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2012年4月 3日 (火)

モーツァルト ドン・ジョヴァンニ 演奏会形式 新国立劇場~尾高忠明監督による特別企画Ⅱ 4/3

【劇場の実質を蓄える試みとして】

またしても、小空間オペラにやられた。2月のはなみがわ風の丘ホールの『リゴレット』公演を絶賛したのも記憶に新しいが、再びその成功例に立ち会ったのである。新国の尾高忠明監督の肝煎りで始まった公演のアンダー・カヴァー歌手による特別企画公演だ。

アンダー・カヴァーとはご存じのとおり、オペラ公演の本役が何らかの理由で急遽、降板しなければならなかった場合に出演する臨時要員のことで、さらに、多忙な本役の合流が遅れた場合は、つなぎとして稽古場に立つこともある。ただし、本役がキャンセルした場合でも、時間的な余裕が僅かでもある場合、劇場のファースト・チョイスはそれに見合う同格の歌手を用意することであり、アンダー・カヴァーがそのまま昇格する可能性はきわめて少ない。毎日、入れ替わり立ち代わりの公演をおこなう欧州の劇場ならばいざ知らず、そもそも公演回数の少ない日本の公演では、アンダー・カヴァーの出演機会はまずないと言ってよい。その数少ない例は、昨年の震災直後の新国の公演で起こった。それぐらいの椿事がないと、アンダーの出演はないということでもある。

新国オペラ部門の尾高忠明芸術監督は、このようなアンダーの立場に理解を示し、昨年5月、アンダー歌手による簡素な公演を用意し、彼らの努力に報いることにした。新国は自前の管弦楽団をもたないなど、フル機能の劇場からみると欠陥の多い場所であるが、そのなかでも、劇場らしい実質をひとつでも多く積み上げていく努力はなされている。その最たるものは、世界に冠たる合唱団であろう。そして、このアンダーの充実もひとつの成果だ。今回の公演で出演したアンダーの半ば以上が新国研修所の出身であることからみても、これは劇場のもうひとつのリソースである研修所の組織と、ハッキリ結びついている。

【小空間オペラと観客の積極性】

公演は、劇場の直近の本公演と関係しながらも、演奏会形式という形でおこなわれる。演出や衣裳などはなく、ほとんど動きもつけない。オーケストラは弦楽器のみで構成され、ピアノがこれを補う。編曲は、劇場のヘッドコーチで、作曲にも見識のある指揮者の石坂宏が担当。今回は、コンティヌオ(チェンバロ)も兼任。歌手たちは横一線に並び、オーケストラと同じフロアに立つ。会場としては、中劇場を用いる。「小空間」というには、中劇場は意外に広いところで、奥も大劇場と同じく深いのはバレエ公演『オルフェオとエウリディーチェ』でよくわかったが、その奥行きは使わず、むしろ、舞台を張り出して客席に近づけているのが一工夫だろう。

ただし、中劇場は声を使うには少しデッドである。演劇公演で使うのが主目的なら、それは当然のことだろう。台詞を聞き取りやすくするには、残響は少ないほうが良いからだ。

はなみがわのホールも、残響なんてありはしない。だけれども、むしろ、そのことが小空間のオペラに都合が良いこともあるのではなかろうか。つまり、残響というものは観客の積極的なコミットという観点からみれば、彼らを受け身にする要素のひとつとして作用し得る。小空間オペラの特徴は、登場人物や劇のなかで起こることと、観客の共時性、同一空間での一体感、そして、キャラクター同様の積極的なコミットというところにも求められる。大劇場では幕の向こうの出来事でしかないものが、小空間では、正に我々のいるその場所ですべてが起こるのだ。ここでオーケストラが同時に、同じ空間の延長線上に載っていることも重要だろう。そこでは観客-歌手(歌)-オーケストラ(音楽)が一刺しになり、オペラ作家が真に理想とした関係によりちかいからである。

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』、この作品は浮世ばなれしたプレイ・ボーイの物語だ。幕の向こうで、破廉恥な好色に耽る羨ましい・・・否、憎たらしいオトコの転落人生をみて、我々は何を得るだろうか。もちろん、この作品はそれだけの物語ではない。だが、それがわかるためには、もっと積極的に作品のなかに踏み入っていく必要があるのに、大劇場では、往々にしてそれを忘れてしまう。指揮者が良かったの悪かったの、あるいは、どの歌手が良かったの悪かったのという議論になりがちだ。すこし踏み入って、演出について話題にする人があるかもしれぬ。そのレヴェルで右往左往しているのが、せいぜい欧米のジャーナリズムや批評家の限界点だ。

私は、その次のレヴェルをめざしたい。こちらのほうが、上だと言っているのではない。私はもっとよく、モーツァルトについて、その作品について知りたいと願うだけだ。歌手や演出家についてよりも。そして、私は信じる。演者にとっても、彼らのどこが良かったの悪かったのという、彼ら自身にとったらわかりきっている意見を聞くよりは、そのパフォーマンスを通じて、私がどれだけモーツァルトの新しい面を知ったかについて述べるほうが、ずっと嬉しいのだということを! 小空間のオペラを観ると、いつも、そのことを思い出す。

【オーケストラ=室内楽アンサンブルについて】

私はこの公演を観て、本公演に足を運びたいとは思わない。確かに、本公演はエンリケ・マッツォーラvideo1/video2)の指揮を中心に、話題になるだろうとは思う。いま既に話題になっているジャン・レイサム・ケーニックと、次のマッツォーラは、今シーズン後半を『ローエングリン』プレミエとともに、力づよく劇場を彩るだろう。そちらにはそちらの面白さもあろうが、それでも、私は今回、中劇場で味わえたモーツァルトの凄まじさが大劇場でも同様に出てくるとは思っていない。その秘密のひとつは、ここまで述べてきた空間的なもののなかにあるが、もうひとつ重要なことは、オーケストラのなかにある。否、正確には、室内楽のアンサンブルだ。この「オーケストラ」は管楽器やティンパニを欠く不完全なオーケストラではなく、東京フィルのトップ奏者による室内楽的集団としてみたほうが適切である。

メンバー表をみても荒井コンマスを中心に、ダブルバスを除く全パートに首席奏者が入っており(ダブルバスにも副首席が入っている)、せいぜい寄せ集めの1.5軍による構成を予想していた私にとっては、驚きが大きかった。単に名前だけをみているわけではない。実際、その集団が通常の編成では成し遂げられないような親密なアンサンブルに基づき、ときにはリスキーで大胆なアンサンブルの進め方も辞さず、石坂の指揮に鋭く反応して、歌手たちの頑張りを盛り立てていたのがわかったから、このように言うのだ。私はいつも言っている。室内楽よりも、オーケストラのほうが迫力があるというのは嘘だ。むしろ妥協のない室内楽のアンサンブルは、それなりに鍛えられたオーケストラの響きよりも、ずっと迫力がある。そして、その音楽の本質に迫ること、ほとんどのオーケストラに勝るであろう。

【ドン・ジョヴァンニとその時代】

さて、前置きが長くなったが、この公演のレヴューはこれ以上に長いものになることは請け合いだ。その前に、この公演を一言で評するなら、「ここまでモーツァルトの真意に迫った公演も数少ない」ということに尽きる。

先に述べたように、この物語は伝説的な好色漢、ドン・ジョヴァンニ、もしくは、ドン・ファン(ドン・ジュアン)の伝承に基づいている。しかし、それだけであろうか。心理的にも、もっと深彫りしていくことが可能である。だが、歴史的なことでみるなら、ジョヴァンニをネーションやその信条の問題として論じることも興味ぶかい。作品は未だフランス革命が起こらぬ時に書かれたが、はや5年後にそれは起こる。モーツァルトの時代は、ロックやミルといった思想家の啓蒙主義の萌芽が熟し、ホッブスやモンテスキューは既に通りすぎ、ルソーが教育から文学まで広く思想を牛耳るような時代、そして、それがやがて、フランスを皮切りに市民革命の波として広がっていく時代のなかにあるのだ。

モーツァルトの政治的意見について、多分、今日のあらゆるイデオロギーから自由に論じることは難しい。「フリーメイソン」をキーワードに、そのことを知ろうとする試みもあるが、かえって議論を複雑にするばかりだろう。だが、このジョヴァンニに対する描写をみるならば、既にまだ見ぬ自由主義の象徴、ナポレオンの登場、その栄光、そして、彼の挫折と没落は、ハッキリと予言されていたというほかない。モーツァルトには、すべてが見えていた。自由主義の嘘も、それにしがみつく人々の欺瞞も、また、この政治的な巨大な欺瞞に対する欧州諸国や市民・農民の無力も、そして、何らかの外的圧力がそれを屈するであろう現実まで! 実際には、ロシアとその味方である冬将軍がナポレオンを討った。これが欧州における古典的自由主義の一応の収束を意味する。

【愛するものを疑うことの辛辣さ】

では、モーツァルトは自由主義に反対であったろうか。彼は保守的な、王政に忠実な、善良なる音楽的市民にすぎなかったのであろうか。私には、そうは思えないのだ。モーツァルトは徹底した平和主義者であり、’pace’、すなち、「平和」こそを最大のテーマとして創作した作曲家である。だが、一方で、その平和なるもの、自由なるものに最大の懐疑を唱えた者も、またモーツァルトなのであった。今回の公演で私が痛烈に感じたのは、その懐疑の凄まじさである。あのベートーベンでさえ、はじめは疑わなかったナポレオンの欺瞞を、モーツァルトはその登場前からハッキリと見抜いていた。これはまったくもって、空恐ろしくなるような事実ではなかろうか。

その功績は実のところ、台本作家であったダ・ポンテのものだという考えもある。そのシェアについては、私の論じるべきところとは思わない。しかし、確実にいえることは、台本だけでは、そこまで激しいアイロニーは生まれないということだ。正に音楽の凄まじさだけが、この作品の奥に眠っていた真実のアイロニーを目覚めさせるのであって、もしも、モーツァルトがこの伝説的な好色漢の物語を単なる滑稽劇として作曲していたとしたら、その作品がこうして今日まで、ハッキリとした形で生き残ることはなかったであろう。仮に多くの人たちが、その折角の真実を忘れてしまっているのだとしても、そこに歴とした真実が横たわっているというだけで、まるで話がちがってくるのである。

モーツァルトの恐ろしいところは、自らの愛するものほど深く疑うところだ。例えば、マゼットは危険を承知で、ツェルリーナの貞淑をジョヴァンニを使って試そうとする。これは、『コジ・ファン・トゥッテ』の男2人が、アルフォンソとの賭けのこともあり、それぞれの恋人を自分たちで互いに試しあうのに通じている。結果として、彼らは意外な答えを得る。モーツァルトは絵に描いたような美しい愛の結びつきなど、この世にあるとは信じないのだ。これは愛情によって端的に論じられているが、もちろん、平和や自由、友情や忠誠、それに信仰といった、あらゆるレヴェルでの問題に当て嵌めることができるだろう。

初めから信用できないものを疑うのなら、簡単なことだ。しかし、自分の愛する者を疑うということ、これ以上に辛辣なことはない。ジョヴァンニはきっと、モーツァルトにとっての理想像なのだ。彼はどれだけ悔悛を勧められても、ブリュンヒルデを思わせるエルヴィラの自己犠牲にも、悪魔的な騎士長の恫喝にも、まったく動じることはない。しかしながら、その破滅は目にみえている。それでも、モーツァルトは、どうしたらジョヴァンニがうまく生きられるかなどとは問わないのである。むしろ、その破滅のなかに軋む時代の実相をはっきりと見てとること、これに命を賭けているとしか思えないのだ。

彼はそのためならば、キリスト者にとって生前に以上に重要な、死後の幸福や安楽を犠牲にしてもまったく悔いることがない。オッターヴィオは、まるでひとりで『マタイ受難曲』を歌っているような鈴木准が演じたせいか、司祭のようにジョヴァンニを追及する。しかし、それにもまったく動じる様子はなかった。ましてや、可愛そうなアンナの批判になど、何の力もない。他人の幸福(ツェルリーナ&マゼット)を奪っても、まだ懲りることはない。もう飛ぶまいぞ・・・ということには、絶対にならないのである。そういう歌詞をもつ作品は、いまやそれを生み出したモーツァルトの愛着からは遠く、美味しそうな食べものの幻影として扱われるだけだ。しかし、それはジョヴァンニのもつエネルギーを端的に象徴するものでもある。今回の形式においては、正にこのジョヴァンニのエネルギーに、音楽的な枢要がすべて吸収されていくような感じを得た。

それは皮肉なことに、彼のいわゆる「地獄落ち」以降にハッキリと感じられるのであって、善良な人たちによるフィナーレのグランド・コンチェルタートは、『フィガロの結婚』や『コジ・ファン・トゥッテ』のそれと同じく、どこまでも切なく、虚しい。

【ジョヴァンニの効用】

そもそも、罪などあったのであろうか。アンナはジョヴァンニに辱められて、初めてオッターヴィオとの関係を深めたといっては、あまりにも恣意的なのであろうか。あまりにも、あまりにも牧歌的な結婚であったツェルリーナとマゼットの関係は、ジョヴァンニとの情事によってハッキリと深まったのではなかろうか。エルヴィラも真実の愛に目覚め、ついに、ジョヴァンニを庇う歌で自らの真実に気づいた。それまでの彼女はただの馬鹿のようにしかみえず、ツェルリーナに真実を告げても気ちがいと見分けがつかないほどだ。いま、ジョヴァンニを失い、共通の敵がなくなったが、それを除いたのは彼ら以外の誰かであって、況や、騎士長などではあり得ないのである。石像が動き、歩いて、ジョヴァンニを連れ去るという滑稽な怪奇劇には、このような深い意図が詰まっていた。そして、ジョヴァンニという柱がなくなってみれば、彼らの間にあるのは見せかけの静かな平穏だけである。

例えば、アンナは許婚のオッターヴィオにつれない女と批判され、すこしばかり口をついて出ただけの軽い言葉に激昂して、嘆きのアリアを歌う。アンナはそれほど繊細な女だともいえるが、彼女が怒ったのは、オッターヴィオの批判が図星だったせいだとも受け取ることができないだろうか。彼らの関係は、それほど脆いということだ。奇しくもジョヴァンニが、そのことを証明してみせた。もしもその存在が消えてしまったら、この2人の関係はどうなるだろうか?

ネーション・レヴェルのはなしとしてみれば、これらの個人的な関係のねじれは相当な皮肉に通じている。ときどきの都合に合わせ、あちらと手を結び、今度は向こうと誼を通じるということは、ネーションの問題ではよくあることだ。自由主義のジョヴァンニが、その理念をはっきりと実行していくうえで、ネーション間のバランス・オヴ・パワーに重大な軋みを与えていくことは目にみえている。そのことはやがて、ナポレオンと革命フランスが実証してくれるものだ。

従者・レポレッロの身分はハッキリしないが、金貨4枚で容易く懐柔されるところをみても、ブルジョア的な階層の象徴としてみることができそうである。彼は貴族の立場を夢見るが、実際には、彼らがこぼしていくご馳走のおこぼれを狙うことを止めない。しかも、自ら責任をとることはなく、その破廉恥な行為も周囲を戸惑わせるだけのことだ。徹底した自由主義の権力者と、こうしたブルジョワ的功利主義者が裏表に結びついている様は、のちの革命を考えるときにも示唆的であるし、さらに現代の様子を批判するのにも十分、役に立つ。

【モーツァルトの真意について】

私は途中からあまりにも、あまりにも政治的なモーツァルトの警句に取り囲まれて、作品をただの野卑な好色漢のはなしとしては受け取れなくなってしまった。私は、身震いした。モーツァルトはこの作品のなかで、人間の様々な真理の中枢で、ふつう、隠れてみえない部分をすべて曝け出してしまう。だが、それに対応して、彼がやっていることは、政治、宗教、文化、生活といった人間生活の全分野にわたる、当時の「近現代社会」の全的な否定なのである。どこかの階層や、特定の立場の者に、偏って正しさがあるのではない。権力者にも、被支配階級にも、残らず問題があるというのがモーツァルトの考え方だ。左にも右にも、上にも下にも、どこにでも問題はある。そして、それらの問題はあるところで共通している。その真実を示すことが、モーツァルトの真意なのだ。

その真実とやらを、言葉で書くのは不可能だ。これは、逃げの文句である。しかし、深い真実でもある。言葉でいえないから、モーツァルトは音楽を書いた。そして、悪魔のような激しいアイロニーは、音楽そのものをも揺さぶる。私はこの日ほど、東京フィルの物凄さを思い知ったことはない。確かに、「地獄落ち」の音楽は壮絶だ。それは既に、序曲によって予告されている。しかし、この徹底した暗鬱な音楽に真の凄まじさを与えたのは、小編成による室内楽の響きだ。私は、最初のほうでそのように説明した。ただ、誤解があってはならぬ。もちろん、その効果は絶大であったとしても、モーツァルトの音楽そのものはどのような編成であったかによって、すこしも揺るがないということを!

ただ、それを引き出すのに、どのような方法がいちばん良いのかということだ。大劇場では、多くの人たちがそのことに心血を注いできた。しかし、その成果も踏まえて生まれた今回のような方法は、そうした蓄積をいくらか凌駕したといえるのではなかろうか。そのことを述べるために、次の記事では、(ようやくにして!)特に歌手たちに注目して書きたいと思っている。

 (②につづく)

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