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2012年4月16日 (月)

津山恵 ソプラノ・リサイタル 奥様は女中!? with 宮本益光 pf:服部容子

【能面型 or 女ごころ型】

声楽家には、大きく分けて2種類のタイプがいると思う。一方のタイプは、いつ何を歌ってもフラットに結果を出すタイプの人で、ある意味では尊敬に値するが、その歌のもつ表情はゆたかでなく、いつも能面を被ったようなパフォーマンスしかできない人。もうひとつのタイプは、自分に合うレパートリーだけしか巧妙に歌うことができないが、その表情の変化はキャラクターや場面ごとにちがい、正に女ごころのように掴みようのない歌い手だ。

なんだって? この2つのタイプしかない?

もちろん、これは極論であるが、私にはそのように思えるのも事実だ。能面型の歌手と、女ごころ型の歌手と、いつもせめぎ合っているのがオペラの舞台なのではなかろうか。能面型の代表選手は、ヘルデン・テノールである。ワーグナーを歌うのに、場面ごとに表情が変わってしまってはどうしようもない。いつも一定の、強靭な歌声が、そのキャラクターの信念の強さを物語るであろう。真のヘルデン・テノールは、この能面のなかに名人・出目是閑吉満作のそれのように、多彩な表情を感じさせることができるのだ。一方、女ごころ型の代表選手は、やはりアジリタを伴うドラマティック・ソプラノだろう。マリア・カラスをはじめとするディーヴァの名前を思い出せば、我々はその表情のゆたかさを自然と思い描くことができる。

この2つのタイプの、奇妙に入り混じるコンサートを聴いた。この日の主役、津山恵はカラスと比較するのは無謀だが、女ごころ型の鋭い表現の変化をつけられる歌手であり、一方、相手役を務めた宮本益光もヘルデンなどではあり得ないが、能面型のカヴァリエ・バリトンでは特に著名な歌手である。今回は、あくまで津山によるリサイタルではあるが、宮本の出番も相応に多く、メインのペルゴレージの歌劇『奥様女中』では二役のみによる絡み合いのドラマとなるのだから、ほぼ2人によるデュオ・リサイタルといっても過言ではないほどだ。しかし、これほど個性のちがう歌い手どうしで、「2人は同じ」というわけにはいかない。

【隠された表情の少ない能面のつまらなさ】

正直にいえば、宮本によるパフォーマンスには、私はとても大きな不満を感じたのである。ブーイングするような性質のものでもないが、どうしても彼の表現には共感ができなかった。なんといっても、能面のなかでも特に表情の出ないものこそは私のもっとも忌み嫌うタイプなのであり、テノールなら福井敬がそれに当たるが、いつでも、何を歌っても変化がないということが、もはや長所とは言えないことに注意しよう。宮本は芸達者であり、それが彼の評価される理由のひとつでもあるが、それは歌そのものによる効果ではない。

オペラの凄いところは、たとえ歌詞が馴染みのない言語であっても、不思議とキャラクターの心情が表に出て、柔らかく聴き手のこころに届くことなのである。オペラの本懐とは正にそれであり、これを逸したところではいかなる優れた表現も虚しい。たとえ一流の俳優が、新たに厳しい研鑽を積んでそれなりに歌える歌手となったとしても、この俳優の演技力がオペラを引き立てるとは限らない。むしろ、その特技のゆえに、彼の歌の弱さがかえって鼻持ちならないものと受け取られる可能性さえある。例えば、アンナ・ネトレプコという歌手が世間的に圧倒的な評価を受けているにも関わらず、私にとっては、まるで子どものように見えるのはそのためだろう。演技の素晴らしい歌い手ほど、音楽面の充実がなによりも課題となる所以である。

宮本も彼のもつあらゆる種類のパフォーマンス・スキルに対して、歌の表現力があまりにも劣っている歌い手だと見做さざるを得ない。彼がいろいろな面白い演技をすればするほど、私は、自分が馬鹿にされているような想いをするのだ。それは今回の演目が、大体においてブッファに偏っているからでは決してない。私は質の良いロッシーニのドタバタ劇をみたときには、もちろん、まったく馬鹿にされているようには思わず、そのバカ騒ぎに隠された真実をひしひしと感じるものだ。ちがいは、どこにあるのであろうか。それはやはり、宮本の歌がいかにもつくりのわるい能面にすぎず、そこに隠された表情が僅かしかないことに尽きると思うのだ。

【訳詩家、舞台構成作家としての宮本】

しかしながら、訳詩家、舞台芸術プロデューサーとしての宮本には、もっと豊かな才能を認めてもよい。彼はペルゴレージのよく知られたブッファ劇『奥様女中』を日本語に訳し、レチタティーボなどを大幅にカットして、40分くらい(通常は10分くらい長い)にまとめた。このエディションは非常に素晴らしく、オペラそのものの言語性やリズムの味わいを十分に保存しつつ、日本語を意訳的に当て嵌めている。その面白さをシンプルに引き出し、かつ、キャラクターの心情を面白おかしく、わかりやすい形で描写するという意味では、非常に大きな成功を収めている。

また、同じような文句が劇の要所で用いられることも上手に拾っており、作品が既に、交響曲的な構造の萌芽をみせていることがわかるはずだ。このようなところから、訳詩家で歌劇構成作家としての宮本の高い見識は窺えようというものである。

【歌手のタイプがもたらした独創的な舞台】

さて、先述のように「変わらない」歌手、宮本が歌うウベルトと、逆に、「変わる」ことそのものに本質があるといっても過言ではない歌手、津山の歌うセルピーナが組んだ舞台『奥様は女中!?』は、意外な味わいを生むことになる。そこにはセルピーナの行動云々にかかわらず、まったく変わらないウベルトがいた。プロットからみれば、ウベルトはセルピーナに謀られて、あんなに嫌がっていた結婚に向かうことになってしまう。そこにはきっと、領主階級が浮ついた身分となり、かえって市民階級の勢いが壮んとなる時代の様相が描かれてもいるのであろう。領主は急げども何もできず、市民は呑気にココアを味わうというわけである。だが、今回はそのような意味で素晴らしい舞台ではなかった。

我々の前には、どちらかといえば、余裕たっぷりのウベルトがいたからである。ウベルトは、動かぬ。セルピーナは変わっていく。歌手の差が、これほどまでにプロットを揺るがしてしまうとは驚きである。ウベルトは、何も変わらぬ。彼は小さいころから手塩にかけたセルピーナのことをもとから愛していたし、セルピーナの行動が、それをハッキリと呼び覚ましただけのことだ。身分の差や性格の相違を、愛情の強さが凌駕するように。光源氏が紫の上を手塩にかけて、理想の女に仕立て上げているようなものだと考えれば、とてもわかりやすいのではなかろうか。

領主が育てたものは、市民のものだと当時の人々は考えたのかもしれない。なぜなら、領主(の富)を育てたのは、自分たちであるのだから。左派的な考えに基づけば、麦(セルピーナ)の刈り取りはなにをおいても、彼女自身の利益に帰すことが重要である。だが、津山と宮本の舞台は、もうすこし直接的で、しかも、僅かばかりに深い結論を導く。それは、麦の刈り取りは誰のためでもない、2人のためにあるというものだ。ペルゴレージが描いたものは、領主と市民の諍いや勢力争いではなく、その間の平和であるという信念に基づくのだろうか。軍人の幻影は、2人の間には無用のものである。争いは風船を針でつつくようにして、はじけて飛んでいく運命であろう。

【ステージ全体からみたセルピーナの合成】

舞台は最後ののんびりしたデュエットで幕が閉じるが、そこに至るセルピーナの変化をみていこう。実は、それは前半の演目に始まっていたとみることもできそうである。そこで津山が歌ったのは、モーツァルトの著名な歌曲2つと、『フィガロ』の伯爵夫人、そして、『魔笛』のパミーナとパパゲーナである。これらのキャラクターを合成していくと、どうもセルピーナの変化が追えそうなのである。例えば、無条件に夫を肯定する者として現れるパパゲーナの楽天性は、セルピーナのなかにも、同じような朗らかさとして見出すことができる。そして、伯爵夫人やパミーナの憂欝はウベルトを誘惑するときに使われる。嘆く女性ほど、美しいものはない。『すみれ』の世界観はウベルトの境遇からセルピーナを逆様に映し出し、『クローエに』の世界は大団円の愛情の交感を予告していた。

その種明かしは、第2部の始まるところで宮本が演技をし、第1部後半における津山の気ままな動きに文句を言いながら出てくるところだ。これで会場の人たちは、ステージ全体がここにつながってくることを知る。衣裳だけをみても、最初のゴージャスなドレスに始まり、多分、手づくりのパパゲーナの緑のドレス、オペラ前半で使ったスカイブルーのメイド服、そして、婚礼を象徴するクリーム・ホワイトのウェディング・ドレスまで4種類を使い分けたのであった。

オペラのなかにおいては、徐々に主人との関係が縮まるにつれて、セルピーナが気品を高めていくように歌われている。登場の場面では1963年発売のグリコのスティック菓子、プリッツの大きな箱を片手にするのを象徴に、すこし自堕落な少女のような感じも窺われる。「奥様」独特の横柄さもみられるが、それは幼い娘が母親のそれを真似るときのような感じにみえた。だが、主人との会話のなかで、少しずつ相手を籠絡していくときの雰囲気から、セルピーナは一挙に「オンナ」の要素を強めていく。劇の後半の始まりでは、セルピーナは完全に一個の女性となり、結婚へのつよい意志をシャッキリと示す。

軍人姿となった使用人を間に挟んで、茶番劇が始まる。なお、使用人のヴェスポーネは通常、黙り役の俳優が使われることが多いが、今回はキャスターのついた姿見をそれに当てている。ただ、筋もなにも知らない人には、2人がふざけ合っているようにしか見えないだろう。それもまた、一興であろうか。軍人姿となるときには、顔は風船でナポレオンのような帽子を被り、ベルトを巻きつけて帯剣し、黒いマントを下げるという風情になっていた。ウベルトが不穏な台詞を吐くと、セルピーナがこれを揺すぶって威嚇するという感じで劇は進む。結局のところ、ウベルトは結婚を承諾する。すぐにネタばらしがなされ、ウベルトも事情を知るが、はじめからセルピーナのことを好きだったのだから、それほど怒りはしない。宮本のウベルトでは、このあたりに説得力がある。

エピローグで、婚礼のシーンがつくられる。ウェディング姿で現れるセルピーナは、もちろん、スープレットの愛らしさは失わず、かつ、この上もなく高貴である。のんびりしたフィナーレのデュエットは、今回の演奏ではこころなしキビキビとした感じで進み、ピアノ伴奏のつくる密度が2人の歌を緊密につくりあげる。歌の最後ではブーケが投げられ、会場に向かって飛んだ。

【モーツァルトのパフォーマンスについて】

前半は既に述べたように、モーツァルトである。宮本単独によるアリアは、どちらも味わいに欠けるのは先の説明のとおりで、特に、パパゲーノのそれが面白くない。津山は、特に伯爵夫人のアリアと、パミーナのアリアが同じくらいに素晴らしかった。いまの彼女の声にもっとも相応しいのは伯爵夫人のそれ(Dove sono i bei momenti)であるが、細かいエラーがすこしだけ聴かれる。ただし、それは彼女が非常に絞った声で、自ら細い道を選んだ末のことであり、歌全体の味わいを幾分たりとも傷つけるものではないことを断言しておく。

最近の記事でも書いたが、ほんの数日で完成し、100回歌っても同じにできるような音楽など、私には興味がない。むしろ、いつも少しでも油断すれば、表現からはみ出てしまうような解釈にのみ、私は立派な個性を認める。宮本の場合は確かに、100回やって100回うまくいくような安定感であるが、歌の歌詞や状況がわかっていないとすこしも楽しめないように思われる。そこへいくと、津山の場合は彼女の進む困難な道に私たちは息を呑むことになり、その集中力のなかで、キャラクターの年齢や境遇、心情が、すっしりと歌に載ってくるのを実感として受け取ることができるのだ。

ところで、パミーナのそれもそうだが、津山の場合はマイナーの歌で深みが増し、特に良さが出る。それだから、後半のスープレットの明朗さが輝くとき、我々は若干の驚きを感じたものだ。ただ、全体が素晴らしかったわけではない。特に最初の2つの歌曲には陰影が不足し、どこかコンペティションの予選のような雰囲気が漂う。もちろん、それは雰囲気だけのはなしであって、技術や表現力は明らかにコンペ・レヴェルを超越したものであるのは明らかで、独特の気品が漂っていた。それをさらに高貴に生かすことは、彼女の場合、もちろん可能であろう。ただし、この問題はリサイタル全体をオペラとして工夫した、その意図のなかでみられるべきであることにも留意は必要だ。

【結び】

休憩を含め、90分くらいのライトなコンサート。オペラ・アリアを中心にリサイタルを組むのは、実はとても難しいこと(エネルギーを使うが、前後の脈絡がなく、1曲ごとの時間も短い)だが、津山は芸達者の宮本をもう一方の主役に立て、上手に立ちまわったといえそうである。

アンコール・ステージを日本歌曲で締めるのは、いかにも二期会の歌手らしい。小林秀雄の「すてきな春に」という曲で、ゴージャスに締め括った津山である。ただ、「歌曲」というよりは「演奏会用アリア」であるこの曲も、津山にかかるとリートのような言葉の味わいが優先するのだから面白い。テクニックは最後まで秘めておく感じで、つまらぬものも露出すれば売れる時代、つまり、見せびらかしも全盛の時代のなかで、その歌いくちがとても上品に思える。なお、小林秀雄は1931年生まれの作曲家で、特に合唱の世界で有名な人物と認識している。

【プログラム】 2012年4月15日

1、モーツァルト すみれ
2、モーツァルト クローエに
3、モーツァルト もう飛ぶまいぞ、この蝶々
4、モーツァルト スザンナは来ない・・・楽しい思い出はどこへ
             ~以上、歌劇『フィガロの結婚』
5、モーツァルト 恋を知るお方ならば
6、モーツァルト 愛の幸せは永遠に消えて
7、モーツァルト 可愛い娘か女房を
8、モーツァルト パ・パ・パの二重唱
             ~以上、歌劇『魔笛』
9、ペルゴレージ 歌劇『奥様は女中!?』
 (宮本益光による邦訳版/演出:中村敬一)

 Br:宮本 益光 pf:服部 容子

 於:津田ホール

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