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2012年9月28日 (金)

スクロヴァチェフスキ ワーグナー トリスタンとイゾルデ デ・フリーヘル編 読響 定期演奏会 9/23 & 9/24

【新しい倫理の下で】

ワーグナーの成功したオペラは、7つあるとされている(リングについては4作で一体とした場合)。そのなかでも、『パルジファル』と『トリスタンとイゾルデ』が両極に位置するのは間違いない。『トリスタン』はディオニュソス的破壊の徹底した傑作であり、その創作スタンスは『リング』に匹敵するが、背景に過大な意味を与えず、大胆にも「愛」に凝縮した作品はワーグナーのなかでも特異の位置に存する。先日の記事でみてきたように、『パルジファル』はこうした破壊の彼岸において、再びアポロ的再創造がおこなわれるという思想に基づき、一方の極を振り切って正反対の極にスクロールしてしまったような作品なのだ。

いわゆる「トリスタン和音」が調性を破壊したかどうかについては議論もあり、私はそのような点に、ワーグナーの新しさをみることができるかどうかは判断する力がない。しかし、次のような点では、まったく議論の余地なく新しいといえるだろう。ワーグナーはトリスタンとイゾルデをして、キリスト教的倫理とはまったく異なる「愛」の倫理に従わせ、現世的な悪徳(不倫や不忠)を乗り越えて結びつく男女の姿をヒーローとヒロインとして描いた。古くから、このようなタイプの恋愛は描かれていたろうが、彼らは一時の情熱にそれを忘れることがあっても、常に発覚を恐れ、倫理的苦悩をも抱えているのは明白であった。だが、トリスタンとイゾルデはそこに悩むことなく、堂々と愛し合う。忠実なるブランゲーネの警鐘も、彼らには届かないのだ。

【媚薬ではなく純粋な愛情から】

中世から、その悩みがない理由は「媚薬」のなかに求められていた。兼好法師ではないが、あのような失態はクスリのせいだから、語り手としては、そこに描かれるいかなる倫理的、宗教的罪悪とも無関係だ、勘弁してくれというわけである。だが、作品をよく検討していくと、少なくとも、このワーグナーの作品において、「媚薬」などあってもなくても同じことだということがわかる。まず、第一に、『トリスタンとイゾルデ』はドニゼッティの『愛の妙薬』のパロディだ。正確にいえば、ドニゼッティの作品はG.v.シュトラスブルクによってまとめられたトリスタン伝説のパロディで、さらに、そのパロディがワーグナーなのである。ワーグナーはシュトラスブルクの原点に戻ったともいえるが、イタリア・オペラに対するワーグナーのつよい憧憬から考えて、ドニゼッティからのパロディという見方も適切なはずだ。

ドニゼッティの作品のアイロニーは、ネモリーノが詐欺師に売りつけられた贋物の媚薬の効果を信じて、勇気百倍して恋人に向かい合った結果として、そのこころを見事に実力で射止めてしまうというところにある。ここから発想されることは、ワーグナーの作品においても、媚薬の効果が本当にあったのかどうかということだ。その直接的な答えとなる要素は、作品のなかには見出せない。だから、そこから先は、私たちのワーグナー観や、芸術に対する直感から導かれるよりないのである。

私の貧困な直感からすれば、ワーグナーのようなアイロニカルな思考をもった人物が、媚薬なんてものを本気で信じるわけがなく、むしろ、そうしたものを理由にして、物語の宿すディオニュソス的衝動を封印してきた人々を批判するために、このような作品を書いたとみるのが適当だと思う。つまり、トリスタンとイゾルデの結びつきに、媚薬はまるで関係なかった。彼らは「愛」のみによって結びつけられたのであり、それ以外のいかなる要素も、彼らの関係とは結びつかない。否、結びつけてはならないのだ。

【デ・フリーヘルの批評性】

そのように感じるのも、この日に聴いたデ・フリーヘルによる編曲を耳にしたせいなのかもしれない。オランダ放送管のパーカッショニストであったデ・フリーヘルは、管弦楽のみで『ニーベルングの指環』の名場面を演奏できるようにした編曲「オーケストラル・アドヴェンチャー」の成功を皮切りに、『パルジファル』『トリスタン』、さらに『マイスタージンガー』を次々に編曲して、「オーケストラル・クエスト」「オーケストラル・パッション」、または、「オーケストラル・トリビュート」などと名付けていった。こうしてみると、企画ものめいた名場面集とも受け取られかねないが、この『トリスタン』を聴く限りにおいては、必ずしも、そればかりではないように思える。

デ・フリーヘルの作品は単に手際よく作品をまとめて、演奏会用に拵えなおしたものというよりは、ワーグナーの作品に対する彼なりの批評を含んでいる。例えば、『トリスタン』では第1幕の媚薬の件には直接、触れずに、冒頭のプレリュードのあとは、第2幕への前奏曲から「イゾルデの願望」が第1幕の内面描写のハイライト的に描かれ、その次は、もう逢引の場面に移ってしまう。20分ちかくもあるこのナンバーが全編の中心に置かれていることは明らかで、その後は第3幕への前奏曲や、イゾルデが船で到着する場面や、単独でも有名な「愛の死」などが描かれていくことになる。

この作品を通しで聴いていると、押しては返す波のような音楽的流れを中心に、2人の関係は自然に深まっていき、途中、巨大な危機に見舞われるも、最終的に、その音楽は男女の関係の美しさによって昇華され、いちども絶えることなく、いかなるアイロニーも含まない完全な勝利として提示されることになる。ただ、その矛盾として2人が死んでしまうことがあるにしても、キリスト教徒にとっては、この世における生の重みは儚い夢のようなものにすぎないという発想がある。だが、もちろん、デ・フリーヘルは、ワーグナーがここでキリスト教的な永遠性のなかで2人の関係を捉えたという風に言いたいわけではなく、むしろ、それを越える特異な倫理観において作品を描いていることが重要だと主張しているように思われるのだ。

オーケストラル・パッションの ’passion’ とは「情熱」を意味する言葉だが、キリスト教世界では重要な「受難」の意味もある。それも音楽の世界では、特にバッハの「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」をイメージさせるが、そのネーミングはそれこそ企画ものの発想に基づくもので、過剰に評価すべきではないだろう。

【愛の波で日本人を癒すという発想】

前置きが非常に長くなったが、大事なところだと思うのでご寛恕を願いたい。なぜなら、スクロヴァチェフスキ&読響は、このような発想を正に音にして表現したからである。彼らが描いたのは、海のように壮大なトリスタンとイゾルデの関係だ。オランダは海洋国だけに、デ・フリーヘルも、そういう感覚には敏感だった。トリスタンがイゾルデを運んでくるのは、船。瀕死のトリスタンを訪ねるために、イゾルデが危険を冒して乗ってくるのも船である。それだけではなく、陸上のエピソードである逢引と、まやかしの狩りの場面も、すべてが波の構造で統一されているのだ。そして、私はそういうことに深く気づいてくるに従って、つまりは、連続となった2日目の演奏を聴くことで、これ自体がスクロヴァチェフスキの温かいメッセージであることに気づいたのだ。

この公演は、スクロヴァチェフスキから私たち日本人に対するこころのこもったプレゼントであった。彼は私たちが1年以上も前に、津波によって多大な傷を蒙ったことを忘れていなかったのだ。そして、私たちを苦しめたその波によって、日本の人たちを今度は元気づけられると考えたのであろう。それが、この『トリスタン』の演奏だった。それは欧州人とは対照的に自然とともに生き、自然に対する尊敬のなかで生きてきた日本人に対するオマージュでもある。日本人と自然の関係を、トリスタンとイゾルデの関係においてみたのである。そして、そのために、もっとも適切な素材は、『トリスタン』全体を演奏することよりも、デ・フリーヘルの優れた省察を形にすることであった。そのミッションを、彼らは着実にこなしたといえるであろう。

【ルバートとザッハリヒ】

波の要素をつくる最大のポイントは、ルバートである。これは実は、プログラムの最初から、彼らの思い描くテーマの中心を占めていた。ウェーバーのジングシュピール『魔弾の射手』では、ルバートが森の長閑な雰囲気や悪魔の深い溜め息を構成し、音楽的には、ロッシーニ風の激しい上向を導く鍵となっている。自作のクラリネット協奏曲においては、緩徐楽章において独奏者が自由にルバートできる部分があるそうで、これは多分、この夜想曲の雰囲気をふかく停滞させ、静止にちかい印象を与えることができるようになっていた。

スクロヴァチェフスキに対するイメージから、この演奏を「ザッハリヒ」なもの、つまりは冷徹でロマン的ではないもの、官能性とは無縁な即物主義、オペラとは一線を画すコンサート的な発想の極致と見做すかのような感想も多いが、そのような言い方は、この演奏のどこか一部を誇張した見方にすぎない。それは例えば、冒頭の前奏曲のパウゼで通常よりも深いパウゼをとったことの意味、あるいは、最後の「愛の死」のクライマックスでみられた深いルバートの意味を説明することができないであろう。

確かに、スクロヴァチェフスキ&読響の演奏は、ワーグナーのオペラを室内楽の単位に分けることを本質としている。彼らの演奏を聴いていると、化学者が予め定められた実験プロトコールに応じて、適切に薬品を混ぜていくような雰囲気を感じさせる。あるべきところで、あるべき強さで響きがつくられ、また逆に、消えるべきところで自然に響きが消滅し、それらの関係が『パルジファル』のような整然とした合理性のなかではなく、むしろ、大胆で自由な発想のなかで浮き沈みしていく様子が、手にとるようにわかるのだ。このシステムのなかで、ルバートが果たす重要性は、正に人体における心臓のようなものである。

冒頭場面のパウゼでは、響きのないところでドキドキ打つ心臓の鼓動が、トリスタンとイゾルデの関係を象徴する。このポンプの動きが、作品全体を支配する波と無関係でないことは言うまでもない。そうして送り出された波を最終的に回収する巨大な心臓が、「愛の死」において輝く深いルバートであることも、もはや、説明の必要はないであろう。ザッハリヒな基本構造のなかで、このように思いも寄らない、しかし、考えてみれば、当然ともいえるところに配置されたルバート、つまりは、「想い」の構造が適切に噛み合うことで、スクロヴァチェフスキの演奏は完成する。

官能的というのを、単にエロスに対するあからさまな表現として捉えるなら、スクロヴァチェフスキの演奏はあまりにも知的であるといえるかもしれない。しかし、そのような高次な知的構造のなかに、深いエロスを探る思想がワーグナーの音楽だ。当のワーグナーはといえば、自らを支援するパトロン、ヴェーゼンドンクの夫人と姦通し、また、彼の音楽の理解者でもあった友人、ハンス・フォン・ビューローの細君を奪って妻にするという遍歴の持ち主である。彼の音楽の内的必然性は、このような愛に抑えが利かない自らの知的矛盾が、ドイツ的ロマン主義や、キリスト教的倫理観のなかで、どのようにして解決されるかを見出す必要に根づいていたのかもしれない。

【ワーグナーを室内楽に】

読響は今回、9月23日と24日の両日で、この演奏を披露した。私は初日に赴き、その感動から2日目の予定を急遽、組み入れたのだが、この間のステップの跳躍力は、プロ音楽家としての読響の凄さを物語るものである。初日の演奏においては、このようなメッセージはまだ、必死のもがきのなかで不鮮明に輝くだけだった。それでも、第3幕への前奏曲の深い慟哭や、それを導く直前の低音弦、特にチェロによるモティーフの激しい振動には雷に打たれたような衝撃を感じ、それ以降、バラバラに美しいピースを構成していたのが一挙に凝縮して、1つの響きとしてメッセージを織り成していく様子が、ライヴ的に素晴らしい印象を残した(24日の演奏では、これらの要素はより滑らかに姿を変えた)。

しかし、そこから、いちどもプローベを挟む暇はなかったろうと思うが、2日目の演奏は、初日には僅かしか感じられなかった室内楽的な構造へのこだわりが、完璧に醸成されていたのだ。初日の演奏で、特に深く称賛されたのは、「牧童の笛」を吹いたイングリッシュ・ホルンの奏者であり、スクロヴァチェフスキは一通り、オケマンを立たせて拍手を受けさせたあとも、満足せず、次に呼び出されたときには、痛い膝のことなど忘れて、この女性奏者のもとに向かっていって、傍ちかくに立って称賛したほどであった。彼女にはフロアからも一体化した称賛の拍手が集まり、このアプローズの場景は実際、オーケストラによる数ある成功した演奏のなかでも、特に感動的な印象をもたらした。パフォーマンスにおいては、この笛は2つのシーケンスに分けられると思うが、その変わり目のパウゼで、思いも寄らぬ深い息をついた部分(初日の演奏だけに見られた)がなんとも忘れがたい。あれには、呆気にとられたものだ。

2日目も彼女は素晴らしかったが、彼女以外のパートもすべて素晴らしかった。初日はまだ、ずり上げるようにして強引に合わせていた部分が、今度こそ美しくつながって、「無限旋律」の本当の意味が室内楽的なアイディアの共有と、その限りない磨き上げから生じることがよくわかった。最近の演奏は、こうした部分を響きの巨大さやコケオドシ的威容によって表現するのだが、そんなものはドイツ的でもなんでもないのだ。私たちのこころに響く要素として、確かに「デカい音」も有力だが、それよりは、この前の飯守泰次郎のような方法を思い出すべきだ。彼は、根から生える大木の威容を、じっくりと表現していた。これが、正にワーグナーのオペラの原点なのである。そして、そのまた正体を、スクロヴァチェフスキは室内楽的な響きの構築と無関係ではないと考えた。

大木といっても、ここでは海のイメージのなかで流動的だ。室内楽のモザイク構造に着目した指揮者のイメージは、このような矛盾とも折り合っているし、また、楽団の個性とも上手に結びついている。彼が読響で過ごした3年間は、両者が室内楽的構築でコツコツと、ブルックナーのような大曲を組み上げる方法を積み上げることに費やされた。その方法は例えば、ショスタコーヴィチの作品を描くのにも大いに役立ったであろう。ワーグナーを披露することはあまりなかったが、これこそが彼にとっての本丸という感慨もなくはない。

バランスにおいては、木管の押し出しが非常に積極的であることは特筆に値する。ワーグナーというと、私はどうしても、弦楽器のベースの機動性やメッセージの強さに押されがちな印象を抱く。そこに、金管のアクセントが割り込むという感じだ。だが、実はその間に、厚い木管の雲が層のように描かれており、これが明確になることで、ワーグナーの作品を構築する全体的な構造が初めて明らかになる。舞台ではさらに、歌手たちの声や動き、演出といった要素が出てくるのだから、このような問題は得てして軽視されてしまうものだ。だが、そこに重要性がないのかといえば、もちろん、ないわけがないのである。ワーグナーは、このような関係を濃密に描くことで、コツコツとトリスタンとイゾルデの関係を分厚くしていったのに、その労作を抜いて、彼のいかなる部分を表現することができるだろうか。

【愛の死】

こうした関係の爆発として、「愛の死」はイメージされるべきだ。死という結末におわるが、スクロヴァチェフスキの解釈によれば、作品は明るくおわっている。そのポイントになっているのは、最後にしっかりと奏でるハープの響き(和音)だ。これがあることで、作品は下を向くことができない。

第3幕はメーロト、トリスタン、イゾルデの死に覆われる悲劇であるが、音楽的には喜びに満ちている。マルケ王の徳に象徴される既存の倫理観に対して、彼らはディオニュソス的倫理観の完成へと向けて舵を切った。メーロトを相手に自死を選び、傷ついてイゾルデを待つトリスタンの姿は、『パルジファル』のアムフォルタスと同じような立場でありながら、こちらは喜びと確信に満ちている。この苦しさのなかで、イゾルデ駆けつけてくる場面がこの日の演奏のクライマックスとなった。

この喜びは、先に述べたように、津波に傷ついた日本人に多大な貢献をしてくれた人たちの印象と重なってくる。難所を抜けて、ブルターニュに辿り着くイゾルデの姿は、どんな危険があろうとも、日本との関係を断ち切ることはないというスクロヴァチェフスキの真心を示すものだ。徐々に近づき、ついに派手に鳴り響くファンファーレは、彼ばかりではなく、世界が日本を見守ってくれていることのイメージと突き合わされている。こうしたメッセージと、本筋のオペラの表現が分かちがたく結びつき、特別な印象を抱かせた。そして、もちろん、その原点にあるものは、「愛」である。

それが、「媚薬」に基づくものだったら、なんてつまらないことだろう! この場合、「媚薬」とは、政治的な思惑や経済的なつながりということになるのだろう。でも、そうではない。スクロヴァチェフスキの真心は、あのサウンドのなかにハッキリと溶けている。私は高齢者の姿を見慣れているが、一部の人たちがなぜか健脚を強調したがるなか、一過性のものかどうかは知らないが、私は彼の膝の痛みについてわかるのだ(もちろん、痛み自体はわからないが、それを感じる人の苦悩は理解しているつもり)。そういう状態でも、彼は日本行きを躊躇わなかった。「媚薬」の力では、到底、こうしたことは起こらないものだろう。

そういう愛の正体とは、何であったのか。それは、関係である。ワーグナーは作品を ”Tristan und Isolde” と名付けたが、その ’und’ のなかに込められた関係こそが、作品の本質であることは当然のようで、なかなか意識されないところである。関係してこそ、人は人として価値をもつ。楽器の響きも、正にそのようなものだということが、こういう演奏でよくわかる。

【関係についての補足:クラリネット協奏曲】

最後に、ちょっとだけ触れるが、スクロヴァチェフスキの自作のクラリネット協奏曲の冒頭で、独奏クラリネットより先に、その後方に控えたバス・クラリネットが重要な役割を果たすことを取り上げたい。このバス・クラリネットは通常、木管席の端に置かれることが多いが、今回はストリングスの中央の最後方、木管席より一段下がったすぐ下のところに配置された。この影のような位置で、弦のベースのなかから死体が這い上がるようにして、バス・クラリネットの響きが持ち上がり、それがポンプのようなイメージで回されて、ついに独奏楽器に乗り移るのである。作品がこのような関係を始点にして、20世紀の闇をうつし、また、ときには米国へのオマージュのように響いていく構造的特徴については、一言しておきたいと思う。

結局、『トリスタン』ばかりに集中したレヴューとなったが、演奏会全体が、非常に内面的な豊富さをもっており、意義深く、感動的な公演であったことは確かである。

【プログラム】 2012年9月23/24日

1、ウェーバー ジングシュピール『魔弾の射手』序曲
2、スクロヴァチェフスキ クラリネット協奏曲
 (cl:リチャード・ストルツマン)
3、ワーグナー オーケストラル・パッション『トリスタンとイゾルデ』
 (arr:H.v.デ・フリーヘル)

 コンサートマスター:小森谷 巧

 於:サントリーホール

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