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2012年9月23日 (日)

二期会 パルジファル クラウス・グート〈演出) 飯守泰次郎(指揮) 9/17 ②

【ワーグナーとイタリア・オペラ】

ワーグナーはイタリア・オペラに対する強い憧憬と、それに対する自己批判のなかでもがいた。これはアムフォルタスが、クンドリーにつけられた傷に、ずっと悩み続けたことにちかい問題である。しばしばワーグナーはイタリア・オペラへのアイロニーを描いてはおり、それは例えば、『マイスタージンガー』のベックメッサーのような姿で出現している。しかし、ご存じのように、この作品のなかでベックメッサーの音楽はすこぶる魅力的であり、ザックスやヴァルターよりも、彼のほうに魅入られる人も少なくないほどだ。ワーグナーの知的・哲学的な爛熟に比例して、音楽的な甘みとしてのイタリア・オペラの要素は常に存在感を増してきた。

ワーグナーの先行者として、しばしばウェーバーの存在が取り沙汰されるが、もう一方の先行者として、ロッシーニの姿があることも忘れてはならない。イタリア・オペラの動的で、リアリティのつよい起伏に富んだ音楽は、人間描写を試みるワーグナーの音楽には、いつも必要なものであった。それだからこそ、ワーグナーは人間ではなく、神の世界、もしくは、神に近づく人間を描こうと思い立ったのかもしれない。しかし、それでも、彼の音楽はあの脚の形をした母親の胸のなかから、容易に抜け出すことはできなかった。

ワーグナー最後の舞台作品である『パルジファル』では、ついに、その理想が達成されたのである。ワーグナーが目指したのは、イタリア・オペラにはあり得ない静的な美や官能のイメージの実現であり、それは、見事に実を結んだ。この意図をわかりやすくするためにも、作曲家は「オペラ」を「舞台神聖祝祭劇」と名付けることにした。それに反して、多くの演奏家はこの作品をあくまで「オペラ」として、活き活きと演奏する欲望から自由ではない。彼らのなかにも、クンドリーが生きているらしい。

【飯守泰次郎の音楽づくり】

飯守泰次郎の音楽を聴いていると、私の知性は軽い痙攣を引き起こされる。彼のつくる音楽は第一に、質素で無駄がない。mp 以下のベースをじっくりと動かして、いつも響きが十分に成長してから、それを空間に優しく逃がしていくようにコントロールする。有名な前奏曲も作品全体のスケールに相応しいテンポ感で、大河がゆったりと流れるような音楽になっている。しかも、そうでありながら、引っ張りすぎるような印象はなく、各フレーズが無理のない深呼吸で、もっとも甘い響きを、もっとも厳しく奏でるのである。

一方、強奏が必要な部分での盛り上げ方にも、特徴がある。それはいつも、大木が根もとからすっと伸び上っていくような響きで表現されていたからだ。大河や森のイメージを用いて、音楽におけるパノラマを実現することで、国を愛することの真実を問おうとしたのがワーグナーであり、その代弁者であるところの飯守と読響の演奏なのである。彼らの音楽にはコケオドシのような響きの威容もなければ、また、その逆に、響きを無理に鎮めることで生じる紛いものの霊感もない。それは歌や演出とともにあり、それらを包み込む自然のような安らぎを与えることで、観客を『パルジファル』のような回りくどい思索的な作品のなかにも安住させる力をもつ。

こころの動きと行動が直結するイタリア・オペラでは、このようなことはできないはずだ。例えば、第1幕は2時間ちかくもあるが、振り返れば、同じような問答ばかりが繰り返されている。要するに、敬虔な聖杯王、アムフォルタスがクンドリーに魅了され、傷を負った経緯が少しずつ語られていく。クスリではなく、信仰が必要なのに、騎士たちはアムフォルタスの痛みをクスリで和らげることに必死になっている。そこに、パルジファルという信仰の奇跡が舞い込むも、いまの彼には、まだ奇跡をおこなうことはできないということがわかって、しまいとなる。そのなかで、いろいろと説明的な要素が組み込まれ、手際よくモティーフの紹介もなされていく。

この退屈な第1幕が、私にとって、いちばん面白かったのだ。そこにはグルネマンツの長い語りを中心に、作品を構成し、今後、幅広く導入されていくであろうモティーフが控えめに、しかし、しっかりと提示されていく。クンドリーも、パルジファルも、まだその本領を発揮しないうちから「聖別」されている。だが、それをまだ可能性としてしか示さない、ワーグナーの鋭い手腕を飯守はよくわかっているようだ。倉から慎重に運び出し、少しずつ箱を開け、恭しく香木(蘭奢待)を取り出す、そして、いざ切り出すときには鋭くして、また静かにしまうという起伏が、これほど自然に嵌まるものであろうか。

演出に仕掛けが多い舞台であれば、このような自然さを、さらに舞台上の出来事が損なってしまうことも少なくない。「読替」演出のもつ最大の欠点は、演出の都合によって、音楽を歪めてしまうことがしばしばあることだ。飯守はこの点においても、耐えに耐えた。そして、前に述べた蓄音機の場のように、細かく連結する場面がワーグナーの図太い哲学に基づいた音楽と寄り添えるように、豊富なイメージで響きをアジャストしていく。彼の手にかかれば、グートの抽象的で豊富なメッセージも、そのほとんどが作曲家の思い描いたイメージと齟齬を来すことなく、舞台上で生かされてくるというものだ。人々はそれをかえって、「グートの深い音楽理解」という風に解釈するかもしれない。もちろん、それも重要ではあるが、私はそれに倍する指揮者の側のイメージの鋭さを称賛したいと思うのだ。

【クンドリー=田崎尚美の凄さについて】

このような意味において、クンドリーの田崎尚美は、特筆に値するパフォーマンスをみせた。二期会デビューとなる舞台で、いきなりのクンドリーは無謀というほかないが、彼女は申し分ない。強く、潤いのある声。内面から歌い、聴き手にハッキリとこころの届く歌。だが、それ以上に感動したのは、ここまで述べてきたような飯守のつくるうねりに、完璧に乗りきった表現をしていたことである。

クンドリーというのは、先の記事にも述べたようにエロスの象徴であり、善悪のどちらにもつかない純粋な愛情である。しかも、その愛情がどのようにして育まれたのか、オペラのなかで描かれているわけでもない。同時に、彼女のことを一種の傀儡(くぐつ)のように見ることもでき、死んだように眠り、言葉と叫びとともに目覚めるキャラクターには、いかなる女性も共感して演じることはできないであろう。オペラ歌手は、自らの経験に基づいた共感を頼りに役をつくることが多いが、このクンドリーの場合、そういうことをやると、すこぶるつまらないキャラクターに成り下がってしまう可能性が高い。

ここで大事なのは、あらゆる個人的な経験を越えた直感なのである。直感だけを頼りに、客席にこころを伝えるというのは至難の業だが、これは芸術活動の本丸であろう。芸術家が自らの経験した範囲だけで、人々の歓心を惹き込むのも可能と考えるのは、「私(ワタクシ)小説」的傲慢にほかならない。トルストイ、もしくは、プーシキンを最後に、その道は途絶した。太宰の「人間失格」「グッド・バイ」などは、そのパロディのようなものにすぎないのである。経験を底にひた隠しながら、芸術的直観によってそれとは異質の世界を構築し、木に竹を接ぐような過ちは犯さずに、思いも寄らぬ巨木を描き出すのは芸術家の本分だ。

田崎には、それができていた。演出家に弄ばれ、しばしば床に寝転がったりしながらも、彼女がこころの芯から紡ぎだし、客席に届けようとした声は、いつも高貴な輝きとともにあった。第2幕、合唱の精度のなさから退屈だった花園の場から、クンドリーが出現したあとのドラマの締まり方が忘れられない。演出自体がクンドリーを引き立てる方向でつくられているが、第2幕は彼女の主人であるクリングゾルも、パルジファルさえも、彼女の示す聖域からパージされた。演出的にもアイディアのない、退屈な槍の奪い合いのシーンを思い出してみよう。そんな説明的要素よりも、自らがその母のようになると知りながら、必死にパルジファルを口説くクンドリー・・・否、田崎の姿に、私は圧倒された。

ただし、その表現は押しの一手ではない。音楽の示す押し引きが彼女の声そのものの表現力を越えて、私たちのこころに届くのがわかった。飯守がどれだけ森や大河のイメージで作品を包んでも、歌い手が相変わらず、人間的な、あまりにも人間的な表現に止まっていれば、クンドリーの真の恐ろしさを示すこともかなわない。

【グルネマンツ=山下浩司について】

クンドリーの表現がそのようなものだとすれば、反対に、作品の静謐さ、穏やかさ、そして、厳しさを一手に引き受けるのはグルネマンツである。これを歌った山下浩司が、男声では抜きん出て素晴らしかった。田崎は飯守のつくる波の動きに連動したが、山下はその波に削られるテトラ・ポットのように動じない。見せ場の「聖金曜日の音楽」で、彼がこの上もなく美しく、誇らしい歌詞をうたうなかで、背後の白壁には、それとは似ても似つかない映像が流されている。飯守は容赦なくトップ・ギアを入れて、演出と連動した劇の頂点を築く。このなかで、ペースを失わずに、どっしりと自信をもって歌いきった山下の健闘が、演出上のアイロニーをかえって強めるのは言うまでもない。

【アムフォルタス=大沼と、題名役の片寄】

大沼徹(アムフォルタス)の役割は、イタリア的ベルカントの埋葬である。死ぬのは父親のティトゥレルだが、その死によって、彼自身も苦しみを取り除かれるというよりは、やっぱり埋葬されてしまう印象を受ける。大沼は経歴からいってドイツ唱法を中心に学んでいるが、その根幹にベルカントの基礎があることを踏まえて、声をつくってきたのは間違いないところである。そのような彼が、ワーグナーがベルカントの埋葬者として選んだ、傷ついた聖杯王として応分の役割を果たすのは感慨深い。

これらのキャストとと比べて、私が題名役の片寄純也を批判するのは、もちろん、ヘルデン・テノールとしての味わいをなにひとつ示せず、しかも、自分らしいパフォーマンスを出しきっていないとも感じられたからだ。スピント系のテノールと思われるが、ワーグナーにおいてはあまりにも経験不足で、自分の声をどこで、どう使うべきかというイメージが定めきれていないようだ。相次いで大役に抜擢されるなかで、今回、極めつけの大役であるパルジファルを務めることになったが、これで名声を不動のものとするというわけにはいかなかった。しかし、今後の研鑽に期待がもてる若者だ。

【最後に】

この項では、音楽面に特化して、上演の質を見直してみた。ここで区切りとすべきか、もうひとつ書くべきかについては迷っている。次に書きたいのは、実は、再び演出に戻り、宗教に関する話なのだ。いわば、現代にも通じる問題であるが、要するに、グートは聖杯城を陸軍病院と化し、それを司る聖杯王を、役割を放棄して自死に憧れる病院の患者として描いている。司祭が役割を放棄し、宗教がむしろ患者を生み出して、病人を救うどころか、悩ませている状態は、無益な宗教的対立に基づき多大な犠牲が払われる今日の社会の姿と類似しており、ワーグナーに対してというよりは、現代に対する批評としてみることができる。

この問題をさらに突き詰めるかどうかは思案中だが、とりあえず、いまは、ここまでで文章を閉じることにしたいと思う。なにはともあれ、45年ぶりの上演がこのように高いレヴェルでまとまったことには称賛を惜しまないつもりである。

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