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2012年9月16日 (日)

杉山洋一 モーツァルト レクイエム 難民を助ける会 忘れないで3.11 チャリティ・コンサート 9/13 ① レクイエム

【音楽は人々をひとつにする】

魂の入った演奏は、人々をひとつにする。そこには皇后陛下のような日本国民の象徴にして、日本国民統合の象徴という不思議な存在もいらっしゃれば、私のように、社会のなかで問題にならないほど下賤なる者もいた。その間には様々なる階層、年齢、社会的背景をもった人々が、たくさん詰めかけていたはずだ。しかし、少なくとも、ここに流れた音楽の前では、そうしたちがいは何程のものでもない。歌い手、そして、それを支える音楽家の伝えようとするメッセージに対して、皆が必死に耳を傾けているだけだ。そして、私たちはきっと、同じようなものをこころのなかに拾って帰ったにちがいない。

モーツァルトの『レクイエム』 K626 の演奏は、もう、しばらくは他では聴きたくないと思わせるほどの、素敵な演奏であった。最先端の研究成果とか、伝統的な古楽アプローチなどということが騒がれ、もとが未完の作品だけに、バイヤー版をはじめ、ランドン版など、楽譜の校訂にも次々と新しいものが付加されていく状況は知ってのとおりだ。しかしながら、この日の演奏はそうした「新しさ」とは無縁に、音楽のもつメッセージを人々に、いかに、自然な形で伝達するかというその一点にこだわっていた。例えば、アーノンクール&ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの録音などを聴くと、「なるほど、そういうものか」という種類の感銘はあっても、「これこそがわが音楽だ」という実感には乏しい。杉山はその意味で、私たちのこころにもっとも訴えるような音楽をめざしたといえる。

【コーラスを通して出来た全体のイメージ】

一口に「私たち」といっても、人々が思い描く理想像はもちろん、多様なものである。それが私にとって理想的なものであっても、あなたにはちがうものだという例は少なくない。結局、音楽家は自らの信じる道を堂々と提起することで、それに共感する人々を率いていくという役回りになる。ところが、この日の杉山が試みたのは、正にそうした多様な理想の塊である合唱団を懐のなかに入れ、彼らの思い描く理想を上手に引き出していくことから、作品を聴き手にとってもっとも優しいものにするという手法であった。

急造のオーケストラや、有志の市民合唱団と、指揮者の杉山洋一がどれほどの時間を共有できたのかはわからない。元大フィルの長原幸太をコンマスに、プロ奏者を含むオーケストラに関しては、強弱や音色のより鋭いコントラストをめざしていたのは明らかで、より多くの時間を必要とした印象もある(とはいえ、素晴らしい演奏であったことは先に述べておく必要がある)が、こと合唱とのコミュニケーションに関しては申し分ないレヴェルに達していた。これには合唱指揮の辻秀幸の優れた手腕も見逃せないが、それ以上に、歌う側のセンスにあわせた全体のアジャストというのが、聴く側からみても非常に安心感を与えるし、とりわけ、「ラクリモサ」のような純粋無垢な表現では、自然とこころの奥深くに言葉が(音楽とともに)染み入ってくるという実感を抱かせるのである。

合唱団は、特に男声陣に関しては見るからに年嵩の方々が多く、フレッシュな表現は期待できそうもないヴィジュアルであった。しかし、第一声を聴いて、私はみるみる恐縮するしかなかった。楽譜どおりなら、コツコツと弱音から響きを叩いて、徐々に這い上がるような歌声とアンサンブルを作り上げていかなければならないが、杉山は冒頭の低音弦をわりにつよく鳴らし、導入から手応えのある響きを立ち上げる手法をとった。これに応じるように、程よい強さで言葉を歌い出すコーラスの響きに、私は一瞬にして魅入られてしまったのである。

そのコーラスについて詳述するならば、まず、言葉の発声に特徴があった。表現が難しいが、それは言葉の中心を射抜くような表現である。ひとつひとつの言葉を一羽の鳥とするならば、歌い手は弓を引き絞り、最高のタイミングでその心臓を射抜いてしまう。落ちた鳥が美しく最後の鳴き声を発するとき、そこに言葉にならない言葉が生まれる。やや表現を飾りすぎたが、とにかく、そこで発することが必要な言葉の中心を、きちっきちっと嵌めていくという表現が目立ったのである。

ダイナミズムに関しては、屈託なく活き活きとした表現を選んでいる。これはもっともシンプルで、成功しやすいやり方であり、とりわけ称賛に値するものではない。この場合は管弦楽アンサンブルをよく聴き、ドラマの筋書きと表現を結びつけることがポイントになるが、この点に関しては称賛できるレヴェルに到達している。管弦楽編成がやや小規模で(例えば、コントラバスは1プルト=2本)、コーラス編成は大規模であることから、先に述べたような意味に加えて、積極的なコーラスの動きが必要になるが、その動きにも気負いがなく、表現はテクストに寄り添って柔軟に響く。

【曲ごとの印象から】

特に第7曲 Confutatis から第8曲 Lacrimosa への接続は見事であり、私は祈りますといって静まっていく第7曲の後半部分と、オーケストラ序奏を挟んで、涙の日・・・と始まる歌(=魂)の流れがどきりとするほどに美しい。とりわけ、コーラスを含むアンサンブル全体の想いが詰まった歌い出しの響きのたおやかさは、深い感動を抱かせる。モーツァルトがほぼ完成することができたのはここまでという意味も含めて、志半ばに散った被災者たちのことを思うと、さらに涙が溢れてくるのを必死で抑えた。

ここで形式としては、「アーメン」で締められてセクエンツィアがおわり、次の曲から奉献唱が始まるということになるが、第9曲もその後奏のように滑らかに続けられる。第9曲 Domine Jesu Christe ~ 第10曲 Hostias et preces も非常に印象ぶかく、 三部的な構成が、最初のパートで前節を受け継ぐ悲哀と祈りの昇華、中間では真摯なこころの浄化、繰り返しではその活性化がテーマとなっており、この流れは被災から復興に至る想いの推移と鋭く対応するのは当然であるが、そのような問題を越えて、非常にソウルフルでゆたかな表情に満ちたカンタービレの多彩さに打ちひしがれた。

この区切りを経て、響きは下降から、上昇的な雰囲気に転換されていくのは型通りである。サンクトゥス、ベネディクトゥスという多少、華麗な部分を経て、アニュス・デイの静謐から終曲を迎えるわけであるが、このアニュス・デイも祈りに満ちた涼やかな声で、私たちのこころを鎮めるのに役立った。終曲は当時の型どおりのやり方とはいえ、天才、モーツァルトの作曲としては、やや違和感の残る歌詞の入れ替えにどう対応するかが指揮者の腕の見せ所だが、杉山の音楽づくりは非常にシンプルだ。それはもう、フーガのリズム感を端的に聴き手の愉悦と結びつけ、四の五の言わず、旋律線の味わいに応えようとするものであり、これが意外に効果的なのに驚く。

【まとめ】

このように細かく述べていけばキリがないが、全体的な印象として感じたことは、合唱の年齢層にあわせて、やや古めの(つまり、ピリオド派ほどは古すぎない)響きが志向されており、どっしりして紛れのない表現と、録音ベースにみられやすい合唱中心のバランス。明確で力づよいコントラスト、小細工なく中心を射るような表現で、次々に聴き手の好みを捉えていくような面白い表現であった。このスタイルが、最新の研究と比べて、どのような位置づけになるのかはよくわからないが、少なくとも、聴き手がこのコンサートで、そして、モーツァルトのメッセージとして聴きたいと願っていたものには、しっかりと寄り添っていた。

そして、その実感と、歌い手の側のこう表現したいという意図が、これまたぴったりと寄り添っていたようである。だからこそ、会場があのように一体化した共感に包まれたのも、当然といえば当然である。

杉山洋一は自身が作曲家でもあり、現代音楽を得意とする指揮者だけに、もっとクールで新鮮なモーツァルトになることが予想されたが、それをハッキリと裏切るような、つまりは、「表返る」ような表現で、彼のこころのなかに残る昔の音楽家の理想、その積み上げのようなものが表現された演奏は、きっと多くの人たちのこころにぴったり来るものであった。なにもピリオド・アプローチがすべて、そのような感慨と切り離されてあるわけではなく、これもまた昔の音楽家の・・・否、より古い昔の音楽家から引き継いだものからの積み上げのうえに、成り立っているのだが、その表現はなぜか、私たちのこころにうまく寄り添うことができないことも多いのである。

なお、正真正銘のプロである4人のソリストは、声楽アンサンブルに安定感をもたらして素晴らしかった。ソプラノの澤畑恵美と、テノールの米沢傑が特に優れた歌唱を聴かせ、特に鹿児島大で癌のレセプトをしていたドクター出身の、米沢の声が凄い。彼はその気になれば、堂々、ひとりでアンサンブルを引き上げるようなアクションをすることも可能だろうが、そこは抑えて、全体をどう持ち上げるかというアイディアに知恵を絞っていたようにみえる。バリトンの河野克典だけは清らかな歌声だが、低音がいかにも弱かった。

さて、この演奏会は、『レクイエム』だけで成り立っていたわけではなく、それだけで語りきれるものでもない。そのほかの出来事については、次の記事にまとめて書きたいと思う。

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