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2012年4月 2日 (月)

原田禎夫 (vc) with 加藤洋之 (pf) ブラームス チェロ・ソナタ第1番 ほか @東京・春・音楽祭 3/29

【原田禎夫の紹介と演奏スタイル】

チェリストの原田禎夫は「東京クヮルテット」(以下、東京SQ)の創設メンバーとして高名なはずだが、人気面では室内楽不毛の国、日本では十分に著名とは言いがたい。だが、もちろん、世界的なクァルテットのチェリストとして、実力は折り紙つきである。私が彼の演奏に接するのは2度目で、2011年のヴィオラ・スペースでシュニトケの弦楽三重奏曲を弾くのを聴いて、大きな感銘を受けた。また、伴奏もウィーンを拠点にピアニストとして、特にライナー・キュッヒルのパートナーとしても活躍する加藤洋之で、私のお気に入りである。2010年のヤマハホールでのキュッヒルとのリサイタルは昨日のことのように思い出せるし、ヴァイオリンを聴くための私の感性を、大きく前に進めてくれた機会であったと信じている。

原田は今後、3年間で6回のコンサートをツィクルスとして、キャリア後期の集大成をおこなう予定とのことだ。このコンサートはその第2回で、初回は現在の彼が所属するアミーチ・クァルテットでのパフォーマンスだった。

ソロで初めて聴く原田の演奏は、かなりのカルチャー・ショックを味わわせるものだ。まず、彼の演奏はダイナミズムの変化を、音量には託さない。その幅は非常に小さく、ダイナミックな響きの拡張や、その羽ばたきにエクスタシーを覚えるような聴き手には、原田のパフォーマンスは奇異なものに思えるであろう。あるいは、非力とさえ映るかもしれない。しかし、もちろん、そんなはずはないのだ。音量のフラットな原田の演奏にも、明確なダイナミズムが聴き取れる。それはむしろ、音量によるごまかしを経ない分、よりシビアで音楽的な難しさを孕んで、迫力があるとさえ言えるだろう。

【ドビュッシー 解体と再創造】

ただし、その表現も曲によるというべきだ。例えば、いちばん最初に演奏したドビュッシーのソナタの場合は、彼のもつスタイルをもっと直接的に、楽曲に馴染ませるだけで十分である。そのシンプルな操作だけで、短く、味わいぶかい響きのために、よく演奏されるこの曲を、彼は一から生まれ変わらせることができた。まず弾き出しで、原田と加藤は驚くほど親密な同調性で、鋭く旅立つことに成功した。加藤の伴奏は、メナヘム・プレスラーとは別の意味で、弦との同調度が高い。それは弦に似通っているのではなく、徹底的にピアノ的な響きでありながら、柔らかく弦の響きを吸い取ってしまうような、独特の味わいがあるということを意味している。

序盤の展開はテンポも速くはなく、濃厚な感じになることが予想された。しかし、それは最初のほうの僅かな部分だけで、やがて、もっとスマートな展開が主流を占めるようになる。快刀乱麻ともいうべきスリリングなアーティキュレーションを淡々とこなして、第1楽章をおえても、まだ解釈の全体像は見えてこない。それは演奏意図が曖昧なのではなく、謎めいていたことを示している。そのことは演奏がすべて終わっても、完全にわかるという段階までは辿り着かないほどだ。

特に驚いたのは、第2楽章以降の弾き方である。そこではもう、徹底した新しさが感じられ、特に第2楽章は既存のドビュッシーに対するイメージのなかでは突出して斬新の部類に入る。東京SQが主にアメリカで活動したことを思い出させる尖鋭な音符の解釈は、ドビュッシーをシェーンベルクと関連づけるかのようだ。そのイメージはしかし、一見、取っ付きやすそうな第1楽章と比べても、はるかに明晰な音楽として捉えられている。そこでは第1楽章で仄めかされていた象徴的な響きのイメージの組み合わせが、より闊達な知性によって凝縮されているように思われる。その秘密は、ピアノのベースをよりハッキリと、丹念に強調した姿勢とも関係している。

第1楽章は、なるほど「プロローグ」である。プロローグにすぎないというべきか。ロマンティックなチェロの旋律とそれを彩る表情のゆたかさは、第2楽章へ来て完全に解体された。そして、その地盤からの再創造がフィナーレであることは論を待たない。この作品は、ドビュッシーが晩年に書き残そうとした6つのソナタ(完成したのは3つ)のうちに入っていることは周知のとおりで、そのソナタがいかなる方向に向かっていたのかは、このような演奏から窺い知れるであろう。正に、落語の名人の5-6分ばかり(実際の平均的な演奏時間は10分強)の気の利いた小咄という感じであり、その切れ味に我々も圧倒されざるを得ない。

それゆえに、すべてを知るにはより高いレヴェルの知見が必要だ。それが、私にはない。

終楽章は第2楽章の延長線上で、さらにピアノの名技性をハッキリと意識的に前衛へと置いた。これを縫い合わせる加藤の演奏も快刀乱麻の鮮やかさで、ピアノの名手でもあったドビュッシーが最晩年に書いた鍵盤作品のひとつとしても、この作品が重要であることを匂わせた。

【ブラームス 徹底して謙虚な表現】

さて、メインはメンデルスゾーンのソナタ第2番であるが、それはそれで、もちろん素晴らしかったのであるが、私は敢えて、これにはさほど触れず、ブラームスのソナタ第1番について述べたいと思う。この「ソナタ第1番」はヴァイオリン・ソナタ「雨の歌」からの移調によるものではなく、もちろん、オリジナルのチェロ・ソナタのほうである。

演奏は同じく音量に頼らないダイナミズムのなかで、厳しい響きを刻んだものである。そのスタイルはドビュッシーのときよりも、徹底的に構造に寄り添った動作となった。第一音から仄暗い悲劇に包まれた演奏は、私のこころを瞬時に捉えてしまう。加藤の身につけたウィーン・スタイルの伴奏に対して、原田のそれはよりユニヴァーサルな硬質さに基づいている。このズレが破綻となることはなく、有意なちがいとして、音楽の味わいにつながっていく。

しかし、それよりも何よりも目立つのは、彼の徹底した表現の謙虚さだろう。なお、ここでいう「謙虚さ」とは、音楽の造形に対する圧倒的なシンプルさであり、素朴で自然なパフォーマンスのことをさして言っている。シンプル、素朴、自然というだけならば容易いが、それを誰にでも納得のいく形で具体的に提示するのは容易でない。その裏には退屈、つまらなさ、無粋、味気なさなどが待っているのであり、優れた弾き手ほど、その恐ろしさに平気ではいられないはずだ。それを知りながら、敢えて火中の栗を拾うようなアーティストに、私はどうしても惹かれてしまう。原田禎夫は、そうしたアーティストの典型として記憶に残る。

いま、私がとても虚しいのは、こうした説明を具体的に説明する部分がなかなか見出せないからである。だが、例えば、第2楽章のメヌエットなどはどうだろうか。ここで原田と加藤は、これ見よがしに舞曲の味わいで、手際よくウィーンを象徴するような「へま」はしない。彼らがめざしたのは、むしろ、その徹底的な解体であったからだ。ブラームスもまた、その解体を印象づけるために舞踊楽章の典型的なイメージをひっくり返している。つまり、トリオに強いマイナーを挟むことで、主部における舞踊の軽やかなリズムや響きを見事に引き裂いてみせるからだ。すると、後半の主部ではページの破れめからトリオのマイナーが仰々しく姿を現し、全体を揺すぶる役割を果たすのだ。我々は、思わず居場所に戸惑う。自分がどこにいるのか、わからなくなるのだ。

終楽章はバッハからの引用で主題を構成し、対位法的な響きで全体を構成している。だが、これもまた、アイロニカルな意味を含んでいるのは間違いない。こうしてみると、この作品でブラームスがめざしたのは、時間の消失、もしくは、それに対する徹底的な懐疑であろう。その点で、先のドビュッシーとこの作品では照合しあうところもあるようだ。原田と加藤の演奏では、その消失はより上品に、丹念に生かされる。これもドビュッシーの場合と同じように、彼らは解体とともに再創造のイメージを大事に描こうとする。この場合、再創造とは何であろうか。それは、この作品のキーワードとなる仄暗さを、清爽なエネルギーによって克服するところにある。

だが、先の論述を思い出してもらいたい。原田は、ダイナミズムを音量には頼らない表現を貫いている。より大きなエネルギーを表現するためには、音量でそれを示すのが最も手っ取り早いのは明らかなのだが、彼にとって、そのような方法はいかにも下卑た、無味乾燥なものと感じられるのにちがいない。となれば、楽曲のもつエネルギーはより繊細な構造の対比。繊細で磨き抜かれた知性によって組み立てられたアーティキュレーションの、言葉にならぬ洗練をもってなされるしかないではないか!

【何十年ものの重み】

そして、原田と加藤は見事、このミッションを成し遂げてしまった。私は、思う。2、3回あわせて、ぱっと最高のものができてしまうような表現など、何程の価値もない。天才的な人ならば、それが驚くほど高いレヴェルでできるのだとしても、私はそのようなものに音楽の真実を見出すことはないだろう。それよりは、たとえ弾き損ないがあっても、この表現を磨き上げるには何度もやること、何週間も何ヶ月も、ときには、何年も、あるいは何十年も必要であろうと思わせるような演奏こそ、私を最高度に刺激するのである。原田の演奏は、特にブラームスのそれは、それこそ何十年ものの重みを感じさせる演奏であった。

原田禎夫というチェリストは、決して器用な弾き手ではないかもしれない。だが、その分、彼の積み上げてきたものは、確かに、手づくりの・・・よく鍛えられた響きとアーティキュレーションとして、聴き手の前に提示されるのである。この重々しい「作品」を前にしては、もはや我々はその仕事の前に、黙して敬意を示すよりほかにない。やや駆け足ではあるが、このような表現で、彼のリサイタルに対する感想をまとめたいと思う。

最後に、簡単にメンデルスゾーンの演奏について触れるが、この作品は前半の2曲と比べると、圧倒的に構造的な・・・つまりは、シンフォニックな響きをもっている。この解釈が、先の2曲と比べると、あまりに単純すぎる印象を残した。しかしながら、これは原田に対する批判というには、あまりにも明解ではない。特に両端楽章のアクティヴな音楽性については、もちろん、私も満足である。しかし、ブラームスほど完成した感じではないということも確かであり、この点を若干、差し引いて考えたいと思った。

【プログラム】 2012年3月29日

1、ドビュッシー チェロ・ソナタ
2、ブラームス チェロ・ソナタ第1番
3、メンデルスゾーン チェロ・ソナタ第2番

 pf:加藤 洋之

 於:東京文化会館(小ホール)

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