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2012年5月21日 (月)

マラン・マレの肖像 by ヴィーラント・クイケン&上村かおり&クリストフ・ルセ 5/20

【究極の室内楽】

これは、究極の「室内楽」ではなかろうか。世界でも屈指のヴィオール奏者であるヴィーラント・クイケンと、その高弟で、フリーランスの通奏低音、ヴィオール奏者などとして活躍の上村かおりのコンビに、通奏低音としてチェンバロ(クラヴサン)を弾くのがなんと、いまを時めくクリストフ・ルセなのである。しかも、演目の中心に据えられたのは、マラン・マレ。フランス・バロックを代表する魅力的なヴィオールの奏者であり、作曲家であった彼の作品が日本で取り上げられるのは非常に稀なことであった。

近年は古楽に対する理解も広がり、バッハやクープランだけではなく、リュリやラモーなどの名前も、しばしば取り上げられるようにはなっている。しかしながら、日本国内でおこなわれる公演の形態はほとんどが中・小規模の合唱作品か、それを伴うカンタータや受難曲などの宗教曲、もしくは、舞台作品に限られており、あとは鍵盤楽器や弦の奏者が細々と、その活動をつづけているのにすぎない。世界的にみても公演数の多い東京の現状をみても、この日のようにヴィオールが数本並び、通奏低音のつくような室内楽コンサートは数えるほどでしかない。それは無理もないことで、音が小さく、あまり大きなホールでは公演が難しいなど、商業的に公演が成り立ちにくい背景があるのだから止むを得ない。

この日の公演も、石橋メモリアルホールを抱える上野学園大学の協力がなければ実現不可能であったろうし、上村がこの学園の卒業生であったり、当該校の教授を務める曽根麻矢子さんの楽器が借りられるなどの条件が揃ったことで、はじめて可能になったのであろうと思う。クイケンやルセも、ほとんど手弁当同然の来日であると推測するしかない。そうでなければ、特にフランスで人気のある古楽アンサンブル、レ・タラン・リリクの創設者として活躍し、欧州中で引っ張りだこのルセが来日できるわけがない。

しかしながら、本来であれば、音楽家と聴き手の距離がちかく、対話と癒しの共存したこうした音楽こそが、現代の人々に求められているものであるはずだ。私はもちろん、オーケストラも好きなのだが、将来に向かって、それよりは室内楽により深い可能性と役割を感じているし、そのなかでも、今回のような古楽の室内楽演奏会は、知恵を絞って確立せねばならないジャンルだと考えている。

古楽とは何か、ニコラウス・アーノンクールの著作をまとめたそういうタイトルの本があるが、そこで彼が頻りに主張しているのは、音楽の修辞法に乗っ取った言語的機能が古楽には存在するということだ。それゆえ、古楽を聴くということは、その癒される、美しい、華麗な音楽を嗜む以外の、作品に込められた深いメッセージを読むことから始まるのだということに通じるわけだ。私はその点で十分なクリティックたり得ないのだが、よく考えてみれば、私がこの分野の音楽について知らないことが多いのは、なにも古楽に限った話ではない。アーノンクールのいう革命後の、誰にでもわかる音楽さえ、私にとっては難しい部分が多いぐらいなのである。

【プログラミングからわかる演奏意図】

しかし、その前提で言わせてもらうならば、今回のコンサートに込められた想いのつよさというものは、単にマレという作曲家が遺した類稀なるヴィオール作品を紹介するというだけには止まらない、複層的なものであったように思われる。

まず、プログラミングの点からみてみよう。そこで注目されるのは、「マラン・マレの肖像」と題しながら、マレの出現前後の時代に活躍したもう2人の天才の肖像もが描かれていることである。そのひとりはマレの師匠であったサント・コロンブであり、もうひとりは、マレの後継者的なポジションにあるアントワーヌ・フォルクレである。なお、作品自体は演奏されなかったが、フォルクレの息子、ジャン・バティストも優れたヴィオール奏者、作曲家であったことが知られており、その才能を父君に疎まれて幽閉されたりしたにもかかわらず、その父親の作品を遺すために大きな努力を払っている。

ここから感じ取れることは、ひとつの芸術を支え、守り、後世に遺していくために、人々がどのように関わりあったかという歴史・・・というよりは、「人間の動き」の面白さである。この時代、フォルクレ父子の問題からもわかるように、親子でさえライバルという厳しい時代だったようである。サント・コロンブは貧しい靴屋の息子、マレのことを弟子にしてやったが、その才能が物凄いことを知ると、「自分には教えることがない」といって放り出してしまう。サント・コロンブは弟子の才能を素直に認めた謙虚な先生だったとみることもできようが、反対に、放り出すことで弟子の才能を潰そうとしたとも考えられなくはない。

だが、ジャン・バティスト・フォルクレにしても、マラン・マレにしても、彼らのすこしばかりへその曲がった師匠たちのことを恨むこともあったろうに、その素晴らしい才能に敬意を払うことは忘れず、マレはサント・コロンブ家の下階に住んで技を盗んだというし、ジャン・バティストも父親の作品の出版に力を尽くし、不十分なところは補作をしたりもしているというのだから驚きだ。

【穏やかなるヴィーラント】

さて、演奏はもっとも新しい時代のフォルクレから始まった。ヴィオール曲集組曲第5番である。通奏低音を厚くして演奏されることもある曲だが、今回はチェンバロと第2ヴィオールが低音を担当し、プリモ・ヴィオールが歌うという構造がわかりやすいシンプルなヴァージョンである。つまり、この演奏はプリモ・ヴィオールの歌い方次第で、作品の味わいが即座に決定されるということを意味しているのだ。ヴィーラント・クイケン。古楽界では高名なクイケン兄弟の長兄で、1938年生まれの彼は既に70歳を超えている。その演奏はあまり好きな言葉ではないけれども、「枯淡の境地」に足を踏み入れようとするようなものであった。

特に、その穏やかさが今回は印象ぶかい。すこし以前の写真をみると、もっと厳格な司祭のような表情をしているが、今度、生でみたヴィーラントの表情はマハトーマ・ガンディーの肖像をみるような優しさを感じさせた(実際にガンディーが優しいのかどうかは別として)。その音楽は静謐と、ほんの僅かな、自然の風の揺らぎのような響きとでできている。私たちは、その風を思い思いに受け止めるだけだ。むしろ女性の上村が、パートの役割でもあろうが、土くさい重い響きをもっており、ほんの些細な和音だけでも天国の響きを感じさせるルセの技を含めて、風・土・天(光)の3つの要素が絡み合った演奏会である。

【フォルクレの演奏にみられる演奏会のテーマ】

最初のフォルクレが、名刺代わりの名演奏であった。まず、演奏が始まる前のチューニングの部分で、早くも期待は形を成した。この鮮やかな響きで、彼らがなにを表現するのか、想像するだけでも楽しかった。最初の「ラモー」はかの音楽家のもつ華やかさを、天国で天使に囲まれたラモー自身が弾いたというような味わいがある。ただし、ラモーはフォルクレよりも後の世代で、フランス・バロックを総括するような役割を果たす。いわば、この演奏会のゴールから、この演奏会は始まるわけであった。しかしながら、その音楽はどうしても天国の(在る)上から聴こえる感じがする。その響きの華やかさのなかに、聖堂の天井画に描かれるような天使の姿が見える。これはどういうことだろう?

間奏曲のような「ギニョン(ギヨン)」・・・フォルクレ父子と同時代のヴィルトゥオーゾ・ヴァイオリニストの描写を通って、「レオン」の演奏でひとつの種明かしをみた感じがする。そこでは、ラモーで淑やかに出現した天使が今度ははっきりと、哀しみの翼を広げているのである。ヴィーラントの弓さばきはいよいよ穏やかに、すべての声部はなにかを包み込むように荘重で、内面ゆたかであった。それはこの楽章を構成するサラバンド舞曲の特徴でもあるが、同時に、私には閃くものがあった。私たちを襲ったあの悲劇・・・彼らのアタマのなかにあるのはそのことではなかろうか。

これ以上の証拠はないが、これが二本目の柱であるということに戸惑いはない。

掛け替えのない文化的な伝統の継承をめぐる人間的なドラマ、それは師弟関係であり、作曲家どうしのリスペクトであり、もちろん、音楽家どうしの敬意に満ちた結びつきである。それはサント・コロンブとマレ、それにつづくフォルクレ父子の間に認められるだけでなく、ヴィーラントと上村、さらに、彼らとあらゆる形で一緒になることが多いクリストフ・ルセという関係のなかにも見出すことができる。そして、それらの関係のなかで、近年、もっとも衝撃的で、関心の深い出来事といえば、やはり、上村の母国で起こった未曾有の災害であるというのは、まったく不自然なことではない。そうでもなければ、クリストフ・ルセのような大物が、いかに友人たちのため、こよなく愛するマラン・マレの作品を演奏するためだといっても、こんなちっぽけな公演のために、わざわざ極東の地まで駆けつける理由はないはずだ。

なにはともあれ、理由は問わずとも、このサラバンドのなかに、私たちはなにか言葉にはできないほどの、い苦しみや哀しみを思わずにはいない。修辞法からいえば、どのような見識が見出せるのか、大変に興味深いところである。

【ルセの見事なソロ】

このあと、第4曲「ボアッソン」と第7曲「シルヴァ」は異例なことに、チェンバロ独奏で演奏された。従来、私はルセの音楽にはそれほどの共感を得ず、クリスティ、ミンコフスキ、ニケに対するような愛情は感じずに来ていた。しかし、今度の公演で見せたルセのパフォーマンスは、ヴィーラントの緩やかな歩調にあわせた穏やかなパフォーマンスであり、彼のふだん発する才気煥発な音楽のなかにあるカラ元気とは無縁であった。特に全曲の印象を受け、深い哀しみのなかからゆったりと立ち現れる即興性を見事に位置づけた「ボアッソン」の演奏は、私の胸を打った。

【師弟共演】

後半のサント・コロンブにおける師弟共演は、この日の白眉といってもよい。

よっぽど「師弟」といっても、バロックの場合は、師弟の間で随分と音楽が異なっていることはよくあることだ。いまの古楽界で活躍している人たちは、大抵が同じ門下に学び、同じアンサンブルで活躍してきた人たちでもあるわけだが、その多様性に満ちた音楽の質については古楽マニアの方なら、誰でも知っていることであろう。そういうわけで、この子弟もヴィーラントはより堅実な、響きの幾何学のようなものを楽しむ性質があるのに対し、弟子の上村はより華やかなカンタービレに興味があるという風である。今回はサント・コロンブの流儀に倣い、プリモを弟子が弾いたということになるようだが、これはその個性からみて相応しいことでもあった。

ヴァリュエーション的な楽曲のなかでは、いちどだけ、2番パートが先に出る部分もある。ここでいよいよプリモ交代かと思いきや、さらに華やかな旋律をプリモが後から歌い出す。これには、やられた。その後、2つの楽器はその鮮やかな音楽性を競うかのように、しばし宇宙の拡大に心血を注ぐ。しかしながら、その後は再び穏やかな音楽に戻り、やはり、この演奏が先のフォルクレと同じテーマに基づくことを感じさせた。

【マレからバッハへつづくイマジネーション】

最後は、マレである。そのメッセージはヴィオール曲集第5巻(10曲中7曲の抜粋)の最初の曲(プレリュード)の、ほんの数小節に凝縮しているように思えてならない。深い哀しみと祈りの演奏は、まずその部分で簡潔に弔辞を読み終えると、あとは、長い癒しの時間によって構成される。そのリラックスした音楽の完璧な安らぎは、きっと、なかなか得られないものなのであろう。第1巻は、特に最初に演奏された「シャコンヌ」でリュリの影響が濃厚で、後世の自身の作品よりも華やかなリズムなどが印象的である。ところが、あとで演奏した「メリトン氏へのトンボ―」を聴くと、それは第5巻の作品と比べても遜色ないぐらい、淡い動きと音色がシンプルに生かされており、私たちを驚かせる。私がいつも言っていることだが、「天才は成長しない」のである。

弾いているのがヴィーラントのせいか、私はマレの音楽を聴きながら、いつしかバッハの音楽を思い浮かべていた。大バッハは、独創的な音楽家というよりは、ドイツにおけるバロック音楽の大成者として偉大である。しかし、彼が大成した音楽はドイツ音楽だけではないようだ。つまり、シュッツやフローベルガー、ブクステフーデといった音楽家たちの偉大さに、より多くの、イタリア・フランス・オーストリアの様式を加えて宇宙的な大きさを獲得していったことが窺われるのである。バッハは、よく夫人に向かって言っていたという。自分はこれまで書かれてきたなかで、もっとも偉大な音楽を書いているのだと。実はその偉大さとは、バッハ自身というよりは、彼に向かって道筋を示してきた多くの先人たちの栄光によるところが大きい。先人たちとは、バッハにとっては神と同義語である。そのバッハにとっても、マラン・マレという名前は太陽のように、燦然と輝いていたにちがいないことだろう。

つまり、この先人たちの努力に対するイメージというのが、この演奏会にとって、何よりも大事なメッセージなのである。そして、その演奏会がこうした音大のホールで行われたことは意義ぶかいことなのかもしれない。

【まとめ】

その石橋メモリアルホールに足を運んだのは学生時代、「チケット交換」の慣習により他団のコーラスを聴きに来て以来のことで、実に懐かしかった。その間、ホールは改装され、アメニティの質が高められたようだが、響きは幾分、デッドになったような感じを抱く。当時、ホールの音響にあまり関心なく、何分、いちどだけなのでハッキリしたことは言えないが。そのわりに、周りの街は意外と変わりない。駅の反対側とは大違いである。

マラン・マレの作品、以前もガース・ノックスによるヴィオラ・ダモーレの演奏に接し、素晴らしいものばかりであることはよくわかっていた。バロック以前では、ラモー、パーセル、リュリ、モンテヴェルディが私のお気に入りであるが、最近、このなかにルイ・クープランやマラン・マレの名前が加わった。しかしながら、こうした音楽のより深い世界に触れるためには、なお多くの修練が必要である。そのためにも、もっとたくさんのコンサートが開かれることを私は望む。私は音楽修辞法そのものを学ばなくても、音楽をよく聴くことで、その精神の中心を捉えることは可能だという考えで行動しているのだ。それを証明するためには、まだまだ多くの体験が必要なのである。

最後は個人的なはなしになったが、私ばかりではなく、この公演の高い意義について認める人は多いだろう。しかしながら、橋下徹の考え方ではないが、意義ぶかいだけでは廃れてしまう。この厳しい時代を生きる人たちにとって、どれほど豊かな作用を与えたか、そのことも大事になってくる。意義ぶかいものをやるには、より高いレヴェルで、そして、より親密なやり方で、社会とコミュニケートするようにやるべきである。この演奏会は意義ぶかさに埋没しない、ゆたかな作用に満ちていた。こういうコンサートがもっと増えれば、「音楽産業」も変化するはずである。

なお、曾根麻矢子所蔵のチェンバロは黒地に黄金の飾りがついた蒔絵調の楽器であり、見た目もすこぶる美しく、重厚であったことを付け加えておこう。

【プログラム】 2012年5月20日

1、A.フォルクレ ヴィオール曲集組曲第5番
2、サント・コロンブ シャコンヌ「ラポルテ」
3、マレ ヴィオール曲集第5巻(抜粋)
 *小カプリース、メヌエット、バガテルを省略
4、マレ ヴィオール曲集第1巻(抜粋)
 *シャコンヌ、メリトン氏へのトンボ―

 ヴィオラ・ダ・ガンバ:ヴィーラント・クイケン、上村 かおり

 チェンバロ:クリストフ・ルセ

 於:石橋メモリアルホール

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