も!」と答えるのはまた皮肉な意味合いがあるのであろう。

こうして筋を追っていくことは、感想文ではタブー視されるのだが、この映画の場合は十分に意味をもつことなのだと予め言っておきたい。しかし、ベオグラードの場は割愛する。その中間の河べりの家で起こるメルヒェン的なエピソードも飛ばす。

【平和でさえも仮象的】

監督はついに、サラエヴォに入った。第1次大戦の引き金となったサラエヴォ事件が1914年に起こり、その後、20世紀中葉には冬季オリンピックの開催地として「世界一美しい」と讃えられた都市も、その世紀の最後にはボスニア紛争で再び傷つくことになる。凄惨なはずのサラエヴォの場も、決して涙ばかりで語られるわけではない。その映像は、これまでのどの場面にも増して美しい。傷つくサラエヴォの徹底的な美しさは、桜の樹の下に死体が埋まっているといった我が坂口安吾のことを思い出す。砲撃・銃撃を縫って自宅をめざす、映写技師と監督が途中で渡る橋も実に美しい。この街は、どこをとっても本当に美しいのだ。隠れ家から地上に出るときにくぐっていたマンホールの蓋までも! この美しさのなかで起こる血なまぐさい悲劇は、それだけに、いっそう皮肉となる。

映写技師が監督のうわ言がもとで現像に成功し、それを覗きこんで笑いあう二人の姿は、どの場面にも増して幸福だ。なお、この映写技師を演じたエルランド・ヨセフソンも、アンゲロプロスの死のほぼ1ヶ月後、監督を追うようにして亡くなっている。

最大の悲劇は、最大の喜劇のなかでしか生まれ得ない。霧のなかでおこなわれる虐殺は、正に、この映画を象徴する出来事である。映写技師は、この霧を平和の象徴と決め込んでいたのであるが、彼とその家族はたまたま河べりを通りがかったセルビア兵によって惨殺される。しかし、惨殺前のサラエヴォはなんとも平和的で、楽しげでさえあった。広場では、若者によって『ロミジュリ』が演じられている。喜劇の頂点には、この映画では突飛なブルース・ロックの音楽にあわせた映写技師の娘と、監督によるダンス・シーン。そして、その後の河べりの散歩である。一転して起こる惨劇の模様は、霧のためにまったく見ることができない。我々がついぞ、マナキスの未現像だった映像に触れられないのと同じように。そして、人々はそれでもまだ「平和」であって、演奏する音楽は暗転しても、映写技師家族の惨殺には興味もないかのようにみえる。

監督にとっては、平和でさえも仮象的なものでしかないというわけだ。

アンゲロプロスの映画は、このように多層的である。虐殺される側に、必ずしも問題がないとは見ていない。押し潰されるバルカンの現状に、アンゲロプロスはそれを生み出すいくつものメカニズムを発見している。そのメカニズムは例えば、時代によって大きく様相を変えるのであって、それはブカレストの場で端的に示されているとおりだ。善悪は、いつも交代する。フィリッポポリスとプロウディフは、歴史のいたずらによっては、いつ反対になってもおかしくはなかったのかもしれない。アンゲロプロスが描くのは、そうした歴史のなかで取り残された芸術家の孤独である。

【芸術家?の孤独】

ただし、ここにいう「芸術家」とは、なにか特別のアビリティをもった特殊な人間ではなく、むしろ、その反対の意味であることを強調しておきたい。

プロローグ的なギリシアの場で、主人公の映画監督は映画博物館の学芸員である友人から、博物館からの予算は出ないと警告され、この仕事を引き受けたのには個人的な理由もあるといって、決心が固いことを示す。ここでは、主人公は映画監督という芸術家である。しかし、それはたまたまであろう。『エレニの旅』では、旦那は音楽の素養があったが、運命に翻弄されるエレニ自身はほとんど無能力だ。『霧のなかの風景』の主人公2人は、年端もいかない子どもたち。そして、『シテール島への船出』の主人公は32年間も、無国籍で闘いつづけた活動家の老人である。大事なのは、彼らがそれぞれに「個人的な理由」をもつということのなかにあった。「芸術家」とはつまり、その「理由」を上手い/下手には関係なく、ひたすらに追っていく者たちのことを指す。その理由とは、単に夫や子どもたちへの愛を貫き通すことであってもよいし、未現像の古いフィルムを求めることでも、なんでも構わないのだ。

私たちは『ユリシーズの瞳』をみて、この監督の孤独をひとつずつ確かめていくことになる。それは敏感な観客であれば、既にギリシアの場で気づくような質のことだ。しかし、そこではある種の格好よさ、いかにも芸術家的な清爽な決意として予感されるものが、映像を追っていくうちに、もっと鬼気迫ったものと思いなされるようになり、ついには、より絶望的な色合いを帯びたことのように思えるようになる。最終的に、アンゲロプロスはこの作品のなかで、映画というものの死亡宣告を受け取ることになるのだが、それはもちろん、各場面に貼りついた悲劇的な結末によって明らかであろう。監督は、いつも孤独に取り残される。最後は、雪の道をとぼとぼと歩いてスタジオに返り、ひとりで待望のフィルムをみることになるのだ。ひとりで! これこそまさに、映画の死であろう。

もはや、アンゲロプロスに残された時間は少なかった。3年後、『永遠と一日』で晩年の最後の一日に粘りをみせたあとは、6年間の沈黙があったとおりである。しかし、本当に奇跡的に、アンゲロプロスには、まだいくばくかの時間が残されていた。そして、それを彼は上手に使っていたと思う。あの日、非番の警官のオートバイにはねられるまでは! しかし、それを可能にした原動力とは、一体、何であったのだろう? 死ぬ間際まで、アンゲロプロスが撮りつづけられた理由は? それもまた、この映画のなかに書き込まれているはずだが。

(②につづく)

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