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2012年5月20日 (日)

アネッテ・ダッシュ with ヴォルフラム・リーガー シューベルト&ブラームス トッパンホール リートの森(10) 5/17

【新国『ホフマン物語』の思い出】

2003年の新国立劇場で上演された『ホフマン物語』は、私にとって衝撃的な舞台だった。オッフェンバックという作曲家に対する強烈な目覚め、そして、オペラに対する深い信頼感というものを、私はこのとき、はじめて得たような気がする。フィリップ・アルローの演出は機知とユーモアに満ち、そうした作品の面白さを自然な形で引き立てた。特に、オランピアの場とアントニアの場が印象的なのは、これらのヒロインを歌った幸田浩子やアネッテ・ダッシュ(当時の表記はアンネッテ)によるところが大きい。いま調べてみると、ニクラウス役はいまを時めくエリナ・ガランチャであったのだが、私の印象に残る歌手はあくまで先の2人と、キャラクター4役を歌った高橋淳である。

それからもう、9年が経ったということになる。その間、歌手たちの動きも激しい。幸田浩子はしばらく、日本におけるソプラノ・コロラトゥーラの最高峰として活躍したが、テレビ出演などをきっかけにライト・ヴィジュアル系の仕事を中心におこなうようになり、高橋はキャラクター・テノールの枠を外れて、二期会の看板歌手のひとりに成長した。ガランチャは当時から人気が高かったが、いまでは、ネトレプコと人気を二分するようなスター歌手になっている。そして、ダッシュも重い役柄を深耕し、華やかな舞台に次々とデヴューを飾っている最中だ。そのダッシュの歌声を、実に9年ぶりに聴くことになった。会場も、実に久しぶりのトッパンホール。ただし、今回の演目はすべてがドイツ歌曲、それもシューベルトとブラームスの作品に絞られていた。

【ダッシュの基本姿勢】

ダッシュの歌い方は、オペラ劇場のときとはまったく別人のようにちがっている。彼女がリートで追求する理想は、能面的なベースの安定であろう。多彩な表情とか、言語へのつよいこだわりのようなモノではなく、より自然で、会話するような表現を大事にしている。その点で、シューベルトよりもブラームスのほうがずっとよく歌えているにもかかわらず、前者のほうにおいて、彼女の歌い手としてのこころが掴みやすかったと思う。特に2曲目の『泉のほとりの若者』(D300)は未だ声が温まりきらぬ段階で、歌い損なう部分もあったとはいえ、ダッシュの表現の本気さを印象づけるものである。

そこに示されていたのは、若者のメランコリーを示す大袈裟な表現ではなく、泉のほとりに立つひとりの若者の何気ない「つぶやき」だ。今日風にいえば、「ツイート」というところか。その内面に深く押し入っていくことは避け、あくまでツイートとして、軽く扱っているのが特徴的である。シューベルトの内向的な性格に対するステロータイプを洗い流し、まずは作品に自然と寄り添ってみようとする努力・・・私たちがよく使う言葉でいえば、「傾聴」の姿勢が彼女の歌から聴こえてくる。そして、そのうえで、ギリギリのところまで切り詰めた歌いまわしを選び、その結果として、多少、歌い損ないが出ているという事実を私はひしひしと感じることができた。

【乗り越えられぬ壁=シューベルトのシンプルさ】

今度のリサイタルの感想をいくつか見てみたが、彼女にはシューベルトよりもブラームスのほうがあっているようだという意見が多くみられた。そのことを真正面から否定する必要はないが、たかだか1晩のパフォーマンスで向き/不向きを論じるなど、私にはいかにもナンセンスなことと思えるのだ。むしろ、私が感じたのは技術力の不足である。そうはいっても、ダッシュというのは相当のテクニシャンで、例えば、シューベルト/ゲーテ(詩)の『海の静けさ』でみせたソット・ヴォーチェなどを取り出すだけでも、いまの私の言葉はとても不穏当なものに聞こえるにちがいない。それこそ、ナンセンスなのではなかろうか?

否、そうではないのだ。いかに高い知性と技術力があっても、そう簡単には越えられない壁がシューベルトの作品にはあるということ。そのための「技術」こそが、ここで論じていることの正体である。拠点のベルリンでは「ダッシュ・サロン」なる工夫を凝らした演奏会シリーズを継続し、シューベルティアーデにも出演するという彼女でさえ、まだまだ征服できない高峰がそこに聳えているということ。私は、そのことをつよく感じてしまった。

彼女のような歌い手にしてみれば、ブラームスの難しい歌曲を制覇することも、さほど難しくはないはずだ。リヒャルト・シュトラウスでも、ヴォルフでも即座に取り組んで高い評価を得ることができるだろう。実際、ブラームスの歌曲をあの水準で歌いきる歌手というのも少ないだろうし、その点、彼女がシューベルトにおける難渋なパフォーマンスに比べて、ブラームスに向いているという評価は安易だが、頷きやすいものであるのは間違いない。しかし、よりシンプルなものほど、プロの表現者にとっては難しいということを忘れてはならないだろう。モーツァルトやバッハが、音楽家にとって永遠の恋人でありつづける所以だ。ダッシュが示そうとしたのは、シューベルトの驚くべきシンプルさである。

ブラームスはそれに憧れ、深く研究したが、その時代のなかでは、よりガッチリしたドラマのある表現が求められた。特に、今回、ダッシュが取り上げた作品には、セルビアの民謡や歌を素材としたものが多く、特に、それらの作品の個性を歌うとき、彼女の表現力はもっとも輝いた。ベルリン生まれというダッシュだが、その珍しい名前の家系を辿れば、面白いルーツに行き着くのかもしれない。ハンガリアン・ダンスやジプシー曲集でヒットを出し、ジムロックを儲けさせたブラームスであるが、こうした素材の扱いでいえば、まずは天下一品である。晦渋なイメージはイメージとして、ブラームスには限りない甘みがあり、それこそが私をブラームスという花に惹きつけるもとなのだ。しかも、彼の音楽はその蜜をときに、ウィーン風の音楽製法によって、さらに煎じ詰めるのだから堪らない。

【シューベルトにおけるダッシュの可能性】

このようなブラームスの味わいの深さだけで、ダッシュのことを評価すべきではない。むしろ、彼女の本質は、単純素朴な表現のなかに、無限の甘み、あるいは毒を詰め込んだシューベルトの表現にみられるのは既述のとおりである。面白いことに、ダッシュは音楽の表面上の明るさや暗さよりも、その背後にある対照的な光や闇を表現することに長けている。むしろ、前半はそのコントラストを楽しむべきであるが、その雰囲気づくりを大抵、ほとんど引き受けていたのがヴォルフラム・リーガーによる伴奏である。いわば彼の演奏を「波」として使った、「サーファー」としてのパフォーマンスがダッシュの魅力とさえ思われたほどだ。

シューベルトにおいては、2人は未だ一枚岩とは思わなかった。まだまだ表現の深耕は可能であり、もっと大きな波をつかむことも可能だろう。だが、繰り返すなら、今回の表現で2人がもっとも気を遣ったのは、表面的に表出される音楽的な華や蔭の裏にある光や闇の表現についてである。例えば、D550 の『ドナウ川で』と題された作品は、テーマとしては滝廉太郎の『荒城の月』とよく似た作品であろう。表面的な音楽は明るめのコードに始まって、陰鬱な、下降的な流れでおわる。この歌の本質は「兵どもが夢のあと」的なメランコリーなのか、あるいは、その「兵ども」の発するエネルギーの深さに求められるのか。もちろん、それらの両方が表現されるように、シューベルトはドナウの流れや、そこに流れる時間をイメージした。

言うは易しだが、表現のうえでは、どうしてもどちらかを選ぶという瞬間がやってくるものである。多くの歌い手は、このコントラストを強調して歌う。しかし、非常に微妙なはなしだが、ダッシュの場合には、そのコントラストの強調は見られない。にもかかわらず、コントラストが明らかなのだ。シューベルトの作品において、ダッシュは声の厚みをさほど使わないし、その薄さのなかで得られるものだけが真実だと決めているようである。例えば、前半戦の最後に歌った D774 『水のうえで歌う』を名花、シュヴァルツコップの歌で聴いてみてほしい。ここに聴かれる歌いまわしは、およそダッシュとは正反対のものである。およそ考え得るなかでの正攻法であり、声の厚みのなかに無限の可能性が詰め込まれている彼女の歌い方に、より多くの人たちは強い支持を示すであろう。

かくいう私も、ダッシュの方法と比べれば、シュヴァルツコップの表現により大きな甘みがあると感じる。だが、そのような表現が、真に相応しいシューベルトのイメージだとは限らない。大空間に響きを詰め込み、その間により大きな思想や政治、宗教、あるいは、人間を表現するロマン主義の表現がそれだとすれば、シューベルトは明らかに過渡期のなかに身を置いている。ダッシュによれば、その表現はむしろ古典的なものにちかく、よりコンパクトで、凝縮した空間の広がりに相応しいのだ。歌い手は、まだ絶対者としては振る舞えない。より高貴な人の座るピアノの呪縛に・・・あるいは、辻音楽師のまわすハンドルのなかに、波を操るサーファー的な自由を掴んでいるにすぎないからである。

【より自由の大きいブラームス】

一方、ブラームスにおいては、もっと歌い手が演奏をコントロールしやすいことがよくわかる。この時点で、ようやく歌曲の表現は、伴奏の表現に対して、対等もしくは上位の関係に至ったのである。いわば「波」を自らつくり、精神の波動として発信していく時代が訪れたのだ。それは例えば op.97-4 のような、素朴な民謡素材のなかにさえ、歌が響きを牽引していく力を見つけるための原動力になっている。

今回のリサイタルでは、「水」に関する作品が集められ、テーマとして選ばれているのは明らかだが、シューベルトにおいては、水の動きやその性質をシンプルに表現していればよかったのである。その見事さはわかりやすく、特に、いちばん最後の3-4曲は印象的であろう。逆にいえば、自然な水の動き以上に、表現の自由はあり得ない。そこにいかなる強調も、誇張もしてはならないというのがダッシュの抱く信念である。一方、ブラームスにおいては、その水を見つめる人間の観点に、より大きな自由の沃野が広がった。その沃野を耕すのは、もちろん、歌い手以外にない。ダッシュも、その可能性を遠慮なく利用するスタンスに転じていくのである。

しかし、ブラームスの本音は、実はそういうところにはない。アンコール・ステージのいちばん盛り上がるところで、彼女が歌った作品『至福』 D433 が、その証拠である。このモーツァルト風の細やかな作品のなかに、ダッシュはシューベルトの思い描いた夢を象徴的にみせようとしたのではなかろうか。

【まとめ】

正直、すべてダッシュの意見に大賛成だというほど、はっきりした共感は感じなかった。しかしながら、よく工夫され、とにかくオリジナルのものを追った個性的なリサイタルであったことは間違いない。シューベルトにしても、ブラームスにしても、みんながよく知っているような作品はごく僅かで、あまり歌われることがない作品も多かったが、会場は盛り上がり、なかなかアプローズが途切れそうもない雰囲気であった。

印刷屋の主催だけあって、プログラムも内容充実。全曲に原詩+対訳付きのサーヴィス十分なコンサートであったことを付け加えておく。

【プログラム】 2012年5月17日

第1部 オール・シューベルト・プログラム
1、なんと激しく流れる泉よ D874
2、泉のほとりの若者 D300
3、隠者の庵 D393
4、小川のほとりのダフネ D411
5、鱒 D550
6、春の小川で D361
7、海の静けさ D216
8、流れ D693
9、帰路 D476
10、ドナウ河で D553
11、流れ D565
12、湖上にて D543
13、水のうえで歌う D774

第2部 オール・ブラームス・プログラム
1、湖上で op.59-2
2、沈みゆく op.86-5
3、夏の夕べ op.85-1
4、月の光 op.85-2
5、落胆 op.72-4
6、五月の夜 op.43-2
7、空気は生温く、そよともせず op.57-8
8、愛のまこと op.3-1
9、あの柳の林のなかに op.97-4
10、乙女の歌 op.85-3
11、乙女 op.95-1
12、サロメ op.69-8
13、乙女の呪い op.69-9

 pf:ヴォルフラム・リーガー

 於:トッパンホール

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