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2012年5月 7日 (月)

エベルト・バスケス Bestiario 動物寓話集 by アンサンブル・ノマド (レーベル:Urtext)

【現代音楽の語法に素直なバスケス】

現代音楽=コンテンポラリー・ミュージックについてはいろいろなことが言われてきたが、作曲家については結局のところ、自分の信じる道を行くしかないものだ。三枝成彰や吉松隆のような考え方も、まあ、一理はあるだろう。だが、私はいつも、彼らの考え方に煮えきらない逃げの姿勢を感じ取っている。この人たちは多分、なにかを捨てれば、それなりに得るものがあるという人たちであって、その立場からものをみているのにすぎないように思われるせいだ。一見、彼らの言動はアカデミズムや、作曲や音楽研究の正統、さらには漫然とした知性主義に抗うような姿勢でもみられるけれど、実際には自分たちの選択を正当化するような、自分に甘い論理に満ちているようにもみえないことはない。

そこへいくと、ここで取り上げるメキシコの作曲家、エベルト・バスケスの音楽はとても正直だ。彼の音楽は、三枝や吉松が否定するようなコンテンポラリーの筋書きを踏襲し、さらに一歩進めるような位置で書かれている。つまり、これまで新ウィーン楽派や、ストラヴィンスキー、バルトーク、ドビュッシーなどを起点に進められてきた新しい音楽の歴史のなかで、生み出され発展させられてきた技法やイメージが、さらに新しいステージで捉えられ、用いられているということだ。この ”Bestiario”(動物寓話集) というアルバムから聴こえてくる音楽には、ミニマリズムを中心としながらも、これまで様々に議論されてきたコンテンポラリーの響きが浮かんでは消えていく。その点で、圧倒的な新しさは感じられない。

このバスケスという音楽家が、独自に生み出した技法とかイディオムといったものは、さほどみられないのかもしれない。あるときには、IRCAM系作曲家のようなクラスタリングの技法が用いられ、それがミニマリズムや、より単純な和声や対位法の技法のなかでオーガナイズ(組織化)されているのを聴くと、私たちは軽い戸惑いを覚えるかもしれない。新ウィーン楽派、新古典主義、スペクトル楽派、ミニマル、ポスト・ミニマル・・・といったような分類は意味をもたず、この作曲家をなにかの傾向によってナントカ派と分類することも相応しくないようだ。彼は方法的な斬新さではなく、それらを方法として用いることにより直接的な関心をもっている。つまり、いかに、どうやって・・・というレヴェルから、「なにを」表現するかというレヴェルへの移行がみられるのだ。

三枝や吉松のように、新しい響きのオーガナイズを人々の生理(生きるための理)には無縁な、不自然なものとして排斥する代わりに、その表現をいかに用いるかというだけではなく、なにを表現するかというレヴェルに知恵を絞ったのである。その結果、エベルト・バスケスという作曲家は、より明解に技法の点でも習熟をみたといえるのではなかろうか。1960年代生まれの彼だが、録音などで聴ける旧作の印象からすれば、作曲技法はより柔軟となり、硬さが消えた。印象はすこぶる多彩となり、表現するモティーフに幅が出た。むしろ、モティーフの選び方にこだわったことで、テクニカルな自由度が増したということであろう。「動物寓話」に対する徹底的な研究が、バスケスという作曲家にいかに多くのものをもたらしたのか、それを想像するだけでも楽しいことだ。

【動物について】

ただし、バスケスが相手にする「動物」とは、ゾウやキリンのように、動物園で出会えるような存在であるとは限らない。はっきりいえば、伝説上の生き物や怪人、怪物といったところに焦点が当てられているのだ。第4曲に出てくるクラーケンとか、第5曲に出てくるゴーレムというのは、私たちもよく知っている。否、しかし、最後の曲の題名 ”El demonio de Maxwell”(マックスウェルの悪魔)については、物理学者・マックスウェルが彼の理論の組み立てのために用意したイメージ上の存在にすぎない。それもまた、バスケスは動物の一種として扱っているからユニークというべきだろう。

バスケスがこのような「動物」たちによって、なにを表現したかったのかは定かでない。しかし、ものによっては既存の物理法則をはみ出てしまうかもしれない独特の対象を選ぶことによって、彼が超人間的なコンテンポラリーの音楽的表現を、なるべく具体的に浮き立たせようとしたのは想像に難くないところであろう。それはちょうど、ヤナーチェクが女狐という「天然の」主人公を想定することによって、彼独特の音楽語法を完全に生かしきることができたのと同様の発想だと思われる。

【バスケスと日本・アジア】

アルバム収録の作品は大体がクラリネットを中心に、そう大きな規模ではないアンサンブルのなかで、シンプルに響きを関係させているものが中心となっている。全曲は1曲ずつ独立の作品ではあろうが、通しで聴いていると、どこか連鎖的な味わいも感じられるのは不思議なことである。そして、音で描かれている対象が何であれ、その響きのなかには私たち(日本人)に身近なものの存在が浮かび上がってくるのも、実に面白いところだ。それは祭囃子であったり、雅楽の響きであったりする。これはただの偶然か、あるいは、演奏者がアンサンブル・ノマドという日本人のグループであるせいなのか、はたまた、バスケスがきわめて日本好きの作曲家であるせいなのか、そのことを断言する根拠は何もないが。

例えば、”Jabberwock” という曲を聴くと、中間からけたたましい笛(フルート)の音が、激しく生きものの動きを描写する。曲名の「ジャバウォック」はルイス・キャロル『鏡の国アリス』中の滑稽詩に現れる架空の生き物ということだが、その鳴き声とも思しき高音の笛の音は、私たちの知る獅子舞のピーヒャラ音とよく似ている。坂口安吾は高麗神社の獅子舞のお囃子を聴いて、遠い昔、渡来系の被支配民族が小さくまとめられていくときの悲哀を感じ取ったというが、ピアノの低音をベースに持ち、下降系のオスティナートで表現される生きものの様子は、確かにある種の悲哀と無関係ではないようだ。それはやがて、鍵盤ベースが超高音に位置を変え、平行、もしくは上昇系に転換しても、まだ明転とは程遠いのである。実際、響きは静かに目を閉じる生きものの姿と引きかえに、神秘的に閉じられていく。

グリッサンドを用いた大陸(中国)系の響きに始まる『クラーケンの夢』も、そうした悲哀のなかに住んでいる。ここに活躍するクラーケンは、航海を邪魔する船乗りたちにとっての凶暴な悪魔というよりは、その数多き足を使って存分に踊りまわってみたいと考える可笑しな生きものであろう。だが、そのユニークな発想がやがて、クラーケンにとってのストレスに発展し、ついには、この生きもののイメージにある凶暴さへと姿を変えるフィナーレは、緊張感に満ちみちている。この作品から、私はいろいろな問題を考えてしまうが、ここでは割愛したほうがよいだろう。

【マックスウェルの悪魔】

収録の作品のなかでも、やはり桁外れにユニークなのが、最後の『マックスウェルの悪魔』であろう。未だ解かれざる難問のひとつであるという「マックスウェルの悪魔」とその後の研究成果について、私にはよく説明ができない。だが、この悪魔の凄いところは、常人が普通だったらみえないようなものをみて、私たちの知らないところで、エネルギーという大事なものに関与しているところにある。激しい振動と、熱による撹乱のなかで、悪魔はその本領を存分に発揮しているのかもしれない。

響きのうえで、悪魔はここで使われているという、6つの楽器の関係のなかで生きている。その姿はクラスタ、あるいはドット絵のように断片的なものである場合と、そうしたものの結合、もしくは合成によって生まれたオーガナイズのなかで、実体らしきものを現す場合と、両方である。こうして説明していくと、どうもうまくロジックがつきすぎるが、オスティナートを主体とした響きは実際のところ、もっと自由に運動している。その自由さのなかに、私はバスケスという作曲家の本質が潜んでいるように思うのだ。その正体とは、未知のものに対する並外れた想像力のゆたかさと、それを具体的に形にするときの深いリアリティである。

例えばハリウッドのSFファンタジー映画にも、同じような要素はあるが、そこで決定的に欠けているのは、創造されたものが放つリアリティである。たとえ映像を三次元化して、それらしい実体をもたせたとしても、そこに絡みつくいかにも作り物めいたリアリティに、私はほとんど共感することができない。その最大の問題点は、本来、未知であるはずのものを映像化することで、無理やり、既知の範囲に押し込めてしまうことによるロスである。一方で、バスケスの音楽にみられるのは、未知のものが未知であることの尊重だ。たとえ具体的な表現を試みるのだとしても、彼の音楽にはそれについての押しつけがましい決めつけはひとつもない。

皮肉な言い方になるかもしれないが、未知のものの表現はそのイメージの限定のなかでは、いよいよ嘘くさいものとなり、むしろ、その解放のなかでこそリアリティを生じるのである。文学の名作が映画化されたときの、あの言うに言われぬ抵抗感を思い出せばよいのだ。例えば、『罪と罰』を映画化して、誰かが見事にラスコーリニコフを演じたとしても、私たちはそのキャラクターを通して、小説を読むときと同じような肉感を味わうことができるだろうか。バスケスはそういうことをよくわかっており、むしろ、クラーケンの場合のように、そのイメージの一片だけを響きと結びつけて発想することで、その全体像は巧みにぼやけさせている。このぼかしのなかに、私たちの求める真実が隠れているというわけである。

【最後に】

最後に、演奏者、アンサンブル・ノマドによる録音の紹介ページから、引用をしておこうと思う。このバスケスのアルバムは「古代ギリシャ、ユダヤ伝承、鏡の国のアリスなど古今東西の不思議な寓話から想を得て作曲されたクラリネット・ソロから六重奏までの様々なアンサンブルによっています」「この多岐にわたたる文学世界をクラシック音楽から民族音楽、テクノまでを自由自在に使い分け、音楽でしか表現出来ないファンタジーに溢れた世界をつくりました」。実のところ、この短い説明で私の文章などはすこしも必要がないような気がしたものだ。

ひとつ補足するとすれば、寓話には教訓というものがつきものである。この場合、その教訓はどこへ向かっているのであろうか。そのことを知るためには、多分、「動物」を「コンテンポラリー・ミュージック」と置き換えてみればよい。動物たちの発する悲哀・・・被支配民族の嘆きに重なるジャバウォックの鳴き声や、満足に踊ることも叶わないクラーケンのストレスのなかに、コンテンポラリーの抱える問題点を見つけ出すことができるはずだ。だが、バスケスは知っている。本来、これらの音楽がもつエネルギーの強さについて。彼は、マックスウェルの悪魔がいると信じる科学者なのであろう。科学的には「悪魔」の存在は否定されたらしいが、発想を変え、悪魔と似通った機能をもつものを作り出すことで、ナノ・レヴェルでの新たな可能性があることが近年、研究されてきているともいう。

バスケスはコンテンポラリーの世界にも、そのようなイノベーションが必要であることを見抜き、この作品のなかで、音楽のもつ新しい可能性の一部を試してみたようだ。しかし、「実験音楽」というキーワードには、まったく相応しくないだろう。彼の作品は十分に完成度が高く、私たちの感性と濃密に絡み合っていく味わいをもっているからだ。

なお、この作品はアンサンブル・ノマドによる6月24日の定期公演で演奏される予定となっており、作曲家本人も来日する予定と聞いている。

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