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2012年4月30日 (月)

エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」 ほか 札響 548th 定期演奏会 4/28 ①

【芸術における癖】

人間なくて七癖というが、誰にでも思い当たる節があろう。だが、芸術における「癖」を単に「個性」と呼ぶべきなのかどうかについては、よく考えなければならない。そもそも癖とは人々が無意識に、習慣的にやっていることであり、そのほとんどは一般的にも褒められたこととは見做されていないことが多い。癖すらも愛おしく思える場合というのは、相手とごく親しい間柄にあり、その欠点までを含めて好きになれるような関係があるときだけである。あるいは、親や祖父母が自分の子どもや孫に対するときのように、ほぼ無条件の愛情が保証されているような場合だけではなかろうか。

芸術について・・・ここでは主に音楽についての癖ということを考えてみたい。音楽における「癖」というのは、確かに個性へと通じている。例えば、森進一の歌い方の、あの独特な癖がなければ、『おふくろさん』があのような名曲として親しまれるようになったかは疑問である。あるいは、ウィンナー・ワルツ独特のリズムや、ため(ルバート)といったものがなければ、ヨハン・シュトラウスの音楽などすこしも面白くはないはずだ。クラシック音楽の演奏史は実のところ、この言葉にならない癖の伝承であるともいえる。

ものまね師のコロッケのやることは、そのような癖の面白おかしい強調である。クラシック音楽においてもこのレヴェルまでは、表現としてあり得るものとして認めてもよいと思う。私はオーセンティズムも決して批判しないのだが、一方で、その対岸にある強調の歴史も同じように尊重される必要があると思う。まず模範的な手本をみて真似をし、次に、ここぞというところでのみ、自分なりの表現をすこしだけ足してもよい。クラシック音楽の表現というのは、この「僅かな」強調の積み重ねから成り立っているのであり、きわめて少ない自由しかないものなのだ。

だが、その「きわめて少ない」制限のなかに、単に制限しかみえない音楽家というのは駄目である。相撲の土俵は大きさが決まっているが、「回って使えば無限大」という言い方がある。音楽家の自由とは、正にこれではなかろうか。

素晴らしいものまね師の芸は、確かに、人々を楽しませる。ときには、オリジナルのほうの芸を引き立てることもさえあるだろう。だが、ものまね師のやることのものまねをしたときには、これはもう、まったく楽しくはないものだ。音楽でも、しばしば同じようなことが起こる。ホロヴィッツの真似をして、その芸を完全にマスターとしたと思い込み、愚かな音楽を奏でる若いピアニストのなんと多いことだろう! なるほど、模倣は芸術の始まりでもあろうが、芸術的な模倣は猿真似とはちがい、必死になされなくてはならないものだ。模倣は芸術家にとっては最大の危機であり、私なども、その恐ろしさに押しつぶされた人間のうちのひとりなのかもしれぬ。押しつぶされては元も子もないが、また同時に、「ものまねのものまね」ではあまりにも気楽であるがゆえに、つまらないし、すこしも芸術的でないということをも知る必要がある。

【理由なくやってはいけない】

もうひとつ、問題がある。良くも悪くもやってしまいがちなことが、もう当たり前のように、癖として残っている場合、これも頂けない。例えば、坂本九の歌った「見上げてごらん夜の星を」という歌の最後に、「ささやかな幸せを歌ってる」という歌詞があるが、この「な」には不思議と最高音が当てられていることに気づくだろう。多分、「ささやかな」といういう場合、「ささやか」はほとんどフラットで(平坦に)発音され、「な」ですこし上がるという言葉のイメージに対応しているのだろうが、上手に歌わないとかえって不自然な印象を与える。

天才的な坂本でさえもこれには苦労しているが、「な」が鋭く強調されるとともに、保持を短くすることで、つづく「幸せ」へのブリッジとして、いささか強引ながらも味わいぶかい解決を与えている。周知のように、この名曲は後世の歌手によって様々にカヴァーされているが、坂本ほど上手にこの問題を克服した人を私は知らず、特に女性の歌い手はこの「な」ですべてを台無しにしてしまうことがほとんどではなかろうか。

坂本の歌い方はもちろん、こうした歌い手たちによって、よく知られているはずだ。しかし、坂本のしたような強調を多くの人たちが同じように踏襲したところで、「ものまねのものまね」のようなものにならざるを得ないのは明らかではなかろうか。私の考えでは、この最高音は優しく、穏やかに発音されるべきなのだ。はっきりと目立つ高音なので、ここで無理に踏ん張らなくても、その効果は決してなくなることはない。そして、このセンテンスで大事なのは「幸せ」という言葉であることを、よく考えるべきだろう。

このようなレヴェルの罠が、音楽にはとても多いものだ。特に、そのことをやると響きが華やかに、魅力的になるような場合には、そのことが正当化されやすいから注意が必要だ。よく考えれば、もっと良い方法があるという可能性に、このような正当化は目をつぶらせることになるからである。

【オーセンティズムと強調】

前置きが長くなったが、いま書いたことのなかに、ラドミル・エリシュカという指揮者の音楽の本質があるように思えてならない。彼はきっと、理由なく起こっているすべてのことに我慢がならないはずだ。ドヴォルザークの「新世界」交響曲には、なまじ世界的にみても特に有名な楽曲であるだけに、そういうおかしな習慣がたくさんついているように思う。いつの間にか、その「癖」が当たり前のように思いなされて、音楽の味わいそのものを歪め、毀損していることに気づかないできているのだ。特に、中間2楽章は旋律的にも有名であるし、罠が多いのだが、今回、その部分がはっきりと注目に値する新鮮さで、ドヴォルザークの楽曲がもつ新鮮な味わいを蘇らせていたことは明らかである。

先日のカンブルランのコンサートにつづき、私は自分のイメージをまたまたドシドシと訂正していかねばならない羽目になった。

だが、カンブルランとエリシュカでは、もちろん、まったく方法的には異質である。反論もあろうが、カンブルランはオーセンティズムの使徒であり、しかも、その「正しさ」はフランス的な粋狂や美観と決して無縁ではない。一方、エリシュカの場合はオーセンティズムから生命感を取り返し、強調が再び輝くまでの磨き上げが半端ではないように思われるのだ。エリシュカは大時代的な強調も辞さない指揮者だが、その方法にあらゆる種類のあざとさを感じたことはいちどもない。彼の音楽はいつも自然な伸縮に満ちていて、その見事なコントロールと極上のセンスにはいつもアタマが下がる想いをするものだ。私は彼のことを必要以上に持ち上げることを好まないが、しかし、そうであっても、やはりこの指揮者に対する尊敬が日に日に高まっていくのを抑えることはできない。

【エリシュカのこころが伝わる】

そういうエリシュカがいちばん大切にしているのは、多分、音楽というよりもこころの部分だ。ドヴォルザークの9番の中間2楽章は、こころこそが全てである。宮城完爾(たぶん)の吹くイングリッシュ・ホルンの響きが、正にそれであった。そして、その想いを壊さぬようにと、ほかの木管楽器も丁重に、ゆったりと響きを重ねた。こういう演奏のみを、私たちは「アンサンブル」と呼ぶべきではなかろうか。アンサンブルとは響きの対話である以上に、こころの対話でなくてはならない。それがわからない上手な奏者は、結構、たくさんいるものだ。

だが、それにしても、まだ特別なものがこの演奏には載っているように思えた。「新世界」交響曲のイングリッシュ・ホルンは全曲のなかでも印象的な要所であるが、その奏者はオーボエ・パートの首席ではない人が吹く場合がほとんどだ。自然、その奏者が張りきるのはよくあることである。だが、結論からいえば、エリシュカはこの「家路」の楽章に、1年前のあの悲しい出来事への想いを託した。あとで調べてみれば、宮城さんの出身はそのファミリー・ネームから想像できるように仙台ときているのだから、尚更のことだ。なるほど、これは特別なわけであった。しかし、それに気づいたのは、第2楽章も終盤のことである。

最初の見せ場を吹ききって、ずっと休んでいたイングリッシュ・ホルンが終盤、再び同じメロディを奏でるのは周知のとおり。だが、私はその音色が先刻よりも、随分と明るくとられていることに気づいた。この響きが引き延ばされるなかで、弦楽五部のトップだけによる室内楽、そして、弦楽四重奏に入っていく。この弦楽四重奏の美しさは、誰にでも気づくことだ。私はその前の弦楽五部の合奏に、もっとも甘い要素を感じたし、ここを奏でるトップ奏者たちの音色は深く、喚起力のある内面性に溢れていた。ところが、それを導いているのは結局、イングリッシュ・ホルンの引き延ばしであったのである。

メロディは、はっきりと明転した。しかし、その内面には、未だ拭いきれない悲しみがある。室内楽以降、パウゼのなかに吸い込まれる響きと、そこに欠けたるものを勝手に付け足す聴き手との対話を、エリシュカは丁重に用意した。まるで、失った人たちのことを記憶のなかで蘇らせる被災者たちのように、私たちにはあらゆることを考える隙(ヒマ)があった。そうして、私は気づく。ああ、マエストロは忘れてはいない。1年前、この国になにがあったのかを! 私たちがもう、ともすれば忘れがちなこの時でさえも! そして、彼は人々の悲しみを、どのように救うべきかを知っていたのだ。ただ聞いて、彼らがこころを明るくしようと試みるときに、ちょっとだけ手(こころ)を添えてやればいいのだということを。そのための、パウゼなのである。

このようにして、ちょっとしたメランコリーと、それに加えて、人を元気づかせるような要素が少しでもあれば、すぐに震災と結びつけるような表現は適当でない。だが、マエストロのこころのなかには、ハッキリその要素があったはずだ。そして、札響のメンバーもそのことをわかっただろうし、もちろん、私たちにもそのことは伝わった。

そのせいか、第4楽章がおわって天に昇っていく響きを、私たちは静かに見送ることを得たのである。札幌では有名なあのブラボー屋さんまでもが、一言も発しなかった。こんなことは同じエリシュカの指揮でさえ、東フィルやN響のときには起こらなかったことだ。少なくともエリシュカの指揮による演奏を聴くかぎり、札響の著しい特徴のひとつは、響きを通じて聴き手とコミュニケートする能力が抜群に高いことにある。それが、今回は特に凄いカタチで表れた。エリシュカの素晴らしさばかりで、今回の成功を物語ることはできないのだ。

このことを、まず真っ先に書いておきたい。だが、もちろん、この演奏がこころだけが勝る演奏でなかったのは言うまでもない。この想いは、演奏の細部で様々に信じられない成功をもたらすことになった。イングリッシュ・ホルンは確かに素晴らしく、異例なことにマエストロも横に立って奏者を褒めたのだが、そればかりではないのだ。そのことについては、次の記事になるべく具体的に書いていきたいと思う。

 (②につづく)

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