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2012年8月26日 (日)

杉山洋一指揮 東フィル ドナトーニ ブルーノのための二重性 ほか @サントリー芸術財団サマー・フェスティバル2012 8/22

【25周年のサマー・フェス】

25周年を迎えたサントリー芸術財団のサマー・フェスティバルは、すこしトリッキーな構成となっている。今シーズンは現役作曲家への「国際作曲委嘱シリーズ」がなく、細川俊夫が選んだ再演作品でつなぐことになった。そのため、テーマ作曲家がおらず、その室内楽作品と管弦楽作品を取り上げる公演がなく、テーマ作曲家が影響を受け、あるいは、現時点で注目する作品や作曲家を取り上げる「音楽の現在~海外の潮流」というシリーズが根こそぎない。これらの公演、特に日本で注目されない室内楽のシリーズと、玉石混交ながら、最先端の潮流に触れることができる「音楽の現在」シリーズを気に入っていた私としては、いささか不満がないわけではない。

今シーズンのサマー・フェスでは、これらに代わり、クセナキスの歌劇『オレステイア』と、ジョン・ケージの発想を応用した企画もの『ミュージサーカス』に力点が置かれている。

そして、テーマ作曲家の管弦楽を取り上げるシリーズに代わって、今シーズンは、イタリアの作曲家、故フランコ・ドナトーニが取り上げられたのも異例であろう。というのは、「国際作曲委嘱シリーズ」とセットになっていたことから、この枠では原則的に、存命で活動中の作曲家の作品が取り上げられることが常だったからである。ドナトーニはいまから10年以上も前に亡くなっており、湯浅譲二先生いうところの「未聴感」などは期待すべくもない。なぜ、いまさらドナトーニなのか。事前に思い描いていたこの疑問は、あとから考えれば愚かだった。いまさらではない。いまこそ、ドナトーニなのである。

【いま、ここに在る意味】

幕間のトークで、直弟子で、この公演の指揮を執った杉山洋一は言った。自分が師から得たものは、音の意味である。音楽の意味ではなく、音の意味であると。正しく、これだ。もはや進むべき道すら明らかでない、恐らく、そんなものはどこにもないクラシック音楽の分野で、あってもなくてもよいはずの音が、どうしてそこにあるのかということ。すべての作曲家は、そのレヴェルで悩まなくてはならない。自分はなぜ、ここにいて、あちらにはいないのか。あるいは、いなくてもよい自分が、どうしてそこに在らねばならないか。私は最後の『ブルーノのための二重性』という作品を聴いて、痛切にそのことを感じていた。この問題は作曲家に限らず、すべての現代人に同じように重く圧し掛かる。

ドナトーニは、明らかにその他の作曲家に比べて、ゆたかな才能をもっている。その人でさえ、自分の居場所を容易に見つけることはかなわない。そういう難しい時代に、私たちは生まれた。人々は絶えず、どちらに進んでもよさそうな選択肢のなかで生きている。臆病な人はそれさえ選ぶことができないが、ようやくにして、これと定めた選択肢さえも、ひろい世の中からみれば、どれほど意味のあるものなのか、わかったものではない。そんなものは初めから意味のないものだったのだと考えれば、ジョン・ケージの考えになろうか。この場合、「だが、ブルーノよ・・・」と作曲家は呼び掛けているようだ。ここにいう「ブルーノ」とは同業の作曲家にして、歴史的な指揮者でもあったマデルナのこと。俺たちは、懸命に時代を生きてきた。走り続けてきた。そして、そこで必死に追い求めてきた音の意味・・・それだけは、決して否定できるものではない。俺たちに悔いはない!

【ブルーノのための二重性】

ドナトーニが「オートマティズム」時代の晩期に書いた作品は、あるいは、彼が社会とコミュニケートする作品を書いた最後の時期であったかもしれない。この作品はノーノに匹敵する、重い社会性と取り組んだ傑作だ。それはドナトーニの体験した歴史であり、彼を衝き動かしてきた世界そのものである。1974~75年という時代からみて、傑出した新しさはない。編成もその他の曲と比べて減り、縮小する。しかし、そのなかに凝縮した響きの密度は、ドナトーニ一人の実力を越えている。それはもちろん、この作品がマデルナのための追悼作品として書かれているせいであろう。頑強で、ペシミスティックな響きは最終盤で、個人に対する追悼の重い言辞へと急速に転換される。これが、アイロニカルに自らの作風の変化を予兆する。

大太鼓の響きがWWⅡと、それにつづく戦争の世紀の記憶を呼び覚ますのと、後半の号泣する鐘の音とが同等に響くのが象徴的だ。こうして、ドナトーニは、変化していく。

【ドナトーニ変容の意味】

カフカの小説に、ある日、目覚めたらムシになっていたという奇怪な作品がある。この共感しにくいバカバカしい設定を可能とするものは、カフカの並外れた構成力と、文体の面白さに他ならない。ドナトーニの場合も、これと同じ種類の創造力が感じられるのだ。それは最初の ”In cauda” 3曲に象徴されている。弟子の杉山洋一は、この題名について、「行きはよいよい帰りは怖い」とうまい訳をつけている。なかで、Ⅱ、Ⅲ、Ⅴ、と3作品が演奏されたが、その印象はまるで異なるものだった。特にⅡとⅢは、その前に書かれたⅠから派生してできた作品であるにもかかわらず、これほど印象がちがうのは、正にドナトーニらしいところである。

Ⅱの作品に見えたのは、非常にミクロな生命感である。私のイメージに浮かんだのは、学校で顕微鏡を覗いて観察したミクロな生き物たちのことだ。ミジンコにケイソウ、ゾウリムシといった類のものである。その響きは大管弦楽によるダイナミズムとはまったく無縁で、むしろ、ソット・ヴォーチェや微かに弦を擦る音など、小さな響きのなかに印象がある。ただし、そのうちに感じられる生命の確かな息吹きは、ハッキリとしている。途中、ミニマル的な繰り返しもあり、作品はまだまだ多様な可能性を秘める爆発前の宇宙のように小さな空間しか占めない。その真の「大きさ」は表面上、聴いている者にはわかりにくかった。

これと比べると、Ⅲの構造の堂々たる威容は、誰の耳にも明らかであろう。ここに含まれる響きの圧倒的な運動性の鮮やかさと、バランスに対する傑出した感覚は、ドナトーニのすべてである。そこになければならない音の連鎖が、これほど新鮮に輝く作品といったら、珠玉のような古典作品を取り出してみても珍しいというものだ。

Ⅴはもう、ドナトーニの亡くなる寸前に書かれた作品としてもよい。Ⅱ、Ⅲのあとに書かれたⅣをおいて、その次に書かれた。その素材はⅣの「炎」から派生しており、今回の演奏会では、ⅠおよびⅣといった元になる作品を提示せずに、その結果を示しているのが特徴的である。クーセヴィツキー財団とロス・フィルの委嘱によって書かれた作品は、当時、オケを率いていた指揮者にして作曲家のエサ・ペッカ・サロネンの「エサ」が題名となっている。この作品では、助け合う響きが決して混じりあわないという矛盾を立体化したものに思える。私も大いに認めるエサならば、もっと精妙な響きのマジックを華やかに組み上げたことだろうが、我らが杉山は、そのもうひとつ奥を抉る演奏にした。

その結果、杉山と東フィルがカタチにしたものは、ゴツゴツした響きの通りの悪さであって、そこに、当時のドナトーニの状態を重ねてみると、きわめて示唆的なのである。エサがどのような演奏をするか、ドナトーニには予想ができたとすれば、いっそう示唆的である。なぜなら、それは作品の2つの顔をドナトーニが意識的に彫り上げていた可能性を感じさせるからだ。そして、もしもそうだとすれば、明るく未来に羽ばたくサロネンと、ゴツゴツした岩場を地獄に向かっていく自らの運命が、対照的に描かれているといっても過言ではあるまい。

いずれにしても、Ⅱの1993-1994年から、Ⅴの2000年までの間に、ドナトーニがこれほど大きな変化を示し、響きのうえでも、これだけ別々の表情を生み出していったということは驚異的である。一般的には、ドナトーニは『ブルーノのための二重性』くらいまでに「おわった」作曲家と見做されていたように思うし、実際、彼はフロント・ランナーではなかった。ところが、いま、こうして3曲を並べてみると、この時代のドナトーニが我々にとって、どれほど貴重な仕事をしていたのか、いまさらのように気づかされるのである。いちばん先頭を走ることだけが、湯浅譲二的にいえば、「未聴感」を探ることだけが価値ではなかったのだ。ドナトーニの示すのは、成熟しすぎた時代のなかで、そこに音を置くことの厳しさだ。

晩年にありながら、ドナトーニはその理想的な在り方を、絶えず変えながら、追究してきたのである。

【東フィルの健闘ぶりとホールについて】

これを実感的に教えてくれたのは、荒井コンマスを中心とするオーケストラの努力によるところが大きい。言葉にはしにくい局面の熱奏によって、彼らが体現した作品のバイタリティが、ドナトーニの音の厳しさを如実に物語っている。並大抵の音楽では、奏者たちをこのように熱くさせることはできないだろう。もちろん、その裏には、作品のすべてを知り尽くした杉山のアドヴァイスがあったのは想像に難くない。ただ、そうしたレヴェルの関係性を越えて、ダイレクトに譜面と結びつく音楽家の情熱までもが客席までハッキリと伝わってきたのである。そこで我々は、知ることができる。そこで鳴らされた響きが、どうして、そこにあらねばらないのかを。

その演奏密度は、前半のⅢとⅤで非常に濃かった。後半の演奏も印象的だが、”Prom” では若干、アイン・ザッツなどの消極的なミスが生じ、『二重性』ではアーティキュレーションの面で、多少の齟齬が生じたような部分が感じられた。そうした部分を割り引いても、これらの演奏がみな、素晴らしかったことに変わりはないが、ⅢおよびⅤの演奏における室内楽的な磨き上げの素晴らしさからみれば、後半の印象はやや緩むというわけだ。

だが、ドナトーニの音響的な美しさやその構造的なエレガンス、あるいは、一切の無駄がなく、妥協なく高められた音の価値など、これほどハッキリと示し得た演奏会も多くはない。岡部慎一郎氏は、サントリーホールでやるに相応しい音響のゆたかさを指摘していたが、正にそれは至言である・・・というか、誰もが思ったことだろう。強奏でも、響きの圧力よりは密度が重視され、非常に上品な響きが情熱に扱われる。響きを通じた客席との一体感。こうしたものを感じるのに、このホールほど相応しい空間もない。

【まとめ】

フランコ・ドナトーニ・・・偉大なる求道者。しかし、すべての道は音から導かれる。音楽や作曲家など、その道を彩る松のような存在にすぎない。だが、その松の、なんたる美しいことよ。そして、この松の配置には、決して揺るがぬ意味があるということ。私たちはいつも、思っているはずだ。自分もそのように、揺るがぬ松でありたい。従来、ドナトーニについて、私たちはあまりにも無関心であった。もっと光を当てるべきだ、もっと聴かれるべきだ・・・というような発言を、私は嫌う。その代わりに、私はこのように言いたい。ドナトーニを学ぶことで、私たちに、いま、欠けたるものを補うことができるであろう。

【プログラム】 2012年8月22日

オール・ドナトーニ・プログラム
1、In cauda Ⅱ
2、In cauda Ⅲ
3、エサ (In cauda Ⅴ)
4、Prom
5、ブルーノのための二重性

 orch:東京フィルハーモニー管弦楽団(cond:杉山 洋一)

 コンサートマスター:荒井 英治

 於:サントリーホール

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