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2012年5月 3日 (木)

エリシュカ ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」 ほか 札響 548th 定期演奏会 4/28 ②

【回りくどさと寄り添うために】

今回の「新世界」交響曲の演奏は、4つの楽章すべてに印象的な部分があった。エリシュカの指揮する同曲の演奏は既に2度体験しているのに、そこから逆算した予測が次々と裏切られていくのには驚いた。そのなかでも、私の記憶は、とりわけ中間の2楽章に凝縮している。

今回の演奏でエリシュカが特にこだわったのが、響きの精確な保持である。吐き捨てるような表現や、気紛れな響きの伸縮というのは極力排し、スコアで与えられた拍をきっちりとること。一見、教科書的なこの配慮が、ドヴォルザークの作品に思わぬ味わいを生むことに、私は目を丸くしたものだ。その効果のなかで最大のものは、前の記事で述べたように、第2楽章の後半、再現するイングリッシュ・ホルンの旋律が室内楽の響きを導く部分であった。そのことについて改めて繰り返すつもりはないが、この楽章は全体的に保持が深く、テンポ感はこれまでの(エリシュカの)演奏と比べてもひときわ遅かった。

遅いだけではなく、歌い方も素朴きわまりなく、このセットで第2楽章すべてを聴くのだと思うと、いささか不安がつきまとった。東京フィルの演奏会のときのレヴューで、私は「作品が含むメッセージに対して、やや長すぎる」という点で、作品の中間2楽章に対する印象を述べたものだが、エリシュカはその懸念を真正面から覆らせてみせたということを、これから述べたいと思っている。つまり、好き嫌いということでいえば、私にとって好ましくないスタイルではあったが、エリシュカはそうした好悪を越えた演奏で、私たちを酔わせてしまったのである。

その導入に無限の役割を果たしたイングリッシュ・ホルンの素晴らしいソロと、その後のフォローについては、既に前の記事で述べたとおりだ。その響きにはカンタービレの意識も希薄ではないが、むしろ、そうしたものに還元しきれぬ響きそのものがもつ味わいの深さに注目した、ある種の素朴さが印象的なのである。これまた前の記事で、エリシュカはラルゴ楽章に「1年前のあの悲しい出来事への想いを託した」と断言した私であるが、決して、そのメッセージは初めから声高に、わかりやすく、煽情的になされたわけではない。むしろ、そうした感情に一枚一枚フィルタがかかっていき、この楽章の真のクライマックスである室内楽部分に到るまでに少しずつ透明度を増した響きが、ついに我々のこころを氷解させるというマジックを経てのことであった。

つまり、エリシュカの演奏は作品の回りくどさと寄り添うようにして、あくまで少しずつ発展していくのである。

【室内楽的なコンパクトな美観】

中間部においては管の印象はひとまず後退し、今度は弦のバックに強い焦点化が窺われる。ここで注目されるトリルなどにおける響きの伸縮の見事さは、今回の演奏で特に印象に残るもののうちのひとつだ。その柔らかく、弾力に満ちた響きの生命感は、正に響きが生きもののようであって、この超人間的な・・・あるいは野獣的な、といったほうが適当な・・・響きの面白さこそは、この冗長な楽章を高山に咲く野の花のように彩って、私たちのこころを楽しませたものである。これと木管楽器のこれも鳥獣の呻きのようなアンサンブルの対話が、不思議な自然(ネイチャー)旅行のなかへと聴き手を誘い込んでいく。

この温かさのなかにさえ、エリシュカはいくつかの謎を仕込んでいる。それは再びイングリッシュ・ホルンが主題を吹く部分で種明かしされ、例のパウゼによって、そのメッセージのすべてが明かされることになった。しかし、その謎自体は、アンサンブルの漸次的な静かなる発展、つまりは、室内楽的に繊細な響きの構築の上に成り立っている。KITARAというホールのアコースティックも関係しているのか、エリシュカはあくまで室内楽的なコンパクトさのなかで、丸みを帯びた表現を志向した。

【両極端の真実から発想するエリシュカ】

舞踊楽章はエリシュカ&札響の組み合わせでは特別な味わいがあり、いつも楽しみにしている。しかしながら、この日の演奏は「舞踊楽章」というよりは、もっと深い緊張感に満ちたものであり、ブラームス的な・・・ということはベートーベン的なスケルッツォに、これまででもっとも接近した演奏といえる。その響きは舞踊楽章的な拡散よりは、より深い凝縮へと向かっているが、それも単純なまとまりではない。その自由な歌いまわしはなかなか言葉では表現しにくいが、徒っぽくはなく、全体にすっと染み込んでくるような響きの丁寧さにこころ惹かれるものがあった。

とりわけ、息の長いクレッシェンドを粘りづよく盛り上げ、たっぷりと膨らましていくときの全体のアンサンブルの均整のとれた動きは、札響が精神面ばかりではなく、技術面でもふかく成長したことを感じさせるものである。この非常に見通しの良い起伏のイメージは例えば、ロッシーニ・クレッシェンドの表現などに有効であろうが、もちろん、ドヴォルザークにおいてはもっと長閑な味わいへと通じていく。ドヴォルザークという作曲家は独特で、こうした長閑さと、ドイツ音楽的なズッシリした緊張感と、両方を同じ曲のなかで要求しているのである。これらの両極端の(現代人にとっての)手本としてはそれぞれ、ヤナーチェクとスメタナが位置しているのであろうが、ドヴォルザークはむしろ、両極端の要素を自由自在にワープして音楽をつくっているのが信じがたいところである。そして、エリシュカが素晴らしいのは、この両方の要素を「真実」のレヴェルで把握している点にあるだろう。

【凝縮と遊び】

なお、ここにいう真実とは、音楽家としての知見と経験から導かれる知恵と、それを引き出す具体的な技術の総称である。このモルト・ヴィヴァーチェ楽章などは、エリシュカの至芸をハッキリと感じさせるイメージの凝縮と、それとは対照的な遊びの美学の総決算である。

ドヴォルザークにおける遊びの要素は多様だが、特に汽車と航海に関するものは、この作品のなかで欠かせないモティーフである。作曲家が鉄道マニアであったという下知識を応用するわけではないが、汽車のイメージは第1楽章と、第4楽章の最後の部分で、やはり印象的に作品を彩っている。その推進力が作品の流れを推し進める第1楽章は、ベートーベンの「田園」交響曲と対をなすものであろう。

一方、第4楽章は汽船のイメージが先行し、私の感覚では「新世界」交響曲とは言いながら、ここにおいて、ようやくドヴォルザークは「チェコを離れた」という印象をもつところだ。中間楽章には異文化との出会いも示されているが、決して、その要素ばかりが匂い立つわけではなく、私の感覚では、巨匠は発つぞ、発つぞと言いながらも、なかなか腰を上げない人のように思えるのである。そこにあるのは、未だ「新世界」とは無縁な、あるいは、チェコそのものに「新世界」をみる巨匠の姿であるのかもしれない。ところが終楽章に到り、ついに、序奏の激しい響きで、彼がとうとう洋上に出たことがわかる。

そういえば、エリシュカが札響の首席客演指揮者として迎えられたときの根拠のひとつは、リムスキー=コルサコフ『シェヘラザード』の演奏だったと記憶している。海は、札響とエリシュカの絆を結びつけた大事な要素であった。老翁の母国=チェコは沿岸国でないが、エリシュカの「海」はそれだけに謎めいている。この海を支配するように対位法が周到に組み込まれ、しかも、これを見事にぶっ壊して自分のものにしてしまうのがヤドカリ作曲家=ドヴォルザークの真骨頂である。この自由な形式の遊びも、エリシュカの演奏を素晴らしく引き立てるものだ。

新世界が海によって象徴されるとするならば、ドヴォルザークの魂は、いつも汽車とともにあった。そして、それはきっと、新大陸にも血脈のように張り巡らされていた。新大陸における鉄道交通は1830年代から世界に先駆けて始まり(母国=英国からの技術移転であろう)、ドヴォルザークの晩年あたりから著しい発展をみせたという。交響曲はこの汽車のイメージで、つなぎ合わされる。

最後、弦の高音の響きが汽車の動きを象徴し、アメリカの発展を力づよく印象づけることになる。最後のクライマックスのあと、響きは萎んでデクレッシェンド+フェルマータでおわることはよく知られているが、これはもちろん、汽車が走り去っていくときのイメージであろう。そして、これは曲のおわりというよりは、その継続を示しているように思われないだろうか。もちろん、楽曲はこれで閉じられる。そして、このあと、ドヴォルザークが書いた交響曲はない。彼はこの日、演奏された『野鳩』を含む交響詩群を経て、『ルサルカ』『悪魔とカーチャ』『アルミダ』といったオペラの創作に傾いていくからである。では、あそこでドヴォルザークが示した継続とは、一体、何だったのであろうか。それはわからぬが、ドヴォルザークの魂の旅は刺激多い「新世界」を経てもおわらなかったということだけは確かである。

その問題はともかくとしても、第4楽章はすべての理屈を捨て、札響らしい伸びやかさが生きた演奏で、まったくもって愛らしく、感動的なものであった。特に、最後の汽車のイメージの鮮やかさはこころに残るものである。わからぬものであるからこそ、いっそう、私のこころのなかに彫り込まれたこの「謎」を、私は大事にしていきたいと思う。

【スケルッツォ・カプリツィオーソ】

さて、前半2曲にも、まったく触れないというわけにはいくまい。1曲目は『スケルッツォ・カプリッツィオーソ』で、交響曲なら第6番と第7番の間に当たる1883年の作品である。ブルックナーの弟子といってもよい歴史的な名指揮者、ニキシュによって広められたという。私はノイマンの全集で親しんでいたが、久しぶりに聴いてその記憶が蘇った。非常に楽天的な明るい解釈で、伸びやかに翼を広げる札響の演奏は、そのくせ大味にはならず、繊細なアンサンブルを彫り込んで見事なものであった。例えば、木管楽器のソロを弦がコートするような場面では、木管の響きがすこしも毀損されず、弦のプレゼンスも相応に保って、その上で謎めいた響きがなんとも美しいバランスを組み上げていたことなどが印象に残る。

後続世代の天才、リヒャルト・シュトラウスを思わせるホルンのおどけた主題に始まり、正に諧謔的な響きのユーモアと、そこに現れる多様な音楽的なルーツを感じさせるヤドカリ作曲家の本領発揮であろう。終盤、対位法的な部分から崇高な構築になりそうなところを気持ちよく蹴っ飛ばし、コーダではヨハン・シュトラウスのフィナーレを思わせるような構造的特徴ながら、その中身の音楽は紛れもないスラヴ気質。我が畏友のご教示によれば、こうした手法をモデリングと読んだ学者がいたそうだが、正に、そのモデリングの妙が快刀乱麻に飛び出した快演である。

ところで、私の知るかぎり、リヒャルト・シュトラウスとドヴォルザークの(音楽的)関係について論じたような文章はあまり見ないし、彼に影響を与えた人物としては、やはり、まず真っ先にワーグナーの名前が浮かぶところだが、若きシュトラウスが手本とした作曲家のひとりは、ドヴォルザークだったのではなかろうか。この作品に終始みられる印象の類似のほか、管楽セレナードの作曲、弦楽合奏による作品のスタイルなど、その創作にドヴォルザークと類似の発想がみられることがその主な理由である。また、同時にこのことが反証するのは、実は、ドヴォルザークがウィーン音楽の延長線上にありながら、彼独特の作風をコツコツと確立してきたという事実ではなかろうか。

【土のなかから響く野鳩の糾弾】

2曲目は、楽しみにしていた交響詩『野鳩』である。この演奏は私の予想とはまったく異なり、あまりに独特のものとなっていて驚いた。夫を殺してほかの男のもとに奔った妻、そして、野鳩になって彼女を糾弾する夫との対話がテーマの作品である。私はその野鳩による素朴な追及が、寓話の世界を越えて、支配されるチェコから帝国への糾弾として、鋭く響けばよいのかと考えていた。野鳩の視点による、あらゆる発想がこの作品を力強く彩るともみていた。ところが、エリシュカの演奏はもっと暗鬱なものだったのだ。

確かに、アウトラインは私のイメージともそれほど隔たってはいない。しかしながら、肝心要の野鳩のイメージがまるで違っていた。ここに現れる野鳩はドヴォルザークが愛したというそれではなく、明らかに冥界から派遣された特別の鳥である。彼が妻に呼びかけるのは止まり木の上からではなく、彼が埋められているであろう土の下からであった。この重い土のイメージが、ずっと作品を抑え込んでいる。その厳しさの上にのみ成り立つ、エリシュカの演奏なのであった。20分あまりを聴きとおすには、あまりにも重苦しい。だが、その重苦しさに真正面から向き合った演奏である。3曲のなかでは、やや完成度は低かったのかもしれない。しかしながら、エリシュカ独特のイメージというのをハッキリと感じ取ることができた点で、すこしも不満足は感じなかった。

特に、エリシュカが大事にしているのは、エピソードが豊富な作品であるだけに、その各部分が分断することなく、適度な絆を保っているということである。そして、その秘密は最後の明るさへの切り返しに向かって凝縮される。この反転は、決して「救済」というような代物ではない。死によって、過ちを犯した妻が浄化されたのではない。むしろ、死という現実によって、再び異質なものが寄り添って生きることになったときの違和感、そのバランスの危うさを表現しているとしか聴こえないのだ。そして、それは最後の薄いホルンの引き延ばしによって、決定的になっている。このことは、上に述べたような隠された政治的テーマと無関係ではないだろうが、もっと本質的な人間的問題を含んでいるようにも思える。

最近、樋口裕一先生もブログ上で仰っていたが、人間は、真にはわかりあえない。だからこそ、間違いが起こる。だが、ドヴォルザークはその間違いを宗教や倫理で規制するのではなく、また、それに基づく耽美性のありがたさをハッキリと宣言するのでもなく、その苦しみに黙って耐えることを選ぶのだ。いかにもチェコ人らしい発想であろう。

【まとめ】

こう考えていくと、この演奏会はとても深遠な意図で貫かれていたように思える。耽美的なウィーン気質、耐え忍ぶチェコ民族、そして、発想的にはそこから一歩も出ずに(地理的には大陸を渡ったが)「新大陸」を語った巨匠のユーモアについて。エリシュカ自身は、そんなことをすこしも考えてはいなかったのかもしれないが、彼の運転する鉄道の車窓からみえるものは、正に予想のつかない驚きばかりであった。

こんな幸せな体験が、いつまでつづくのかはわからない。それは彼と、その素晴らしい奥さんの健康が、そして、それをどこまで長持ちさせるかどうか、決めてくれる気紛れな神さまの裁量に任されている。彼は、アンゲロプーロスの命を、本当に皮肉なタイミングで奪ってしまうような、冷笑的な趣向をもってもいるようだ。その御心は常人にはわからぬものだが、しかし、次のようなことだけは言える。そのときが来るまで、札響は、エリシュカのことを自らの祖父のように大事にしつづけるであろう。そして、反対にエリシュカは日本で待つ孫たちのことを、分け隔てなく可愛がってくれるであろう。この稀有なる関係を、多くの人たちが体験すべきだ。北の大地で!

日本とチェコはあまりにも遠く、高齢者の移動に都合が良いはずがない。しかし、関係者はその遠さを必死に埋めてくれてもいるようだ。

おこがましい言い方だが、私が初めて聴いたときと比べれば、札響自身の成長も著しい。エリシュカによって注目度が高まり、その評価の素晴らしさによって、楽団員の顔がずっと引き締まってきたのではなかろうか。今回は、そのなかでも、管楽器の2番手の奏者の活躍に注目した。イングリッシュ・ホルンについては、再三、述べてきたが、今回の曲目では、「新世界」交響曲以外にも見せ場があった。フルートのセカンドも素晴らしかった。聞けば、この奏者は実のところ、最近までトップを張っていたベテラン奏者だという。若手がトップに移り、本人は後進に道を譲ってサポートにまわったということのようだ。1曲目では、バス・クラリネットが印象的な役割を演じる。これも、なかなかに見事であった。

質の良い管楽器の奏者は、そこらじゅうに転がっているものではない。こうした形で、コツコツした底上げが図られないことには、オーケストラのベースは上がっていかないのであろう。

まだまだ課題も多い管楽器群に対して、ストリングスのベースは札響のもつストロング・ポイントとして数え上げることができる。ひとつずつ階段を上がるように、エリシュカの企図した盛り上がりの構造を実現させるために、必死にベースを上げる札響の弦楽器奏者たちの頑張りには感動したし、そうしたところに指揮者と演奏者の一体感は如実に読み取ることができる。エリシュカのもつ職人的なアビリティが、こうした奏者の努力によって支えられているという事実は重要だろう。そのほか、既に述べたような弾力的な響きの伸縮の見事さ、ときには、オルガンの響きを思わせるような高貴さまで身につけた。後者は、前回の『スターバト・マーテル』の成果であろうか。

【新しいステージへ】

これらの要素は決して、チェコ音楽のみに有効な手練手管ではない。ドヴォルザーク、ヤナーチェクといった作曲家の作品を通じて、このようなユニヴァーサルなトレーニング効果が得られるというのも驚きの事実ではなかろうか。そして、交響曲第8番やチェロ協奏曲の演奏を残して、このコンビは次に、新たなステップへと挑んでいく。それは、私たちの待望したドイツ音楽との対話である。

11月の名曲シリーズでは、ハイドンとモーツァルトのシンフォニーに、ベートーベンの序曲が組み合わされ、つづいて、これに導かれてやってくるのは『第九』の歌声であるという。世界的にも冠たる『第九』大国の日本で、エリシュカとしては初披露となる演奏だが、これはそのテーマ性などからみて、エリシュカの人生にまったくもって相応しい1曲だといえるように思う。この機会はもちろん、私としても逃したくはない。札響における決定版で、「新世界」交響曲の通俗性を完全に克服したエリシュカ翁。その演奏は、再びCD録音されるとの噂である。これにつづき、寒い北海道の師走を、彼のつくる新鮮な響きが満たす日もちかい。

それまで、どうぞお元気に!

【プログラム】 2012年4月28日

1、ドヴォルザーク スケルッツォ・カプリツィオーソ
2、ドヴォルザーク 交響詩『野鳩』
3、ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

 コンサートマスター:大平 まゆみ

 於:札幌コンサートホールKITARA(大ホール)

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コメント

 いつも札響のことを多く取り上げていただき、札幌在住の札響ファンとして嬉しい限りです。特にエリシュカの演奏については、思っていることを気持ちいいほどに文章にしてくださるので目から鱗が落ちる思いです。
 エリシュカ新世界の体験は衝撃的なものでした。あれほど聴き慣れた曲が、こんなにも新鮮にきこえるなんて!やはり2楽章の深々とした味わいには驚きました。
 この秋から冬にかけてのハイドンやベートーベンも大いに楽しみです。
    

お返事が遅れましたことを、まずはお詫び申し上げます。

エリシュカさんに関しては、私の人生おいて、特に重要な出会いのひとつであります。彼の演奏を聴きに、わざわざ北海道まで出かけていくのもひとつの楽しみとなりました。幸い、「空の距離」は以前よりも短くなりました。

この冬には、是非とも「第九」を聴きに行くつもりです。エリシュカさんの人生にとって、これほど共感できる演目もないと思います。そのメッセージを、札響と合唱団がどのように表現してくれるのか、想像するだけでも楽しいからです。

todoさんとはいつの日か、札幌でお会いできるといいですね。

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