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2012年4月24日 (火)

新田ユリ シベリウス ヴァイオリン協奏曲 & 交響曲第6番 アイノラ響 定期演奏会 9th 4/22

【佐藤まどかの圧倒的な演奏スタイル】

ショスタコーヴィチを専門に演奏するアマチュア・オーケストラは、オーケストラ・ダスビダーニャ。これに対抗するようにして、シベリウスを専門に演奏するアマオケがアイノラ交響楽団である。「ダスビ」が長田雅人氏とのパートナーシップをつづけているのに対し、アイノラ響は新田ユリ氏と結びついている。新田は本場のフィンランドでも活躍する、シベリウスを中心とした北欧音楽のスペシャリストで、日本シベリウス協会の理事でもある。彼女を正指揮者として迎えるアイノラ響には以前から関心を払っていたものの、今回、初めて足を運ぶことになった。

しかし、その印象を根こそぎ奪ってしまったのは、ヴァイオリニストである佐藤まどかの凄まじいパフォーマンスである。佐藤については以前から現代音楽のコンサートでよく耳にすることがあり、高度に安定したテクニックの持ち主として信頼していた。ただし、彼女もまた、新田と同じように日本シベリウス協会の理事を務め、この作曲家に対する造詣は深いようだ。2人はシベリウスの歿後50周年の企画において、協奏曲を共演済みで(バックは、なぜか横浜シンフォニエッタであった)、そのシリーズのなかで、佐藤はピアノ伴奏による初稿版も演奏している。これもまた、行ってみたいコンサートのうちのひとつだったので、よく憶えているのだ。

さて、冒頭から、佐藤まどかの楽曲に対する並々ならぬこだわりが目にみえるような響きで始まった。細部まで筋を通し、響きにあわせてパターン化したアクションを用いて、身体全体を使っての大きなアクションが目立つが、表現が大味になることはなく、とても精緻な構成を考えて実践しているのは明らかだ。ハキハキとして鋭さの目立つアーティキュレーションにより、最初のシーケンスのヤマをダイナミックに終えて、オーケストラにハンドルを渡す。しかし、序盤はまだ、ドライヴは穏やかであったかもしれない。

佐藤の演奏スタイルがいっそうハッキリとしてくるのは、カデンツァ以降のことであった。そのアーティキュレションは独創的で、自由なカンタービレによって組み上げられた豊満なフォルムには、プロのオーケストラでもつけるのは難しかったろう。特にルバートというか、その空間性の大胆な歪みをつけることで、ヴァイオリンの響きの味わいを何倍にも引き出す工夫は、この協奏曲に関するスタイリッシュなイメージを一変させるものである。興が乗るごとに、動きの増えていく佐藤のヴァイオリンを聴いて、蒼くなったオケのメンバーも少なくなかったにちがいない。内面的な部分においても、これほど悲劇的で、苦悩に満ちたスタイルが、そのテクニックの厳しさのなかから聴こえてくるような演奏は、なかなか耳にしたことがない。

【疑問とその氷解】

このようなスタイルが、作品の味わいにとって真に相応しいものなのか、私は疑問をもちながら聴きつづけた。少なくとも、アイノラ響は佐藤の発するようなエネルギーに適応した響きを、キビキビと返していけるほど巧くはなかった。だが、それはどちらかといえば佐藤のほうの暴走というべきで、どんなオケでさえ、彼女の演奏につけることなど、到底できないのではないか。この疑問を、私は抱きつづけていた。ただ、疑問は疑問として、彼女の示す圧倒的な気迫は、厭でも私を作品世界にのめり込ませるに十分であったのも確かである。緩徐楽章を経ても、まだ、何らかの確信には至らない。

しかし、終楽章が始まった途端に、私は完全にヴァイオリニストの正しさを認めざるを得ないことになった。ロンドー主題を支配する神々しいまでに輝くヴァイオリンの主幹と、それを映し出す「薄い」オーケストラの関係に注目せねばならない。それを説明するのに、まったく演奏スタイルは異なるものの、ここにリンクする録音(独奏:D.オイストラフ)を聴いてもらうのはとても参考になる。時代の古い録音でもあり、独奏部のバランスが非常に厚くとられ、オーケストラのバックと遜色のないレヴェルが楽しめる。この日の演奏ではオケ部の響きがより薄めにとられ、正に、独奏が圧倒的な存在となっていたのと対比的にみられる。

オーケストラがアマチュアで、非力だから、そうなったというわけではないのだろう。新田が意図的に、オーケストラをそのようにコントロールして、ヴァイオリン独奏のプレゼンスを前面に押し出すようなバランスを採ったとしか思えない。実際、そのスタイルはロンドー主題が重なるにつれて、ハッキリした構想として読み取られるようになる。オケは整然とベースを上げていくが、独奏の深いテンションにはついに追いつくことはない。この終楽章における佐藤の集中力の凄まじさは、彼女よりは技術的に優れているかもしれない多くのアーティストをハッキリと凌駕するものだ。重音やハーモニクス奏法のキレ味や、その精確なポジションだけではなく、そこにかかっていく内面の重々しさこそが、なんといっても特徴的なのである。

その重々しさには、シベリウスという作曲家がこの作品のなかに託した・・・というよりは、自らも知らず憑りつかれてしまった、ある種の苦々しさが感じられる。その正体が何であるのか、いまの私には、あまりにもヒントが少なすぎてわからない。しかし、次のようなことだけは確かだ。佐藤まどかというヴァイオリニストは、この作品のなかに、シベリウスが音楽家として生きていくに当たって、ほとんどこころが折れそうなほどに、深い危機を抱いているのを察知した。そして、それは破裂的で、あるいは、自滅的ともいえるほどに鋭い、窮屈なバランスの上にしか成り立たないと判断したのであろう。クライマックスに生じるドレミファソラシドの基本音階によるアジテートさえ、彼女は暗い霧で覆ってしまうのだ。先日みたアンゲロプーロスの映画のように深く、ロマンティックな霧。その向こうに待ち構える暗鬱にして、美しい表情。静かさのなかにある、已むに已まれぬ激しさ!

【不思議なイマジネーション】

そのとき、私に、第2楽章で体験したイメージがフラッシュ・バックする。想像のなかの「私」はドイツか、あるいは英国の記者であった(しかも、女性のイメージだった)。記者は断筆して20年後(まだ、何十年も寿命が残っている)のシベリウスを訪ねるべく、厳冬の(あくまで冬だ)アイノラを目指していたのだが、道に迷い目指すアイノラ荘にはなかなか辿り着かない。記者はようやくアイノラ荘の外で、薪を割っているシベリウス老人と遭遇するのだが、その表情を思い描くまでに、私のイメージは消えた。夢のような話である。だが、そのときの表情がすべて、この終楽章に溶け込んでいるのは言うまでもない。

ともかく、私はこういう不思議なイマジネーションを受けると、どうにも受け止めきれずに、涙が出てきてしまうのである。佐藤の発する直向きな音色、それが生み出す闇の深さ。老人の表情は、これによって象徴的に感じられる。これらを私は知的なレヴェルでは捉えきれないところで、ハッキリと「感知する」能力があって、今回もまた、紛れもなくその能力が発動したのは確かである。というと、私が特殊な能力をもつようだが、そうではない。私はただ、音楽に対して、すこしばかり素直なだけなのだ。そして、同じように素直な人は、あなたの隣りにもたくさんいることだろう。

【新田ユリの解釈への疑問】

さて、本来はオーケストラの演奏について、詳しく触れるべきであるが、私はこのオーケストラが新交響楽団やダスビのような形で、正面からの論評に耐え得るような集団とは思わなかった。低音弦と、金管はとても良い。その他の弦楽器も、決して悪くない。新田ユリの指揮も、別に悪いところは何もない。女性指揮者については、私はあまりまともな人に出会ったことがなく、録音で聴くエマニュエル・アイムや、現代音楽におけるスザンナ・マルッキがその僅かな例外である。だが、マリン・オルソップのようにインチキな指揮者ではないし、こと北欧音楽に関しては一応、その高い知見を尊敬することはできそうなのだ。分厚い低音弦の響きや、金管の明るい響きなど、とてもよい。

しかし、それにもかかわらず、このオーケストラには表現のパレットを増やすための柔軟性が、あまりにも欠けているのではなかろうか。ある種の表現は非常によく嵌まるし、それは確かに、シベリウス独特の味わいにつながっている。だが、別のところでは、まったくフィットしないということも珍しくはない。その差を埋めるための発想力が、オケ全体で共有できていないようなのだ。そのように偉そうに言ってみても、私がこのオーケストラを変えるための何らかの知見を有しているわけでもないし、そもそも「楽識」の根本的に欠けている門外漢の戯言であることを理解していただき、暴言は平にご寛恕ねがいたいと思う。だが、これは正直な実感である。

交響曲第6番は、私にとって愛情の深い作品のひとつだ。私にとって、シベリウスは好きな作曲家のひとりであるが、そのようにさせた原因となった曲は、交響曲第2番や『フィンランディア』ではあり得なくて、むしろ、後期の3つの交響曲や、言葉もわからないのに、なぜか大好きな歌曲たちなのであった。特に交響曲第6番ではちぎれ、瞬く間だけ煌めき、すこし盛り上がっただけで儚く消えてしまう、そういう独創的な曲想に初めから惹かれていた。第4楽章はドーリア旋法の使用から宗教的な雰囲気が指摘されるが、私はむしろ、そういうことを超越した自然的なきらめきを感じる。こういう作品は他にあんまり見たことがなく、響きとしてはチャイコフスキーの影響もみられなくはないが、その人の手に染まったような「美しさ」の雰囲気とは似て非なるものがあろう。

では、アイノラ響がこれに対して、どのようなアプローチを試みたかというと、それは旋法とバロック対位法を組み合わせたような、そういうスタイルによるシベリウスの古典性を強調したものであった。そのこと自体は、決して悪いとは思わない。しかしながら、そのために新田が採ったテンポ設定には、いささか失望を感じざるを得なかった。もちろん、私は、自分のイメージを勝手にスタンダードと決めつけてしまうような聴き方は正しくないと思うし、なるべく忌避したいと考えるものだ。しかし、そうであるにしても、演奏全体を冷静に振り返ってみて、それによって彼らが手にしたものは、失ったものに対してはるかに少ないというのは厳然とした事実ではなかろうか。

【オーケストラの可能性と問題点】

このことは、あくまで新田の解釈に対する些細な疑問であるが、それ以上に気になったのは、やはり、そうしたものを含めたベースをつくるオーケストラの発想が、あまりにも乏しいという問題である。交響曲第6番では、もっと多彩なイマジネーションが各パートの控えめな響きを引き立たせてくれるはずだ。決して、下手なオケではない。アマオケのなかでは、中の中~上に位置するような腕っぷしは感じられる。しかし、問題はその腕っぷしをもっと深く活用したいという、徹底した意志が感じられないことにある。むしろ、自分たちの腕前に対する過小評価や、自信のなさが、表現を必要以上に硬直的なものにしているように思えてならないのだ。

私は、アイノラ響にもっと強い個性を感じたいと思う。折角、シベリウスを専門にやるオーケストラなのだから、それに相応しいこだわりというものを、もっと徹底的に出し尽くしてほしい。ダスビと異なる点は、正にそこなのである。彼らには、もっと高貴な可能性があるだろう。それはチューニングのときから、ハッキリ感じられる響きの透明度や優しさへのこだわりであり、また、そこに至る慎重な音楽運びの丁寧さである。こうした良さを自らの意志で発揮しようとすることで、オケは佐藤まどかのようなとんでもなく才能ゆたかなソリストと、本当の意味で組み合うことができるようになる。いまはまだ、彼女の圧倒的なパフォーマンスを指をくわえて見守るしかない状態ではなかろうか?

ここまで暴言を繰り返すのも、私がアイノラ響に可能性を感じ、再度、チャンスを与える(偉そうな言い方だ)ことにやぶさかではないことを示している。例えば、オーケストラ・ニッポニカの演奏を初めて聴いたとき、たとえ私たちに大事な曲目をやってくれるオーケストラであるとはいえ、自分はもう、この楽団の演奏会の会場に足を運ぶことはないだろうと確信した。事実、このオーケストラには以後、ほとんど興味をもつことはなく今日に至っている。一方、アイノラ響に関しては、今回の交響曲第6番のあまり評価できない印象にもかかわらず、いつか、彼らならば、きっといい思いをさせてくれるであろうという想いのほうが先行しているのだ。

いずれにしても、交響曲第6番を聴くと、本当にこころから癒される。その印象の正体については、いろいろと書きたいこともあるが、それはこの演奏会から受けた刺激とは関係のないものなので、ここで論じるつもりはない。ただ、その大事な部分だけは、アイノラ響も決して損なうことがなかった、というだけことは最後にしっかり述べておく必要がある。彼らは私よりも、きっと熱心なシベリウスの愛好者なのだ。その良さを損なうことは、彼ら自身が赦さないであろう。クドクドと批判的なことも書いたが、なかなかに味わいのあるコンサートであったことも忘れてはならない!

【プログラム】 2012年4月22日

オール・シベリウス・プログラム
1、2つの厳粛なメロディ op.77
2、騎士風ワルツ op.96c
3、ヴァイオリン協奏曲 op.47
4、交響曲第6番 op.104

 * 1、3曲目 vn:佐藤 まどか

 於:杉並公会堂(大ホール)

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