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2012年7月23日 (月)

ホルヘ・ルイス・プラッツ pf スクリャービン 24の前奏曲 op.11 ほか @武蔵野音楽大学 サマスクール スペシャル・コンサート 7/22

【ヴィルトゥオーゾの難しさ】

なんでも、すぐに、上手に弾けてしまう演奏家というのは、自分の音楽に対して特に厳密でなければならない。ピアニストの小川典子女史はその著書のなかで、英国の音楽事情について述べて、天才的な人が多い、初見につよいということを書きながら、一方で、あるレヴェルから上にいくこともあまりないという趣旨のことを書いている。この言葉は音楽表現にとって、あらゆる場面で重要になってくるキーワードだ。そのことを、私は特に弦楽四重奏のような室内楽の分野において、決定的ともいえる要素として考えるに至った。だが、「1人オーケストラ」であるピアノの演奏においても、この問題は切実である。

現代においては、100年前にはとても弾けないと思われたような難曲を、平気な顔でこなしてしまう若いピアニストたちがごまんといる。しかしながら、彼らの多くはろくでもない表現の持ち主でしかなく、例えば、コンペティションのような一発勝負の特別な空間から外に出てしまうと、まるで腑抜けたアーティストとしか見做されない。よって、コンペティションで好成績を残したような若者たちは手水鉢の金魚のように、コンペティションのなかだけでずっと輝きつづけるしかないわけである。ことコンペティションということでいえば、それぞれの事情にもよるが、概ね1985年ぐらいから10年ぐらいの間に、この傾向は著しくなっていく。

だが、このことは単に、演奏家が自分らしい音楽を保ち、発展させていくことがいかに難しくなったかということを示すだけであり、すべての音楽家がもはや、マトモではいられないはずだという悲観論ではないところが重要である。この日、聴いたホルヘ・ルイス・プラッツというピアニストも、そういう意味では、危険なヴィルトゥオーゾといえたのであろうが、彼ほどに、自分に厳しい音楽家というものも少ないのではなかろうか。たった1度のコンサートだが、私はそう言うことを躊躇わない。

前半は、ショパンの op.28 のプレリュードだった。24ものナンバーがあるので、多くのピアニストはそれらを任意に区切る(グルーピングする)ことで、作品世界を秩序づけて表現しようとすることも多い。そこへいくと、プラッツの演奏はシンプルそのものだ。野球の投手について言うところの、「一球入魂」の24球。ひとつひとつ、魂を込めて投げる。確かに、そのなかには、首をひねるような暴投もなくはないが、そのような「1球」にさえ、我々は敬意を抱かせられた。いきなり、このプレリュードの演奏で始まる演奏会も珍しいが、このプログラミングには意味があるようだ。そのことについては、後述する。その前に、このことだけは述べておく必要があるだろう。ショパンというのは、シンプルな作曲家だ!

【ひとつの音】

ショパンのプレリュードに関して、私が特に大きな感銘を受けたのは最初の数曲の演奏だった。といっても、そこでプラッツは、特にこれといって顕著なことは何もしなかったのである。聴く人によっては冷淡と思えるほど、彼の音楽は落ち着き払って、動じなかった。緩やかで、何気ない和音とリズム、さらにいえば、それを構成するひとつひとつの音の大事さに、プラッツはこの上もなく執着していたようである。あとで述べるように、このプレリュードを手本に書かれたスクリャービンのプレリュードは、より面的な組織への発展がみられるが、ショパンにおいては、まだ「個」立した音の選び方にすべての秘密があった。それはきっと、響きにひとつひとつが言葉に置き換え可能であったバロック以前の音楽と照応しあう作品の特徴である。

それゆえに、調によっては、本来、同一であるはずの「ひとつの音」がメタモルフォーズするという op.25 のプレリュードの構成は、実験的な意味をもっていたのであろう。プラッツが表現したかったのは、正にそのことであり、これは端的にいって、主に左手が担当するバックの響きと、右手の担当する旋律線の立体的な分離構造によく表れていた。ライブのアコースティックを援用できたとはいえ、そのアーティキュレーションの美しさは無類である。なお、ここでいう「美しさ」とは単なるステレオ効果的な分離の良さではなく、むしろ、その反対にある関係性のことを言っている。つまりは、旋律線の彫琢が明確でありながら、そのカタチが内部にしっかり立脚しているということが重要なのだ。

これは実は、のちにラヴェルにも影響を与えたような手法であるようにも思え、時折、私はプラッツのショパン演奏のなかに重なってくる、ラヴェルの作品を想像していた。これはもちろん、形式の混同ではなく、ラヴェルの作品がいかにショパンの影響をダイレクトに受けているかということの証拠であり、また同時に、ラヴェルがより古い形式の、「ひとつの音」に立脚する音楽家であったことの証明でもあろう。

【アンダンテ・スピアナート華麗な大ポロネーズの名演】

この24球は結局、次の『アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ』という勝負球のために用意されていたといっても過言ではない。アンダンテ・スピアナートは、正に「滑らか(スピアナート)」の一言で表現できる柔らかい演奏が特徴的だが、プラッツの場合は、そのままグランド・ポロネーズに直行しないのが特徴的であった。アンダンテのおわりのほうで、ショパンは長閑な跳躍的音型を連続して、徐々に落ち着けながら、パウゼを挟んでポロネーズに移行する。プラッツはその跳躍に至るより先に現れる跳躍的なリズムに注目し、これをさりげなく強調してポロネーズの「素」が、ここに出ていることを重要視していたのだ。これに導かれて例の音型が現れても、一旦、その活気を冷ましておくのが大事である。

こうして、アンダンテはスピアナートな本体と、その変容に関わる終盤の2つの「部屋」によって構成されることを、ものの見事に描いてみせたプラッツである。こうしてみると、パウゼと強烈な導入音(ファンファーレ)は、その補助的な役割しかもたないことを教えてくれるし、この作品のテーマが実に、プレリュードと同じ「変容」の見事さにあることは自明となるであろう。これさえわかれば、あとは彼の揺るぎない名技性に浸りきっておればそれでよかった。蓋し、名演である。

しかし、ショパンがみていたら、このような演奏に喜ぶかどうかは別問題というものだ。仮に友人のドラクロワが隣にいたとして、ショパンに向かって、「この演奏は君の考えているものとは随分、ちがうね」と評したとする。それに対して、作曲家はこのように応えるだろう。「確かにそうかもしれないが、彼は一生懸命、僕のことを理解しようとしてくれているね。間違いなく、僕の音楽が弾かれているんだ」。

【オーガナイズされた響き】

後半は、スクリャービンの op.11 のプレリュードで始められた。その響きはショパンの場合よりも、ずっと自然にところを定める。ショパンにおいては、あまりにも飽和的であった強い音を、スクリャービンの作品は力づよく受け止めてくれたからだ。この24球は、いっそう直球に偏っている。だが、その1球はもはや、単なる1球ではないようだ。その響きはより幅の広い組織によって、固められているせいである。隊列から引き抜こうとする警官隊から互いを守りあうデモ隊の群衆のように、その響きは重層的な関係から成り立っている。たとえ、もっともシンプルな楽想のナンバーでさえも、ショパンのもっとも複雑なオーガナイズを伴う1曲と同等の厚みで、表現されなくてはならない。

作品は、ハ長調で始められている。しかしながら、その響きには十分な蔭があって、その印象は、つづくイ短調で強調されているようだ。ショパンにおいて、あらゆる可能性で彩られていた実験的な「調」の旅が、いまは悲劇的な結末を予告されたジークフリートの冒険とみえる。とはいえ、ただ暗鬱な演奏になっているわけではなく、作品は先述したようなオーガナイズという新しさによって、スクリャービンが音楽の新しい扉を開くときの、その活気の凄まじさについても物語っているのだ。正に、ジークフリートが如き「揚力」である。下に向かえば向かうほど、作品は上昇する。悲劇性と劇的なドラマ性、強さと弱さ、進行と停滞の劇的な変化は、作品を絶えずメタモルフォーズして止まない。プラッツの演奏では、そうした構築のアイディアを端整に描き上げるとともに、あたかも作品がいま出来あがったかのように、即興的で、活力に満ちている点が特別である。

【ルバートとロマン性の崩壊】

その即興性を生み出す要素のひとつは、ルバートだ。ショパンにおいては強調されるこのテクニックと発想の所産が、スクリャービンにおいて強調されることは稀だろう。しかし、プラッツの演奏を聴いていれば、その思いきった溜めが、作品にとっていかに重要なオアシスであるかが期せずしてわかろうというものだ。それを単にロマンティックというのは、間違っている。むしろ、ロマンの崩壊・・・というキーワードでみるべきなのである。ロマンの崩壊が、いかに強烈な劇的特徴を放つかは、スクリャービンのほか、リヒャルト・シュトラウスやヒンデミット、プフィッツナーなどの例を引けば明らかであろうが、こうした音楽家の作品を征服するのに必要なのは、正に、その度を越した下降的なエネルギーのなかに、迷わず身を浸すことにあるのだ。

【ストラヴィンスキーへの応用】

こうして表と裏を完璧に描き上げたスクリャービンでの演奏スタイルは、最後のストラヴィンスキーでも共有可能であった。バレエ音楽『ペトルーシュカ』からの3楽章。私がこよなく愛し、コンペティションなどでもよく弾かれるが、まず満足したことはない演目である。この日、私のなかで、ついに「基準」ができたことを喜びたい。草冬香もこの作品について、バレエ作品に基づくドラマの喚起力に満ちた素晴らしい演奏をしたことがあるが、そのコンペティションにおいては、演奏は適切に評価されなかったと思う。その「基準」をはるかに越えるプラッツの演奏は、バレエとか、器楽曲とか、そういう枠組みをも超越した圧倒的な綜合のなかで輝いていた。

ピアノというひとつの楽器が、これほどまでに多様な個性をみせるものなのであろうか。プラッツの奏でるピアノは、ときどきオーケストラの響きの欠乏を告発しながら、見事なイメージの多様性でその告発を自ら克服していくのである。ピアノは打楽器であり、弦楽器である。ハンマーがピアノ線を叩くことで振動が生まれ、その響きが筐体のなかで醸成されて外部に響いていく。このバランスのなかで、ピアノはあらゆる模倣によって、オーケストラとしての多彩な機能を有し、発散することができるのだ。その無限大の可能性を開くのは、ピアニストの探求以外にない。プラッツの探求の成果は、なんといっても復活祭の部分に凝縮した。

例えば、「熊を連れた農夫の踊り」のところなど、あまりのワイルドさに思わずドキリとする。その堂々たるサウンドの野卑で、猥雑な強烈さを表現するに当たって、プラッツがピアノという楽器に対して、いかなる困難も感じていないのは明らかである。編曲によるあらゆる矛盾を、プラッツほど見事に解決したピアニストが過去にいたのだろうか。彼の演奏によれば、復活祭のパレードというカタチに託された変容の秘密については、非常に明快である。それはパレードのベースに度々みられるメロディアスな響き、ソナタでいうところの主要モティーフの重要性というところに生じている。その発想の面白さは、「バレエ音楽」という括りをいったん外し、華やかなモティーフとその華麗な変奏として、作品を構築しなおすところに始まる。そのうえで、もういちどバレエの動きを参照しながら、構造を組みなおしていく。

このようなプラッツの演奏からは、次のようなことが明らかだ。作品がもつ多彩な響きは、実は、限定された数少ない要素の変容でしかない。そして、その変容をリズムやアーティキュレーションの組み替えによって踊らせることが、『ペトルーシュカ』というバレエの本質にあるということである。いま述べたような構造観が明瞭になったとき、作品はもうひとつ高度な変容を引き起こす。それは一見、バラバラに推移していく要素が、電極に引き寄せられるイオンのように自然と収束していくということだ。

しかし、同時に、この作品がスクリャービンと同じような歴史的視座で書かれていることも、ふんだんに取り入れた演奏だ。どれほど華やかであっても、作品は恋に破れ、ムーア人に惨殺されるマリオネットの物語なのである。そのようなことを示す凶暴性、陰惨な響きの特徴がなければ、折角の鋭い構造的分析も役には立たない。だが、その導入には慎重な配慮が必要であり、全体のバランスを損なうほどのデフォルメは醜い。プラッツは、そのような感覚の鋭敏さにも恵まれていた。

【まとめ】

これほど見事な演奏を重ねられれば、私もさすがに、尻上がりにテンションを高めていくよりほかになかった。最初に述べたような理由で、ヴィルトゥオーゾ系の演奏家のコンサートでは、私は音楽家に対して、特に厳しい耳を向けるように心掛けている。録音などを聴いて相当の腕前があることはわかっていたし、腹まわりの異常に大きなプラッツはヴィジュアル的にも他人のような気がしないのだが、それはそれとして、小手先の上手な演奏には騙されたくないと思って、私は常ならず警戒していたものである。しかし、途中から、それが杞憂であることは明らかとなった。特に後半の演奏では、もはや全幅の信頼を寄せるに至ったのである。

アンコール・ステージも、多彩な内容で面白い。母国、キューバに関する作品を含め、あらゆる舞曲を奔放に弾いていったジューク・ボックス=プラッツの演奏は、たしか6曲にも及んだ。最後、見事なスペイン舞曲(ファリャ?)が閃いて、会場のテンションも最高潮に達する。キューバ一帯、ラテン圏をめぐる「お国もの」を弾くプラッツは愛嬌も抜群で、もって生まれたユーモアが少しずつ弾けていったが、それに対応する会場の反応も鋭敏である。最後は、舞台袖から首だけを覗かせて手を振るというお茶目さで、私の後ろに座っていた若い女子高生たちも思わず、「カワイイ!」と言いあうような明るい雰囲気に。わが国ではほとんど無名のピアニスト、ホルヘ・ルイス・プラッツはこうして、一夜にしてヒーローとなったのである。少なくとも、当夜、そこに居合わせた人々にとっては!

【プログラム】 2012年7月22日

1、ショパン 前奏曲集 op.28
2、ショパン アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ
3、スクリャービン 前奏曲集 op.11
4、ストラヴィンスキー バレエ音楽『ペトルーシュカ』からの3楽章 

 於:武蔵野音楽大学(ベートーヴェンホール) @江古田キャンパス

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