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2012年9月13日 (木)

神田慶一 歌劇『終わらない夏の王国』 青いサカナ団第32回公演 9/2 ③ この作品の新しさ

【古典作品に対するモデリング】

今回の作品は、青いサカナ団の公演を見続けてきた者たちにとっては、季節は合わないが、なによりのクリスマス・プレゼントだ。東京を離れて金沢で初演される作品のなかで、作者は自分が任された「子ども」というリソースを徹底的に煮詰めることに加え、これまでの創作の総決算を試みることを考えた。この作品には、2つの系列のモデリングの要素が含まれている。それは神田の尊敬する過去のオペラ作家に対するものと、自作品に対するそれである。

前者については、既にオッフェンバック『ホフマン物語』や、モーツァルト『魔笛』、そして、フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』をはじめとする作品との近似を指摘したが、作法に関してはライトモティーフ的な要素を通してワーグナー、響きの温かさはプッチーニ。そして、零の「戴冠式」などにおいてはバロックや、ヴェルディの作品に接近した響きが導入されていることも付け加えておきたい。

フンパーディンクに関しては、第2幕の序盤で歌われる「おやすみ」の合唱が、『ヘンゼルとグレーテル』の有名なパントマイムの音楽(間奏曲)に相当するのは明らかである。このコーラスは以前におこなわれたガラ・コンサートで、この作品の一部として紹介されており、録音でも紹介されていた。ただし、その場合と異なるのはエリザベスを中心とする「館」の大型人形たちによる女声合唱になっていて、歌の温かみを増す男声の薄い支えがないことだ。また、フンパーディンクの場合とのちがいを述べるならば、『ヘンゼルとグレーテル』において単に子どもの無邪気さを示すものでしかない音楽が、この作品ではより多層的な意味を含んでいることがある。

【おやすみコーラスの意味】

この「おやすみ」コーラスは、ある意味で、もっとも優しさに満ちた支配的な音楽であることを指摘しておくべきだ。まず、この前の場で、子どもたちは缶けりの遊びを中断し、就寝時間を管理するエリザベスらによってコントロールされ、床につくことになる。自由な子どもたちの王国であるはずの場所で、このようなルールが働いていることに、まず私たちは軽い違和感を抱く。子どもたちは素直に従っているが、その雰囲気のなかでコーラスが始まる。エリザベスを演じる菊池美奈が前に出て、「アリア」の形式が浮かび上がる。この歌のあいだは、特に押しつけがましい印象はない。しかし、既に『ホフマン物語』の印象を得ていることから、若干、「ホフマンの舟唄」の印象も混ざってくるから、以前に聴いたときよりもその味わいは複雑に感じられる。そのあと、ホフマンはジュリエッタの場を通して、「影を奪われる」という決定的な失態を犯すことは周知のとおりである。

さて、「おやすみ」コーラスの夢見るような美しさにもかかわらず、子どもたちは素直に眠りにつくわけではない。作品は歩みを緩めない。不良グループのトリオがすぐに起き出して、自分たちは自由なんだから、夜にも探検をつづけるといって騒動を起こすからだ。トリオの勝手な主張に対し、零は「王」になることを宣言して自由のなかにあるルールの必要性を主張し、作品は角度を変える。さらに、このあと、もっとも幼い子どもである藍が犠牲となり、悪夢にうなされるという「矛盾」が起こる。悪ガキトリオはあくまでも造反を宣言し、危険な冒険にエネルギーを費やそうとする。そこから、急速にシステムの崩壊が始まるのだ。

このように、「おやすみ」コーラスは作品の歩みを緩めるのではなく、むしろ、急加速する装置として想定されているようだ。それは「館」の矛盾を炙り出すものであり、タテマエとは異なる支配の構造を明らかにするものだ。それに納得しない素朴な不良トリオが反発するのも無理はない。このあと、禁忌を破った子どもたちが人形にされる筋が表れ、幼い藍ひとりが新型の導きで「館」を抜け出すことになり、作品は急展開を見せる。これらトリオと藍の行動的、もしくは、内的な反発は、「館」の矛盾を効率的に浮かび上がらせる鍵となっていた。

【零の立場の曖昧さとそれを補うもの】

先にみたような急展開は作品を前に進めるうえでは必要なこととしても、零の「王」としての立場を確認するうえでは、いささか不都合である。零が「王」としてやったことは、造反した友人たちに罰を与えて人形にすることと、最後の破綻のシーンで、もとの世界に結びつく扉らに手をかけて燃えてしまいそうになることだけである。前者はブラッティによる強制が半ば入っており、後者は状況に強いられたものだ。零が「王国」のシステムをどのように理解し、どこまで大事に思っていたかは、これらのエピソードからは十分にわからない。むしろ、彼女を動かしていたのは、中盤、薔薇の棘に刺されたときの血のイニシエーションによる効果であるように思われる。

この作品は、神田慶一にとって大事な作品で、とても優れた作品であることは間違いない。しかしながら、零、ブラッティ、エリザベスの主要な三役について、その立ち位置が完全に作者のなかで定められているわけではないことには注意が必要だ。これらのキャラクターの関係には、恐らくは不如意の描き落としがあり、どれだけ大事に作品をみても、その欠点は演じ手が補うよりほかになさそうだ。もしも、これが意図的に空けられたスペースであるとしたら、私は作者に謝らなくてはならないが。

それにもかわかわらず、作品がこれほど真に迫ったリアリティを獲得できたのは、やはり、音楽というものの魔法が効いているせいなのであろうか。それもあるにはあるが、より本質的に重要なのは、演じ手によるプラス・アルファが凄まじかったという事情によるにちがいない。エピローグに入り、「館」を抜け出した子どもたちは親たちとともに、家路についていく。そのなかで、「館」のなかに居残った翔と離ればなれになった翠のみは、そちらをすこし振り向いて想いを残す仕種をした。もしも父親が変わらなければ、彼女は「館」に戻るかもしれないと思われる重要な動きである。

こうした動きが、演出の演技指導を越えて、観客になにか強い印象を残す。そういう場面が、この作品では随所に指摘できる。

一方、「大人になりたくない」翔は館内に留め置かれ、ブラッティの次の管理者に立てられた。これは、彼の立場においてはそろそろ大人になる時期だという底意があるのであろう。翠と関係し、子どもたちと向きあうなかで、その素質が開花しつつあるということだろうか。ただし、このプロットのみは、いささか不自然にアタマのなかで組み立てられたものに感じられる。

これらのコントラストの比較を通じて、作品の良い部分と悪い部分とを端的に指摘できるであろう。

【極限状況と人間を向きあわせるシステム】

この作品における「館」のシステムは、神田の作品では、しばしば登場する設定と同じである。特に現実世界での行き詰まりや絶望をもとに、それとはネガ・ポジの新世界が生成され、その創造者である自分が絶対的な権力者となっていくという筋書きは、『僕は見た、満開の桜の樹の下で』や『マーマレイド・タウンとパールの森』などによって試されてきたものと似通っている。そして、それらのいずれにおいても、主人公は結局、その居心地の良い世界を打ち破って、自ら生み出した厳しさのなかに舞い戻るという自己決定をして、それに基づいたアイロニカルな結末が構成されている。神田はこうした手法により、取り返しのつかない犯罪を犯したり、絶望して飛び降り自殺をするという極限状態に、人々が向きあえるようにしているわけだ。

今回の作品でも、子どもたちにとっての「極限状況」が親たちとの関係のなかで想定され、それがある種の悲劇的システム(=喜劇)を生み出すことが話の骨格を形成している。だが、このような状況は親たちの気づき、そして、子どもたちの僅かな譲歩や理解によっても、まだ救いようがあることは、これまでの同じ作者による作品と比べて、明るい雰囲気を漂わせる。「ただいま」と「おかえり」は、そうしたなかで和解のための、魔法の合言葉となるものだ。片目を手で隠し、両膝を折って観察する小型人形たちの不気味なポーズも、まだ愛らしく観察されることだろう。

【いつの世にも難しい家庭の問題】

作者、神田慶一の「古さ」については最初の記事でも述べたところだが、こうした問題は、いま、どの程度、解決されてきているのであろうか。零の家庭と、翠の家庭では、同じ片親の家庭とはいえ、かなり事情がちがっている。零の家庭は貧しい母子家庭であり、母親は社会から尊敬されない手段で生活を支えている。一方、翠の家庭は一応、それなりに仕事のある小説家ということで、生活に苦しさはないようにみえるし、社会的ステイタスもそれなりに高いことだろう。だが、これらの家庭が抱える問題は、同一である。子どもに対する無関心ということだ。

こうした社会的問題が、作者自身の抱える芸術的な課題と重なり合うことも、これまで描いてきた作品と同じようである。つまり、神田にとってみれば、彼がこうして人生を傾けて書いているものに対する世間の無関心こそが、もっとも辛いものであるはずだ。人々にとって、なにがもっとも応える罰であるのか。それを考えることは興味ぶかいことだが、その有力な候補として、誰からも顧みられず、無関心の下に置かれることがあるだろう。これほど、絶望と親密な世界があるものだろうか。それに対し、自らに塩を送るように、神田は零という孤独の前に母親の気づきというものを置いてみた。実際、この和解がどれほど継続し得るかはわかったものではない。母親は生計の道を新たに立て、零との関係を一から立て直さなくてはならないからだ。

親と子どもの問題ほど、複雑で、素直になれない問題もない。もしも、それが円滑に解決できるなら、世界の抱えるすべての問題も、解決できるのではないかと思えるほどだ。親にとっては、いつまで経っても子どもは子どもだ。たとえ身体や頭脳が自由に動かなくなったとしても、子どもだけには頼りたくないというのが親の本音である。一方、子どもは親に対する感謝でいっぱいで、それを大事にする気持ちはいつも持っているはずだ。だが、それを具体的に示すことは難しく、成長するにつれてその想いも薄れていく。親との価値観がずれてくれば、感謝よりも、反発が先に立つようになる。それでも、親が弱くなったときに、素直に頼ってきてくれれば、昔の愛情も復活するのかもしれない。しかし、実際には、互いに素直になれない親子がほとんどだ。親孝行したいときには親はなし、という有名な格言がある。

そのような混沌たる状況が、対位法を応用した街頭の響きで見事に象徴されている。これともっとも簡素で、現代的なオルゴールのモティーフ(しかし、それはモーツァルトからの翻案)が合成され、その上に、より複雑な小型人形の魔的なモティーフがさらに合成されていく。近代的なものと古典的なものが、これほど自由なアイディアで結びつくのを聴くと、軽い違和感のある衝撃を経て、私たちのアタマは音楽的な麻酔(魔法)にかかっていく。このなかでのみ、神田の論理が自由に躍るわけである。こうして論理だけを取り出してみると、なんと頼りないことであろうか。しかし、そのなかから、なんとか嵌まりあうピースを見つけようとするのが、この作者の温かさだ。皆がどこに惹かれているのか、私にはわからないが、少なくとも私は、彼のそうした温かさに芸術家としての彼の気高さをみる。

【まとめ】

それとわかる「未聴感」だけが、本当の新しさであろうか。私はむしろ、こうした作品に徹底した新しさを見出した。神田にとっては、この世のなかで生きとし生けるもの、そのすべてに新しさがあるという発想なのだ。この観点に立って、この作品ほど、生きとし生けるものすべての歌に迫った作品があったろうか。私はこれに匹敵するものとして、ヤナーチェクの諸作品を置いてほかにはないと思う。あるいは、モーツァルトに、その僅かな萌芽をみることができるが。

ところで、最後に述べておきたいのは、この作品が終始、バレエの要素と組み合っていたことだ。特に、ブラッティが「館」のシステムを説明するところなど、デイヴィッド・ビントレーが新国でやった “Still Life” の舞台を髣髴とさせたものである。この印象をもとにプログラムを眺めてみると、どういう人物かはよくわからないが、振付として、Jonney Dpply の名前がクレジットされていた。サンバの部分があったり、舞踊がこの作品にとって重要な要素であることは論を待たない。そして、音楽や筋の流れさえもが、この発想から少なからず影響を受けているのは確かである。

舞踊的な要素が、この作品とどのようにして対応しあうのかということについても、私の思索は旅を欲するが、いまは、このあたりで中締めとしたい。

しかし、最後に繰り返しておきたいのは、次のようなことだ。確かに、神田の書いたものには、いつも穴がある。だが、その穴を埋める舞台人の、あるいは、オーケストラの情熱で、その作品は支えられている。新しい三塚至を含め、菊池美奈、所谷直生、蔵野蘭子、秋谷直之・・・といった神田組キャストが、そして、青いサカナ管弦楽団と合唱団が、彼を分厚く支えるベースをつくる。だが、今回は、そこに子どもたちが加わった。あらゆる年齢層、背景の人たちを、彼の作品が奮い立たせているわけだ。舞台上に立つ人々は小編成の管弦楽団よりもずっと多く、また、それらの合計は、見守る観客の数に勝るかもしれない。このような贅沢は、そうそう赦されるものでないだろう。だが、その壮観が示されるカーテン・コールまで含めて、この作品のスケールの大きさは私の予想を打ち破るほどだった。

ここに、その詳細を示すことができないのはいささか悔しい。というのも、この複雑で、アイディアに満ちた組み合わせこそが、この作品のいのちであるといってもよいからだ。だが、それを論じるのには、膨大な時間がかかるだろう。先に述べたような「壮観」を、完全に生かしきる舞台をつくることは簡単ではない。しかし、この作者には、それができたのだ。これこそが、作品のもつ真の新しさである。『終わらない夏の王国』に、たった数人のスター歌手は必要ない。ただし、その何十倍もの数で、彼の作品を真に理解し、この作品をどうにかして生かしてやりたいと願う仲間の存在が、この作品には本質的に必要なのだ。

その例として、幕を引くメイド服の大型人形の動きを思い出してみよう。あの動作を、自然に、かつ、美しくおこなうために、彼女はどれだけ練習を重ねたことだろう。私は、それを思うだけでも、この作品に接した甲斐があったと思うほどだ。こうした想いの総和として、この優れた舞台が生まれた。なお、この複数の幕を使った場面の転換は、この作品に多大な機動力をもたらしており、忘れてはいけない要素となっている。ただし、ここにも課題はある。幕のめくり方には、もっと遊びがあってもよい。この素晴らしい工夫にも、気ままな私のアタマはといえば、だんだんに飽きてきてしまったからだ。いったん開けようとして戻るなどの工夫はあったが、例えば、下のほうだけめくる、斜めにまくる、あるいは、幕全体を落とすなど、舞台の運びにあわせて、観るほうを油断させない工夫はいろいろにできそうである。

そのような細かい工夫が、舞台を表情ゆたかにしていくはずだ。そういう意味を含めて、再演を期待したい。

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