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2012年9月22日 (土)

二期会 パルジファル クラウス・グート〈演出) 飯守泰次郎(指揮) 9/17

【作品への批判も含めた演出】

二期会による、45年ぶりの『パルジファル』公演が終わった。その評判たるや、演出と指揮を中心にほぼ全体的に絶賛されており、過去数年の日本におけるオペラ上演のなかでも、指折りの成功した公演だといってよい(ただし、興行的成功かどうかはわからない)。演出について論じる手段は、演出優位の時代にあって著しく発展しており、今回の公演に際しても、優れた考察がいくつか受けられる(無論、それらは世にいう『評論家』のものではないようだ)。ここで、私がいまさら、なにかを書くべきなのかについては疑問も抱くところである。

今回の上演で、やはり最大の話題となったのはクラウス・グートによる演出についてであった。このプロダクションは、スペインのリセウ大劇場と、スイスのチューリヒ歌劇場との共同制作であり、これらの劇場は片やスペインのバブル的な好景気(それは破綻したので、今後はどうなるだろうか?)に支えられ、片や前総裁のペレイラ(ザルツブルク音楽祭に転出)によるコンパクトで質の高い経営で、いずれも近年の勝ち組となっているだけに、欧州のなかでもレヴェルの高い上演が日本に持ち込まれる可能性は高かった。欧州の贅を尽くした舞台は、映画のようにゴージャスな場面と、高度に洗練された演劇的な意味づけを含んで、数々の海外劇場の来日引っ越し公演や、新国で紹介されてきた最前線の演出家たちのつくる舞台と比べても、桁外れに高い衝撃を日本の観客にもたらしたのである。

私が特に強調しておきたいのは、グートが、この作品に対する信頼だけではなく、ニーチェによる徹底した批判などを踏まえ、ワーグナー最高の労作が、結果的にみてもナチスの喧伝に用いられるようになった矛盾が、どういう部分にあったのかを明らかにしようとする意欲的なものであり、それがアムフォルタスとクリングゾルの決裂と和解という冒頭および終結のシーンとして、象徴的に描かれている。アムフォルタスはワーグナー的であり、クリングゾルはニーチェ的だ。そして、アムフォルタスが、つまりはワーグナーがこころに抱いた理想(現在の自分とはちがうもの、あるいは、現在の自分から昇華した形)が、パルジファルのなかに顕現しているわけである。彼の姿をニーチェのいう「アポロ的」英雄としてみるか、依然として、「ディオニュソス的」な英雄として捉えるかは、一方の問題ではないが、パルジファルがついにナチス的な軍隊の独裁者となるかのごときグートの演出では、やはり、どちらかといえば、演出家はニーチェの考え方に近いように思われる。

グートの演出はワグネリアンにはもちろん、作品のもつ知的精細さを徹底的に証明づける点で大いにウケるであろうが、同時に、反ワーグナーの立場をいまさら採っている人たちにも称賛されるであろうと思う。

ここで私は、特に「音楽」という観点から、このプロダクションに注目することにする。私の気に入った場面のひとつに、グルネマンツがパルジファルを城内に誘い入れたあと、飯守の導く息の長い、そして、素晴らしい間奏曲が響くなかで、それをモンサルヴァート「病院」の患者たちがオーケストラの隊形で座り、蓄音機(指揮者の位置に置かれている)から流れてくる音楽を聴いているように描いている場景があった。この場面はまるでアンゲロプロスの映画、彼が亡くなった直後に観た『霧のなかの風景』のなかで、サラエヴォの市民たちが霧のなかのカーニヴァルの最中、演じ、楽しむ、若者たちによるシェークスピア劇と似たような雰囲気をもっている。それは筋書きのメイン・ストリームとは無関係であるが、同時に、作品に決定的な印象をもたらすものだ。

【指揮者の誕生】

この場面で、オーケストラでいう「コンマス席」にいて、力なく不恰好に指揮振りの真似ごとをする患者の姿は印象に残る。恐らく、彼と同じ人物が、パルジファルが独裁者となった終幕のイニシエーションのなかで、騎士たちによる合唱に向かって指揮を振っている様子を、あなたもご覧になったにちがいない。私は独裁者になったパルジファルよりも、この「指揮者」のほうにゾクッとするものを感じたのである。これがどのようなことを意味するのか、非常に多義的に考え得るが、多分、グートはこうした種類の「指揮者」によって、ワーグナーの音楽がいかに歪められて受け取られたのかという問題を提示している。

しかし、私はグートが同時に、他ならぬワーグナーがこの「指揮者」の誕生に、まったく責任がないとは見ていないようにも思うのだ。

突然だが、その「責任」について述べるために、飯守泰次郎の演奏について述べたい。彼の指揮ぶりで、特に優れている点は2つある。1つは、非常に粘りづよく、作品の静的な美しさをベースに、そこから緩やかに立ち上がる官能美の強烈さを、これでもかと観客に訴えた点である。その点については後述の予定だが、もうひとつ、ここで重要なのは、モティーフなどの提示が実にわかりやすく、たとえ、ほとんどこの作品を見慣れていないような観客でさえも、ああ、この言葉(や観念)とこのフレーズが対応しているのだということを、明瞭に掴むことができる演奏だったということである。

これら動機の見事な構造による幾何学的な、奇跡的美観が『パルジファル』を永遠のものとし、現代の作曲家をして、しばしば、自分にとって理想的な作品は『パルジファル』であると言わせるような根拠になっている。こうしたライトモティーフのエレガントさは、ニーチェも『トリスタン』など、より早い時期から評価し、特に、批判の対象にはなっていないようだ。しかし、この作品においては、その構造的な整列の厳しさは度を越しており、パルジファルがカソリック思想に基づくアポロ的英雄に仕立て上げられ、「聖杯伝説」という通俗的なモティーフのうえに、その「堕落」がかえって純化のように描かれることをあわせて考えれば、グートによるメッセージがすこしは読み解けるであろう。彼は、例の「指揮者」が紛れもないワーグナーの音楽によって、背筋を伸ばされた若者のひとりであることを看破しているのだ。

【音楽の自殺行為】

グートの演出は、最終的にワーグナーの音楽を「音楽の自殺行為」とみなしている。第1幕で患者たちによって重宝されていた蓄音機が、終幕で床に転がっている場面も、あなたは見たはずだ。第2幕の素晴らしいクンドリ―とパルジファルの対話を以てしても、この惨劇を救うことはできない。ここに、グートはワーグナーの描く悲劇、つまりは、喜劇の本質をみているのである。

極めつけはバスの歌唱を抜いて、しばしば管弦楽のみでも演奏される、有名な「聖金曜日の音楽」だ。この場面で、グートは『マイスタージンガー』の終幕におけるザックスの独唱と同様に、グルネマンツが感動的な演説をぶつなかで、それとは対照的な映像を建物の白壁に映すことでペーター・コンヴィチュニイの「演説」にもちかい大胆な政治的メッセージを走らせた。そこに映し出されたのは、正確にはわからないものの、WWⅠ~WWⅡにかけてのドイツの映像である。民衆の営みに交じって、軍の組織が固まり、ユダヤ人が集団でゲットーに引き立てられていくときのシーンのように思われる映像も含め、数々の映像がひっきりなしに流されたのだ。そのタイミングは歌唱の部分と密接にすり合わされ、観客がグルネマンツの演説と対応させて、それらを比較できるようにした。

よく考えられたことに、グルネマンツは舞台の中央よりもやや下手側で歌い、パルジファル以外に、何人かの「聴衆」を率いて歌う。これらグルネマンツを中心とする一団と例の映像を、同時に視野に入れることは簡単にできそうでいて、実際のところ、そう容易ではない。この距離が、観客を2つの「演説」のなかに「立ち止まらせる」効果をもつのは自明である。

全場面を通じて、もっとも美しいといっても過言ではない「聖金曜日の音楽」は、こうして音楽と映像によって、多重的な視点のなかに位置を占めることになった。この結果として、クンドリーは死ぬをことを免れている。彼女は浄化されて消える幽霊の役割を捨て、これまでに用いたすべての道具を捨て去り、鞄ひとつでパルジファル戴冠のイニシエーションの最中に、それには背を向けて去っていくことになった。鞄のなかには、何が入っていたのだろうか。多分、楽譜ではないかと思う。この演出で、クンドリーは終始、音楽的な存在として描かれた。音楽の官能性ということでいえば、彼女が唯一、それを担う。あとは禁欲的なグルネマンツ(音楽の構造とあわせて考えると、実質的な主役ともいえる)の歌と、パルジファルによるそれらの合成があるだけだ。

4時間もある作品だが、ざっくりと言ってしまえば、第1幕はほとんどグルネマンツが歌っており、第2幕はクンドリーの場で、最後の幕はパルジファルの独壇場だ。音楽的には、これら3人の立場から論じることが端的である。グルネマンツとパルジファルについては後述するが、クンドリーが浄化によって消えなかったのは、音楽の官能性がこの後(パルジファル以後)もまだ途絶えることなく、作品を支配しつづけたことの証拠である。例えば、その果実として、ベルクの『ルル』が生まれたのだ。また、ニーチェについて言えば、ワーグナーとの訣別後、熱を上げたのがビゼーの『カルメン』である。アポロ的英雄の誕生とともに、宗教的堕落を選んだワーグナーに代わって、このディオニュソス的英雄(女傑)がややアタマの調子がおかしくなりかけた稀代の思索家の本能を捉えた。クンドリーの行先は、もしかしたら、そのあたりなのかもしれない。

【クンドリーについて】

愛すべき樋口裕一先生は、この演出から「エロスを称えたい気持ちがあった」というワーグナーの本音が窺われるとみているが、私はまったく逆のことを考えた。ワーグナーがエロスを否定したとは思えないし、その死をクンドリーの浄化と重ね合わせたというのは強引である。しかしながら、この作品でエロスが何らかの制限つきでみられているのは紛れもない事実であろう。クンドリーは確かに魅力的な女性であるが、イゾルデやブリュンヒルデのような徹底した官能性と比べると、数段、劣るのも否定できない。結局、彼女はパルジファルにとって恋人にはなり得なくて、母親の役割しか果たすことができない。彼女が語るパルジファルの母親のエピソードは、そのまま彼女のことなのではないかと思えてくるぐらいだ。彼女はいまから、自分がそうなると知っていて、母親のエピソードを語る。そのアイロニーが、パルジファルにとっては魅力的なのだ。

だが、それだけのことである。彼の肉欲を抑え込むのは、アムフォルタスの苦しみであろうか。そうではない。クンドリーの母性である。

クンドリーがオンナを捧げるのは、やはり、アムフォルタスやクリングゾルという世代に対してのみであろう。面白いことに、この女性は善悪の両陣営でともに欠かせぬ役割を果たす。クリングゾルが騎士たちをたぶらかすための切り札と見做している女性は、同時に、聖杯城の古参の騎士、グルネマンツによる惜しみない称賛の対象でもある。この女性は、どちらかを騙しているのであろうか。どうも、そのようには思えない。騙すとすれば、それはどちらかといえば、聖杯城のほうがターゲットになるだろうが、少々、人の良さそうなグルネマンツのほかに、彼女のせいで傷を負ったアムフォルタスまでが彼女の誠意を疑ってはいないのである。そうかといって、クンドリーが数多くの騎士たちを堕落に誘い、いままた、パルジファルを同じ道に落としこもうとしていることも事実であり、クリングゾルに対しても、彼女は忠実に立ち働いているわけだ。

この女性が一体、どういう発想で動いているのかは想像(あるいは、イメージ)に頼るよりないが、そのヒントのひとつは、彼女がグルネマンツから善行を働いているといわれても、私は善はおこなわない、とキッパリ否定するところにあるように思えてならない。これはつまり、クンドリーがやっぱり、悪の使者にすぎないことを示すと考えるのは、あまりにも短絡的である。この言葉はむしろ、彼女が善悪どちらの側にもついていないことを示すのみであって、それこそが、実は彼女の正体を明らかにするヒントになっているのだ。クンドリーは・・・つまり、エロスは、善悪のどちらにも与していない。ここにいう「善」とは聖杯城的なアポロ的要素であり、「悪」とはクリングゾルの陣営を支配するディオニュソス的な要素のことを指している。

ワーグナーが描いたのは、この中性的なエロスが結局、アポロ的な英雄によって浄化され、真実の愛に目覚めることにより、消滅という甘美な結末を迎えるまでの出来事である。グートの演出が、最後にアムフォルタスとクリングゾルの「兄弟」を、隣りあうベンチに座らせて再結合させようとするなら、その間には、クンドリーの姿がなければならない。彼女は2人の男をこころから愛し、それゆえに、彼らのために、それぞれ誠意を尽くしたのである。そこでは、善悪など関係ない。無論、ワーグナーの真の意図がどのようなものなのか、当然、私にとって知る由もないが、男2人だけを登場させたグートの演出が作曲家による創作意図からみれば、(微妙に)的を外していることは明確である。肝心のクンドリーはといえば、既述のように、トランクひとつを片手にして、聖杯城をネガ/ポジにしたセットから去っていくだけだ。それは作品に対する批判者の歓心をかなり惹くとしても、作品自体を正当に解釈したことにはならない。

【グート演出に対する批判】

グートの演出は論理的に筋が通っている部分が多く、懐も深くて論じ甲斐があり、その上、映画的なボリュームを誇る映像的な手法の鮮やかさ、演劇的な仕上げの細やかさ、装置などチームとしての美観の総合力において、もちろん、レヴェルの高いものを供給してくれた。しかしながら、いまのクンドリーの問題をはじめ、容認できない問題がいくつかある。

例えば、聖杯の騎士たちが、仏教的な仕種で信仰心を表すようにしたことについて述べよう。彼らは私たちと同じように、掌と掌を合わせて祈る。これはワーグナーがヴィトゲンシュタインを読み、キリスト教の源流にインドの古い思想を置いたという事実と関係しているにちがいなく、その教えを守る騎士たちの仕種のなかに、これを端的に示すものを組み込むための仕掛けであろう。しかしながら、そんなことは現代では、もうよく知られているので、なにも今更、騎士たちにそんなわかりやすい動きをしてもらう必要はないのだ。少なくともワーグナーは、このような見かけの部分に、ヴィトゲンシュタインから得たインスピレイションを用いようとはしなかったはずである。グートの演出は観客の知見を低レヴェルなところに設定した結果であり、結論として、ワーグナーの思想を軽薄なものに見せるだけであって、この点で大きなロスを招いていた。

次に、彼の演出で著しいのは、内面の苦しみが動作に、直接的に表れてくるということだ。そのこと自体はなにも間違いではなく、この点で成功したのはアムフォルタスの苦悩を、聖杯城の階段の上り下りの苦しさで端的にイメージさせたことである。しかし、最初のほうからずっと違和感があったのは、自分が褒められるにしても、頼られるにしても、いつも纏わりつく罪の意識のために、クンドリーが始終、ごろごろ転がって歌ったり、演技をすることである。わかりやすいといえばわかりやすいが、一見して汚らしく、自然さに欠ける。どこの誰が、あんな風に寝転がって感情を示すであろうか。犬っころか、幼児ぐらいのものであろう。知的に磨き抜かれた演出家やドラマトゥルクが、具体的な表現において、そんな演技や象徴しか思いつかないのは嘆かわしいことだ。

そして、世界の苦悩のすべてを代表するかのような白痴的なダンサーは、どれほど見事な現代的ダンスを披露し、それによって、この世界の可笑しさをアイロニカルに示すのだとしても、結局は差別的な偏見しか生じさせないであろう。

確かに、優れた演出であるのは確かだ。しかし、次のような点からみても、この演出が搦め手ばかりを突いているのは明白である。彼は、パルジファルその人をうまく描いていない!

時代背景を考えて、妥協的に、パルジファルの独裁者となることを素直に受け容れるのは安易である。そういう結論もアリではあろうが、音楽やリブレットからみて、そうなる必然性はまったくないのだ。なぜ、このような演出的な矛盾が生じるのかといえば、オペラの現場で同じような問題が生じるとき、いつも共通の原因を抱えていることを指摘したい。それは紛れもなく、作曲者やリブレットの作者と関係ないところで、演出家が付け足した要素にすぎないからである。今回のものは、仮に「付け足し」としても、他のものと比較して、なるほどセンスが優れているようにも思われるし、そのことは素直に認めるとしても、私はその付け足しの議論で、ワーグナーを語ることには十分な警戒が必要だと思う。

この上演を観たあとで、演出家が舞台に出てきたとしたら、それでも、やっぱり「ブラヴォー」を捧げるかもしれない。私の批判は、彼が彼の書いたものを咀嚼することを知らない人たちのためではなく、より積極的な立場からものを見る人たちのために書くべきだという視点から発せられているからだ。

【補足:衣裳について】

最後に日本における演出上の最大の問題は、パルジファルの姿であったことを付け足しておきたい。片寄純也の体型は、欧州でこれを演じる人たちと比べて著しく異なる。最初、もっとも純粋な愚者として登場するときの彼の恰好は、まるで『釣りバカ日誌』の浜ちゃんである。衣裳も演出のなかに入り、セットや演技と同じように上演場所によらないユニヴァーサルなものを使う。しかし、衣裳に関しては、それを着る者の個性と無関係であってよいはずがなく、特に、今回のように、アジアと欧州では人間の体格に大きな開きがある。これは国際的な共同制作による、よくある問題のひとつであるが、衣裳だけはその国での上演に合うように、もっと工夫してもらいたいと思うものだ。

(②につづく)

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