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2012年9月17日 (月)

藤倉大+アルディッティ弦楽四重奏団 with ジェイク・アルディッティ @上野学園大学 石橋メモリアルホール 9/16

【カタチが変わる】

アルディッティ弦楽四重奏団が今秋は、日本で多種多様なプロジェクトを披露して回ることになっており、上野学園大の石橋メモリアルホール主催による「藤倉大+アルディッティ弦楽四重奏団」の企画もその一環である。この演奏会は、アーヴィン=ヒルダ夫妻と、その息子であるジェイクを囲んだ家族の物語という趣向もあるが、その上に重層的なテーマが築かれており、論じるのも難しい。そのいちばん中心を捉えるなら、ここで取り上げられた作品はいかようにも捉えられるという事実が大きい。なんでもありというわけではないが、こちらからみたときと、あちらからみたときでは、随分と感覚がちがう多面体のような構造をしている。

そのような意味でもっとも示唆的なのは、最後のヒルダ・パレデス『月狂いの歌』という作品である。アフター・トークによれば、この作品は変声期前でソプラノを歌っていたジェイク少年に請われ、父子が共演できる作品として、作曲家であるヒルダが作り出したものがもとになっている。のちにドイツでの委嘱に応え、第1曲を付け足して成長したジェイクのために書きなおしたようだ。欧州では月が人間を狂わせるという伝承があり、元来は、ジェイクがいつも、パパとママはアタマがオカシイと言っていたことから発想したというプライヴェートな作品だったらしい。しかしながら、このきれいな説明を鵜呑みにすることはできないだろう。

なるほど、ヒルダのいうことを前提して考えれば、メルヒェンティックな味わいのある歌詞や、振動している唇を指先で触って、ブルブルと震わせるような子どもじみた発想がみられ、全体の不安定なフォルムも、子どもの世界を象徴するような軽い揺動だとみれば説明もつきやすい。だが、歌詞をじっくり眺めていると、そして、それにつけられた音楽の只ならぬ揺らぎを聴くにつけても、私にはこの作品に滲み出ている卑猥なイメージが、どうしても捨てきれないのである。要するに、月を異性の象徴物とみれば、この歌詞は相当、艶めかしい印象に変わり、シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』の感覚や、ベルクの『ヴォツェック』に出てくる赤い月と同じようなイメージを抱かせるのである。

ヒルダに、このような質問をぶつけたらどのように返してくれたろうか。興味はあるが、私は敢えて、自分の胸のなかにしまっておいた。

私の考えでは、ヒルダはこれら2つの観点を互いに認めるのではないかと思う。この作品は母親としてのパレデスが、ジェイクに送った生涯にわたるプレゼントのようなものだ。当時は子どもであったジェイクも、やがて、世間の酸いも甘いも知りつつ、成長していくであろう。それら両方のジェイクのために、この作品はある。いずれにしても、これらの世界を行き来できるのは、唯一の歌い手であるジェイク・アルディッティのみであろう。そして、彼が母親の書いた音楽の世界について、どのように感じるかは、彼が生きていくなかで経験すること、つまり、人生のなかで変化していくだろうし、また、彼の親や他人、社会に対する見方が変化することによっても、再び無数のパターンを示すであろう。そのようなジェイクを、この作品が反対に見守ってくれるように、ヒルダは書いたのにちがいない。

現在のジェイクにとって、この作品はかなりきついアイロニーの世界を示しているようだ。しかし、官能的というほどではなく、もっと自然な感覚として。それは彼の若さと無関係ではないし、また、発声においてはまだどんな無理も効くような、圧倒的なスピントの威力に依存しているせいであろう。

【ジェイク・アルディッティについての評価】

カウンター・テノールにおいて、このような表現が適切かどうかはわからないが、声楽家としてのジェイクの現在の本質を成すものは、このスピントの強力さだ。アルディッティSQの鋭い響きをも、ときに貫いてしまうような鋼の響き。時折、示されるこの硬質な響きの逞しさは、先輩の優れたカウンター・テノール、例えば、私が聴いたことがあるなかでは、アンドレアス・ショル、マックス・エマニュエル・チェンチッチ、ロビン・ブレイズ、フィリプ・ジャリュスキーのような歌い手のなかにも、あまり認められなかったものであり、特に、パレデスの作品を歌うなかでは本質的に重要である。

このジェイクア・アルディッティの才能ゆたかなことは、もちろん、否定のしようもないことだが、彼が早晩、声を潰してしまう「平川地一丁目」型のアーティストなのか、あるいは、真の天才なのかについては、まだ結論を出すことはできず、その点で、新国立劇場にも登場したクラウス・フロリアン・フォークトのような歌い手とは比較にならない。先に述べたような屈強の歌声は、いつまで続けられるかわからないものだ。彼がしっかりとキャリアを伸ばすためには、第一声で、聴き手の度肝を抜いてしまうような声の内面性が鍛えられる必要があり、また、時折、みられる音程の狂いにも敏感でなくてはならない。そのような点においては、先に上げたような偉大な先達には遠く及ばないのである。

きっと彼のような歌い手は、ヘンデルやモンテヴェルディばかりを歌っているわけにもいくまい。彼の父親のクァルテットが、なぜ、これほどまでに高い尊敬を受けるのかといえば、最高度の精密さがなければ成り立たない作品において、彼らがそれを機械的にではなく、人間的な温かみをもって、しっかりと演奏することができる、ほとんど唯一の常設グループだからである。ジェイクは声楽家として、その役割を継いでいく使命も帯びている。しかし、そのためには、まだ十分ではない。

【国籍を越えた音楽理解】

今回の演奏会を聴いて、国籍を感じないことは、まずひとつの驚きである。アーヴィン・アルディッティは、一応、イギリス人ということになる。だが、誰かが私に向かって、彼はドイツ人ですといっても、私は信じるかもしれない。その妻、ヒルダはメヒコ人だ。とはいえ、メヒコの舞踊のリズムを作品に組み込んだからといって、彼女の書いたものからエスニックな感じを受けることは少ない。古楽作品からの編曲は、北は英国の象徴的なダウランドと、南イタリアの土踏まずのところを領したヴェノーザ公、ジェズアルドの作品が取り上げられ、欧州を縦断しているが、そのわりに、土地のポジションにおけるちがいは僅かばかりしか感じられない。藤倉大から、日本を感じることは少ないであろうし、また、ブライアン・ファーニフーをして、英国的と感じさせるいかなる要素もない。

アーヴィンのグループのひとつの特徴は、正に、このような無国籍性と関わっているように思えてならない。もちろん、ヒルダの作品や、藤倉の作品に、メヒコなり日本の味わいをすこしも感じないといえば嘘になろう。特に、藤倉の作品には、序盤にはテレビ・ゲームの要素がすこし感じられ、後半は、神楽のイメージと無関係ではないように思える。しかし、アーヴィンはそうした要素をいったんニュートラルにして、作品の響きや構造を自分なりに取り出して、愛玩するという癖がついている。アーヴィンの尊敬すべきところのひとつは、いかなる異文化にも抵抗感がなく、その面白さに学ぶことができるという発想の柔軟性である。

【編曲について】

ダウランド、および、ジェズアルドに対するヒルダの編曲は、そのような発想力と無関係ではない。正直、5曲の編曲すべてが良かったとは、私には思えない。特に、ジェズアルドにおける韻の強調の安易さについては、作品本来の良さとは程遠いところにある。それがちょうどよく嵌ったのは、最後の『美しい人よ、こころを持ち去るのなら』の1曲ぐらいに限られていたものだ。一方、原曲のリュートのイメージに、比較的、忠実なダウランドの作品においては、その味わいを丁寧に引き出せているように思えた。アーノンクールもいうように、この時期の英国バロックはフランスやイタリアとは一味ちがい、狭い空間で、穏やかに響きを愉しむのが特徴であって、ヒルダは、そうしたところに、ジェズアルドの半音階や不協和音とのコントラストを求めているわけだ。

しかし、原曲の味わいをそのままに再現するなら、なにも編曲の必要はないわけで、最初の『悲しや、私は死ぬ』のように、もはや完全に原形からトランスフォームしてしまったほうが、編曲そのものの価値は高いともいえるだろう。この1曲においては、もはやリュートの穏やかな響きは消え、声に対して襲い掛かる4本の楽器の圧力が、ジェイクの歌い方までも変えてしまっている。これは古楽作品に対するリスペクトというよりは、大胆な読み替えであり、歌い方や伴奏との関係についての全的な見なおし、または再創造を意味する。

原曲に忠実であるべきか、もはやここに至っては、すべてをつくりなおし、見なおしていくべきなのか。その選択は簡単な問題ではないが、ヒルダも、同じジェズアルドでも、その間のコントラストをつけて、いろいろに試行錯誤をしていたようだ。そして、ジェイクとしても、その実験的試みについていく意欲があり、それは彼自身の声楽的体験ということでいえば、必ずしもプラスであるとは限らない。しかし、そのような損得勘定よりは、彼のいま、やってみたいという意欲のほうが、はるかに美しいということに反論の余地はないはずだ。

(②につづく)

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