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2012年8月27日 (月)

第22回芥川作曲賞 選考演奏会 2対1の採決で新井健歩が受賞

【搦め手の音楽が評価された!】

搦め手を突くことで、勝利を誇った英雄は意外と少なくない。例えば、前漢の高祖(劉邦)は、敵の少ない間道を選んで、正面突破の項羽を出し抜いてしまった。今回の芥川作曲賞は、正に搦め手を選んだ新井健歩の受賞となる(『鬩ぎ合う先に』)。この作曲家のスケール感のなさは、最後に照明を消すという愚かな発想によっても決定的である。サウンドは単に煩く、高橋裕も指摘するように、様々な技法的工夫にもかかわらず、響きの特徴はきわめて保守的であるように聴こえた。若々しく、この時期しか書けないサウンドの鮮やかさはあり、その筆力は他の候補と比べても見劣りするものではなく、むしろ勝っている。しかしながら、彼の音楽がもつ特徴やその主張に対して、彼の音楽が真っ向から向き合っていないのは明らかであり、あくまで「搦め手」の表現がつづいた。

そのため、ヴィヴィッドで交響詩的なストーリー・テリングの爽やかさにもかかわらず、私のこころに残るのは、ただただ逃げの精神でしかない。彼の目指したものは、こころ(=志)の弱さを、響きの強さや精密さで補ってやることだ。このような音楽を前向きに評価する2人の審査員(北爪道夫、原田敬子)の感覚は、私には到底理解しがたいものである。もうひとりの高橋裕(第1回の受賞者)は、大場、阿部につづいて3番手の評価だっただけに、選考では紳士的に引きはしたものの、この音楽の逃げの精神については私同様に感じていたにちがいない。

腹の底から出てくる音楽が聴きたい、彼はそういう意味の言葉を繰り返していた。新井の作品は、そうは聴こえなかったのであろう。

【筆力の使い方】

さて、今回の作曲賞の傾向であるが、4作品はいずれも筆力の高さで一致している。それにもかかわらず、その使い方が十分な説得力をもたず、また、ワン・パターンであることが共通していた。そのなかで、高橋審査員が自らの予測を破って、次々に新しい発想を見せると評したのは阿部俊祐の作品 ”IL” であるが、そういう見方もできなくはないとはいえ、この作品は総じてサウンドを律する発想の起伏が足らず、現代社会から締め出されていく人々や若者の憂欝といったものを描くためには、より一層の複雑な精神機構のイメージが必要だ。つまり、この作品に描かれるような躁鬱的な濁りや清らかさだけではなく、もっと外面と激しくぶつかり合い、内的にも幸福な人には想像もできないような、煮えくり返り、あるいは、もう何も考えられなくなるような空虚さ・・・そういったものが響きの面で追究されなければらなない。

筆力の鋭さはそれなりに訓練すれば身につくとしても、こうした複層的な人間のこころを描くに足るだけの説得力は、なかなか身につくものではないようだ。

【音楽の神秘性】

大場陽子の(別の)作品は彼女の参加する作曲家グループ「クロノイ・プロトイ」の演奏会で聴いたことがあるが、世界的にはポスト・ミニマルの潮流が探られるなかで、より古いタイプのミニマル・ミュージック(繰り返し音楽)にこだわりを見せており、彼女が伝えたいと目指すようなメッセージからみると、その表現法が対象からかけ離れているように思えた。今回の作品『誕生』では題名が宇宙のイメージと重ねて表現され、彼女の持ち味により相応しい素材が選ばれているのは確かである。

しかしながら、この音楽を聴いていると、私は植物になった気がするのだ。植物に聴かせるには、それは良い音楽だろうと思う。ゆったりした時間のなかで、彼らは気ままに葉を伸ばし、ゆたかな実をつけるであろうし、大場のイメージも大概、そんなところだったのではなかろうか。人間的な美よりも、むしろ、自然や植物の美や自由に惹かれているところに、大場陽子という作曲家の面白さはあろう。だが、反面的にみれば、大場の「理想」もやはり人間からみた自然や植物の姿であり、その内部に流れる生命の不思議や、そのあくなきまでに追求され、なにか神的なものがコントロールしているとしか思えないシステムの奥深さを、そのミニマルの精緻な計算高さだけで表現するには物足りないように思えるのだ。

例えば、皆さんがスイカを食べ、その種をそのまま庭の畑に撒いたとしても、スイカは発芽しない。我々が食べるとき、スイカにとっては発芽に相応しい季節ではなく、発芽を阻害するような物質が果肉に含まれ、また、種もヌルヌルした液体で覆われて、種の呼吸を遮っている。これが適当な時期になると、ヌルヌルはなくなり、発芽を阻害する物質も出ないようになる。この説明を聞いて、やっぱりミニマルと似ているのではないかという感覚がするなら、あなたはあまりにも、その神秘的な部分に浅はかな批評眼しか持っていないことになろう。私はもっとダイナミックな仕掛け、ミニマルも結構だが、内部からそれを打ち破っていくような神秘的な瞬間。これがなければ、嘘だと思うのだ。

【瞬間を構成する能力】

今回の4作品のなかで、私がもっとも深い敬意を表するのは、塚本瑛子の作品『一瞬のうちに』(”In einem Augenblick”)である。お茶の水大の哲学科からケルン音大に進んだ異色の経歴をもち、この作品は地元のケルン・フィルで、サー・ロジャー・ノリントンの指揮により取り上げられたものであるということだ。私はこういう肩書きを重視しないが、日本の音大を出ていないため、ムラ社会の日本ではアウェー感がある分はすこし加味して考えた。それはそれとして、私を驚かせたのは、その「瞬間」を構成する能力の素晴らしさだ。

冒頭和音で、私はもう完全に惹き込まれた。これは新井作品で、のっけから軽い不快感を覚えたのとは対照的である。彼女が示すのは、正に、この瞬間との出会いの喜びであった。全体の構成からみて云々という批評が相次いだが、私はそのような枠組みには嵌まらない作品であるように感じた。あとで述べるが、演奏会の最初に演奏された山根明季子の作品も、同じように瞬間の鋭さを切り取ったものであるが、それと比べても、はるかに印象のつよい響きが瞬間ごとに生成されていく。作品はすこしく悲劇性を帯びた響きを挟みながらも、全体はじっくり世界と向きあうような強かな諸相を示す。編成は古典作品にちかく、打楽器のような推進系の響きを用いずに、伝統的な管弦楽法を駆使して、それを柔らかく捻じ曲げて作品のなかに組み入れていくテクニックは天才的だ。

私がイメージしたのは、アンリ・デュティユーの作品である。しかし、それと比べても、より古いイメージとの向き合い方に、彼女の現在の関心があるように思えた。プログラム・ノートにもあるように、彼女のイメージのなかで生きている過去と未来、そして、現在が、この作品を鮮やかに彩っている。そのなかで、多少、豪華すぎるサウンドがときに花開くのは若い彼女の「欲」であり、彼女が経験を積んで、年齢を重ねていくごとにすり減っていく性質のものだ。

少なくとも、彼女を審査した3人の作曲家の誰もが、彼女の才能には及ばないように思える。そのような印象を強くした。藤倉大なども芥川賞に何度もノミネートして、確か3回目でようやく受賞したものだ。彼女も、そのような器であろうかと思う。

【山根作品は期待はずれ】

演奏会の最初には、2年前の受賞者、山根明季子への委嘱作『ハラキリ乙女』が演奏された。山根の作品にはいちど接してみたかったので、これは願ってもない機会と思えた。作品も薩摩琵琶の若い奏者、西原鶴真にインスパイアされて書いた作品であり、この日も西原を招いての演奏だったので期待も膨らむというもの。

ところが、実際には期待はずれであった。「期待はずれ」とするいちばんの根拠は、薩摩琵琶の良さが十分に生かされていなかったということである。例えば、リンクの動画は西原自身による琵琶の演奏の抄録だ。なるほど、ここからは琵琶の「時代」を画するような個性を感じる。これをそのまま出したいなら、特に山根が作品を用意する必要はない。彼女の新しい面を引き出すように、山根は書きたかったのだろう。しかしながら、その解決として山根が選んだのは、ただただ鋭角的な響きばかりである。

琵琶の良さというものについて私は不勉強であるが、その私でもわかるのは、琵琶がその鋭さと丸みを帯びた響きの両方をもち、これらが互いを抱きあうように鳴ることで、独特の世界観を形成するということである。山根の作品においてはその丸みといったものがまるでなく、ただただ鋭い響き、それが、「ハラキリ」のキッチュなイメージということに繋がるのであろうが、その発想はまあよいとしても、現実に出てくる響きの味わいはとても満足なものとはいえず、そのキッチュなイメージの先になにを表現するかというものが見当たらない。作品はその特徴的な鋭い響きにより、なにかを置き去りにするようにしてスパッと終わるが、その印象は甚だ雑であり、できかけのものとしかみえないのだ。

ときどき見える煌びやかなサウンドと、それを照れ隠しするような奥ゆかしい響きの特徴は、非凡なものである。この一作だけで作曲家の価値を忖度することはできないが、イメージどおりのゆたかな発想力というものは感じずに、いささかは失望したのも事実である。

【芥川賞はシステムの改革が急務】

なお、前説と公開審査の司会は評論家の片山杜秀氏が務めたが、全体的に真面目さに欠ける印象で、審査の最後も多数決を半ば押しつけるなど、私は不快に思った。芥川作曲賞はあくまで3人の合意によって決まるもので、まとまるまでは討論をすべきだ。近年、スプリット・ディシジョンになることも多いが、そのときの討論方法は確立されていない。そのため、最終的には数だけで結果が決まることになる。審査方法がうまく確立できないなら、オーディエンス賞を設けて、フロアの意見を反映するのもひとつの意見だ。

また、作曲家が作曲家を評価するというシステムがつづいているが、例えば、演奏した指揮者やプレイヤーが審査に加わるなど、討論を深めていくための仕掛けが必要なように思う。

公開審査をみていて、しばしば感じられるのは、結局、作曲家は自分の理想を追っていくだけであり、他人の追う理想には興味がないということだ。それはある意味、当然のことだろう。そこから、どうやって議論を深めていくかということが重要だ。その面で、司会の役割も決して見逃すことはできない。ただ、現在のシステムでも面白さがないわけではないのだ。それは結局、審査する作曲家の側が、それを聞く我々から評価されるということから来るものである。残念ながら、今回の3人は評価が低いかもしれない。審査員も世代交代を進めているところだし、それに見合ったシステムの改革が必要である。

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コメント

はじめまして。わたしも塚本さんの作品が選ばれると思っておりましたので、記事に深く共感しました。

アリスさんの意見に同意です。
それにしても司会が酷かったですね。結婚式の司会じゃあるましし、段取りつけるだけでお仕舞いなんですから。
司会者は選考委員の意見を整理して、論点を浮き上がらせ、観客にうまく伝わるようにするのが仕事だと思うのですが、片山氏は全く仕事をしてませんでしたね。
もちろん選考委員のレベルが低く、それぞれの選考基準がまったくわからなかったし、言葉も意味不明、北爪氏の「高橋さんとは考えがちがう」と一方的に切り捨てるなどの態度が後味のわるいものとなったこともありますが、司会者次第でもっと実りのある議論ができたのではないでしょうか。その点では、昨年までの白石さんはよかったと思います。

しかし、毎年思うのですが、演奏は良かったですね。来年からは演奏だけ聞いて帰ることにします。


匿名さん、価値観を共有できることは素晴らしいことです。共感するなら、ハンドルでも、名前ぐらいは書いてほしいですけどね。

アッキーさん、ご返答が遅くなり、申し訳ございません。

本当に、この選考会の司会は選考委員以上に大事かもしれないと思います。傾聴というのは難しいものですけど、さらに、こういう形でインディペンデントな作曲家を3人呼んで、その場で聴いて、個性も異なる数作品を審査するわけですから、司会も票のない選考委員くらいの立場であるべきで、より踏み込んだ役割が必要です。

最後に書きましたが、システムの根本的な改革なしに、この賞が社会のなかで、役割を果たしつづけることは難しいと感じています。

例えば、こういう布陣だとどうでしょうか。司会にはピアニストで指揮者の中川賢一、選考委員はドナトーニで成果を挙げた杉山洋一、演奏した楽団を代表してコンマスの西江辰郎。作曲家を代表して、客席にいた池辺晋一郎。さらに、数々の現代音楽を睨んできたクラリネット奏者で指揮者の板倉康明と、ギタリストでアンサンブル・ノマド代表の佐藤紀雄。

否、駄目ですね。こういうのは言ったもの勝ちですから。

匿名と書いた者です。名乗らず本当に失礼しました。私もアリスさんと同じく、審査員だけではなく、聴衆や演奏家の方々の意見を取り入れた方が良いのでは、と思います。

ひよりさん、ありがとうございました。名乗ってくださったおかげで、お望みならば、このブログを通じて、今後も親交を深めることができます。なるほど、あらゆるコンペがそうですが、審査基準はなるべく広くしていくべきだろうと、私も思います。もはや審査員の権威に頼る時代は終わりました。

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