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2012年6月 3日 (日)

東京国際ヴィオラコンクール 本選① 室内楽と現代音楽 6/1 (PMのみ) ① (牧野葵美)

【ヴィオリストにとって重要なスキル】

わかったように言うのもナンだが、ヴィオラ奏者にとって重要なスキルはソリストとして数少ない古典作品をしっかりと演奏し、協奏曲を堂々と演奏できる能力があること以外に、室内楽や現代音楽、編曲ものを幅広くこなすことで、レパートリー(=活動範囲)を広げられることがある。ヴィオリストのなかには高い編曲能力をもつ者が多く、ガース・ノックスのように自ら作曲さえ手掛けられる人だっている。プロの音楽家は高い知見をもち、ヴィオラ以外の楽器でも、例えばピアノなどで、高度な編曲/作曲能力を身につけていることは決して珍しくはない。特にソリストの確立が遅かった楽器では、どうしても編曲や作曲による活動範囲の拡大が必須条件である。

もしくは、セルゲイ・マーロフにとってのクリストフ・エーレンフェルナーのように、自分の傍ちかくに信頼できる作曲家を置くことができればよい。今井信子ほどの存在になれば、作曲家が彼女のためにと作品を持ち寄ってくれるし、機会を捉えての委嘱もそれほど困難ではないだろう。しかし、そこに至るまで、彼ら(ヴィオリスト)がどれだけ作曲家たちの創造力を刺激し、その好意をもののにしてきたのかということは、プロとしての活動にとって欠くことのできないファクターとなる。今回のコンペティションでは、この点により大きなウェイトを置いた本選が構想された。本選①では、ブラームスの op.114 のトリオと、ヒンデミットのソナタ3作品のうちから任意のひとつ、さらに、コンペティションが指定する16曲から1つを選んでの現代音楽が課題となっている。

さて、私はこのセッションを朝から聴く予定にしていたが、今週の激務が祟って疲労感がつよく、午後から出かけていくことを決断した。ねむい目をこすって音楽を聴いても、なにひとつ良いことはないから。

しかし、結果的にはこの2人(牧野葵美、アドリエン・ボアソー)のうちのどちらかが優勝するのではないかという印象をもった。USTREAMの画像は権利の問題があるらしく、ブラームスのほうしか公開されていないし、ホールで聴くのとヴィデオでみるのとでは大ちがい、さらに、ウェイトの高そうな協奏曲セッションがあるのだから、もちろん、下手な予想はすべきでないだろう(結果は周知のとおり)。ここで言いたいのは、それほど深い満足感を得たという事実なのである。

【リゲティの思い描いた野山】

牧野はリゲティの無伴奏ソナタの第1楽章と第6楽章、ヒンデミットの op.11-4、ブラームスという構成で臨んだ。ヒンデミットも水準以上の出来だったが、リゲティの第1楽章とブラームスが特に印象ぶかい。あとで見つけたのだが、リゲティに関しては、彼女のブログに面白い記事があるので参照してもらいたい。現代ヴィオラ界のスター、タベア・ツィンマーマンの演奏に触発されて書かれた作品だというが、牧野が描きだした冒頭の響きから浮かんでくるイメージは、明らかにリゲティの故郷、ハンガリーはトランシルヴァニア(現在、ルーマニア)に広がる野山の風景だ。

実際、牧野がハンガリーを訪れたことがあるのか、よくわからないし、もちろん、私はハンガリーを訪れたこともなければ、トランシルヴァニアについては何も知らない。しかし、響きからその風景が目に浮かぶようだった。その象徴である冒頭の特殊な音階を、これほど闊達に、自然に弾いた牧野の表現力の爽やかさににのっけから圧倒されたものである。特殊奏法もこれ見よがしにではなく、その野山の風景と一致するように長閑に差し挟まれる。彼女の表現は最初のラウンドから一貫して、「自然体」の一言に尽きるだろう。技術的な点では欧州系、あるいは、アジア系のコンテスタントと比べて、多少、見劣りする部分もある(この表現は、誤解を招く。これは牧野の技術力が弱いということではなく、その他のコンテスタントの技術力が並外れて高度であることを示しているにすぎない)。しかし、その「差」を埋めて余りある音楽の伸びやかさが、彼女の身上である。

【未来への響き、響きの超越】

フィンガリングの指と弓が触れ合ってしまいそうなほどのポジションで演奏される高音も、決して誇張の材料ではない。しかし、それにもかかわらず、この高音はリゲティの想いを端的に示すものにはなっている。作曲家がこの響きに託したのは多分、未来への響きである。あるいは、響きの「超越」といってもよい。ツィンマーマンという優れた奏者をみてリゲティが思ったことは、この人ならば既存の響きを越え、なにか別の世界に作品を連れていってくれるのではないかという期待だったのではなかろうか。このシーケンスは2度、現れる。予想とはちがうずれた音を踏み台に、超高音に作品を導いていく作曲家の意図はようやく、最後に来る2度目のシーケンスで明らかとなる。

ここで牧野が丁重に、しかし、大胆なほどの冷静さで響きをつくっていくとき、確かに、リゲティのこの想いは明らかなようにみえた。そして、その「想い」の本体は、実に、最後の響きが消えたあとの残響にあるようだ。正に、この部分で作品が既存の響き・・・ヴィオラに課された(音域の)限界を超えているかどうかに、作品、そして、演奏の価値はかかっているのである。そして、牧野はそれをクリアした。それゆえ、私は作曲家の想いにつよく感応し、胸が一杯になったのだ。

【小説的な牧野の演奏】

ブラームスでは、牧野のもつアンサンブル能力の人並み外れたフレキシビリティに驚かされた。冒頭部分から、彼女はチェロの辻本玲、ピアノのフランソワ・キリアンと、もう何年間も一緒に活動しているかのような同調性をみせて、まるで常設のトリオのような響きでブラームスの作品に挑みかかっていく。その秘密は実に、彼女が作品を響きという外面からではなく、目にみえない内側の部分から演奏しているということにあるのではないかと思う。彼女の演奏を聴いていると、まるで小説を読んでいるような感じがする。そのキャラクターに、彼女がなりきっているのである。それにしても、小説とは何だろうか。それは、文章によって書かれた物語ではない。そうではなく、その裏に隠されたもののメッセージなのだ。つまり、牧野がいま言ったように、内側から、キャラクターとなって訴えかけるものは、この気づかれにくい裏のメッセージなのである。

私たちは文体というものを、よく問題にする。最近はもう、「文体」といって、どれだけの人に通じるのだろうか。専門の批評家でも、あんまり「文体」を論じることはなくなってきている。大学4年間、文学部で勉強してきて、私はすこしも賢くならなかったが、そのなかで、文学の本質がストーリーやテーマではなく、文体であることに気づいたのは数少ない収穫だった。小説なんて、内容は支離滅裂でも構わない。だが、その文章そのもののなかに味わいがあれば、のはなしである。私が学生時代のコーラスをきっかけに、のちに音楽への興味をもち始めたのも、音楽が文学=文体の理解に直結すると考えたことと無関係ではないだろう。現代では内容ばっかりが問題になっていて、あまつさえ、作家のキャラクターのほうがそれよりも大事だということになりつつあるのは嘆かわしい。いまの作品には文体が奏でる「音楽」はなく、その代わり、具体的な音楽が挿入されるのである(村上春樹のヤナーチェクのように)。

文体とは、小説の・・・そして、文学の核である。ES細胞だ。全てに変わり得る基本的な単位であり、作者の想いやストーリーを表現するための原点だ。この音楽がしっかりしていていれば、ドストエフスキーのような難解な文学もスラスラと読めてしまうだろう。昔の訳がドストエフスキーの作品を読者から遠ざけてしまったのは、この音楽の要素を無視してしまったことによっている。ところで、文学が実際に音楽になったとき、例えば、プーシキンのオネーギンをチャイコフスキーのオペラでみた場合、音楽作品として止むを得ないカットや一面的な描写にもかかわらず、私たちはオネーギンのことをより深く理解することができるのは不思議なことだ。別の例でいえば、ヴェルディの『マクベス』をみること・・・これは、柄谷行人のマクベス評を読むのと同じぐらいの理解を観客に与える。この作品の示す文学的な知見の高さは、いま、過小評価されていると言わざるを得ないようである。

牧野の表現で感じたのは、正に、そのような表現の凝縮であった。音楽は文学を切り詰め、ときには、大胆に切り捨て、改変する。そこで、作曲家が成功した場合、音楽は文学作品の表現を凝縮して表出することに成功しているわけだ。リームの『狂っていくレンツ』は、ヴューヒナーの原作よりも明らかに面白い。牧野が達成したのは、そのような面白さだ。だが、その方法は思ったよりもシンプルである。あからさまな個性や、執拗な絡みつきによる効果は、一切、狙っていない。むしろ、彼女はそうした誇張をスルーすることで、作品がもつ本来の味わい、響きや構造の繊細なうねりに、聴き手を集中させる。音量は可能な限り、印象を薄めない範囲で絞りに絞られ、厚みの出にくい自身の弱点を打ち消すようになっている。決してがならず、パートナーと寄り添う響きは昨今、珍しいほどに貞淑だ。

【ブラームスにおける場合】

4つの楽章では、微妙にポジションが変わっている。第1楽章や第4楽章では必要とあらば、イニシアティヴも主張するが、例えば第2楽章では、完全に内助の功に徹している。チェロの辻本がいつも前に出て、ヴィオラがいかにもヴィオラらしい献身でこれを立てるのだ。その第2楽章と、つづく第3楽章がいずれも素晴らしいのだが、アダージョ楽章においては、あまりにも退きすぎな印象もなくはない。ただし、これはこの演奏スタイルがどれだけ評価されるのかという疑問に立ったものであり、表現上の不満を反映するものではなかった。中間2楽章はいわば、女性的な演奏である。牧野が内側から表現したキャラクターは、明らかにリリカルな乙女の表情にほかならないものだった。

クラリネットによるヴァージョンを想起させるバーバラ・ブントロックの映像と比較すると、牧野の表現が徹頭徹尾、弦楽器としてのフレキシビリティに基づいているのは間違いないところだ。その響きの特性を理解し、女性的に溶け合わせることで、アンサンブル全体を内側から柔らかくしていくのが、牧野の構想であった。譬えは悪いが、焼き鳥の肉に日本酒をぶっかけるような方法である。もちろん、この譬えからはみえない繊細さが、牧野の演奏にあるのは言うまでもないことだが。

こうした過程を経て醸成された控えめな表現は、正に関西の吸い物のように、私たちを内部から説得していくものであった。ヴィヴィッドな終楽章においてさえ、その姿勢を崩さない牧野の姿勢には一方ならぬ感動を覚え、それを組み立てていったときの苦労を思うと、私はふかく嘆息せざるを得ない。この演奏は昨日今日で、簡単にできあがったものではないはずだ。牧野にとっても、多分、生涯で何度もできるようなものではない特別なパフォーマンスであった。このような演奏からみれば、その刹那的な出来栄えや他者との比較などはほとんど何の意味ももたない。3人一体となって迎えた弾きおわりは、ブラームスらしく、すこしく切ない尻切れのフィナーレを厚くサポートする。私は、胸が熱くなった。

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