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2012年6月 7日 (木)

新国立劇場 ローエングリン (プレミエ) マティアス・フォン・シュテークマン演出 クラウス・フロリアン・フォークト主演 6/4 

【フォン・シュテークマンの独創性】

新国立劇場にとって今季の掉尾を飾る『ローエングリン』プレミエを担当したマティアス・フォン・シュテークマンという演出家は、現代の潮流からするとかなり異端という感じの人のようであった。彼の演出は基本的に、あんまり作品や歌手たちのことを弄りまわすことはない。『サロメ』の舞台が核シェルターのなかに設定されたり、『コシ・ファン・トゥッテ』の世界をキャンプ場での出来事に置き換えてみたり、はたまたネズミの大群が突如、舞台を支配してしまうというような、そういう奇抜で大掛かりな発想とは無縁である。それどころか、自分が触らないで、作品が前に進んでいく部分ならば、なるべく触らないほうがいいというスタンスでやっているように見えるほどだ。

いまのオペラは、『○○演出ローエングリン』とかいわれるのが普通で、演出家も目立ってナンボというところである。どんなにひどい演出であっても、目立たないよりはマシだという論調も平気でおこなわれている。フォン・シュテークマンは、そうではない。彼に才能があるとすれば、それは自分より以前に作品があり、歌手がいて、音楽家がいるということをよく知っていることにほかならないだろう。当たり前のことだが、そのことをいくら尊重しても、既にメディアの関心は得られなくなっている現在、フォン・シュテークマンのスタンスは異様なまでに誠実なのだ。いまや権力者となった演出家たちは、それらの人たちをブルー・カラーと見做し、自分の意のままに動かせる「駒」としか見ないようになった。駒は取り替え可能であり、彼らに対する尊敬は薄れている。歌手たちが慎重に、自分の声の成熟を判断しながら役を選べる時代はおわった。それをやっている歌手がいたとしたら、彼は残念ながら忘れ去られて、そのほかの見境のない仕事をする歌手たちにポジションを奪われてしまうことだろう。

フォン・シュテークマンの場合は、そうではない。彼は・・・彼だけは、オペラという作品が歌と音楽によって、その基本軸を構成しているという事実を忘れていないからである。そして、それを成り立たしめているのは歌手であり、音楽家であるという事実を大事にしている。

その分、彼の演出には現代的で合理的な論理構造というものはなくて、ところどころに現れるアイディアには脈絡もなく、ときに場当たり的にみえることもあろう。例えば、このプロダクションでいちばん最後に登場するゴットフリート少年が、聖杯騎士を追うエルザに見捨てられ、彼女を追う大人たちにも見捨てられ、しょぼんと座りこんでしまうのにはどんな意味があるというのだろうか。あらゆる発想は演出家の動かざる意思によって固められてはおらず、多くの場合、多義的である。唯一、第2幕のおわりで、エルザが背中に背負った羽とも、花嫁衣裳のベールともつかないものを背負いきれずに、有名な「禁問のテーマ」にあおられるようにして倒れてしまう場面。ここだけは、フォン・シュテークマンの発想が厳然として作品を支配する。しかし、それ以外は、どうとられても構わないという風なのだ。

フォン・シュテークマンの演出を批判すべきなのか、称賛すべきなのか、これは判断に迷う。しかし、いま述べた第2幕最後の部分にはドキリとした。あそこで感じられるのは、正に人間が生きることの苦しさだ。エルザは確かに、難問を背負った。しかし、彼女ほどでなくとも、人々は何度もこけて、ようやくまともな人生を歩けるようになるものではなかろうか。私も、こけてばかりの人生である。私と同じにみるわけではないが、あなたたちも、きっとそうだろう。人間は間違い、こけてこそ強くなる(しかし、私のような愚者はいっそう弱くなる)。私たちはやがて、エルザが難問に耐えきれず、聖者への裏切りを働くことを知っている。だが、それを単なる過ちではなく、こうした転倒によって示そうとしたフォン・シュテークマンのアイディアは最高だ。エルザは、進もうとしている。確かに、彼女は間違いを犯すし、それを重ねもするだろう(彼は弟を投げ出した!)。しかし、彼女は進む。

これが、私のような者とはちがうところだ。フォン・シュテークマンはこうした華やかな世界に生きているけれど、よくわかっている。人々がどのようなところで躓き、傷つくかを。そして、いま述べたようなポイントで、そこをチクリと刺激する。それ以外は、作品のもつ味わいを無理なく引き出せばそれでよいという感じでいる。

【物足りない部分】

物足りない部分もなくはない。例えば、それは第2幕の前半である。神明裁判(決闘裁判)に敗れ、絶望するテルラムントと、それを励まし、再び手なずけるオルトルートが新たな計略を練る場面。ここでオルトルートの重要性がクローズ・アップされるわけだが、注釈が必要なこの場面で、演出がほぼ何もしていないのは残念で、すこしばかり退屈であった。オルトルートは邪悪な魔法使いであるという以外に、公とは別の神を奉じて、人々とちがう論理で行動するという側面がある。作品の舞台は神聖ローマ帝国のハインリッヒⅠ(オットー大帝の父)時代が選ばれており、それは10世紀の初頭。キリスト教の公認からは既に久しいが、時代の混乱につけこんでその権威を貶め、古い神々を奉じるオルトルートが動き出すというわけだ。

このようなオルトルートと、聖杯騎士たるローエングリンの対決が、実は作品を読み解くひとつの鍵となっていることは周知のとおりであろう。今回の演出ではオルトルートは成敗されず、ローエングリンの名乗りとグラール語りを聞いたあと、悪態をつきながら堂々と退場していく。このようなオルトルートの姿を描くならば、先の第2幕において、彼女の「正統性」、もしくは「立場」を描いておく必要があるが、それはなかった。今回の上演は非常にハイ・レヴェルなものになっているが、敢えてケチをつけるなら、第2幕の前半は退屈である。単に絶望する夫と、励まし、手なずける妻という関係以外に、面白い「ヒント」を与えるのが演出家の役割ではなかったろうか。

【フォークトとの『出会い』と懐疑】

さて、今回の上演で、話題の中心はなんといっても、題名役を歌うクラウス・フロリアン・フォークトである。新国には2回目の登場で、前回は7年も前、『ホフマン物語』再演の題名役で、当時はMETデヴューを直前に控える若手のテノールとして紹介された。アネッテ・ダッシュの公演リポートでも書いたように、その前のプロダクションを気に入っていた私は、これも見にいき、前回はヒロインのほうに目がいったが、再演では題名役のフォークトのほか、悪役4役のジェイムズ・モリス、ニクラウスの加納悦子が印象に残って、ようやく作品の全体を観ることができたような気がしたものだ。

このときは、フォークトに関しては賛否がわかれていた。私は非常につよい印象を得たが、評価を保留する人も多かった。その私も、やがてフォークトが立て続けにワーグナーの主要役を歌うようになったと聞けば、疑問を感じないわけにはいかなかった。確かに声は美しく、響きの強さもあった。だが、どう考えても、フォークトがヘルデン・テノールとして短期間のうちに成長する夢物語はあり得ないと思ったのである。現在のオペラ界の現状は、最初に書いたとおりである。フォークトもそのような荒波のなかに、無鉄砲にも突っ込んでいったのかと思いつづけていた。しかし、その想いを抑えながらも、私は7年前の印象を信じて、フォークトにもういちど期待をかけてみたのである。

実際、こうして耳にしたフォークトのローエングリンは、もちろん、ヘルデン・テノールの声ではあり得なかった。ヴィントガッセン、メルヒオールといった伝統的なヘルデン・テノールの歌声とは比較すべくもない。しかし、明らかに歌えている。ベルカントに基づくイタリア的発声でありながら、きれいに、ワーグナーの厚みを表現し得ているのだ。それどころか、私は次のような不思議な感覚を抱いた。それは、バッハのエヴァンゲリストが、ローエングリンとつながっているというような感覚である。あるときは、シューベルトの歌曲を歌うようであり、またあるときには、『マタイ受難曲』の福音史家としての声が聴こえる。そうでありながらも、ローエングリンの声質と驚くほどマッチしているのだ。

長すぎる休憩中に会場を歩いてみれば、彼の声量が・・・という会話をよく耳にした。声量? 確かに、身体のサイズも大きいし、声は大きいのかもしれないが、あの猛烈につよい声をもつユハ・ウーシタロ(ダッチマンに出演)のようなのとは訳がちがう。声量云々というよりは、異様に声の通りがよいのである。こんなタイプの声楽家はほかに思い当たらず、ステファン・グールドのように強靭な声の持ち主という感じでもなければ、ロランド・ビリャゾンのような典型的なベルカント歌手というわけでもないようだ。聞けば、ハンブルクでホルンを吹いていたという経歴の持ち主ということであるが、その点が役に立っているのかどうかも定かでない。

【2人といないパフォーマンス】

まあ、とにかく、このフォークトがいるおかげで、今シーズン、新国のクロージング・シリーズは尋常ではない盛り上がりを見せているわけだ。

この日は後半、すこし疲れた感じもあったが、それでも彼が歌い出すたびに、身の毛もよだつような感動が湧き上がってきて、前回のホフマンのときとは異なり、批判的な言辞はほとんど見当たらない。ほかに、エルザ役のリカルダ・メルベート、テルラムント役のゲルト・グロホウスキが健闘しているが、まあ、こちらは単に歌いなれている歌手という印象にすぎないのに対して、フォークトの歌は正にいましか聴けない、彼によってしか聴けないパフォーマンスとなっている。ヘルデンとか、テノール・リリコとか、レッジェーロとか、そういう伝統的な知恵に基づいた声分けが何の意味ももたないほど、彼の声は超越的である。『マタイ受難曲』の福音史家の自然体、そして、神の御許にある優しさで、「エルザ! 聞いているのかい!」と呼びかけられたときの感動、もしくは、恐怖を想像してみてほしい。あれは、エルザならずともハッとする。

先に述べたようなフォン・シュテークマンの演出姿勢と、フォークトのこうしたパフォーマンスによって、作品はさながら、ベルカント・オペラの様相を示している。

【ワーグナーのなかのイタリア的要素】

ただし、オーケストラと合唱は明らかなバイロイト仕込みだ。ペーター・シュナイダーと三澤洋史という2人のマイスターが、演奏をしっかりと本場の方向へと導いてくれる。特に、合唱は申し分のないプレゼンスで、世界最高峰の水準を示す。東京フィルの担当するオケも健闘著しく、時折、勢いあまっての粗っぽさは出ているが、それを慎重に修正していけば、最終日までに日本のオケとしては記念碑的な成功を掴みとることできるだろう。ただ、有名な第3幕への前奏曲は、弦の響きに弾力性がなく、金管や打楽器のベースを支える弦の厚みがあまりにもなさすぎるように思えた。また、シュナイダーは独墺系の響きには精通しているが、ワーグナーのなかにあるイタリア的な響きについては、まったく理解が及んでいない。

ワーグナーの作品の半ばは、イタリア・オペラの要素によって出来ていると考える。習作的な初期作品だけではなく、その作品の多くに、ロッシーニなどの影響が濃厚にみられ、いわば、その克服という課題のなかで、ワーグナーによるドイツ・オペラは生み出されていく。もちろん、ドイツ側にもモーツァルト、ベートーベン、ウェーバーという手本があったことは承知している。しかし、『マイスタージンガー』においてさえ、ワーグナーはベックメッサーというイタリア・オペラの象徴と向きあわねばならなかったのだ。

現在、世界の劇場でイタリア人の指揮者が活躍しているのは、このような部分を厚めに表現すると、音楽が甘みを帯びるせいであると思われる。佐渡裕がベルリンで評価され、メディア情報によれば、特にご婦人方の支持を得ているらしいというのも、音楽にそうした甘みが強いせいではなかろうか。私はシュナイダーに対して、イタリア人のように、甘みをもっと掬えと言っているのでは決してない。だが、例えば、先に示した第3幕への前奏曲などはイタリア的な傾向がつよく、こうした部分と、第1幕への前奏曲に象徴される静穏な音楽との対話こそが、この作品の世界観を緻密に構成しているのも確かである。シュナイダーはいかにもドイツ的である、合理的な響きのオーガナイズだけで、あれほどにゆたかな音楽を聴かせてくれる。しかし、それだけでは不十分なのだ。

いずれにしても、ペーター・シュナイダーという指揮者は強権的な指導者として、オケをバリバリ叩いていくタイプでもないだろうし、このような表現については、オーケストラのもつイメージのゆたかさ(あるいは、乏しさ)とも関係してくるわけである。

【夢のような歌いまわし】

しかし、そういう点を含めて、やはりクラウス・フロリアン・フォークトという歌手の自由さというものには、何度、触れても触れすぎということはないだろう。いま言った静穏の要素のなかには、この作品の古典的な特徴というものも含まれている。彼の歌が・・・特にアリア的なものがなぜ、『マタイ』のエヴァンゲリストの声に聴こえるのであろうか。それはワーグナーが、音楽が元来もっていた言語機能について深い洞察をもっていた証拠である。フォークトの歌を聴いていると、そのこともよくわかるのだ。彼が歌う場合、演出家は相当に楽をできるような気がする。なぜなら、彼はいそいそと立ちまわって細かい動きをつけ、ときには歌唱に注文をつけて、歌手たちに指示を送る必要がまったくないからだ。

フォークトの歌のタイミングに合わせて動きをデザインすれば、それだけで音楽に寄り添った素晴らしいパフォーマンスを構築することができるからである。

フォークトの歌は、ワーグナーがつけた音楽の輪郭を把握するところから始まっており、そのうえで、自分の歌っている要素とそこに見えている要素を、自然に溶けあわせることで仕上げられている。彼の歌が、まるでリートのように聴こえたのもそのためであろう。多分、この歌い手にとって、歌劇、宗教曲、リートなどの間で、歌い方にはそれほど差がないように思われるはずだ。そうして、それは音域などによってぶれることもなく、すべての音域で均質な・・・一箇所だけ、高音で目立つ歌い損ないはあったが、それは別として、高音から中低音に至る響きの柔らかさがいつも同じであり、それが言葉の強調のみを滑らかに盛りあがらせるという、夢のように自在な歌いまわしを可能にしているわけだ。

【まとめ】

フォークトのローエングリンは、私にとって、ジュゼッペ・ジャコミーニや、ヴィヴィカ・ジュノーの歌を初めて聴いたときと同じように、衝撃的な体験となった。しかし、ジャコミーニやジュノーの歌は、あくまで過去の伝統を受け継ぐものであったのに対して、フォークトのそれは過去に例をみない独特の歌のフォルムを示す。彼が同じように、ヴァルターやジークフリートを歌えるかとなれば、これはまた別の問題だろう。ヴァルターには来春、上野で挑戦する予定ということだし、もしかして、彼なら歌えるのかもしれないが、ローエングリンほど相応しいものであるかどうか、私には自信がもてない。しかし、私のような素人の予言など、それこそアテにならないことだろう。いまは私の目にし、耳にしたものだけを話題にしたい。

高水準の公演・・・というには、いくつもの疑問がある。しかし、一部の退屈な場面を除き、音楽を中心にした深い感動を味わえる公演であることは保証してもよいだろう。そして、もちろん、この公演の主役はどうしても、クラウス・フロリアン・フォークトにならざるを得ない。これからみる人には、驚きの体験が待っている! そして、その明るい恒星の表面を、小さな金星が通過していくのだ。恒星のまばゆい輝きに、屑のような金星もひときわ明るく輝くであろう。もしも彼がいなかったら、私たちは合唱やオケをあんなに褒める気になったろうか。確かに、彼らのパフォーマンスは素晴らしく、特にコーラスの出来はどこに出しても誇れるレヴェルである。しかし、彼がいなかったらと想像すると、私のこころは寒い。ひとりの歌手が、これほどまでに公演の価値を決めてしまうのか。

これがベルカントの恐ろしさであり、最大の魅力なのだ。そうなのだ、ワーグナーがベルカント・オペラになっているのである!

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