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2012年8月22日 (水)

東京ジュニアオーケストラソサエティ with 広上淳一 ブラームス 交響曲第1番 8/19

【欠けたるものを補うアイディア】

確かに、響きの重みとか、力感の不足はないわけではないが、オーケストラの面白さというのは、結局、なにか欠けたるものをいかに埋めるかという発想力で競われるべきではなかろうか。日本も、望月に欠けたることがないというような時代は終わりを告げた。いま、ここで弾いている東京ジュニアオーケストラソサエティ(TJOS)のメンバーたちも将来は、沈み行く太陽をいかに掲げるかという苦悩のなかで生きることになるであろう。他人事ではなく、私も彼らほど若くはないしても、もはや、国家のもつ豊かさのなかで守られているようには感じない。

このオーケストラの芸術監督を務める篠崎史紀氏は、メンバー募集に関して言っていた。このオーケストラでは、自分でなにかをしたいという人が求められていると。それは、この時代の日本を生き抜くためのひとつのキーワードであるかもしれない。欠けたるものを補うために、何をすればよいのか。そうしたことに対するアイディアの豊富さということにかけては、広上淳一という指揮者は天才的なものを持っている。しかし、それを実現するのは、何といっても若いプレーヤーたちだ。篠崎氏が幕間に言っていたように、彼らにとってブラームスというのは高く険しい山であろう。しかも、もっともパワーとスケール感の求められる交響曲第1番というプログラミングについて、私は無理があるのではないかと思っていた。

冒頭、やはりイメージどおりの図太い音は期待すべくもなかったものである。しかし、響きが鋭くとられていたことから、機動力を生かしてスペースを埋めていく作戦だと想像したのだが、その見方はいかにも浅はかだった。広上氏の戦略の凄さについて物語るとき、どの場面をイメージしてもらうかについては頭をひねったが、そのことについて述べる前に、誤解を避けるために先に申し述べておきたいことがある。それはつまり、彼の若い人たちに対する要求はプロ・オーケストラに対するものと、多分、すこしも隔たったものではなかったということだ。もしも違いがあるとすれば、それは対位法に関する細々としたイメージを、すこしは端折ったというぐらいのことでしかない。それを本格的にやろうとすれば、前半にはモーツァルトか、バッハでも組まなければならないところだ。

その代わり、広上はロマン派の手法で、ブラームスの作品をより高次のイメージに引き上げること、つまりは人間的で、具体的なものに結びつくイメージの立体感をつくりあげることで、その構造的欠陥を補おうとしたのだ。これは構造を捨て、浪漫的な感情の写実性や、響きの享楽性に重きを置いたというのではない。構造の克服という本質を掴むために、その本質から一見、遠いところからアプローチしていくという順序の問題である。なるほど、その結果として、例えば、終楽章の一部で貴重な構造物を支える対位法の骨組みが、神々しく押し上げられる部分に生じる究極の甘みは後退する。そのようなものを感じ取るためには、彼らはまだまだ若すぎるのであろう。それはそれとして、ブラームスの構造美はきっちりと実現されている。

【素晴らしかったブラームスの終楽章】

特に、終楽章のそれは見事だ。序奏のあと、金管のコラールをはじめ、第1主題を構成していく要素が慎重に集められていく筆致の丁寧さは、まず最初の感動を誘う。バトンをしっかり手渡すように、後を継ぐ奏者の気持ちを考えながら、最後まで弾ききって抜けていくプレイヤーたちの真心がつながっていく。それらに乗って出現する主題の深い音色は、次に私たちを虜にする。リードとなるヴィオラの健闘が、特に耳を惹いた。さらに、それをつないでいく各パートのゆたかな響きにも感銘を受ける。だが、さらに深い感銘を受けたのは、それが再現されたときのことである。1度目のときと比べて、不思議と基本があるのだ。何が変わったという感じもしない。テンポやバランスに大きな工夫があったとは思えないのに、こういう変化が生まれるのがクラシック音楽における「魔法」である。

コーダも素晴らしいが、今回の演奏では、その素晴らしい部分を構成していくときの直前の構造の美しさまでもが強調されていることを忘れてはならない。つまり、再現部の最後の素材の片づけ方というのが、今回はひときわ手際よく整理されていたというわけだ。先に、細々とした対位法的構造の克服を後回しにして、その本質にいきなり接近していくことについて述べたが、ここでは、再現部からコーダへの移行が非常にスッキリした流れになっており、このような構造的な省略のなかから、広上が取り出すのは大胆極まりないブラームスの発想の鋭さだ。響きの面では、これは過度な音響的強調に対するコンパクトな密度の追求としてみられる。

この密度の高さが生み出す響きの効果は、下手に重厚な演奏を苦もなく凌ぐほどである。つまり、上に述べたことの結果として、私が客席で感じたのは単に鋭く機動的な響きというよりは、ずっしりと腹に響くベルカント的な重力なのだ。かような発想とともに、構造的な視点で特に強調しておきたいのは、広上のつくるコーダはその大詰めで3つの大きなパウゼを挟んで跳躍する部分までに、ほぼその全貌を示すということだ。イン・テンポを好む広上だが、この部分はゆったりとしたペースをとっている。このおかげで、すべての構造物は十分に膨らんで位置を占め、そのバトンの在り処をしっかりと示して、次の構造物につないでいくことができる。そして、パウゼとその後の構造は、単なる遊びとして抜いているようにみえた。

【個が目立つ第2楽章の重要性】

終楽章以外にも、第1楽章、第3楽章も素晴らしかった。それに比べると第2楽章はミスが目立ったが、それにもかかわらず、この第2楽章に十分の評価を与えることが、私には正しいことのように思える。それは広上が、この楽章で通常以上にソリスティックなパフォーマンスを求めたからであり、また、プレイヤーたちも真剣に、それに応えようとしたからだ。確かに、ソロ・ヴァイオリンは浮き上がりすぎ、豆腐屋の笛のようなホルンの響きは頂けない。しかし、このような個の追求が、先に詳述した第4楽章におけるリレーと関係しているのは言うまでもない。むしろ、私はこうしたチャレンジングな失敗を通じて、第4楽章の密度が高まったことに喜びを感じるのだ。

すべての楽章が完璧に仕上がっているほうが、それは素晴らしいに決まっているだろう。しかし、それに次ぐものとして、先の成功が予見できるような失敗はネガティヴに捉えてはならないのだ。そうはいっても、プレイヤーはそれを後悔するだろう。その後悔に押しつぶされるか、あるいは、それを克服してより高い緊張感を得るかは、こうした一回きりの芸術にとって死活問題である。そして、どうやら、このオーケストラのメンバーたちは、常にミスと前向きに向き合う人たちの集合であったようだ。

うまくいったものも、そうでないものも含めて、この楽章にはソリスティックな魅力が溢れている。ほかの作曲家とは異なり、ブラームスは十分に経験を積み、作曲家として揺るぎない実力を備えてから交響曲の分野に取り掛かった。それまでに得た室内楽での経験値が、この楽章に遺憾なく発揮されているのは今回の演奏で明らかだろう。広上はそのことの強調と、メンバーの挑戦心を引き出すという2つの要素を上手に突き合わせたわけだ。そのおかげで崩れるイメージは僅かであって、むしろ、作品のなかにヴァイオリンや木管楽器などを用いたソナタや室内楽の要素が無数に見つかることを体験したことで、私は大いに満足してしまったのである。

【音楽の密度】

そして、この演奏姿勢はこの日の一球入魂・・・すべての場面に息吹きを与える渾身の演奏姿勢と対応するものとなっていた。先にすこしだけ、その言葉を使ったが、ここでは「密度」というキーワードを大事にしたい。

演奏の密度を濃くするために、採ることのできるアイディアは無数にある。そのゆたかさこそ、音楽家の本質を構成する独創性につながっていく。広上とTJOSのそれは、響きを生きものとして捉えることだ。その姿勢はブラームスでも顕著であるし、より端的には最初のプログラム、ムスルグスキー『禿山の一夜』から明瞭に感じ取ることができる。広上が描きだしたサバトの風景は、スラウ的な野性と無関係ではなく、そこでは人間的なものと動物的なものに本質的なちがいはない。魔女たちの圧倒的な生命感は、人間よりは、むしろ動物に接近している。その響きの特徴は、弾力性に満ちた独特のアーティキュレーションに基づくアンサンブルの快活さに求められよう。

打楽器、金管といった圧力のつよい楽器の用い方が実に巧みだが、それ一辺倒ではなく、細かい押し引きを通じて様々な楽器の味わいが全的に生かされていることを広上は巧妙に描き出す。正に、オーケストレーションの天才とされるリムスキー=コルサコフの面目躍如たる筆致の凄さを感じさせる演奏に、私は目を丸くしたものだ。リンクの演奏のようなアナーキーな魅力までには到達しておらず、しばしば官僚的な響きの整列が作品本来の味わいを損なう局面もあったが、そのことは強調的に論じるほどでもない。そこで次には、その響きの鮮やかさだけではおわらなかったことも、併せて述べておく必要があるだろう。終盤の鐘の音を背景に、サバトの喧騒が洗い浄められていく場面だ。

ここで広上が構想したのは、背景と前景の合体である。そして、この作品の本質も、そこに隠れている。この演奏会のテーマひとつには、荒々しく悲劇的な事象に対して、若者たちがどのように向き合うかというものがあったようだ。ときにムソルグスキーは結局、このおどろおどろしい風景が山の美しい夜明けとともに浄化され、神々しく光り輝くときの風景を、最後に逆転させるアイディアをもっていたのではなかろうか。作品は背景が、仰々しく魔女たちの宴を彩る前景を取り込んでいくわけだが、その象徴物となるのは鐘の音と、終盤、たおやかに響くハープの音であることは言うまでもなかろう。背景に置かれていた前者のイメージが、徐々に作品全体を乗っ取っていくときの静かなるダイナミズムに、この作品のすべてがあるといっても過言ではないぐらいだ。

肝心の鐘は、慎重にひとつひとつに意味があるように打ち鳴らされた。あからさまに強調されてはいないが、確実に「生きる」響きとして、それが背景に息吹きを与えるのが明瞭な演奏である。終盤、いくつかのハッキリしたミスによって、この背景の真に輝かしく、また、魔女たちよりも恐ろしい生命力が幾分、減じられたとしても、作品の本質に迫る表現が簡単に萎えてしまうことはない。この鐘の音を中心としたイメージに、音楽の密度の濃さを感じることができる。

【悲劇に向き合う若者たち】

さて、先に述べたような、悲劇に向き合う若者たちという構図でいけば、そのメインにグリーグの『ペール・ギュント』の2つの組曲が置かれるのは、なかなかに示唆的である。私の記憶が正しければ、この作品は中学校の音楽の教科書に載ってくる。しかし、ペールというのが何のことかについても、北欧のキホーテ的なその悲しい物語の内容についても、私は習った憶えがないのだ。広上がつくのは日本の音楽教育の盲点であり、今回の演奏は、その中途半端な実践に対する強烈な皮肉であるのかもしれない。

ペール・ギュントは周知のとおり、イプセンの原作による劇作品で、北欧版のドン・キホーテともいえる風刺的な作品である。ペールは何人かの女性たちとの恋を中心に、彼の正確に相応しい奇怪な体験を重ねて老い、そして、死んでいく。彼は純真な恋人、ソルヴェイグを半ば捨てて旅に出るが、結局、彼女の自己犠牲的な愛情だけがペールを迎え、そのなかで死んでいくのである。このなかには、死や狂気、若さと老いなどといった人生をめぐるテーマがあり、階級や社会的地位の混乱という社会的なテーマもあるし、「恋愛」というすこしは身近なテーマもあるのだが、ペールはそれを他人よりも荒々しく扱うのだし、相手役のソルヴェイグも長年、彼を待ちつづけるという異常な事態を演じるのであるから、やはり、中・高生中心とするオケのメンバーには、なかなか想像しにくい世界であろう。

広上は、2つの組曲を全部演奏するという選択をしたが、そこには、いま、私たちとって忘れがたいひとつのエピソードが重ねられていたように思えてならない。それはもちろん、昨年の地震と大津波である。広上らしく楽天的な「朝」の風景に始まる第1組曲だが、クライマックスとなる第4曲「山の魔王の宮殿にて」の圧力は凄まじく、同じ旋律の繰り返しが押し寄せる波のイメージにぴったりである。悲劇の予兆である「オーセの死」は、組曲の緩徐楽章的な部分に置かれている。日本の古謡『さくらさくら』との類似性はよく指摘されるところだが、これが終曲の雰囲気と対応するのは当然である。しかし、この部分の演奏もオルガンのイメージを組み入れるなどして、秀逸だ。

これらと比べると、「アニトラの踊り」の官能性はすこし抑えめである。というよりも、とても小さく演奏されている。その小ささにも関わらず、ペールがこころを奪われてしまうところに音楽の風刺性を見出しているわけだろうか。実際、音楽は徐々に本物の官能性と見紛うほどに成長し、前後の曲と連結したイメージで「予兆」をおえる。

これに対して、第2組曲はより自由なイメージで構想されている。重いナンバーがつづく分、第1組曲からつづけた場合、やや淡白な印象は否めないが、ソルヴェイグの存在を中心に置き、やや悲しい雰囲気のなかにも、ペールの魂がどのように救われていくかという難しい問題を扱っている。第1組曲終曲の雰囲気を受けて、第2組曲の第1曲「イングリッドの嘆き」に接続するのは広上のアイディアを端的に物語るだろう。これら2曲の演奏は、全曲のなかでも傑出しており、オーケストラのメンバーもわからないなりにもよく考えた、ということのあとが窺える。

この嘆きを端緒とした悲劇と喜劇がない交ぜになった復興讃歌が第2曲から第3曲となるようだが、ペールの人生からみても、これらが本質的なものでないことはわかりきっている。これに代わって、重要なのが「ソルヴェイグの歌」である。美しいハープと弦楽器による序奏から紡ぎだされるストリングスの丁寧な歌づくり、そして、それをサポートする全メンバーのこころが伝わってくる好パフォーマンスで、ペールならずともこころが温まる。歌曲としてもフォームをしっかりと意識し、抑えた表現がむしろ全体を輝かせる。

しかし、繰り返されるメロディは、ソルヴェイグの長すぎる「待ち」を象徴するものでもある。作品のもつ詩情はそうした悲劇が生じさせるアイロニーと、その美しさの間で明滅するのだ。彼女の自己犠牲の圧倒的な輝きに感嘆するのか、あるいは、待たせすぎたペールの愚かしさにのみ着眼するのか、その見方にはあなたの人間的センスが問われるであろう。だが、次のことはいずれの場合でも逸してはならない。身近なものにこそ、いつも大事なことがある。

【音楽は最高の教育】

音楽は、最高の教育であるのか。その社会的効果については、ベネズエラの「エル・システマ」と、その波及であるドイツなどの例で強調されてきている。しかし、社会がそこにコストをどれだけ集中させることができるのかという点については、簡単な議論ではない。少なくとも、TJOSの例をみるかぎり、そこに払われるコストは、単に音楽的成功だけに止まらない数々の成果をみるような気がしてならない。彼らはあらゆる分野で、リーダーシップを発揮するような人間になれるのではなかろうか。

日本版「シモン・ボリヴァル・ユース・オーケストラ」たるTJOSの活動には、より大きな社会的関心が向けられるべきだ。

その活動のレヴェルの高さは、この演奏会によって、ハッキリしたといえよう。このオーケストラの演奏は、アマチュア・オーケストラのなかでもレヴェルの高い集団、あるいは、プロの演奏と同じように論じることができるし、それだけの刺激、インスピレイションを私たちに与えてくれる。

だが、それだけではない。この集団が、正にこれから、自分たちで国をつくっていかねばならない人たちだということが重要なのだ。日本の国力が低下していくなかで、音楽やスポーツといったものの価値は両極端に扱われがちだ。一方では、沈みいくプライドを持ち上げるものとして重宝される一方、直接、生活を支えるものではないという観点から軽視されることも少なくはない。後者の代表選手が、橋下徹のような考え方である。しかし、日本の男女サッカー代表チームが、私たちの理想の社会を体現してくれているように、これらのものは、私たちのこころや生き方の鏡像であり、そのチャンネルを多く、上質に保っていくことが、日本にとってどれほど大きなことかという問題を、彼は無視している。

橋下徹という現象は決して特別なものではなく、実はありふれているのだ。そのようなありふれた発想から、TJOSのメンバーのような活動だけが、大事なものを守ることができる。数十年後、下手をすれば日本のオーケストラはその大半が姿を消していることだろう。このような時代に、TJOSのような基盤をなるべく数多く、上質なもので用意していくことが悲劇を防ぐことになるはずだ。日本には、アイディアが必要である。私たちのプライドは、生活よりも重いかもしれない。だから、憲法は言っているのだ。健康で文化的な最低限の生活が守られればならないと。

【プログラム】 2012年8月19日

1、ムソルグスキー 禿山の一夜(R-コルサコフ編)
2、グリーグ 劇付随音楽『ペール・ギュント』第1/第2組曲
3、ブラームス 交響曲第1番

 於:文京シビックホール(大ホール)

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