2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

« 藤倉大+アルディッティ弦楽四重奏団 with ジェイク・アルディッティ @上野学園大学 石橋メモリアルホール 9/16 | トップページ | 二期会 パルジファル クラウス・グート〈演出) 飯守泰次郎(指揮) 9/17 »

2012年9月18日 (火)

藤倉大+アルディッティ弦楽四重奏団 with ジェイク・アルディッティ @上野学園大学 石橋メモリアルホール 9/16 ②

【炎と水】

この演奏会の楽しみどころのひとつは、いくつかの世代を横断的に聴いて比較し、それらと、さらに古楽作品を突きあわせてみるというところにもあった。いちばん古い世代は、1943年生まれのブライアン・ファーニフーで、次が1959年生まれのヒルダ・パレデス。そして、もっとも新しいのは1977年生まれの藤倉大である。

このうち、パレデスの作品については既にみてきたので、次に藤倉大の作品を取り上げたい。この作品は英国のウィグモア・ホールと共同で、この日の会場、上野学園大学の石橋メモリアルホールが委嘱したものである。題名の『フレア』はもちろん、「炎」の意味であり、自分が子どもになり(戻り)、その目の前でパッと燃え上がるキャンプ・ファイヤーをイメージして書いたという。子どもの視点に立っているところが、パレデスの作品と共通している。また、この作品の委嘱に際して、初演が想定されたアーヴィン・アルディッティからは、誰も弾けないほどの難しい作品を書いてほしいというオーダーがあったそうだ。そこで藤倉は、彼らが得意にするような部分と、彼らにとって意外な部分を組み合わせて、作品を組み上げたということである。

私の見るところ、この作品には、正に燃え上がる「炎」の部分とともに、その勢いを小さくする「水」の要素があった。例えば、序盤のシーケンスは、火起こしのための多彩な弦さばき(叩き)が見どころであると同時に、これにつづいて生じる静寂の部分にも注意が惹きつけられる。このクラスタ的な要素も踏まえた、バラバラの、美しいサウンドは炎を取り巻く夜の星空とも受け取れようが、私にはより率直に、炎を鎮める水のイメージとして受け取られた。最近、数学や物理に関する偉人伝のようなものを読んでいるせいか、このクラスタが水の生成に関する粒子の動きに感じられたのだ。「水」のサウンドは「炎」よりは慎重に構築され、作品のなかで数ヶ所、重要な転換点として作用している。

この両極をベースにして、炎に関するあらゆるイメージが、実際にサウンドとして構築されていく。そのなかには、私自身がそうであるせいか、日本的と感じられるものもある。例えば、護摩焚きとか篝火、火宴などのイメージである。欧州やその他の地域で、火がどのようなイメージで語られるのか、私の備える知識はきわめて断片的であるので、そのすべてを適切に論じきることはできない。しかし、彼が書いているキャンプ・ファイヤーのイメージだけでは、全部をカヴァーできないのは自明である。これら「炎」のイメージは、そのものらしくワイルドに扱われ、分子レヴェルで表現される「水」の場合とは一線を画すようだ。

なお、前半で楽器をマンドリンのように抱えて、ピッチカートによるトレモロをおこなう場面があるが、あれは私にとっては、ある特定の遊びのイメージを抱かせた。それは、「高橋名人」の16連打である。私が子どものころ(藤倉とほぼ同世代になろう)、任天堂の「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)が流行っていたのはよく知られている。そこからのスピン・アウトで、ゲーム機のボタンを早押しして、どれだけ早く押せるかという遊びが流行ったことがあったのだ。「高橋名人」はハドソンというゲーム・ソフト制作会社の社員で、16回/秒という速さでボタンを押すことができることで有名になった人物である。藤倉がそのイメージを作品と関連づけたかどうかはわからないが、私のなかでは、忘れかけていたその記憶がいきなり蘇ってきたのである。

いずれにしても、この作品は、そういう雑多なイメージの混合で構成されているように思えた。遊びがあり、寄り道がある。百科事典的なペダンティックな味わいもある。しかし、作品の主たる面白さは、先に述べた「炎」と「水」のイメージの二重性によって表現でき、また、作曲者が子どもの時代に戻って、回想的に作品を構成するという発想も、また珍しいものである。

【ファーニフー:舵の重くなりすぎた古い船】

最後に残ったのは、ブライアン・ファーニフーの作品だ。弦楽四重奏曲第6番は2010年の作品で、既に70歳に近づく作曲家にとっては、この分野で「結論」にちかい作品といえるだろう。私の聴いたところでは、作品のほぼ七分どころまでは、揺るぎないタイム・ラインに沿って、決められた時間に特定のアクションを精確におこなうことで、作品のバランスが適切に再現され、響きが美しく構成される印象を抱いた。このアクションは大抵、脈絡のない細かい断片にすぎず、それらは堆積するというよりは、水流に乗って流されていくように観察される。

途中、第1ヴァイオリンの激しいカデンツがいきなり出現し、ここから先は、プログラムにいう「ネガティヴなヒエラルキー」が、他の3本の楽器との間に口をもたげることになる。これでおわれば、まだわかりやすいのだが、さらにタイム・ラインは進行し、終盤の2-3割ほどの部分に至ると、その時間軸すらが混乱し、響きはほぼ完全に統御を奪われてしまう。ここから先の音楽については、少なくとも、私の能力によって解析するのは無理である。いかなるイメージにも、いかなる論理性にも従わない、混沌たるサウンドが響くばかりであった。

これで一応、全曲をフォローして書いたつもりである。ある種のコンピュータ・プグラムのようなファーニフーの作品から、動的で遊びに満ちた藤倉の作品、そして、プライヴェートから構想された多様なアイロニーを含むパレデスの作品まで、非常に多様であった。3つの作品は作り手の世代もちがえば、その制作スタンスもまるで異なっている。例えば、ヒルダ・パレデスの作品は独創性というよりは、過去の作品に対する深い研究から導かれる改良的な響きが特徴となっている。彼女は今回、既存の曲の編曲も担当したように、対象の作品と向きあって、丹念に分析し、新しい発想でつくりなおすということに長けている。これと比べると、ファーニフーや藤倉は、まったくちがう領域においてではありながら、独自の個性を追求する点で彼女とは一線を画す。

特に、ファーニフーの重厚さと、藤倉の発想の身軽さを比較すると面白い。年齢のこともあるが、もはや、ファーニフーの音楽は舵の重くなりすぎた古い船のようである。どこにも、自由に進む道などない。舵はもう、とることができないのだ。一方、藤倉の作品はあまりに効きすぎる舵をもっている。そのアクロバティックな航路のとり方に誰もが驚いているが、それはいつまでも通用するものでもない。幸い、最近の藤倉は一時期の低迷を脱して、豊富なアイディアで作品を組み上げている。この好調が、できるだけ長くつづくことを祈りたい。

こうしたバラバラな素材を結びつけるのが、アーヴィン・アルディッティだ。ここではすべてを述べきることはできなかったが、この演奏会をどのような印象で染め上げて論じるかは、当たり前だが、その人の趣味によると思う。それにしても、この公演はいろいろな趣味を可能にするものだった。私はとにかく、これだけ異なった世界をひとつにするアーヴィンの企画力と行動力の凄さに、まず酔っていた。

【プログラム】 2012年9月16日

1、ジェズアルド/パレデス 悲しや、私は死ぬ
2、ダウランド/パレデス 暗闇に私は住みたい
3、ジェズアルド/パレデス 大胆な小さい蚊が
4、ファーニフー 弦楽四重奏曲第6番
5、ダウランド/パレデス 流れよ、我が涙
6、ジェズアルド/パレデス 美しい人よ、心を持ち去るのなら
7、藤倉大 弦楽四重奏曲第2番「フレア」
8、パレデス 月狂いの3つの歌

 CT:ジェイク・アルディッティ

 於:上野学園大学 石橋メモリアルホール

« 藤倉大+アルディッティ弦楽四重奏団 with ジェイク・アルディッティ @上野学園大学 石橋メモリアルホール 9/16 | トップページ | 二期会 パルジファル クラウス・グート〈演出) 飯守泰次郎(指揮) 9/17 »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/55683172

この記事へのトラックバック一覧です: 藤倉大+アルディッティ弦楽四重奏団 with ジェイク・アルディッティ @上野学園大学 石橋メモリアルホール 9/16 ②:

« 藤倉大+アルディッティ弦楽四重奏団 with ジェイク・アルディッティ @上野学園大学 石橋メモリアルホール 9/16 | トップページ | 二期会 パルジファル クラウス・グート〈演出) 飯守泰次郎(指揮) 9/17 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント