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2012年4月22日 (日)

カンブルラン ストラヴィンスキー ペトルーシュカ 読響 サントリー定期 4/16 ②

【ドビュッシーの管弦弦楽作品における可能性】

ドビュッシーは1918年に、癌で亡くなっている。病の苦しみのなかでも、ドビュッシーのイマジネーションにはいつも神が問いかけていた。オペラ『アッシャー家の崩壊』、カンタータ『フランスへの頌歌』、そして、様々な楽器のために書かれた6つのソナタ(そのうち、未だ完成せざる3つの作品)。バレエ音楽『おもちゃ箱』の管弦楽編曲もそのひとつである。うち、『おもちゃ箱』は1913年にピアノ版が先に完成。管弦楽編曲は中途まで進められ、作曲家の歿後、協力者のアンドレ・カプレが遺稿をもとに補作して完成した。

今回、演奏されたこの作品を聴くと、ドビュッシーのオーケストレーションについての可能性は、その道の名人といわれるラヴェルやリムスキー=コルサコフに対しても、一歩も劣るものではなかったことを確認できた。ドビュッシーの創作において、管弦楽や舞台音楽の分野におけるものは、その可能性からみて極端に少ない。最近では断片的なものが残されたに過ぎない『アッシャー家の崩壊』さえもが舞台にかかる欧州の商業的事情であるが、従来、ドビュッシーの管弦楽作品のなかでよく知られたものは、歌劇『ペレアスとメリザンド』、それに、『牧神の午後』『海』ぐらいのもので、これに、『聖セバスチャンの殉教』などの作品が時折、色を添えるだけであった。それなのに、この『おもちゃ箱』という作品の色鮮やかで、表情に満ち、喚起力のゆたかな音楽、しかも、そこにある種の模倣を含むエンサイクロペディア的な興味ぶかさが味わいを添える。なんという、ゆたかな可能性をみせることか。

【コンパクトなカンブルランの演奏姿勢】

だが、カンブルラン&読響による演奏は、その作品の甘みをジワリと伝えるのみで、あくまで室内楽的なものとして演奏しているように見受けられた。バレエ音楽ではあるが、パリ・オペラ座で賑々しくやるというよりは、もっと洗練された(この表現には語弊があるが)、小ぢんまりした空間での上演を想像させる。

前半のドビュッシー2曲は、いずれもそのような演奏なのであって、フォルテなどはあまり使わず、優しく、静かなベースのうえで演奏が組み立てられていた。尖鋭な前衛性を感じさせるような部分でも、そのことをこれみよがしに強調するようなやり方は皆無である。『牧神』では冒頭のパンの笛に象徴される気だるい午後の雰囲気は常に優先し、響きの壮麗な部分もそう長くはつづけずに、さっとしまってしまう。出しては、しまう。これがやはり、今度の演奏会のキーワードとなる。だが、それにもかかわらず、『牧神』のほうには、それに相応しい世界観の広がりが感じられるのも不思議なことだ。

一方、『おもちゃ箱』は編成的なものからいっても、よりコンパクトな構成をみせている。ドビュッシー晩年のバレエ作品としては、ほかにバレエ・リュスのために書かれた『遊戯』があるが、高報酬により気乗りのしない素材を無理やり完成させたというそれと比べれば、晩年の彼に無限の創作意欲を与えた少女、シュシュのためにつくられた『おもちゃ箱』は、彼のもつ可能性を実に無邪気な形で発揮した佳作となった。『おもちゃ箱』というテーマからは、私は同時にもうひとつの作品を思い出す。それは、プロコフィエフ最後の交響曲となる第7番である。骨の髄まで楽天的な、正におもちゃ箱をひっくり返したような愉快さのあるプロコフィエフ晩年の傑作「青春交響曲」が、私は大好きなのだ。

この青春と比べれば、ドビュッシーの愛娘に対する愛情はもっと悲哀に満ちている。その結末は、ドビュッシーの歿後、僅か1年にして、ジフテリアに罹った少女も天に召されるということになるのであるが、もちろん、作曲家はその運命を知っているはずがない。むしろ、その悲哀は、ドビュッシーがなぜ、そのゆたかな管弦楽曲における可能性を積極的には試さなかったかという問いに通じるであろう。この時代、作曲家たちにとって希望と絶望の、どちらが大きかったのだろうか?

例えば、後続の世代に入るマーラーが、つまり、作曲家としてのマーラーが「やがて私の時代が来る」と嘯いていたという話は有名である。マーラーは『亡き子を偲ぶ歌』のエピソードをみても、すこぶる悲観的な作曲家のように思えるが、このような思考を見るかぎり、やがて来る時代にはより高い知性と、大衆の芸術的な理解の進歩を夢見ていたことを窺われる。単純すぎる見方ではあるが、ネオ・ロマンティシズムのドン詰まりにおいても、マーラーはまだ、その芸術性の拡大に強い希望を抱いていたと私は考えるものだ。

しかし、ドビュッシーの場合は、そうではなかった。彼の考え方は、ピアノ曲や室内楽曲を優先する作曲姿勢のなかに窺われるであろう。芸術家として、完全な悲観論ではあり得ないものの、もはや、尊崇するワーグナーが奇跡的に成し遂げたような壮大なる成果には、作曲家たちがありつけないとわかっていた。彼が代わりに夢見たものは、より小さな、洗練されたコミュニティのなかで、部屋にかかる一枚の高貴な絵画のように、尊ばれる音楽ということではなかったろうか。その志は質素で、素朴であるが、反面、時代の実相と寄り添う悲哀にも通じている。

【愛情と悲哀、不安】

プロコフィエフの作品にもドビュッシーの作品にも楽天性と悲哀の両方がある。だが、その本質において輝くもので、明暗が分かれているわけだ。ドビュッシーの作品には、「戦争」も描かれている。闘病に苦しむドビュッシーをさらに苦しめたのは、第1次大戦の戦火であった。だが、作曲家にはそうした根源的な悩みをひょいと飛び越えるだけの、素軽いユーモアがある。このような作品を支えるのは正に、そのようなユーモアであり、音楽はこれを引き立たせる軽妙な重み(あるいは、軽みというべきか)をもっていなくてはならない。カンブルランが表現したものは、この軽みなのであった。

各タブローは独立的に扱われ、「出してはしまう」ことの繰り返しである。だが、この軽みを用いれば、その独立性はもっと緩やかである。スーダンと南スーダンのギリギリの境に油田がある。その権益は国が2つに独立することで、かえって戦争を引き起こす(実質的には内戦の継続だ)結果になったが、ドビュッシーの音楽では、そんなことはせず、まあ、2人で上手に分ければいいということになるわけだ。軽みのある独立。全体は、実は1つのテーマを指し示している。そのことは音楽的にも説明できるだろうが、これは得意分野ではないので割愛してしまう。

いずれにしても、エレの童話と密接に結びついたドビュッシーの作品は、彼の悲哀や不安と無関係ではない。しかし、その真の源泉がシュシュへの愛情であったことも忘れてはならない。これが実は、「軽み」の正体である

カンブルランの音楽が、こういう大事なことを教えてくれたのだ。彼の音楽はある意味、淡々としている。だが、怜悧というには遠い。突き放した美しさではなく、常に手もとに引き寄せた愛情というもので、彼が音楽を取り扱っているのは間違いがないところだ。理性と情感のバランスが、この指揮者の場合には絶妙に匙加減され、音楽はその本来の持ち味を柔らかく歌い出す。良い医者が、患者とみればつよい薬を処方するのではなく、その人のもつ自然治癒力をいかに生かすかを考えるように、カンブルランも目の前の音楽がもつ本質を常に精細に見極めたうえで、その良さを自然に引き出すことを考えている。

ドビュッシーにおいても、ストラヴィンスキーにおいても、そのやり方はいつも同じであった。そして、今回の2人の作曲家に共通するのは、先行きに対する見方の「悲哀」ということでもある。例えば、ストラヴィンスキーがいわゆる「三大バレエ」のレヴェルで留まっていれば、今日の「難しい作曲家」というイメージはなかったであろう。しかし、その時代のなかで、ストラヴィンスキーはこうした可能性の発展を本気で信じることはできなかった。彼のムズカシイ作品は決して難しくはないが、『アゴン』を『ペトルーシュカ』と同じように扱うことはできないだろう。ドビュッシーのような凝縮が、同じようにストラヴィンスキーの進む道ではなかったが、彼はモダーニズムの潮流に与することで、時代を一歩先に進める必要があると信じた。今回の『ペトルーシュカ』の演奏には、その序曲としての意味が僅かに感じられる。ただの名人芸の披露会ではない(ヤンソンス&RCOの録音のような)。

カンブルランの棒で、『アゴン』も聴いてみたい。そういう想いをつよくした。日本のオケは「三大バレエ」に関してはかなり精力的に扱っているが、同じ作曲家の後期の作品にはきわめて冷淡だからである。もちろん、後期の作品が理性のみに覆われた、頭でっかちの作品でないことは私が保証する。作曲家のもちつづけた悲哀が、美しい知性のバランスのうえで奇跡的に結晶した、つまり、その背後にある愛情の部分が際立った記念碑的作品だ。よっぽど私がそのように言葉を弄して保証をしても、何の価値もないことは言うまでもないが!

【プログラム】 2012年4月16日

1、ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲
2、ドビュッシー おもちゃ箱
3、ストラヴィンスキー ペトルーシュカ(1947年版)

 コンサート・マスター:デヴィッド・ノーラン

 於:サントリーホール

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