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2012年7月16日 (月)

田尾下哲(演出) カヴァレリア・ルスティカーナ/パリアッチ 二期会 Aキャスト 大山亜紀子 ほか 7/15

【音楽家と独創性】

古典音楽、舞台芸術において、過去の優れた表現に対して独創的な表現を保つことがいちばん難しい。ピリオド主義、原典尊重主義によるオーソドックスな表現の回復は、私にとっては福音である。しかしながら、そのリバイバルのなかで、2つの問題が新たに音楽家たちを悩ませることになった。1つは、過去の偉大な音楽家たちの表現に対して、いつも個性がないと言われることだ。この弊害は、次に無理やりな「個性」の露出を生み出し、音楽家の内部から表現そのものを破壊することになってしまう。もう1つの問題は、積み重なるオーソドックスな表現のなかで動きがとれなくなり、研究から得られた歴史的な規範や、過去の優れた表現に対して対抗するだけの表現のエネルギーを奪い去ってしまったことである。

新しいものにつくにしても、古いものに回帰するにも、音楽家の行き場はない。つまるところ、表現はオペラの外にいた映画や演劇のつくり手たち、あるいは舞踊、美術、衣裳の専門家による再創造に頼らざるを得なくなった。彼らの支配は、もはや欧米においては当たり前である。歌手やオーケストラ、あるいは、作曲家の地位は低下し、演出家とビジネスマンによるオペラの再創造がビジネスとしておこなわれているにすぎない。世界の一流劇場は何らかの特殊技術(あるいは、単なる知名度)によってマスコミの注目を集められる演出家を起用し、それによって商業的な成功を得ることを一番に考える。尊敬されるのは、モルティエのようなちがいを出せるビジネスマンだ。

今回、この島国で、これほどに独創的な舞台の創造・・・それも、音楽と演出の手厚い相互関係のなかでプロダクションをつくることができたことは、演出を担当した田尾下哲とそのチーム、そして、音楽面の責任者であるパオロ・カリニャーニという2人の優秀なヘッドを得たからである。それは独創的なほうがよいと、誰もがわかっているのだ。しかし、それを実際に、きっちりしたやり方で実現できる人となると、これは世界的にみても稀である。

【ドイツ的なマエストロ】

カリニャーニは1961年、ミラノ生まれだが、イタリアというよりはドイツのマエストロという印象があった。それはなんといっても、フランクフルト歌劇場での輝かしいキャリアがあるからで、この類稀なる才能をもったマエストロは、歴史ある劇場を再びドイツの第一線へと引き上げたことで知られる。日本への初登場は2005年の紀尾井シンフォニエッタの公演で、ストラヴィンスキーの『プルチネッラ』や、マスカーニの『仮面』序曲などで圧倒的な成功を収めたのを聴いている。その後、読響でも招聘に成功しており、カリニャーニは日本では、特にこのオーケストラとの関係を重視しているようにみえる。原発事故のあった昨年は、新国の公演はキャンセルしても、近接していた読響の公演には予定どおりに客演。契約のちがいや、オケよりもオペラでは滞在時間が長いという問題もあるのだろうが、今年もまた、すぐに読響での公演が待っているほどの人気者だにはちがいない。

原発問題での減点はあれども、彼のピットでの仕事ぶりをみたいというのが、この公演を見にきた主要な目的のひとつであった。ただし、カリニャーニは確かにイタリア人で、イタリアのオペラをよく知っているにしても、彼の本当の得意分野はドイツもの、特にモーツァルトやワーグナー、そして、より古い時代の作品(バロック)であるように思う。ベルカントの伴奏を派手に攻め立てられる典型的なイタリア・オペラの指揮者、ガヴァッツェーニやセラフィンのような指揮者とはタイプが異なる。その彼がイタリア・オペラのなかでも、特にアクの強いヴェリズモでどんな仕事をするかには疑問もあった。

実際、田舎くささを真正面から歌った(劇の題名『カヴァレリア・ルスティカーナ』の意味は周知のように、『田舎の騎士道』となる)カラヤンの録音(映画『ゴッド・ファーザー part.3』にも使われた)などを愛好している身としては、序盤からイン・テンポで進むカリニャーニの指揮ぶりには、しばらく違和感を覚えずにはいなかった。

【演出上の奇抜さ】

それを上塗りするかのように、演出のほうがまた、冒頭からハツモノ尽くしである。舞台裏から歌うはずのトゥリッドゥは、群衆の前でローラと公然とちちくりあい、冒頭のアリアを歌う。歌いながら出てくる演出は知っているが、反対に、歌いおわりにかけて引っ込み、ローラをとり残していくのだ。公衆のなかに雑じったサントゥッツァを見つけると、ローラは彼女を睨みつけながら近づき、実質的な愛人である自分の優位を誇るとも、あるいは、サントゥッツァの正式な恋人としての権威を認めるとも、どちらにもとれる仕種で消えていく。一方、サンタははけることなく、常に出ずっぱりである。

プロローグがおわり、合唱が出る場面までに、凝ったマスの操作でアルフィオとローラの結婚式の場面がつくられる。その場面から、舞台が動き出す。この音楽が結婚式の場面にどれぐらい合うのかは想像がつかなかったのは、復活祭の朝の神秘的な雰囲気を歌う合唱は、結婚式の雰囲気にもよくマッチする。このあたりには、一本とられた。そして、その発想以上に私の気を惹いたのは、コーラスの美しさだ。新国立劇場合唱団や東京オペラシンガーズの活躍により、日本のオペラの舞台を構成する合唱の素晴らしさにはいつも唸らせられるところだが、今回は二期会の臨時編成コーラスも、これらに比肩する素晴らしいパフォーマンスを見せた。合唱指揮の、佐藤宏も称賛に値する。

【ルバートもなしに】

さて、カリニャーニの音楽は、我々のイメージのなかにある作品の起伏や、深いルバートによる音楽的心情のデフォルメを通らずして、作品の内面にアプローチしていこうとするものであることは、早い段階でわかった。はじめてそれとわかるルバートが出たのは、もう舞台がかなり進行してからのことだ。その意図の中心は、作品が舞台の中盤に出てくる聖歌のエッセンス、もしくは、その変奏によって成り立っていることにあろう。ルバートともっとも縁遠い音楽が、聖歌であることは論を待たない。そして、そこからできた音楽ならば、ルバートは必要最小限でなければならないというわけだろうか。しかし、マスカーニ自身の指揮する録音を聴いても、この作品にとってルバートは重要である。それは言葉・・・特に田舎の言葉の抑揚やアクセントを巧みに拾った言語的表現なのであり、それが音楽的な盛り上げやアクートとごく自然に結びついていることを示しているはずだから。

だから、ここで難しくなるのは、マスカーニの意図したような言葉の味わいを損なわずして、ルバートを抜く音楽がどのように可能なのかということである。その印象はきっとモダンなものになり、現代的なものと受け取られるであろう。そして、そのような表現は、田尾下の演出にとってもなくてはならないものなのだ。演出の現代的な洗練とともに、言葉に対する新しい感覚、それに相応しい音楽のリアリティがなければ、田尾下とカリニャーニは共倒れする。勇気ある独創的な表現に、私は息を呑んだ。結論からいえば、このチームは非常に堅固なコンビ・ワークで絆を醸成し、観客を魅了したというべきだろう。ただし、観客とは大多数ではない、私のことを指す。ほかの人がどう思ったかには、多少、心配もある。

この姿勢が消極的に出たのは、アルフィオ登場の場面だろうか。舞台上のダイナミックな動きと、音楽面のギャロップの激しさが、歌の荒々しさを引き立てるどころか、その印象を後退させる。ただ、最終的には、これは小川裕二のパフォーマンスの悪さと評価するしかない。ただし、エスカミーリョとアルフィオの場面は、なかなか期待どおりにならない難所だから仕方ないと諦めるが、つづく聖歌の場面もパッとしない。音楽自体は、かなり盛り返した。だが、それまで椅子でも机でも、舞台上の人が自分で運んでいたのに、肝心の十字架が上から機械で吊るされてくるのでは興ざめだ。聖歌の中心部分はサンタが先導し、コーラスと一緒にピークを築いていくが、その意味もあまり解釈されていない。

ただし、先導するサンタの横をひとりひとりの合唱が通り過ぎていき、露骨に声を混ぜて去っていく演出だけは凄かった。サンタは人々に追い越され、彼女が明らかに、抑圧されていることを示している。その後、合唱の歌いおわりで拍手を入れさせ、後奏を分離して次の場面への導入として使っているのは意味不明だ。

【サンタの孤独】

作品は、サンタの孤独さにもっとも大きな焦点を当てている。彼女が「マンマ」と呼び、もっとも親近感のあるルチアでさえも、テーブルの向こうで話を聞くにすぎない。その「敷居」をまたげないことは、サンタ自身がよく知っている。彼女の深い孤独を象徴するシーンが、トゥリッドゥとの絶望的なやりとりのあと、「あなたを神さまが私のもとに寄越してくださった」と呟いて、アルフィオに告げ口をしてしまう場面である。私はこれまで、このシーンにサンタの醜さ以外を感じたことはなく、それが明らかな過ちであることが良くも悪くも作品の特徴なのであると思い込んでいたものだ。

だが、今回のプロダクションでは、この告白のシーンに、まるで彼女による「告解」のような雰囲気をもたせたので目を丸くさせられたものだ。ここでサントゥッツァは自分の罪を打ち明けるように、アルフィオに語っている。ただし、聞いていたのは告白を口外できない司祭ではなく、凶暴なアルフィオであったというだけのことである。サンタ役の大山亜紀子が、何度も自分の告げ口を悔やむ言葉が忘れられない。その美しい告白ゆえに、アルフィオの烈火のような怒りがあり、その代償としての間奏曲があるということに気づくべきだ。その間奏曲の重要さは、サンタが椅子でつくられた狭い橋の、四分どころに至るまで隠されている(あるいは、私が鈍感だけだろうか?)。そこで彼女が躓きかけたとき、わっと響きが華やかになる。しかし、その響きが華麗であればあるほど、サンタの内面的な悲劇は重くなってしまう。

つまり、この間奏曲は告解に対する内面的な呵責、それを音楽的に表現したものであると受け取れるのだ。とはいえ、いまも述べたように、それを聴いたのは嫉妬に燃えるはずのアルフィオだ。もはや、サンタには勝利も救済もない。時計の針は落ちた。運命は、崩れゆくばかりである。

悲劇においては、サンタだけではなく、3人の女性が嘆き悲しむことになる。それは終幕の、’Hanno ammazzato compare Turiddu!’ によって象徴され、2人の愛人と母親がともに声を上げる最後の台詞で我々の胸を衝く。通常は2回ともローラを中心にする叫びだが、今回は舞台奥の坂で事件を目撃したローラが単独で1回、次に坂を下りてきて恋人に近寄った彼女と、舞台下手の手前で寄り添っていた母「娘」が同時に声を上げることで、手前の響きが圧力を得ることになり、トゥリッドゥの死の重要さをなおさら引き立てることになった。こんなろくでなしの色男のことでさえ、3人もの女が嘆く。人のいのちの重さを、田尾下はこういう形で表現したのである。人々は去らず、事件を最後まで目撃しつづける。

【パリアッチは一転してフツー】

これに対して、『パリアッチ』の舞台は1960年代に設定され、人々の関係が稀薄になった事情を、2つの作品を通して描こうとしたということだが、それが本当だとすれば、机上の空論である。確かに、『カヴァレリア・ルスティカーナ』の村人は去ろうとせず、『パリアッチ』のほうでスタディオに残ったのはトニオひとりだ。事件にあれほど熱狂していた観客も、心密かに期待していた「こと」が起こると、人々はさっと消え去ってしまう。そこに何らかの象徴を託すのも、無理ではない。しかし、たとえダブル・ビルであっても、私たちはひとつひとつの作品を各々にみる権利がある。そこからスタートした場合に、『パリアッチ』そのものにおける工夫は十分ではない。

『カヴァレルア・ルスティカーナ』の圧倒的に斬新な表現と比べると、『パリアッチ』はその舞台設定以外は、何ら目新しいもののない素朴な表現である。可動式のスタディオの客席をグルグル回してみたところで、表現的な新しさには何も結びつかない。最後、トニオに ’La commedia di finita!’ と叫ばせる原典に戻ったということが、どこかの記事に書いてあったが、それ自体はすこしも目新しいことではなく、座長に言わせるか、トニオに言わせるかは、よく知られた演出的争点である。口上をトニオではなく、カニオが歌ったのも変わっているが、それも別に独創的とまでは言えないことで、よくあることの範疇に入る。

前半の舞台に比べ、私は後半の舞台について述べたいことはあまりない。発想は全部ありふれていて、マスカーニのときと比べれば、発想が枯渇したとしか思えないのだ。それにあわせて、音楽の表情も平板であった。最後、ワーグナー的になるところで、カリニャーニの特徴が出かけたが、完全ではない。最後のほうは、「名前」にこだわるところをみても、『ローエングリン』のパロディであることは論を待たないだろう。アルレッキーノの歌はカルメンの闘牛士に似ており、登場人物はこうした「名前」を背負って歌うのだ。しかし、そうしたことに対するアテンションは一切ないし、それに代わる発想の面白さも示されていない。こちらの組の歌手アンサンブルの低調さとあわせて、『パリアッチ』に対しては、私は冷淡にならざるを得なかった。

【市民のエネルギー】

ただし、次の場面の素晴らしさは、田尾下に一縷の望みを与えるだろう。それを語る前に伏線として挙げておくべきなのは、いくら駄目でも『衣裳をつけろ』の名アリアと、次の間奏曲だ。ここに含まれる座長の孤独は、サントゥッツァのそれに劣るものではないが、これと対照的に晴々しているのが、間奏曲のあとに登場するマスのエネルギーである。二期会のコーラスはここでも活き活きとしたパフォーマンスで、なにか面白いことはないかとウズウズする観客の立体感を見事に表現している。あるいは、それ自体がレオンカヴァッロの描きたかったものなのではないかと勘違いするくらい、この歌には惹きつけられる。

間奏曲から連続するカリニャーニの鋭いドライヴが、この活気ある観客を勇気づけているのは間違いない。相変わらずルバート系の演歌節は控えめだが、間奏曲は寂しく客席に上り、消えていくカニオの悲嘆を美しく彩る。歌手の歌うどの部分にも負けない、深いうたがマエストロの真骨頂を語る。そして、つづく賑やかな場面のはじけっぷりもさすがだ。主要歌手のパフォーマンスには安心できず、手堅い演奏を選ぶしかないが、合唱を相手にするときは、このように鋭い表現を用いることができる。

【公演のいびつさからの考察】

ここに、この公演のいびつさをみることができるだろう。この公演を支える歌手陣がどのように選ばれるかは知らないし、興味もないことだが、歌手のうちの一部はカー・レースにおける「ペイ・ドライバー」みたいなものではなかろうか。あれだけ優れたコーラスを組織できるカンパニーから、この程度のソリストしか選ばれないはずはないとするなら、彼らはほかの要因で選ばれているとしかみるしかないからだ・・・といってはあまりに不遜であろうか。私が真の意味で満足したキャストは、『カヴァレリア・ルスティカーナ』ではサントゥッツァ役の大山亜紀子、『パリアッチ』では脇役のベッペ役を務めた小原啓楼ぐらいのものだ。前者では、ほかにローラ役の富岡明子やルチア役の栗林朋子は及第点であるし、『パリアッチ』でもネッダ役の嘉目真木子や、シルヴィオ役の塩入功司はまあ、悪くないというレヴェルではあった。

しかし、特に男声陣ではどちらの作品でもパッとせず、大野徹也も未だにうまい歌手だとは思うが、本当は、より高い声域で力を発揮するタイプで、カニオ向きではないようだ。35年待ちつづけた念願の役ということだが、その思い入れとは別に、パフォーマンスは評価されてしまう。彼に限らず、すこし印象の薄かったキャストに共通して言えることは、これほど短いオペラなのに、全力で行けていないということである。そういう歌手が、なぜ選ばれるのか、私には理解ができないのだ。新国の舞台に出演したジュゼッペ・ジャコミーニは、なにが素晴らしかったのか。それは瞬間ごとに、自分の歌を決められたフォルムにぶつけていくときの一生懸命さだ。彼ほどの技術をもちながら、彼はいつも全部を出すことを躊躇わないかったのだ。それと比べると・・・本来、私はBキャストでみたかったが、ここしか来れなかったので、予想どおりの結果になった。否、それを下回る『パリアッチ』の出来には失望した。

【大山亜紀子の成長】

だからといって、素晴らしかった『カヴァレリア・ルスティカーナ』の印象が薄れてしまうようなことはない。歌手陣では先にも述べたとおり、大山亜紀子が予想を覆すパフォーマンスである。彼女の歌を聴くのは初めてではない(2008年のプッチーニ三部作の公演で耳にした)が、明らかな成長がみられる。声のムラが少なくなり、その伸びが爽やかになって、ヴェリズモならば十分に赦されるレヴェルの声の拡がりに、感情をコンパクトに託すことができた。なんといっても、先述の「告解」に立体感をもたせた張本人であり、トゥリッドゥをなじるにも、マンマにすがりつくにも、いつも高貴な人格を忍ばせている。

【パリアッチの結末】

『パリアッチ』において唯一の驚きは大詰め、錯乱したカニオからネッダを助けるためにシルヴィオが出てくる場面で、彼がナイフでカニオを刺してしまうところだ。カニオは刺されながらもシルヴィオを捕まえて刺し返し、その勢いでネッダも刺して、3人がそこに横たわる。客席でそれを眺めていたトニオだけが、最後の台詞をふてぶてしく叫ぶ。この結末にはあっと言わせられた。しかし、こうやって死んでしまうのなら、カニオもラクだろうと思う。彼の辛いのは、これだけの事件を起こしながらも、なお、自分が生き残るという悲劇である(カニオが最後に自殺する演出もあるが)。

こうした取りこぼしも踏まえて、今回の田尾下の演出は、ちょうど半分の50点としたい。しかしながら、彼は彼なりに良い仕事をしたと思うし、もうすこしキャストが頑張ってくれれば、演出に実が入ったかもしれない。2つの作品を比べると、『パリアッチ』のほうが音楽的な構造はゆたかで、よくできているが、面白いことに、『カヴァレリア・ルスティカーナ』と比べると声の役割が占める重要度が高い。それだけ、歌手にとって難しい演目だということである。『カヴァレリア・ルスティカーナ』は一応、イタリア・オペラをよく知っていれば歌うことができるだろう。しかし、『パリアッチ』を歌うにはドイツ的なもの、カルメン(フランス)的なもの、いろいろな発想が必要である。50点といっても、そういう作品の難しさからみても、演出家もこの舞台をよくした側に入れておきたいと思う。

【この2作品によるダブル・ビルの難しさ】

この2つの作品、同じヴェリズモでイタリアの田舎町が舞台、ともに作品が有名で、よく知られたアリアも揃っている、上演時間も手ごろということで、ダブル・ビルにされることが多いのだが、鍵盤作品におけるドビュッシーとラヴェルのような、簡単には描き出しにくいちがいがあって、実は並べてやるのは危険な作品だ。しかも、優れた上演でも、あまり褒めてくれそうな期待がない。ヴェリズモは下らないというイメージがあるから。その王様であるプッチーニの作品のスコアなど、アッバード家の書庫にはないというぐらい軽視されている。

しかし、カリニャーニは言っている。ヴェリズモは、イタリア・オペラのおわるところだと。終着駅のための表現として、相応しいものを彼は求めたようである。そして、田尾下はそうした作品と、人間のいのちを向きあわせた。これにもうすこし毒々しいユーモアが加われば、言うことはない。例えば、タラップから降りてくるカニオ一座を迎える群衆に ’NO NUKES’ のプラカードでも持たせてみたらどうだろう。あるいは、彼らにカネを渡すエージェントがいたらどうだろうか。こういう弄りはまあ、不要なものかもしれないが、田尾下の演出に足りないのはそのような毒だというのも、また確かなようである。

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