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2012年9月 8日 (土)

神田慶一 歌劇『終わらない夏の王国』 青いサカナ団第32回公演 9/2 ② 「ただいま」と「おかえり」ができるまで

【翠と零】

今回の作品で、作者の神田慶一が抱いた創作意図をこれと決めて論じることは難しい。というのも、いつものことながら、それは多層的であり、複雑に絡み合っているからだ、ただし、絵画でいう重ね塗りの技法が、これほど見事に結実した作品も珍しい。作品では中心となる2人の少女が、それぞれきっかけにしたがって、街に出ていき、そこで小型人形たちに導かれて館に誘い入れられる。翠の場合と、零の場合だ。これらの少女は、それぞれ赤坂と青山という地名を姓にもち、その赤と青が対照的であるように、正反対の道を歩むことになる。翠は館で井ノ原翔と出会い、恋仲になる。普段は大人の役割を演じながら、翠の依存的な性格であることが、館内の生活で徐々に明らかになっていく。一方、零は孤独への道をひた走る。彼女は悪友たちに誘われてきたが、彼らとの友情はみるみる冷め、子どもの立場から急速に自立を深めていくからだ。

零はほったらかしにされてはいるが、母親が自活的な行動をとることもあり、普段は翠のような役割を演じる必要もない。その点で、翠は、父親や妹との関係性のなかで演じるための役がある。関係性を重視する翠は、館の王たらんと宣言した零の決断に対し、嫌な感じを抱く。その後、驚いたことに、翠はブラッティの禁を破った廉で人形にされてしまう。多くの人たちは、一直線に地獄の使者への道を歩む零が、翠と翔の関係によって浄化される可能性をイメージしたにちがいない。しかし、呆気なく、翠たちは零の「裁き」に屈することになる。

登場のところに遡れば、最初に零が登場する。零が不幸な少女であることは、見るからに明らかだ。神田の音楽はしかし、まだ何も起こらないうちから、この作品の悲劇的な性格を淡々と描き込んでいる。なぜだろう。理由はわからないが、最初のねじれた和音に始まり、その響きがずっと柔らかくなって流れ始めたあとも、私たちはすこしも安心して聴くことができない。零の「おかえり・・・ただいま」の独白で、彼女が不幸な少女であることは誰の目にも明らかとなる。胸がきゅっと締めつけられるが、まだ、その衝撃は浅く、謎めいたままだ。

次のシーケンスで語られるのは、翠のほうの物語だ。親による訴え→きっかけと旅立ち→街の場面→館へ、という流れで、登場順とは逆に、今度は翠→零の順番で描かれていくが、これらの筋書きと音楽は互いに兄弟のように似通っており、街の場では対位法的なものを応用した喧騒の描写から、人形たちの出現に徐々に向かっていくストリームも共通だ。こうした繰り返しの構造は、正直、若干、退屈な印象を残さないこともない。だが、そこに出現するいくつかの重要なモティーフが、今後の物語のなかでいかに生かされていくかという問題には、もちろん、誰もが関心を抱く。

【優しさと辛辣さ】

翠の場では、新型の小型人形「レモン」との出会いが、その後のプロットにとって重要な意味をもつ。また、明らかに『魔笛』のパロディであるフルート・グロッケンシュピール、ハープの響きで構成されるオルゴールのモティーフは、この作品のなかで、特に工夫されたもののうちに入る。妹がひとつしかない飴をレモンに与えるシーンは、このシーケンスでもうひとつ重要な場面になる。ありふれたエピソードだが、こういう「優しさ」を単純にモティーフに使う神田慶一という物書きは、本質的にとても優しい人物なのだろうと思った。

零の場は、その仲間たちによって彩られている。年下の4人の友達と、街で出会う顔見知りの「悪ガキ」ども3人である。この8人に加え、所谷直生演じる「自称音楽家のフリーター」井ノ原翔と、岡戸淳演じる「定年間近のサラリーマン」小津さんに、さっきまで親たちのはなしを聞いていたお巡りさんが加わって、作品は非常にゆたかな音楽的背景を構成することになる。それが例の対位法的な街の喧騒の響きのなかで、てんでばらばら・・・否、実は心地よい混沌の論理で以て響くのが、前半の聴かせどころであった。この延長線上に、小型人形(=子ども)によるアンサンブルが来るのは、言ってみれば理の当然であり、「この世界」と「館の世界」が一直線につながっていることは明らかである。小型人形たちがお巡りの言葉を逆手にとって、夜が闇をつくるのか、闇が夜をつくるのかと歌う不思議なコーラスは、前半のハイライトのひとつであり、全編を通しても非常に印象ぶかいものであった。

先にみた優しさと、この奇妙な辛辣さの間にみられるコントラストが、作品を緊張感に満ちたものにしている。『終わらない夏の王国』はどちらかといえば、辛辣さが目立つ作品であるが、これは神田による作品では『マーマレイド・タウンとパールの森』と同じストリームに属する。一方、『アゲハの恋』や『あさくさ天使』は優しさの側に立った作品だ。さて、ここに含まれるあらゆる辛辣さのなかで、この作品においてもっとも激しい「毒」は、館にやってきた子どもたちの代わりに、偽の人形が大人たちに宛がわれるというプロットである。代わりの人形は総じて、もとの子どもよりも素直で聞き分けがよく、姿も愛らしいのが特徴である。親たちはまるで疑うこともなく、このコピーとともに安らかな「夏休み」を送っている。

だが、さらに辛辣なのは零のコピーである。第1幕の最後、零のコピーは家にいない母親を待ちくたびれている。夜中、同伴で自宅に戻ってきた母親は彼女を迎え、ほかのコピーと同じように愛らしく振る舞おうとするコピーを邪険に扱って去っていく。コピーさえも落ち込ませる母親の酷さに、私は胸が詰まってしまった。この場面が、この幕の最後に来ていることは、作品をぐっと凝縮させる役割をもつ。この物語に、もはや逃げ場がないことを教えるからだ。

もはや逃げ場がないところでの、極限的な享楽ということが、この「王国」の持ち味である。歓迎の宴で聞かれた、多分に強引なサンバ(風)の盛り上げと、それとは反対に、静かに人々を騙すような風の声や森の響きが、巧みに子どもたちのこころを開いていく。特に、後者の要素が零を変え、翠を目覚めさせる。翠はこの開放感のなかで異性に関心をもち、零はその厳粛な響きのなかに、自らに欠けていた律(自律)を見出すのだ。そして、この2人は片や禁忌を破って間違いを犯し、片やこの世界の王として彼女を裁く。鑑賞者が期待するような赦しを、零は省みない。王国の矛盾は、ここに極まることになる。

【ブラッティの問題】

もとの世界につながる扉を開ければ、その者は燃えてしまう。その要素のなかに、観客はやはり「支配」を感じてしまうだろう。このプロットは、この作品のなかで改善の余地がある。私の考えでは、いつでも逃げられるというほうが、作品のイロニーとしてはきついように思う。安部公房の『砂の女』でも、隙さえあれば逃げられそうなところに、この作品の本質があるのであって、最終的に、男は自ら逃げない決断をしたようにも受け取られる。誰がこの扉を開けてもとに戻り、誰が戻らないかは自己決定されるべきである。この筋から、作品を根本的に考えなおせば、神田の作品はもっと輝きを増すであろう。

そういうことから、いま、問題になるのは、ブラッティの存在であろう。彼もシステムに選ばれた者にすぎず、いつでも交換可能だという結末は、いささか安易である。ただ、その死で面白いのは、新型の小型人形「レモン」に対して述べたことが、彼自身についても当てはまるということであろう。彼は新型にとりつけた新機能「優しさ」は考えものだ、とエリザベスに告げる。しかし、最後の場面でブラッティを死に追いやったものも、子どもたち、特に零に対する優しさであった。ブラッティの欠点は、新型と同じ優しさであったということが、この作品の最終的なイロニーの本質なのである。「館の頭脳達」の本質は、徹底してグロテスクなものであろう。しかし、ブラッティという優しさが介在することで、「館」は善意のシステムに置き換わっている。

【譲り合うという解決】

子どもたちを悪意で閉じ込める「館」との対決ではなく、高いところからみた「優しさ」という善意との対決が、作品の中心部分に置かれていることが、『夏の王国』のいちばん難しいところである。勧善懲悪ではない。悪のなかにある良さと、善のなかにある欺きがともに捉えられている点で、私はこの作品を評価する。この観点は子どもに対しても向けられており、彼らはいつも無垢で、明るい太陽だというわけではない。大人に良い面があり、悪い面があるように、子どもたちにもそれはある。そして、子どもが主役のオペラだからといって、子どもが正しく、親が間違っているという風には描かれていない。むしろ、いずれもが誤り、関係をこじらせてしまうことを、この作品は端的に描いているわけだ。

零と母親による感動的な最後の対話、「ただいま」「おかえり」が生じるまでに、神田はどのようなマジックを仕掛けたのか。それは互いが譲り合い、相手の立場を考えてみるという、そんなことにすぎなかった。子どもの論理、もしくは親の論理のいずれか一方だけでは、彼らの齟齬を解決することはできない。実際、親といっても、実は多くの問題を抱えている。エリザベスに化かされて、アライグマを亡き妻と思って抱きしめる光彦(秋谷直之)の姿にも、私は胸を締めつけられた。これを嘲笑う「館」の側の悪意は明らかで、これはオッフェンバックの歌劇『ホフマン物語』にみられるような辛辣なイロニーを感じさせる。親のほうにも、成長が必要だ。子どもがいなくなり、人形になるという極限状況において、ようやく、彼らは目覚めた。子どもが成長するのはイメージどおりとしても、これを親の側の成長と突きつけたところに、この作者の面白さがある。「ただいま」と「おかえり」はそのようにして生まれた。

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