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2012年5月17日 (木)

ラザレフ チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」 日フィル 杉並公会堂シリーズ 第1回 5/13

【近代的な軋みのなかで】

ロシアは、大雑把な国だ。それなのに、社会主義や計画経済に乗り出してみたりするから、見事に失敗するのも止むを得ないことだ。もちろん、ロシアという国の政治について私が知っていることは少ない。レーニンもトロツキーも、まして、スターリンなんてよくわからない。フルシチョフにブレジネフ? 挙句の果てに、プーチン独裁。よくわからぬものをわかったように言うのもみすぼらしいが、強かなロシアの世界戦略なんて、どうみても張子の虎ではなかろうか。ラザレフの音楽が、それを語っているのだ。ロシア、あるいはロシア人の音楽の特長とは、彼らの好むあのつよい酒によく似ている。ピアニストのアファナシエフがロシア楽壇の腐敗の象徴として、音楽劇『展覧会の絵』のために持ち出したお馴染みの酒、ウォッカのことだ。

あの酒をぐっと引っかけたとき、もう、すべてを忘れてアタマがキーンとなる強烈な感覚こそが、ロシア人の長所であり、短所でもある。強烈なフォルテとピアノ、もしくは、休符=静寂のコントラストのなかで、ラザレフが作り出した音楽は明らかに個性的であった。芸術の世界において、ウォッカ的な強烈さを作品に相応しい正当な味わいと結びつけて発揮するためには、実は高度な知見と経験、それに基づく技術の圧倒的な裏付けが必要である。例えば、ムラヴィンスキーやスヴェトラーノフの音楽は、そういう形で支えられたのであった。そして、こうしたものはしばしば、国家や政体のつくる不自由な軋みのなかで、人間の魂の奥底へと直に呼びかけるメッセージとして、その本領を発揮した。

不自由な軋み。それは明らかに不幸ではあるが、それでも、音楽家にしてみれば、現在の「自由」・・・つまり、オーケストラを統合したり、潰したりすることが平気でおこなえるような「自由」が溢れるような今日の状況と比べれば、はるかに満足な生活を送れたのかもしれない。面白いことに、不自由こそが芸術を育み、爆発させる可能性は高いものである。ラザレフは、そんな時代のロシアを知っているもっとも若い世代のなかに入るだろう。ラザレフにとってのロシアとは、そんなに整然とした世界ではないようだ。激しい混沌と秩序のコントラストのなかで、不安定と低い生産性に喘ぎながら、ときどき、驚くように素晴らしいモノが生産されるというダイナミズムのなかに、ラザレフは生きてきた。むしろ、その近代的な軋みのなかにこそ、ラザレフは彼の音楽の本質を見出しているのかもしれない。

今回の日フィルとのチャイコフスキーとグラズノフは、そういうことを思わせる強烈なコントラストによって、はっきりと色分けされた。若干、粗っぽいところがあるのも否定はできない。ラザレフの音楽はスタイル的には私の望むようなものとピッタリ合っているとは言いがたいし、むしろ、構えてしまうようなタイプの音楽づくりであるにもかかわらず、それでも、私を絶えず魅了してやまないのはどうしてだろう?

【独特の古さに基づく演奏】

今回の「悲愴」交響曲は両端楽章が重要で、中間2楽章は間奏曲的なものと言ったラザレフの表現どおり、確かに、今回の演奏は、両端楽章の重さで中間2楽章を押し潰したような、窮屈な形になっていた。響きの面では非常にしっかりしたものを構築してはいるのだが、中間2楽章はいわば、この作品の放つメッセージから除外されている。良く言えば、純粋に音楽的なのである。特に、第3楽章はスケルッツォとしての機能が最優先され、響きのバランスの不安定さを、あの強烈なサウンドが象徴するように感じさせたものだ。

私は常々、チャイコフスキーの交響曲第4番以降、3曲の交響曲は実質上の「戦争交響曲」としてみられるべきだと考えてきた。東欧の覇権をめぐるトルコなどとの血みどろの争いが、チャイコフスキーの音楽を、それ以前の文学青年風の柔らかなものから転換させてしまった。4番以降のマーチはより前線の緊張感にちかく、リアリティが高い。交響曲第5番の終楽章では戦地から帰ってくる兵士たちと、それを迎える家族(女たち)の喜びが表現されている。6番ではチャイコフスキーがこうした時代背景と、自らの複雑な身辺「悲劇」を出会わせることに成功した。

例えば、スケルッツォとマーチから成る第3楽章は明らかに戦場の描写であり、むしろ、このシンフォニーの本体であるはずのものだ。対照的な第3楽章と第4楽章は明らかに一つながりの関係性をもち、終楽章は第3楽章の結果としてみられるだろう。テミルカーノフのような指揮者なら、アタッカでつなげてもおかしくはないところだ。

ところが、ラザレフの見方はちがっていた。彼によれば、この作品は終始、チャイコフスキーの自己表現としてのみ生きているのであって、ただ影のようなものとしてのみ、時代背景が浮かび上がっている。このような見方のなかでは、第3楽章はむしろ構造的な重要性が高いのであって、そのスケルッツォ的な構造上の軋みに焦点を絞るべきなのである。ラザレフの演奏からわかることは、チャイコフスキーが、グラズノフのような非常にアクのつよい新派の音楽家と比べれば、はるかに古典的な教養に基づいた古いタイプの音楽家ではないかということだ。その象徴は第1楽章の初めに集中し、ここでは、もはや響きのみがすべてというグラズノフの音楽と比べれば、ずっと大人しい構造上の落ち着き、つまり、対位法的な視点が濃厚である。

導入部のコントラバスにプローヴェでは30分もかけたというラザレフだが、一般的な録音では大抵、クラリネットの響きにしか焦点があっていないものだ。スポーツの世界でよく言われるように、練習は決して嘘をつかない、というのは本当である。ついでに言っておくと、ヤマほどの音楽会に足を運んできた私なのに、この作品の演奏を生で聴くのはこの日が初めてだったかもしれない。この「悲愴」シンフォニーは「名曲」のイメージがあるものの、その暗鬱なテーマのせいか、意外と演奏機会が少なく、それも、私が認めるマトモそうな演奏会となれば、それはもっと数が少ないからだ。それはともかくとして、こうして生で、しかも、ラザレフの指揮で聴いてみると、序盤の対位法的な性格はよりハッキリと見て取れる。

【超人的な新しさ】

だが、その範疇にずっと安住しないのが、チャイコフスキーの凄さである。こうして意外な古さのなかから始まった演奏であるが、おわるころには、もはや、彼の音楽はマーラーの「先進性」や、プロコフィエフやショスタコーヴィチによるモダーニズムを、エレガントに先取りしているのは明らかであった。プレトークでラザレフは、チャイコフスキーがもうすこし長生きして、ストラヴィンスキーらの活躍する時代まで生きていたとしたら(もうすこし注意さえ払えば、それは可能だったろう)、彼がそうした新しい音楽をどう見るか、作品を通じてわかったろうにと発言していた。いまの視点を加えれば、ラザレフの発言には頷けるところが多い。

チャイコフスキーはその後のロシアの音楽、あるいは、スラヴ系音楽の一大潮流をすべて先取りするような要素をもっていた。ちょうど、イタリアにおけるロッシーニのような地位に、チャイコフスキーを置いてみることができる。彼らはいずれも、歴史的に通俗的な作曲家と思われてきたし、それを素直に信じている人も多いが、これは誤った、限定的な、一面的な見方にすぎない。ラザレフが知っているのは、そうして矮小化されたチャイコフスキーの姿ではなく、古典的な凝縮から、敢然と斬新な音楽性へと羽ばたいていく古さと新しさの壁を超越した、一種の超人の姿なのである。

【超人の発する電流の衝撃】

そして、超人というものには、もう、すこし触っただけでも、恐ろしい電流が走るものである。特に、第4楽章冒頭の衝撃について、私は率直に驚きを感じたことを報告したい。

スケルッツォの軋みの荒々しい表現を経て、我らが日フィルにはすこし間をとらねばならない事情があった。第3楽章の後半で、ひとり、ヴァイオリンの後ろのほうのプルトの奏者が退場していた。それはコンマスを務める木野のヴァイオリンの弦が切れたせいであり、回ってきたヴァイオリンを裏に持ち込んで、弦を張り替えるためであった。アタッカでも通じるような2楽章が、こうして分断された。張り替えには時間がかかり、チューニングも入って、事情止むを得ぬとはいっても、雰囲気はいったん冷めかけたものだ。この事態から、もういちど響きを立て直すのは大変だろうと思ったのは、私だけではないだろう。

ところが、弦楽アンサンブルによる嘆きは最初のほんの数音で、そんな私を即座に異世界へと浚ってしまったのである。

ラザレフは、一体、何を考えていたのだろう。またこの話になってしまうが、昨年の3月11日、私はラザレフの指揮でプロコフィエフの『ロメオとジュリエット』を聴く予定になっていて、そのために休みもとっていた。彼はあのとき、日本にいた数少ない指揮者だ。そして、日本の現実をしっかと見つめ、原発問題が起きてもキャンセル騒ぎを起こすようなことはなかった(キャンセルはあったが、それは腰痛によるもの)。彼の得意とするバレエ音楽の演奏を聴いて、嗚呼、あのとき、プロコフィエフが聴けたらどんなに良かったろうかと想像した。それはつまり、その演奏会が聴きたかったからというよりは、あの地震や津波がなかったということにつながるせいである。

新しい本拠地公演「杉並公会堂シリーズ」の初回に、ラザレフは、どうしてこんなプログラムを組んだのだろうか。あのときと同じジャンルのバレエ音楽、そこには一時期のボリショイを支えた彼の矜持があり、『ライモンダ』という曲目には、その楽天的な能力の発揮が見込まれた。これにあわせるに、ラザレフが選んだのは「悲愴」である。それを静寂の音楽と、彼は呼んだ。その「悲愴」は我々をいまもって包むあの哀しみ、たとえ家族も友人も、身近な人の誰もが関係しない人にとってさえ、放ってはおけない重大な「他人事」と無関係なのであろうか。

この作品を「戦争」交響曲とみたときに、順を追ってやってくる構造的な哀しみの到来に、ラザレフは納得がいかなかった。彼がイメージしたのは、もっと突然、予期せずにやってくる、準備のしようがない哀しみだ。必ずしも今度の震災と結びつける必要はないが、そのような「悲愴」のなかにこそ、ラザレフは音楽の本質があると思った。正に死の白鳥が羽ばたくような、ラザレフの指揮を私は忘れることができないだろう。そこから導かれて、私を一瞬にして地獄の入口に立たせたあの衝撃も! 私は、涙が溢れた。その後の音楽は、これを和らげるものでしかない。匹敵するものは、演奏がおわったあと、まるで永遠のようにつづいた静寂のみである。

【静寂の意味】

私はこみ上げるようになって、いつかも、こんなことがあったと思い、デジャヴーを感じた。既に述べたように、「悲愴」は聴いたことがなかったのだが、よくよく考えてみると、これと同じような体験をしたことが確かにあったのだ。それはシューベルトの「未完成」交響曲を通常の倍の時間をかけて、アファナシエフが指揮したとき(新日本フィル)のことである。その曲目は偶然というべきなのか、ラザレフがプレトークで、「悲愴」と似たような独創性のある曲として挙げたものであった。そのときはすこし疑問も感じたのだが、ここでハッキリと共感することを得た。2つの作品に共通するのは、作品が全体としてはもう立派に完成しているのに、それでも、作者がずっと作りつづけているような、そして、もはや成し遂げられることはない、そういう魂の永遠性・・・あるいは、満ち欠けのある普遍性である。

また、2人のロシア人(ラザレフとアファナシエフ)の間には、「静寂」を作品の本質と見做す点で共通点があった。

響きがいつの間にか消失し、低音弦だけの「モノローグ」となったとき、さらに、それが深い静寂へと呑み込まれて空間を厳しく支配したとき、なぜだか、私はとても活き活きした感覚を覚えたものだ。ときに、この場面を「死」というキーワードで語るのは簡単なことかもしれないが、私はその言葉ほど、今回の演奏に相応しからぬものもないと感じている。むしろ、私が感じたのは、ここからあくまで生き続けるというチャイコフスキーの意志であった。永遠の命・・・それが神に与えられたもので、死後も最後の審判まで保存されるという宗教的な世界観とは無縁なところで、独自に・・・音楽的に考えられた永遠である。それは究極のソナタ形式であり、静寂=虚無の連環でもある。このことを気取らずにいえば、「おわってほしくない」という単純な願いに行き着くのであろう。

私はそこで、リヒャルト・シュトラウスの歌劇『ばらの騎士』に出てくるマルシャリンの願望を思い出していた。私は常々、言っている。この作品は高潔な女が若い者たちの恋路を尊重し、潔く去っていく格好よさを描いたものでは決してないのだと。むしろ、そうした格好の良さにしがみにつき、体面を守らねばならなかった人たちの嘆きの歌、あるいは、未練たらたらの情念のほうに本意があるわけである。チャイコフスキーもまた、ここで自らが守ってきたものが崩れ去っていくのを惜しんで、自分だけがつくれる永遠のなかへと、響きを閉じ込めてしまった未練の人なのであった。だが、その作業は彼にとって嬉々たるものであり、楽天的である。死と隣り合わせではあるが、それでも楽天的に変わりはない。

ラザレフがなぜ、舞踊に対する耽美主義の頂点に位置するような『ライモンダ』をチャイコフスキーと組み合わせたかについては、ここにも根拠があるように思えてならない。このバレエ作品は一応、物語バレエではあるものの、十字軍後期の英雄、ジャン・ドゥ・ブリエンヌとかいう名前はただの飾りものにすぎず、文学的な面白さはほとんどないといっても過言ではないほどだ。その本体となっているのは、なんといってもグラズノフのつくる音楽の強烈な個性であり、その華やかさと鋭さである。これまた最初の音のインパクトで、ラザレフは早くも豪華絢爛な舞台のなかに聴き手を巻き込んでいく。第3幕への前奏曲で始めた意図は、正に、このバレエの特長をほんの数秒で語ることができるほど、インパクトがつよい部分だからにほかならない。

対照的ともいえる素材を提供する2つの音楽が結びつくのは、やはり、その光の部分においてである。明暗というちがいこそあれ、2つの作品が示しているのは音楽に対する、作曲家たちの深い信頼ではなかろうか。究極の美と絶望を、ともに受け容れる音楽の深み。もしもそれがなかったら、例えば、チャイコフスキーの場合などは、自殺でもするよりほかになかったところであろう。実際、ラザレフもすこし言葉を濁して言ったように、チャイコフスキーはわざと汚染された水を飲んで死んだという説もある。その真偽を私が判断することはできないが、次のようなことはいえる。

本当に死にたい人が、「死にたい」と口にすることは少ない。彼らは、黙って死んでいく。それだけに、周りの者はなお辛いのである。

チャイコフスキーの「悲愴」は、明らかに「表明された絶望」だ。これがある限り、私はチャイコフスキーが自殺に至るようなメンタリティで作品を書いたとは思えない。このように書いてくると、私はどうしてもベートーベンのことを思わずにはいられないのだ。これも再三、書いていることだが、いわゆる「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたとき、ベートーベンは完全に死の危機を克服していたと思う。例えば交響曲第5番には、いささかも死の影はないだろう。絶望が表明されたとき・・・それは、絶望が克服されたときなのだ。逆に、克服されない絶望は隠蔽され、内部化し、その人のことを内側から蝕んでいく。チャイコフスキーのこの交響曲は、その絶望的なテーマ(雰囲気)にもかかわらず、我々に力を与える。これは、ベートーベンの「運命」交響曲と同じ作用である。

哲学的な読み込みが、いささか行き過ぎたであろうか。しかし、演奏スタイルに対するいささかの懐疑と、それにもかかわらず感じられた深い感動と、これらの矛盾について、私は関心を抱いていたから、これでよいのである。

【補足:第4楽章後半のバランス】

第4楽章の後半、主部が再帰するときのバランスについては、改めて書いておきたい。そこでは低音弦が低く抑えられ、最初の容赦ない悲劇性が薄められており、高音弦が浮き上がったような印象を残す。これは具体的なエピソードから、単に音楽的な響きへの純化を示しているのかもしれない。力が籠められ、低音弦とその他の重い楽器が不意に支えを厚くする場面から、真の頂点に到る過程では、この作曲家の新しさや大きさを、容赦なく感じさせるリアリティがきつかった。それはもはや、戦争とか恋愛とかの具体性から完全に自由な「悲劇」の誕生であり、人間的な具体性からはまったく自由な具体性の獲得であった。

最後のフィナーレを導くホルンの響きは、1つ1つ独立に静寂と組み合わされている。その場面でホルン奏者の吹き方がイマイチ甘かったのは、確かに評価できない。しかしながら、そのことで演奏全体のクオリティが損なわれるということもなかった。

グラズノフについては好きな演目でもあり、ラザレフの熱意が厳しく発揮された演奏でもあったので、本来はもっと手厚く触れたいところだが、その想いを抑えて長文を締めることにしよう。

【日フィルの危機について】

なお、日フィルはいま、非常に切実な危機に直面している。それは負債が残っているために、国の定める「公益財団法人」への移行が難しくなっていることである。2013年11月を期限とした公益財団法人への移行ができない場合、日フィルは公的な資金補助を受けられなくなる可能性が高く、オーケストラとしての安定的な運営が難しくなってしまうのだ。来シーズンのプログラムをみると、緊縮的な予算のなかで、活動の質に早くも暗雲が垂れ込めているのを感じざるを得ない。私はこの内容をみて、とても共感できないと思った。日フィルの運営当局は、もっと知恵を絞るべきである。

しかしながら、このファウンディングは決して失敗が許されない。私としても、この事実をできるだけ多くの皆さんにお伝えすることが必要だと思っている。

【プレトークの映像が公開】

さらに、この演奏会の冒頭におこなわれたラザレフによるプレトークが、投稿動画サイトにアップされている。プレトークとしては異例なほど濃厚な内容で、チャイコフスキーとグラズノフの話題を中心に、ロシア音楽の発展に触れてラザレフがほぼ1人で喋りつづけた20分弱の映像は、なかなか貴重なものではなかろうか。楽団のオフィシャルサイトからリンクされているので、ファンドの件とあわせて覗いてみて頂きたい。

そのなかでは、次回、グラズノフの『四季』が取り上げられることが予告されていたりもする。実現すれば、ロジェストヴェンスキー&読響以来の快挙である。

【プログラム】

1、グラズノフ バレエ音楽『ライモンダ』(抜粋)
2、チャイコフスキー 交響曲第6番

 コンサトマスター:木野 雅之

 於:杉並公会堂(大ホール)

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