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2012年4月 1日 (日)

河原忠之 (pf) with 小森谷巧&金木博幸 リサイタルシリーズ「歌霊」 第4回 シューベルト 3/25

【アンサンブル・ピアニストを英雄に!】

コレペティトゥールという言葉は、一体、日本でどれぐらい知られているのだろう。日本には新国立劇場を含め、欧米式の本格的な劇場はひとつもないから仕方がないが、正に劇場における「母親」のような存在である・・・そう、父親たる指揮者はいまや、世界のどこの劇場でも大抵は不在なのだ!・・・劇場の基盤を支える重要なスタッフが、日本では評価される基盤がないのである。それにもかかわらず、日本にはその能力をもった優秀な、彼らが望みさえすれば、いつでも欧米のどこの劇場でも通用するような、そういう凄い人材が意外に多いのはなぜであろうか。彼らは日本を愛し、日本の歌手たちや劇場人を愛するあまりか、あるいは、単に収入の道に困らないせいか、この国に留まって、玄人たち(つまりはプロの音楽家)の高い尊敬を受けて過ごしている。

彼らはその能力の一部を声楽などの伴奏者、あるいは、アンサンブル・ピアニストととしても用いている。この「伴奏者」も「アンサンブル・ピアニスト」も、日本では評価が低い。例えば、若手のマルコム・マルティノーとかジュリアス・ドレイク、現在は作曲家としても活躍するアリベルト・ライマンのように、欧米では、その価値は非常に高いところに置かれる。だが、日本ではブルーノ・カニーノやメナヘム・プレスラーが、ポリーニやツィメルマンのような英雄的存在として扱われることはない。

象徴的なことに、こういうエピソードがあるのだ。私はヴァイオリンのライナー・キュッヒルと、ピアノの加藤洋之による演奏で、ベートーベンの演奏を聴いたことがある。キュッヒルはもちろん、加藤の演奏にも感嘆した私は、アプローズのときに思わず「ブラーヴィ」と声をかけていた。それを聞き咎めた人がいて、「なんでブラーヴィなんだ、失礼だ」と言ってきた。つまり、伴奏者はおまけみたいなもので、ヴァイオリニストに対して失礼だという意味なのだろう。私はそこでは敢えて反論しなかったが、演目がベートーベンであることも踏まえて、ここでヴァイオリニストと伴奏のピアニストが同様に重要な役割を担っていることは明らかではなかろうか。事実、ウィーンの公演の会場をうつした写真をみると、キュッヒルと加藤の名前は同様にデカデカと看板に書かれていたのである。

私はまったくもって非力であるが、こうした役割を担うピアニストの立場を、すこしでも高められたらいいなと願っている。そして、私の知るなかで、この分野で、特に傑出した才能をもっているのが服部容子と、河原忠之の2人ということになる。2人とも夥しい公演数をこなし、歌手のリサイタルの伴奏や、ピアノ伴奏によるミニ・オペラ公演の伴奏や編曲、そして、本公演の下稽古やプロンプターなどとして、八面六臂の活躍をしている。しかし、世間の評価は知る人ぞ知るという範囲でしかない。彼らにとっては、それでも構わないのかもしれない。私はそうした謙虚な精神を、英雄の威容に高めたいと願う。

【アクシデント】

その河原が今回、2011年5月から4回シリーズで続けてきた「歌霊」のツィクルス公演は、最後の4回目を迎えた。初回から、レスピーギ、リヒャルト・シュトラウス、プーランクとつづけ、最後にシューベルトをもってきた。なお、そのうちのレスピーギとプーランクについては、今後、時間をかけて、出版されている楽譜すべてを演奏していきたいという意気込みであった。

今回のシューベルトの演奏では、歌手の力は借りない。前半に独奏、後半には弦楽器奏者とのデュオを選択した。前半のソナタ D960 は、ピアニストにとってひとつの境地ともいえる作品であるが、解釈が難しく、河原のようなコレペティやアンサンブル・ピアニストが演奏する機会はきわめて少ない。幕間のトークによれば、暗譜で臨むかどうかに悩んだそうだが、前半は譜面を立てなかった。自分でも緊張していると言っていた、逆にみればワクワクのステージであったが、それは第1楽章の途中で切れたピアノの弦によって台無しになってしまう。アクションにあわせてキィキィ、パーンとなるピアノに悪戦苦闘しつつ、第1楽章を弾き終えたところで事情を告白して調律師を招き入れた。

先日のバドゥラ=スコダの演奏でもわかるように、この作品は4つの作品が親密に関係している作品なので、ここで大きな間を空けねばならないことは作品表現にとって致命的だ。これで少なくとも15-20分くらいは待たされると覚悟したが、河原にして、この人でないと弾けないと言わせる調律師さんの応急処置により、10分まではかからずにピアノの響きは復元。残念な出来事ではあったが、知る人ぞ知る調律師の見事な技には休憩中も、感嘆の声が聞かれた。

【D960 終楽章の独創的な解釈】

演奏はバドゥラ=スコダの境地と比べると、さすがに数十年は熟成を待ちたい演奏とは思えるものだ。河原は若い分、ドラマティックでダイナミズムも分厚く、幅広い演奏を試みる。その肉厚な響きも意外に上品で、さすがに河原らしく気品があり、物語性に富んでもいるが、もうひとつ物足りない。

しかし、第4楽章は傑作だった。河原はロンドー形式を巧妙に使って、すべてのシーケンスを別々のヴァリュエーションで表現したのである。最初のシーケンスは素朴に、美しく。次のシーケンスでは、ロンドー主題の三連符の真ん中を突き出し、全体的にも中寄せのフォルムを整えて、まずは聴き手を驚かせる。ここからテンポ・ルバートを入れ、その溜めのヴァリュエーションでいくつかのフォルムを編み上げ、最後はこの上もなく優美なフォルムを示して演奏はおわる。このヴァリュエーションは明らかに河原による独創であり、手に汗を握るスリリングな展開となったが、その緊張感がともすればくどくなりがちな作品の味わいを爽やかにして見事だった。

【D574 家族を描く】

後半は、小森谷巧と金木博幸という在京オーケストラの名手を迎えての室内楽である。まずはヴァイオリンの小森谷を迎えての、シューベルトの簡素なソナタ D574 の演奏である。トークによれば、小森谷および金木とは数回のリハーサルしかできなかったというが、小森谷とのリハでは練習にもかかわらず、泣いてしまったというのだから期待も高まる。その意味は、演奏を聴いて少しわかった気がした。正に、この日の白眉となるものだ。

この作品は、とても高いヴィルトゥオージティを以て演奏されることが多い。旋律が素朴で、響きもシンプルであるが、その分、より高い次元で演奏することでヴァイオリニストは、その味わいを高いレヴェルに引き上げることができるのだ。ところが、小森谷はそうした解釈をとらない。この作品はあくまで素朴な味わいがベースにあり、その意味をどのように捉えるかが重要な意味をもつという、彼の考え方に注目しよう。そのうえで、小森谷が追求したのは、この作品を温かい「家族」のイメージで捉えることではなかったろうか。よっぽどシューベルト自身は終生、家族をもつことはなかったので、その想像のなかに浮かぶ理想的な夫婦と子どもたちの姿が、ここに描かれている。小森谷と河原によって、この作品はシューベルトの『ジークフリート牧歌』としてイメージされていた。

第1楽章はややテンポを遅めにし、小森谷はヴィブラートを厳しく抑制する。華やかなアーティキュレーションや響きのつくり方は敢えて避け、作品のもつ素朴な味わいにどこまでも忠実だ。この素朴さのなかに、ほんのりと潜む温かさが家族のイメージと結びついていく。それは、河原の伴奏の穏和な表情と、非常につよくマッチしてもいる。第1楽章は、この家族のすべての要素が後世のワーグナーによるライト・モティーフのように浮かび、その分、若干の複雑さが感じられる。第2楽章以降は、このライト・モティーフ的なものが拡大されていく。第2楽章は父親の楽章であり、暴れまわる子どものモティーフをあらゆる手段で整えていく役割をもつ。しかし、毅然とした父親というよりは、もっと優しげで、穏やかに言い含めていくような表現だ。そして、それに応えて、子どものモティーフは立派に成長していくのがわかる。

これに対して、第3楽章は母親の楽章である。正に、優しさが前面に出ており、メロディの清らかさが際立つ。特にヴァイオリンが伴奏に下がり、ピアノが前面に立つ短いエピソードが印象的。第3楽章は母親の楽章であるとともに、夫婦のシェアが響きの面で強調されてもいる。フィナーレは幾分、技巧的な演奏である。すべてのモティーフが出尽くした今、2人はそれを再構成して「家族」として組み上げることに腐心していた。動的な子どものモティーフを囲み、男女のジェンダーを背負ったモティーフが対位法的な方法で効果的に組みあわされていくのを見るにつけ、全体のイメージがどんどん鮮やかになっていく。

このような解釈が、作品の本質とどれほどきれいにマッチしているのかは、私には判断する力がない。しかし、小森谷のアンガージュマンに対して、河原がつよい共感で応じたのがよくわかる演奏で、作品の本質の一部分である素朴さを、徹底的に肯定して捉えた演奏であることは言うまでもない。そのようなものを「家族」という視点で捉えた発想は秀逸であり、聴き手が同じく家族をもつのかどうかはともかくとして、多くの人たちに深い共感を与える音楽表現であったのは間違いところである。

【盲人と盲導犬】

最後の『アルペッジョーネ・ソナタ』は、金木博幸のチェロを迎えての演奏だ。まずは堂々と、オーソドックスな演奏解釈で最初のシーケンスを高い精度で弾き上げ、このままいくと、音程や和声の精度にこだわった精緻な演奏になるかと思われたが、繰り返しはもう、そうした常識を捨てた鮮やかな解釈で、ルバートなどを深彫りにしてテンポは激しく変化する。ややくどいところもある短いフレージングで、ちょうど小田和正の歌のように、フォルム自体は固定的なのに自由な魂が浮遊する独特のイメージがみられる。

カットのないフル・ヴァージョンで、演奏は上のような一貫したスタイルによるものである。金木はそれほど深く鳴らさず、あくまで皮相なところに、ちょこんと充実した音楽が溜まっているようなシューベルト作品の独特のツボを押してくるのであった。それでいて、フォルム全体にはかなりの力みもみられ、そのバランスが絶妙である。小森谷の表現と共通しているのは、素朴な味わいを常に意識していることであろうか。

河原はこの曲の演奏においては完全に、黒子に徹していた。いわば凧あげの職人で、金木の自由な解釈にきっちりつけ、糸が切れて飛んで行かないようにする「だけの」役割。ところが、それ「だけの」役割を職人的に果たして、相手にストレスを与えず、かつ、インスピレイションまで加えられるような伴奏ピアニストは、なかなか見つからないものである。このソナタはアルッペジョーネのためのソナタだが、冒頭、主題はまずピアノが提示する。それをそのまま、アルペッジョーネ(チェロやヴィオラ)が弾くことで、真の歌い手が判明するだろう。しかし、その真の歌い手が陰に沈むところに、この作品の面白さがあるわけだ。

河原の場合は控えめだが、陰湿ではなく、チェロの旋律に盲導犬のように寄り添っているのが特徴である。この譬えには、違和感があるだろうか。なぜなら、チェロが盲人のように思われるだろうし、河原は犬ではない。しかし、私は盲人や盲導犬を尊敬する立場から、このように言っているのであって、まず、盲人のことを親の手に引かれる無能力者と見做してはいないことは大前提だ。むしろ、我々が「みえている」ことが恥ずかしくなるほど、力づよい生き方をもっている。それを導く、盲導犬なのだ。このコンビが芸術的に、いかに強靭なポテンシャルを備えているかは明らかであろう。

ちなみに、最近の欧米では、盲導犬ではなく、盲導豚がトレンドになっているそうだ。ミニ豚はサイズもちょうどよく、我々のイメージとはちがって知能がとても高い。映画にも豚が主人公のコメディがあるが、それぐらいのことは、しっかりやってのける豚なのである。そういえば、河原も犬というよりは・・・閑話休題。

【震災と津波を忘れないために】

最後の曲がおわると、ツィクルスの最終回ということもあり、再び河原による挨拶が入った。彼はこのシリーズが震災の「直後」といってもよい2011年の5月に始まったことに触れ、やはり、音楽家として、やるべきか/やらないべきかについては迷ったと話す。そして、この情報化社会のなかで、大事なことがどんどん忘れられていく世相を批判し、これからのシリーズは震災の記憶を忘れないようにするためにおこなうと宣言した、言い方は素朴だが、立派なスピーチである。

これに絡んで用意されたアンコール曲は、宗教曲ばかりで3曲だった。1曲目はヴァイオリンと、2曲目はチェロと、3曲目は3人で演奏したが、それぞれに異なった想いを胸に抱き、その気持ちが前面に押し出された演奏は様々なことを考えさせる。特に、トリオで演奏された3曲目が胸に響いた。音楽以外のことを、音楽に関連づけて述べるのはよいことではない。しかし、このような形で、音楽家があくまで音楽表現のなかで聴き手にインスピレイションを与えることは、決して音楽の本分にもとらないと考える。

アクシデントはあったものの、それも含めて貴重な機会であった。私は4回のうち1回しか聴いていないが、河原の今後のシリーズにも期待したいと思った。

【プログラム】 2011年3月25日

1、シューベルト ピアノ・ソナタ D960
2、シューベルト ヴァイオリン・ソナタ D574
 (vn:小森谷 巧)
3、シューベルト アルペッジョーネ・ソナタ D821
 (vc:金木 博幸)

 於:紀尾井ホール

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