2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

« モーツァルト ドン・ジョヴァンニ 演奏会形式 新国立劇場~尾高忠明監督による特別企画Ⅱ 4/3 | トップページ | 枝並千花 ヴァイオリン・リサイタル with 長尾洋史 4/9 »

2012年4月 9日 (月)

モーツァルト ドン・ジョヴァンニ 演奏会形式 新国立劇場~尾高忠明監督による特別企画Ⅱ 4/3 ②

【狂っていくジョヴァンニ】

こうした企画においては、個々のアーティストの傑出したパフォーマンスというよりは、全体のアンサンブルの親密さのほうが重要である。しかしながら、演出がない分、かえってモーツァルトの作品が示す意図が強調される公演形式において、ドン・ジョヴァンニのパフォーマンスは神意のように重みのあるものとならざるを得ない。与那城敬はスタイリッシュな歌を、切れ味のよいアーティキュレーションで歌うことのできるバリトンだ。おまけに、すこしばかり、容姿のほうも目を惹く。そういうタイプの歌手であると、私は思ってきた。この日、そのイメージは好転した。彼はヴェルディの描くマクベスや、プッチーニの描くスカルピアのようなキャラクターも堂々と演じることができるような、底堅い盤石さがある。

ドン・ジョヴァンニはというキャラクターは、一晩で狂っていく。ジョヴァンニの物語は、たった1日の出来事。その間に、ジョヴァンニがたらしこむ女は数知れず、舞台上に姿を現さぬものを含めると、まったく空恐ろしいところである。しかも、実際には、多くの人たちはこの間、ジョヴァンニが逃げまわっているばかりだとは考えない。ツェルリーナにだって、きっと、どこかで手をつけたはずだと感じている場合がほとんどだろう。その恋愛の突進力は、正に狂気の沙汰であり、その狂気であるところに、モーツァルトのつよいイロニーが滲み込んでいくわけである。

与那城という歌手に、それをまるまる引き受けられるような強靭で、また、変容する柔らかい表現力があるとは意外であった。特に、その変容に注目したい。彼は前半戦では、『リゴレット』のマントヴァ公のような陽気さと、可愛らしさで売っている。それにアクのつよいエルヴィラが絡むと、この押しのつよい婦人のおかげで、彼の狂気もまるで正当なもののように思えてくるから不思議だ。だが、第1幕の最後で総スカンを受けてからであろうか、彼の狂気はハッキリと姿を現す。復讐に燃えるマゼットを打擲して去る場面など、もはやジョヴァンニの可愛らしさを表すような場面ではない。そこには底なしの、悪魔に憑りつかれたような人間がいるのみであって、「地獄落ち」に至る石像との対話も、あらゆる共感を拒絶する。可愛らしさや共感から、狂気と反発への鋭い切り替え。これを導くのは、与那城による変容の見事さである。

ところで、ここでいう「変容」の意味ついて、より深く考えてみたい。もともとのジョヴァンニが、なにか別のものに変わってしまうのも変容である。しかし、この場合、なにか別のものに変わったわけではない。ジョヴァンニの行動は、いつも一貫している。なにか別のものに変わったのは、先の記事にも書いたように、むしろ、彼の周りにいた者たちのほうだ。ジョヴァンニが変わったように見えるのは、結局、こうした人物との関係性が深まると同時に、その周囲の人々の変容がジョヴァンニの立場を大きく変えてしまったからにほかならない。ジョヴァンニは、決して変わらないし、変わってはならない。だから、与那城の凄いところは、変わってないものを変わったとみせるところだといえるだろう。演技の面で多少、あくどい部分を強調した以外は、ジョヴァンニ自身の変容は僅かである。その僅かが周囲の変化、とりわけ、この作品の場合は管弦樂の響きの変化によって、厳しく感じられるところに独特の面白さがあるのだ。

【アンサンブルの良さ】

これを取り巻くアンサンブルの良さは、各幕の終盤に置かれたグランド・コンチェルタートによって明らかだろう。特に、第1幕のそれは、登場人物が総出演で(騎士長を除く)己の痛みをジョヴァンニにぶつけるシーンであるが、それらがある一筋の糸によって導かれるのが明らかにわかるほど、声と声のつながりが素晴らしく感じられる。不安と恐怖のうちに、刑場に連れ去られるようなツェルリーナの歌声に、メヌエットにのって響くジョヴァンニ主従のふてぶてしい態度。そして、恋人の悲鳴に対応するマゼットの突進を皮切りに、アンナ・エルヴィラ・オッターヴィオが加わっての激しい衝突。

それぞれの歌手には一長一短があるが、このコンチェルタートではハッキリと、そうした細々とした不満がぶった切られる。それまで明らかに陰湿だった負け組3人衆(アンナ・エルヴィラ・オッターヴィオ)の華美な強調、特に、アンナ(吉田珠代)の声の抜けが印象的である。引き受けるジョヴァンニとレポレッロの主従が、さりげなくアンサンブルの下支えにまわる。物語のプロットとは対照的に、こうして手を結ぶアンサンブルの美しさ。それが表面的には明らかにならず、あくまでバック・グラウンドに沈んでさりげなく効き、皮相のレヴェルではやはり、衝撃的なぶつかり合いに発展している。それをしっかり支持する、室内楽アンサンブルの弾力性のある交感の鋭さ。こうした味わいのなかで生まれる、圧倒的な緊張感には今後、再び出会うことは難しいだろう。

【個人評】

この流れでは完全なる余談となるが、各キャストに対する個人評を付け加えておきたい。今回、特に目立ったのは、題名役の与那城のほか、アンナの吉田珠代と、ツェルリーナの鈴木愛美である。全員が、研修所での養成課程を終えている。キーワードは、表情のゆたかさだ。この2役の充実が、作品に奥行きをもたらすことは請け合いだが、特に人気者となるべきツェルリーナの健闘を讃えたい。リリックで可愛らしいけれども、マゼットに対して母親のような風格も漂わせるべき難役、しかも、田舎娘と来ているから、いわゆる「薬屋の歌」や「ぶってよ、マゼット」という名ナンバーがあっても、そう簡単に評価されることはない。

鈴木は歌のフォルムの安定感が高く、表情や演技力ではきらりと光るものがある。彼女の演じるツェルリーナは、とても優しい。けれども、とても積極的な挑戦心に満ちた女性で、ジョヴァンニの自由主義に通じる。しかし、知性というよりは感覚によるリミッターが働いていて、ジョヴァンニとはまたちがう自由さを謳歌する。鈴木はその辺を無理に彫り込むことなく、マゼットへの愛情を忘れない素朴な田舎娘として演ずることで、上手にキャラクターを生かしきっている。特に「薬屋の歌」では色気やアジリタに頼りきらず、あくまで素朴な優しさを丁寧に歌うだけで、客席をうっとりさせた。

オッターヴィオとエルヴィラは、こうした点からみると、あまりに表情の変化が少なすぎるのが難点だ。エルヴィラの佐藤康子は押しがつよく、徐々に聴き手を騙してしまうし、慣れてくると、むしろ、その独特な味わいに負けそうになってしまうが、私はこのような歌手にもっとも警戒的なのである。ただし、今回の役柄ははまり役かもしれない。

オッターヴィオの鈴木准のようにとても軽い声質のテノールは、ハイドン、モーツァルト以降のオペラでは、著しく使い勝手が悪い。ジョヴァンニの友人の騎士としては、今回もやや弱そうに思えて損だ。ただし、第1幕のアリア ”Dalla sua pace” は、この日、歌われた有名なナンバーのなかでも、とりわけ独特の異彩を放った。ここでは明らかに、司祭としてのオッターヴィオの位置づけが表れている。鈴木は感情の襞を取り去り、つるりとした響きのなかにこの歌のバロックへのふかい憧憬を読み取って、見事に拾い上げた。天上から聴こえるようなこの美しい響きに、オーディエンスは呆気にとられた。このような歌は正しく、オペラの母国・イタリアに対するモーツァルトの辛辣な批評性を垣間見せるものだ。力づよい後半のアリアに適性はないが、鈴木准はこの1曲だけでも十分に、その可能性を示したといえる。

結局、このような細部が、終幕の「地獄落ち」を決定的なものとしていくことは言うまでもない。ジョヴァンニは、すべての関係を踏みにじる。それはオペラ的にみれば、すべての歌の否定であり、その結果としての関係の破壊によって、彼の自滅が来るのは当然だ。こうした自滅に対して、石像が直接関与するかのようであり、その石像はまたキリストのような言葉を喋るが、実際、この石像がいかなる神聖さも持ち合わせないことは、これまたモーツァルトの仕掛けた辛辣な皮肉である。司祭の役割は石像よりも、アンナを想うがゆえの例のオッターヴィオのアリアに凝縮している。だが、肝心のアンナはといえば、このようなオッターヴィオの「優しさ」を決して喜ばない。2人は、何度もすれちがう。彼女は、常に父親の悲劇を嘆くものでありつづける。許婚との結婚は延期し、温かい言葉にも騙されない。冷たく、神経質な女。オッターヴィオの嘆くとおりに!

こうしたアンナを演じきるのは、もちろん、易しくない。多くの歌手にとって、きっとアンナほど表現の難しい女はないのだ。吉田珠代は良い歌手にはちがいないが、これを演じきるにはあまりにも経験値がなさすぎたのも確かだろう。彼女には、成長を促す舞台という養分が不可欠だ。研修所のころと比べると、ノーブルで整然とした歌声に成長したが、その分、歌のエネルギーはすこし失われた。二期会にも藤原にも所属しない吉田が、自分の大器に見合ったバランスを見つけられるのは、一体、いつの日になるのだろうか。

この公演で、もっとも深い驚きを提供したのは、なんといってもレポレッロの北川辰彦である。やはり新国研修所の出身で、二期会のつくるイケメン歌手ユニット The JADE のメンバーでもある彼の、安定した流れるような低音は、レチタティーボを基盤とするモーツァルトのオペラにまったくもって相応しい。見様によっては、この作品全体がレポレッロによる法螺ばなしとも解釈できるが、今回はそのような意図は読み取れず、レポレッロをジョヴァンニに対する追従者、兼、ストーリー・テラーとして素直に描いている。だが、その狡猾さを巧みに表現した歌いくちは、レポレッロを騎士の従者というよりも、その腰巾着の功利主義者、ブルジョア的な思考をもったキャラクターとしてみせるには適したものであった。

【関係を生み出した!】

こうした歌手全体のパフォーマンスにみられるのは、表現が非常に積極的なものであり、その特徴がきっちりと出ているにもかかわらず、例えば、オーケストラでヴァイオリン群が木管ソロの響きをよく聴いて感応するように、非常に柔らかい感性的な動きがみられ、その受け渡しが洗練されているという事実であった。私はオペラをみる度に思うのだが、この芸術にとってもっとも大事なものは「関係」である。単にアリアがうまいだけでは、良い公演となることはない。むしろ、そのアリアとアリアのつなぎ合わせとしての関係、これがうまくとれていない公演は、個々の歌手がどれだけ素晴らしくとも観客に感動を与えない。

ましてや、今回の上演はその舞台のなかに、観客がギリシア悲劇におけるコロス(とは言い過ぎかもしれないが)のように交じっていくのが特徴なのであるから、なおさら、その関係が重くなってくるのは当然である。ただ歌のうまい8人の歌手が、横に並んだだけでは舞台の面白さは伝わらない。たとえ、あのような形であっても、明らかに人々が関係していること、その実質を歌だけによって示すことができること。そのような難しい課題を、今回の歌手たちは見事にこなした。だからこそ、私たちは本公演でも滅多にみられないような、気高いエクスタシー(カタストロフ)を受け取ることができたのである。

最後、ジョヴァンニの「地獄落ち」のあと、指揮者の石坂はスッカリ時間を止めて、ジョヴァンニの運命(カタストロフ)に敬意を表した。東条碩夫氏は、この間については不自然なものとしているが、この上演を通してみた場合には、単に慣習的なものでないという理由だけでこれを不自然とするのは甚だ不見識である。この間はジョヴァンニの運命を見送り、モーツァルトの作品ではお決まりの、皮肉な、フィナーレのグランド・コンチェルタートを導くのに、当然、必要なものである。結末における騎士長のパフォーマンスと、この間によって緊張感が失われたというが、それは単に氏が思うような展開が出なかっただけであって、十分に批評的な批判にはなっていない。彼は「たまりかねて」拍手を出した観客のことを書いて彼らを味方につけようとしているが、実際には、多くの観客が石坂の意図にハッキリ気づいていたことを書かねばなるまい。東条の批判はきわめて少数の意見に属し、なおかつ、作品や上演の本質からは遠い。

彼の批判がまったく無意味なものであることは、終演後の熱狂的な称賛をみれば明らかであろう。関係がなければ、そのような間は必要ない。ジョヴァンニがいようがいなかろうが、それこそ平和なアンサンブルを盛り上げればよい。だが、我々の隣には、確かにジョヴァンニの姿があった。その屍があったのだ。それを片付けるには、時間がかかる。それが、この公演のむしろ最大の成果なのである。あの間を生み出したこと、つまり、誰かが作り出したものではない、もとから幕の向こうにいるのではないジョヴァンニの存在を生み出したことが、なにより貴重なのである。彼らは、成功した。圧倒的に成功したのだ!

« モーツァルト ドン・ジョヴァンニ 演奏会形式 新国立劇場~尾高忠明監督による特別企画Ⅱ 4/3 | トップページ | 枝並千花 ヴァイオリン・リサイタル with 長尾洋史 4/9 »

舞台芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/54429060

この記事へのトラックバック一覧です: モーツァルト ドン・ジョヴァンニ 演奏会形式 新国立劇場~尾高忠明監督による特別企画Ⅱ 4/3 ②:

« モーツァルト ドン・ジョヴァンニ 演奏会形式 新国立劇場~尾高忠明監督による特別企画Ⅱ 4/3 | トップページ | 枝並千花 ヴァイオリン・リサイタル with 長尾洋史 4/9 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント