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2012年9月 3日 (月)

神田慶一 歌劇『終わらない夏の王国』 青いサカナ団第32回公演 9/2 ① 序論

【子ども・・・という考え方】

子どもという言葉は、意外と新しい語彙である。子どもという概念が登場したのは、少なくとも17世紀以降、子どもを大人から区別して、教育するというシステムが完成してからのことであったと思われる。それ以前には、文明「先進国」である西欧においてさえ、大きな人間と、小さな人間、あるいは、それ以前の存在である未熟な人間の区別があるにすぎなかった。子どもを保護し、教育して大人にするという考えは、比較的、新しい考え方ということになるわけだ。

ところで、「子ども」とはなにか・・・その定義は非常に難しく、子どもをいかに扱うべきかという考え方も多様であろう。一応、国際的な「子どもの権利条約」によると、18歳未満のすべての人間は「子ども」と定義されている。その区分によって、あらゆる権利を規定していくための必要性から、そのような線引きになっているのであろう。日本では、この「18歳」という年齢ではまだ未熟だということで、批判が多いようだ。「権利条約」では子どもを保護し、教育を受けさせるという、子どもにとって当然の権利以外に、彼らに一人前の大人と同じような「意見表面権」が与えられるべきだということをも定めている。しかし、このような考え方に対しても、日本社会はきわめて否定的であろう。

「先進国」における「権利条約」の重要なポイントは実のところ、子どもが弱く、守られねばならない存在とすること以外に、未発達ながらも、子どもが立派な一人格として自己決定をおこなう権利を有し、親をはじめ、教育者など、大人の側が彼らの主張を聞き、認めていくことの重要性に由来している。ところが、この国は、子どもの無能性を強調して憚らない社会である。子どもたちが達成している、あらゆる凄いことよりも、彼らが犯したいくつかの取り返しのつかないことに注目するからだ。そして、子どもの判断力が未熟であるという前提に立ち、その自己決定能力を親や、その他の大人たちが強制的に代行してしまうのである。

このような社会において、この日のようなオペラができたことは奇跡にちかい。神田慶一による歌劇『終わらない夏の王国』は、子どもを人間としても、歌い手としても、あるいは、役者としても、大人とまったく対等な存在としてつくられた稀少な作品だ。これはあらゆる舞台芸術を通じて、ほとんど前例がないものだろう。

確かに、『アニー』では子どもが主役を務め、『ピーターパン』でもそれにちかい素人が選抜されて主役に抜擢される。だが、彼らがその役を務めることができるのは、もう既に固まった型のなかに、彼らが飛び込むだけでよいからである。象徴的なのは、ピーターパンの見せ場が宙づりで空を飛ぶところだということだ。その場面は、演じる人の個性とはまるで無関係だ。転じて神田の作品は、そこにどういう子どもが立つかによって、どんな作品ができあがるかは全くわからない・・・というところから練り上げられた造型なのにちがいない。彼はこの作品を、金沢の子どもたちのために書いたのだが、この日のために改作し、繰り返し上演するに足る「スタンダード版」として東京で再演することになった。金沢公演と東京公演では、印象がまるで異なったものになったのではないかと思うのだが、子どもたちが彼ら自身の言葉を喋っていたという事実においては、きっと、2つの公演で大きな差異はなかったはずである。

私がこの公演でもっとも驚いたのは、そのことである。

【神田の発想の古さとあがき】

なるほど、ここに出演する子どもたちからは多少、古めかしいイメージも感じさせるだろう。例えば、1979年生まれの私でさえ(大学時代には学習塾で教えていたとはいえ)、今日の子どもたちの在り方を想像するのは難しい。神田には子どもがあるといっても、彼のイメージは、その子によって本質的には変化していないのは明らかである。彼の描く人間像は子どもに限らず、高度経済成長期のおわりからせいぜい10年ぐらい先のイメージしか感じさせるものではなかった。主要キャラクターのひとりである青山翠は、作家、柳美里が90年代に描いた「アダルト・チルドレン」と同じではなかろうか。それをみても、せいぜい1990年代の前半までが、神田の守備範囲だということになる。こう書くと新しそうにも感じるところだが、もう数十年も前のこと。月並みな言葉だが、時間の流れは早い。

そういう面で、神田慶一という人間は古いイメージで作品を書いている。クチは悪いけれど、「つくりは若いが、中身はやっぱりオッサンくさかった」というほかない部分もあるのだ。だが、そのイメージを通り越して、新しい子どもたちのイメージが否応なく立ち昇ってくるところに、この作品の凄さがあるように思う。確かに、作り手の「古さ」はあるとしても、それはそれとして、この作品はそれに対立するあらゆる若さのなかで生きている。考えてみれば、神田の作品はいつも、そういう要素によって支えられてきたのだ。古さのなかに根づく、新しさの息吹き。彼が完全に時代遅れとなってしまうまで、あと、どれぐらいの時間があるか、わからない。でも、彼は必死にあがいている。

その「あがき」のなかには、アニメ的なものを入れるというイメージもあった。メイド服の「大型人形」や、主役の零がまとうことになる「王」の衣裳や王杖は、すこぶるアニメ的なデザインである。

こうしたものと対照的に、神田が位置づけていたのはフンパーディンクの歌劇『ヘンゼルとグレーテル』だ。ワーグナーに傾倒した作曲家が、その影の下で書いた愛らしい作品が作曲家のイメージの原点にあるということだ。おとぎばなしの呼び物である「お菓子の家」がメインでは現代の子どもたちに訴求力がないと判断し、「終わらない夏休み」が子どもたちを惹きつけるように改変した。また、中世的な「魔女」ではなく、ブラッティという館主が登場し、彼が悪意ではなく、善意で子どもたちの人生を狂わせてしまうようにした。そこに加えて、親子関係をめぐる複雑な関係が描き込まれることになる。

主役となるのは、赤坂零と青山翠という2人の少女。いずれも片親で、零は母親が夜の商売(ときに同伴されるスナックのママ?)をしており、自分に無関心というなかで生き、一方、青山家は父親が小説家で、家にはいるが、やはり仕事中は子どもたちに無関心という関係にあった。

【ブラッティの論理を打ち破れなかった神田】

プロットをこれ以上、詳らかに説明していく余裕はないが、要するに、家庭で親にほったらかしにされている子どもたちが、ブラッティという第三者によって現実世界とは離れた館に連れ込まれ、彼らが忘れかけていたような貴重な体験とともに、「終わらない夏休み」が保障されるということで、大喜びするという前半の筋書きである。では、それがどのように否定され、崩壊するかという点がプロット上の主要な関心事になるのは当然である。実は、成功した作品のなかで、この部分だけが正直、物足りないところだった。作品をみてみると、この崩壊は、なにかブラッティや「館の頭脳達」の論理的矛盾が暴かれるというよりは、その運営者が悪いというところから引き起こされてしまうように見えるからである。最後、「館の頭脳達」によってブラッティが抹殺されてしまう場面が象徴的だが、結局、王国の崩壊は彼のせいにされてしまうのだ。

それに対する唯一の抗弁として生かされたのは、子どもたちが、どんなに酷い社会であっても自分たちはそこで生き、変えていくと宣言する最後の場面だ。これは神田の旧作『僕は見た、満開の桜の樹の下で』のおわりで、主役のケンジが述べたことと同一である。また、この作品と兄弟のようである、同じく旧作の『マーマレイド・タウンとパールの森』で、ヒロインが最終的に生温かい夢の世界を捨てて、絶望を引き起こした現実に舞い戻っていくのと同じ流れになっている。この抗弁は確かに魅力的であり、旧作同様に効果を発揮した。しかし、その主張がブラッティのいうような子どもを守るための論理を、完全に否定するところまではいかないのは明らかなように思われるのも確かなのだ。

その点は神田によるリブレットの甘さというほかはないが、そうであったとしても、次のようなことは言えるかもしれない。少なくとも、子どもたちはブラッティによる保護の必要性から完全に自由にはならないとしても、これまで神田慶一の描いてきた主人公たちと同様に、たとえ、どんな惨めなものであろうと自らの人生を生き抜くと定めた、そのレヴェルまでは到達したということである。

【作品の本質】

この作品は、単なる子どもを使ったオペラ、子どもが歌うオペラというレヴェルには止まらず、子どもが歌うことそれ自体に、意味があるオペラだ。それは作品の「論拠」となるべき社会的テーマからいっても、音楽的なテーマからいっても、本質的なことなのである。その道筋を、すこしでも丁寧に解きほぐしていくことが、この文章を書く目的となっている。

思えば、神田の作品にはしばしば子どもが登場した。売れる広告の三要素ABC(animal、beauty、child)のような意味で、これが用いられるなら、私は神田を指示することはない。しかし、彼は常に、子どもの歌がもつ力を本気で信じて、作品のなかに組み込んできた。その成果は、この日ほど素晴らしいものではなかったにしろ、彼が真摯に子どもの声と向きあってきたのは確かであるように思われる。彼は大人や、既に高度な訓練を受けた少年・少女と同じように、幼い子どもの声を描きたいと思いつづけてきた。彼自身が書くように、幼い子どもの声には音域などに著しい制限があり、それは容易ではなかったはずだ。全編をみたことはないが、『アリス!』という作品で彼が追求したのも、自分がどこまで子どもを本気で描けるかという、そのテーマについてであったろう。あるいは、最初の『銀河鉄道の夜』から、そのテーマは作者のこころに突き刺さっていたのかもしれない。

17世紀以降、社会的な必要性のなかで大人から分割され、保護・教育されてきた子どもたちを、再び、大人と同等の小さな人間の姿に戻すこと。これが神田にとっての、芸術的な大テーマであった。舞台作品において、大人の論理とイコールの力で対峙する子どもの論理を構築し、音楽的にも大人と子どもがその特徴においてしっかりと向きあうことが、彼のなかで主要な課題になっていた。そして、それは子どもだけが、それも、ウィーン少年合唱団のような専門的訓練を十分に受けていない子どもだけが、ほとんど単独で場面をつくるような『夏の王国』の壮大な構想として結実した。

正に、壮挙であると思う。神田はこの作品において、ベルカントという美学からみれば、まったく正反対の芸術的極致に到達した。そこでは訓練され、その作品に相応しいテクニックだけが輝く声の芸術は否定され、いま、そこにある声が、どのように生かされるべきかという点だけに焦点が絞られた。否、これはある意味、ベルカントの原点に戻ったということなのかもしれないが、いずれにしても、この作品では劇の主要役である数人だけが素晴らしければ、それなりに形になるような舞台ではまったくない。キャラクターを預かる人々が、自分の声の特徴を精確に見きわめ、それを作品の流れのなかで、いかにして生かしていくかということが、いちばん大事なように書かれている。

もはや神田の作品ではイタリア式にしろ、ドイツ式にしろ、何らかの形式に沿った「美しい」声は必要とされない。ただ、腹の底から歌われる、「自分の」声だけが必要なのだ。それも、たくさん必要なのである。その点で、今回のキャストは申し分ない。零役の吉田弥という少女をはじめ、プロフィールのつかないすべての出演者が、これほど集中して役割をこなし、リアリティを発揮した舞台はそうそうあるものでなかろう。その面で、この舞台は奇跡的な成功ともいえる。観客よりもはるかに多い舞台上の人たちが、すべてこれだけの密度を保って演じきれるものだろうか。驚異的なことである!

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