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2012年7月14日 (土)

アンリ・バルダ ショパン ピアノ・ソナタ第3番 ほか @浜離宮朝日ホール 7/12

【ロックなピアニスト】

ピアニストにもいろいろなタイプがいるものだが、このアンリ・バルダはクラシカルのなかのロック・ミュジシャンだ。単純明快なメッセージ。紛れのないハッキリした音楽。誰にも遠慮しない、自分だけの音楽づくり。そして、圧倒的な技術力。NO NUKS のステージで出会ったロッカーたちのこころが、アンリ・バルダの演奏から同様に響いてくるのである。トリコロールの似合わない、1953年、カイロ生まれの北アフリカ系フランス人。どう見てもせっかちな性格や、観客が拍手をしている最中にグリグリ椅子を下げるようなステージングの拙さはひとまず置くとして、その音楽には極上の錬磨が見て取れた。

しかし、「ナショナル・エディション」の支配が広がる現代の音楽界のなかで、ショパンのロ短調ソナタを、あんな物凄いアーティキュレーションで弾く人はもう、バルダ以外にはあり得ないだろう。その前に、即興曲の演奏を聴いたときには、この人はパレデフスキ・スタイルなのかもしれないと誤解した瞬間もあった。あとで聴いたマズルカの演奏を聴くにつけても、どうやら、そういうことではないようだ。4拍を1拍に詰め込んだようなコンパクトさで演奏された op.66 の「幻想即興曲」でさえ、パレデフスキのスタイルからみればずっと気品がある。ソナタの早弾きではワイセンベルクなども負けていないが、それと比べれば、ずっとショパンらしいフォルムの均整は保たれている。そのなかで、ここはこうだろうという決まりきったフレーズについては、大抵、何らおもい意味をもたない経過区として平坦に処理されているだけのことだ。

細々としたフレーズの表情に拘泥せず、バルダは自らのペースに相応しい独特のアーティキュレーションで、作品を組み立てなおしていく。どこにも、手本はない。彼のように弾いた人など、私の狭い見識のなかでは他に見出すことができない。遅弾きではポゴレリチの異様な例が見出せるが、それを例外とすれば、ほとんど最近では類例をみないスタイルである。コンペティションに出る若者でさえ、最近では、こんな風には弾かないものだ。ルバートも全体的には少なめだが、ある1箇所では過剰なほどに連結させ、作品を構築するのに重要な起伏として、演奏のなかに組み入れている。だが、パヴェウ・カミンスキ教授が言うように、それがショパンの演奏にとって決定的なものだとは、バルダは信じていないようだ。

【モディリアーニ的】

彼の信じるのは、ショパンの驚くべき奔放さ、ネガティヴな面にしろ、攻撃的な面にしろ、ショパンという作曲家がもっていた動きの激しさだ。これについては、ポーランド派としても決して反対ではあるまい。しかしながら、その表現法は、彼らの共感を呼ぶとは思えないのだ。ポーランド派が「セザンヌ」だとするならば、バルダの表現は「モディリアーニ」に接近する。極端に長い首のデフォルメ。瞳のない眼に象徴される省略の美。個性的な曲線をもつ輪郭の独特な表現法。ポーランド派がつくった規範はすべてバルダによって破壊されるが、それは破壊のための破壊ではなく、新しい創造のために見出された新しい結合、もしくは、デフォルメや省略の形である。

このようなスタイルから、もっとも相応しい表現はスケルッツォに来ると予想していた。その予想はあながち間違ってもいないが、とても正確とは言いかねる。なぜなら、その表現が本当の意味で輝いたのは、スケルッツォのトリオの美しさにおいてだったからである。さらに、これと連結されるラルゴとの対比である。速度表示とは関係なく、前楽章の中間部と、ラルゴ主部のテンポは似通っている。つまり、速さにおけるデフォルメは、意識的に避けられていた。過度に甘ったるい調子はなく、それはアンコール・ステージで演奏したスカルラッティの演奏と対応しあうものだろう。

この流れで、白眉となるのはフィナーレである。モディリアーニが模範とした古代のテラコッタのようなワイルドな強さが、堂々と構築される演奏は文句のつけようもなく、圧巻であった。激しいアルペッジオの動きがこれほど整然と、粒だった音で、自然に響くのは聴いたことがない。そして、序盤からなんとなく感じられていた大洋に揺れる船のイメージが、この楽章でわっと上がってくる。あれほどショパンを苦しめた海、そのイメージが1844年、ここに激しく波打つ響きのイメージとして凝縮しているのだ。バルダほど、この波のイメージを堂々と描き上げた人も他にいないだろう。それは正に、北斎の描く富士のようにガンとして動じない。すべてが、規格外だ。

【日常言語としてのラヴェル】

このショパンのイメージに比べれば、ラヴェルはピアニストにとっての「日常言語」である。そうであってみれば、アンコール・ステージにおいて、『高雅にして感傷的なワルツ』をすべてリピートしたとしても、まったく不思議ではないわけである。特にアンコールにおけるテイクBでは、作曲家・ラヴェルのもつ他のあらゆる可能性が、この作品のなかで凝結していることがよくわかったものだ。本編で並べて演奏された『ソナティーヌ』のような作品はもとより、『夜のガスパール』『マ・メール・ロワ』『ラ・ヴァルス』といった名品のエッセンスが、このコンパクトの作品のなかに凝縮している。

バルダの演奏の著しい特徴は、こうした可能性の多様さをうまく捉えながらも、それらをどぎついデフォルメで汚すことは皆無であり、先に述べたような「日常言語」として、自然に扱っている点である。彼にとって、『高雅にして感傷的なワルツ』と『クープランの墓』では、それほどちがいがないであろう。ちがいがあるとすれば、それは踊りの種類が異なるということにすぎない。

本編では、『クープランの墓』の演奏が圧巻だった。特に、メヌエットとトッカータは、誰にも真似のできない柔軟な響きに、舞踊のエッセンスがきれいに溶け込んでいた快演といえる。メヌエットは通常、派手めのリゴードンのあとで目立たないものだが、バルダの演奏ではそのハキハキしたアーティキュレーションや響きのゆたかさにおいて、全曲を通して扇の要となるような役割を果たすものだった。中間の『ソナティーヌ』も優れた演奏であったが、その秘密は、「日常言語」よりはすこし持ち上げた表現の密度にあるのだろう。

【まとめ】

アンコール・ステージでは、最後のスカルラッティが稀にみる名演だ。とはいえ、スカルラッティというよりはフォーレに聴こえた。フォーレのノクターンのような響き。バッハの影響を受けていて。しかし、ラヴェルやドビュッシーをしても、なかなか乗り越えられなかった、こころのメッセージの美しさ。その秘密はバロックに対する・・・という空論を思っていたが、その実態はなんのことはない、D.スカルラッティなのであった。しかし、バルダの演奏を聴いていると、それ以外のいろいろな音楽が聴こえてくる。いまのフォーレ然り、バッハ然りであるし、ストラヴィンスキーにドビュッシーなど、どれも素晴らしいだろうと思う。聴けば聴くほど、その想いはつよくなった。

バルダについては近年、来日を重ねてリサイタルもしているが、どうも、あのトリコロールに顔を重ねたチラシが胡散臭く、どうせゲテモノだろうと思い込んでいた。しかし、最近、次のディスクを聴くに及び、印象はまったく変化した。それ以来、7月12日が楽しみでならなかったが、その予想とはまったくちがう結果であったのに、演奏を通じた喜びはすこしも劣るものではなかったのを喜びたい。世界には、まだまだ素晴らしいピアニストがいるようだ!

なお、彼にはコアなファンがいるようで、熱狂的な拍手に包まれたホールの雰囲気だったことも付記しておこう。

【プログラム】 2012年7月12日

1、ラヴェル 高雅にして感傷的なワルツ
2、ラヴェル ソナティーヌ
3、ラヴェル クープランの墓
4、ショパン 即興曲 op.29/op.36/op.51/op.66
5、ショパン ソナタ ロ短調

 於:浜離宮朝日ホール

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