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2012年6月24日 (日)

ブッフビンダー ブラームス ピアノ協奏曲第2番/第1番 with アルミンク指揮新日本フィル 6/19

【伝承性と刹那性】

ルドルフ・ブッフンビンダーの世界的な名声に対して、日本での評価はすこぶる冷淡だった。今回、ようやく正しいレスポンスがみられ、ホッとしている。前々から「聴いてみたいピアニスト・リスト」の筆頭に位置しながら、なかなか機会を得ず、今回、ようやく夢がかなったブッフビンダーとの「出会い」・・・つまりは、ホルンの序奏に呼応して奏でられた最初のフレーズに接しただけで、私はブルッとさせられた。この衝撃的な、気品あふれるピアノの響きは確かに物凄かったが、その後に体験した様々な事象を思うと、それだけで私の思い出のすべてを物語るには無理があろうというものだ。

クラシック音楽には、2つの側面がある。伝承性と、刹那性だ。つまり、クラシック音楽とはまずもって、大昔の作曲家がつくり、それを初演し、繰り返し再演して守りつづけ、発展させてきた人たちに対する敬意としての伝統の継承・・・ここに1つの本質があるとともに、それを演奏する現在の演奏家の立場や解釈、想い、それらの総体としての個性が、刹那的に閃くところにも本質があるわけだ。多くのピアニストたちは大抵、それらの一方を選んで演奏姿勢を決めるものだが、ブッフビンダーの音楽には、これら2つの対立する要素が対立のまま、完璧に生かしきられているのであった。

考えてみれば、ウィーン音楽とは、このような2つの要素の共同体である。その典型たるウィンナー・ワルツは、厳然と存在する伝統的な決まりごとのうえでのみ競われる、激しい個性の競演である。一見、窮屈なようでも、そのなかに無限の自由をみたウィーン人の慧眼はいかにも正しかったであろう。その本体は「会議は踊る」の揶揄からもわかるようにダンス・ミュージックであり、踊る人々は互いに相手の動きに拘束される。しかし、その拘束のなかにこそ、人々は人間の本質があると思ったのだ。拘束が厳しいほど、自由への希求は大きくなるであろう。その願いがつよければつよいほど作品は軋み、壮大なエネルギーをもつことになる。自由への希求・・・あるいは、揺らぎとでもいうべきもの。それが実は、先にいう刹那的なものの正体である。ブラームスは、こうしたダイナミズムのなかで作品を書いたのだ。

【聴きあうことの真実】

この日のピアノ協奏曲第2番の演奏についていえば、第2楽章以降がなんといっても印象ぶかい。第2楽章は、スケルッツォである。チェロとのダブル・コンチェルトのようになる緩徐楽章を挟んで、ロンドー形式の終楽章が第2スケルッツォのようになっている。ここでブッフビンダーと、クリスティアン・アルミンク率いる新日本フィルがめざしたのは、互いが聴きあうということの、「真実」を明らかにすることであったのではなかろうか。

第2楽章でも、既にブッフビンダーは魔法のような響きのコントロールで、室内楽的な響きの味わいをもたらしている。その段階では、コンテンポラリーの作品でピアノの鍵盤を叩くと、それに対応したコンピュータ・プログラムが反応して、プログラムされた響きがわっと広がるといったような作品のように、ブッフビンダーの打鍵から、オーケストラの多彩な響きが瞬時に広がっていく不思議に目を丸くしているだけであった。弦の響きはもとより、管の響きも、ときには打楽器の響きさえ、ブッフビンダーは見事に相手の楽器と溶けあわせてしまうのだ。その柔らかい音の変容は、誰にも真似のできない領域に突っ込んでいたのだが、次の楽章でその驚きは増幅される。そこでは、ブッフビンダーは静かに耳を澄まして、オーケストラの響きに耳を傾けていた。そして、彼は歌曲の伴奏者のように、オケから流れてくる響きに対して、即興的なアジャストで鍵盤の響きを寄り添わせていくのである。

この楽章では、ピアノに代わってオーケストラ部のチェロが独奏で主題を奏でることはよく知られている。しかし、それがこの日ほど、ハッキリした説得力をもった日はあまりないはずである。退団した花崎元首席がゲスト出演して弾いたチェロ・ソロは、私の思い出のなかに燦然と輝くベアンテ・ボーマン(東響の首席奏者だった)のそれほど、内省的なメッセージに満ちてはいない。それでも、真摯で慎ましやかな演奏であった。その味わいを、絵画に相応しき額縁のように、ゆったりと覆い込んだのはブッフビンダーである。チェロばかりではない。この楽章では、ブッフビンダーは明らかに、すべてのオーケストラ楽器に対する聴き手の立場を決め込んでいた。

それにしても、良い聴き手とはどういうものであろうか。その条件はいくつもあろうが、そのなかで特に重要なものは、相手を否定しない、認める(尊重する)、評価しない(非審美的態度)という姿勢である。あれだけの名手でありながら、ブッフビンダーの場合は、相手を対等の音楽家として認め、審美的に眺めない謙虚さが滲み出ている。花崎は室内楽の経験も豊富であることから、そうした相手の視線を感じ取るや、俄然、真剣に響きを深めていくのであった。確かに、ブッフビンダーは傑出した演奏者であると同時に、最高の研究者のひとりであり、聞くところによれば、自筆譜の研究からみっちり彫り込み、自分のパート以外にも様々な要求を突きつけてくるということだ。西江辰郎率いるヴァイオリンの弓づかいなどみると、そのあたりの印象はもちろん、否定できないところでもある。

しかし、彼は知っていることであろう。もしも彼がいかに深々とした真実を自ら知り得ていたとしても、相手のある世界では、そのことを相手が自ら理解してくれるのを待つしかないのだということを。サッカー日本代表の前監督、岡田武史氏は次のような趣旨のことを言っている。選手に、答えを与えるのは簡単だが、それを繰り返していてはチームとしての成長はない。選手が自ら気づくのを待つことで、チームは成長していくのだと。

この協奏曲第2番の第2楽章と第4楽章は、第1スケルッツォと第2スケルッツォのような関係で結びついている。そのブリッジとなるのは、第3楽章の緩徐楽章であり、面白いことに、このブリッジ楽章ではピアノの役割が他の楽章と比べて後退している。その印象はブッフビンダーの演奏ではいっそう顕著であり、ピアノの響きは常に、バックで鳴り響いたオーケストラの響きと呼応しているかのように繊細だ。この姿勢を受けて、第2スケルッツォたる終楽章は、ピアノと管弦楽のやりとりがより濃密になっている。第2楽章では、まだピアノが魔法のステッキを振るような役割で、管弦楽の響きを紡ぎだすようであったのに、第4楽章では、ついに両者は常に同じ立場にある魔術師どうしとしてドッペルゲンガーを構成するに至った。

【踊るフィナーレ】

この終楽章では、当然、オーケストラの動きも重要となる。私がこの楽章を「第2スケルッツォ」と呼んでみたのも、特にオーケストラが象徴する舞踊性の高さによっているのだ。軽快でおどけたようなメジャー主題に対し、引き摺るようなマイナーのモティーフには、指揮者のアルミンクがウィンナー・ワルツのような深いルバートを指示。そのポジションの深さには正直、驚いたし、この起伏により表現される舞踊のリアリティはアイディアという領域を越えて、より普遍的で、あけすけなアクションを感じる。文化的な背景からみても、こうした表現に不慣れな日本のオーケストラを率いて、ここまで突っ込めるアルミンクの切り込みには、久しぶりに感動を覚えた。

この作品における彼の思い入れは深いようで、終楽章でもあの長身が何度も深く沈みこみ、いつになく強いアクションで深いコントラストを探る。だが、それにもかかわらず、響きはピアノと絶対にかち合わず、流れに沿わない形で突出することもない。特に、ストリングスの響きのゆたかさと、その深々とした抉りは、作品のもつ味わいを内部から醸し出すかのようだ。しかし、それをもってしても、ブッフビンダーの示す鍵盤の弾力性、アクションそのものである舞踊性の真実味については、いくら筆舌を尽くしても及ばないことであろう。とはいえ、これらは奇跡的に噛み合っており、その素晴らしさは、作品の難しさをよく知る者ほど強烈に感じられるはずだ。

コーダではピアノとの共謀で、フガート的な表現が鮮やかに浮かび上がる。これは第2楽章における壮絶なフガートと照応するのだが、アルミンクはその部分を、鋭く上方に尖がった響きで印象づけていた。この天を突くかのごとき、浮揚的な対位法的旋律の強調は、この日の演奏会のすべてを通じて重要となっており、ブラームスの古典的教養や宗教的な信念と同時に、そこからはるかに超越していくかのような斬新さとを二重に示し得ているのであった。

そして、こういう形で結びついた鍵盤とオーケストラが、協奏曲を構成する「身体」全体で踊っているような演奏には、なかなか巡り合えるものではない。その「踊り」は単にウィーン的というのでもなく、作曲家を一躍、商業的な成功に導いたハンガリアン・ダンスの時代から培ってきたもの、友人のドヴォルザークなどを通じて知見を得たスラヴ的なものとも無関係ではないはずだ。いわばウィーン人にとっての「世界」とでもいうべきものが、ここに溶け込んでいる。もちろん、そこには一種のひずみも忘れずに溶け込んでおり、作品はノウテンキな楽天性ばかりではなく、その難しさを物語ってもいる。この矛盾はちょうど、リヒャルト・シュトラウスのころに爆発(あるいは、衰弱死)するものだ。

【演奏とスペース】

第2番の演奏がウィーン的な演奏とするなら、第1番の演奏はよりドイツ的である。ドイツ的であるということの意味は、先にいう揺らぎの少なさであり、また、同時に作品のもつ古典性の濃厚さを示すであろう。特に、ベートーベンの影響はやはり大きいが、それだけではなく、リストやショパンなど、若きブラームスに影響を与えた先達の姿はあまりにも凛々しいようだ。作品の表現はよりスケール大きく、こうしてブラームスの肩に圧し掛かる伝統の重みを、ズッシリとつくようなものであった。表現の濃密度は正直、2番には及ばない。しかし、多くの人々の感想を集めてみると、2番よりも印象深いところがあったようなのは、そういう理由によるのであろうか。

ブッフビンダーが第1番で示した凄さというのは、私たちが思うよりも、作品に多くの「スペース」があるということだ。欧州の文化のなかで特に重要な、サッカーと音楽の共通点として、この「スペース」に関する考え方はとても重要である。サッカーにおいては、10人のフィールド・プレイヤーが効果的にスペースを埋め、相手が効果的に使えないようにすることが、競技の本質としてある。攻める側としては、その埋め尽くされたペースを前後左右に揺さぶり、あるいは、個人が勇敢な突破をみせ、そこにコンビ・プレーを組み込むことで、見たところ、どうにもならないほどの狭いスペースに揺らぎを与え、致命的な打撃を与えることを狙う。これが、「ゴール!}である。

つまり、サッカーにおけるスペースとは、攻撃側のプレイヤーが効果的に能力を発揮し、ゴールに結びつけるために必要な、ごく小さな領域である。この領域を、いかにして作り出すかというアイディアが、いま、世界中で競われているというわけだ。音楽においては、音や響き、アンサンブルの諸要素によって、このスペースが争われるということになる。皆が良い演奏をしようとして「スペース」を使いあうわけだが、その交通整理がうまくいかなければ、スペースは潰れ、醜い演奏となる。この場合、サッカーのような敵はいないのだが、それだけにいっそう深刻な問題となるわけだ。

ブッフビンダーのスペースの使い方を、徹底的にサッカーの例で説明するならば、オーソドックスなストライカーの動きに似ている。彼は自分の使いたいスペースをいちど捨て、ディフェンスの死角にまわる。そして、味方の動きを利用して、その間に大きく回り込むか、ここぞというところで、一瞬のスピードを使って、再び危険なスペースに走り込む。ブッフビンダーの存在感はたとえ、彼がなにもしていないときでさえ、ずっしりと重かった。それにもかかわらず、彼はガッチリと引いて、我々の死角に入り込むことを忘れない。

死角? もちろん、実際には、彼が我々の視野から外れることはできないのだ。首をふかく折り、内省的にコンセントレーションを高めているときでさえ、我々は彼を視野の一部に留め置くことを忘れないだろう。ひとたび楽器が鳴れば、そのゴージャスな音色に、私たちは否応なく惹きつけられる。では、彼はどのようにして身を隠せばよいのであろうか。それはやはり、「ともに在る」というキーワードによって語られるしかない。特に中間楽章で、この印象が最大限に高められるのは言うまでもないことだろう。この緩徐楽章では、フルートを除く木管楽器、特にクラリネットの演奏が光り、その味わいが決め手である。ピアノはこれらの響きを聴きながら、まるで絵画を眺めるようにゆっくりと通り過ぎる。

この楽章はショパンへの追憶も感じられながら、素朴なドイツ的美しさに満ちた和やかさが特徴である。終盤のトリルの美しさ(柔らかさ)など、ブッフビンダー以外では、なかなか味わえるものでもあるまい。そこからブラームスの宗教曲のような雰囲気から、終結に向かっていくアルミンクのイメージも秀逸だ。直前の弦の動きの細やかさも素晴らしかっただけに、最後のフルートにはガックリ来る。この部分に限らず、最初のアイン・ザッツをはじめ、フルートのパフォーマンスは際立って芳しくない。ただし、それだけで、演奏全体の味わいを判断することは適切でないようだ。

夢のように美しく、力づよいフィナーレについては、もはや言葉を多く弄する必要もあるまい。ブッフビンダーは強弱、色彩、押し引きのコントラストが半端ではなく、その総合力でスペースを引っ掻きまわすこと再三だが、もちろん、その動きのエレガンスには誰もが魅了された。そして、これと向きあうオーケストラの動きも、既に述べてきたように申し分ない。このフィナーレでは、フガートの部分もやはり素晴らしかったし、こうした古典的なパートではブリュッヘンのシリーズを経験した強みが如実に浮き出ているが、それは思えば、今回と同じようにトリフォニーホールと連携したプロジェクトだった。

確かに、細かい継ぎ目や、厚い響きの部分ではいくらか力任せの、不如意の断絶も見られたのは事実である。しかし、通常の定期に環をかけて準備の整わない演奏会のなかで、交響曲並みにオケの動きまわる楽曲にもかかわらず、これほどの高い成果を得たということは十分に誇ってもよいし、そこにもっていったアルミンクの手腕も、10年ちかくを連れ添った音楽監督として面目躍如たるものがあった。コーダに入ると、ピアノを含むアンサンブルは奇跡のように燃え上がり、終わっていく演奏のなかで、私は猛烈な寂しさを覚えた。この幸福な時間がおわってほしくない! そういう気持ちである。

【最後に】

おわってみれば、外は当たり前の大風。しかし、私は無事に自宅まで辿り着けたし、トリフォニーホールは駅にちかく、私の住まいのある大山駅からつづく商店街にもアーケードがついているので、雨風に悩まされることは少なくて済んだ。あまり酷ければ諦めたかもしれないコンサートだが、諦めなかったおかげで、今シーズンベストの演奏が聴けた。このトリフォニー・ホールのシリーズはいつも、採算度外視で素晴らしい企画をつづけてくれているが、前回のチッコリーニにつづき、特別な成功を得たといっても反論はあるまい。

なお、この冬には、そのチッコリーニとツィメルマンがプロジェクトを分け合うこととなる。それはそれとして、とりあえず、こう言っておくのを忘れたくはない。ルディ、ダンケ・シェーン! そして、彼の演奏を聴いたことで、(どうでもよいことだが、)次の「聴いてみたいピアニスト・リスト第1位」には、エリーザベト・レオンスカヤが浮上した。

【プログラム】 2012年6月19日

1、ブラームス ピアノ協奏曲第2番
2、ブラームス ピアノ協奏曲第1番

 コンサートマスター:西江 辰郎

 於:すみだトリフォニーホール

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