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2012年10月21日 (日)

ウィリー・デッカー演出 ブリテン 歌劇『ピーター・グライムズ』 新国立劇場 千秋楽 10/14 ③

【救済なしエンディング】

ブリテンが歌劇『ピーター・グライムズ』で成し遂げたのは、既に述べてきたような猛毒を含む辛辣な皮肉の物語を、彼の用意する美しい音楽だけで見事に支配するという途方もない試みであった。実際、グライムズはきれいに排除された。誰も手を下すことなく、バルストロードの指示どおり、グライムズが沖合で静かに船を沈めたからである。作品は『さまよえるオランダ人』の救済なしエンディングに倣い、何の救いもなくおわる。ゼンタと同じように、エレンはオランダ人の救いとはなれない。しかし、演出によっては『オランダ人』と同様に、何らかの救済をつけることも可能ではあるだろう。デッカーの場合は、最後に例の教会の場が再帰し、今度はより整然と落ち着いた雰囲気のなかで、エレンもほかの村人たちと同じように顔を隠して、紙片に見入るフリをすることになった。救済なしである。しかし、それが村人にとっては救済なのだ。

音楽的にみれば、この幕切れは誰でもわかるように、最初の間奏曲「夜明け」の再帰という形になっている。これを含む間奏曲の素晴らしさについては、ブリテン自身が op.33a で「4つの海の間奏曲」として管弦楽曲にまとめ、また、op.33b としては「パッサカリア」をシングル・カットしているのであるから、彼にとっては、とても大事な響きの凝縮であることは言うまでもないほどだ。しかし、オペラをみると、この2つの「夜明け」に関しては、もうひとつ奥を抉ることができるような気がするのである。

デッカーは無視しているが、リーブレットを読むと、最終場の大詰めはもう完璧に日常が戻った村の平穏が、ひとつひとつ描かれるはずのところのものであった。デッカーは、それを教会の場の落ち着いた雰囲気だけで総まとめにしたわけだ。沖合で沈みかけの船が目撃されるが、もはや、救いようのない距離にある。対岸の火事のように、彼らの日常にはまるで関係のないことだ。「夜明け」の音楽は第1幕の混乱と不安のなかで、重要なモティーフとして繰り返されるのとは別の意味になっている。それは正に、夜明けに目覚めた人の「あくび」のような音楽なのであった。それゆえ、指揮者のアームストロングもこころなし、明るめに響きをとっている。

だが、不思議なものだ。この響きで、私たちは村人たちと同じように、安穏たる想いになることはないのだから。この作品の録音には作曲者の自作自演によるものもあるが、それを聴くと、この最後の部分でブリテンが戦争犠牲者のための弔いを出しているのは明らかだ。だが、この日の演奏は、デッカーのアイロニーがきつすぎて、よりシニカルなものとして響いた。最後ばかりはデッカーもト書きを守り、’SLOW CURTAIN’を実施して、音楽が途切れてからもすぐには止めない。幕が下り始めると、悲劇も喜劇も構わずに、とにかく拍手をしたがる観客がいるものだが、こうして明らかに演出意図に組み込まれていれば、人々もハッと気づかざるを得ないだろう。作品は、本当に沈黙のなかで閉じられた。

【音楽の情熱】

この公演の音楽面と言語表現を厳しく支えたという指揮者のリチャード・アームストロングは、わが国では恐ろしく知名度が低く、日本のクラシック・ファンの多くがノーマークであったろう。ウェールズ・ナショナル・オペラ(WNO)を長年にわたって引っ張り、その功績を称せられてナイトの位に叙せられたほどの重鎮で、英国では貴重なカペル型の手堅い指揮者という。その確かな牽引力には、多くの観客が感銘を受けたはずだ。しかし、その指示につけきって、鋭くも凝縮した音楽をつくったのは東京フィルだ。

ブリテンの音楽は厳しいが、正しく整然とした響きをつくれば、意外に人々の気を惹く輝かしい音楽として成長するものだ。それに加えて、東京フィルが付け足したものは、音楽の情熱とでも言ったようなものである。もちろん、この場合の「情熱」は、ビゼーの『カルメン』におけるそれとは異なっており、書き手が伝えようとするメッセージの強さと関係している。例えば、第2幕第2場(グライムズと黙り役の徒弟によるやりとり)はグライムズの内面描写にとって大事な場面であり、デッカーは、この場面を素直に解釈することによって、仕事には厳しいが、うしろ暗いところがなにもない、あるいは、ただ傲慢なだけではなく、周囲よりもかなり賢い人物として印象づけることを決断したにちがいない。

これを導く間奏曲「パッサカリア」はヴィオラのフレッシュなソロに始まり、グライムズの多少、屈折しながらも、真っ直ぐな性格を、真正面から描いている。このあと、題名役のスチュアート・スケルトンの見せ場となるが、徒弟とのやりとりは威圧的ではなく、まったくもって優しい。エレンの編んだセーターをみて、すこしだけ嫉妬をみせる場面も、ちょっとした冗談として描いているようだ。ブリテンはト書きで、グライムズがエレンとの夢を語る場面は声色を変えて歌うように指示しており、それ以前の大人げない嫉妬の表現も、先に触れた録音によれば、ずっと露骨にさせている。だが、今回、スケルトンは一貫して、厳しくも優しい父親である。そして、「進軍」してくる村人の声を聞いて、はじめて声の狂いをみせるのだ。

これに代表されるように、デッカーの演出は歌唱の面においても、グライムズの人間的な一貫性というものを重くみている。鬱に落ちるような場面でさえも、グライムズが辛うじてアイロニーを保っているように印象づけているようなのだ。いま述べたようなちがいからみても、デッカーの示唆する音楽はブリテン本人の解釈とは完全に一致しているとは言いがたいのかもしれない。そして、作曲者の目指したものと比べれば、いつも少しばかり論理的で、風刺性が鋭くなっているのが特徴だ。これは、東京フィルの抱く「情熱」とも無関係ではないであろう。

毒は吐くにしても、ブリテンはもっと長閑にやりたかったのではないかと思う。謎に満ちたグライムズの印象を基調にして、どうにでもとれるような筋書きで、その見方を観客のセンスに委ねるような上演をめざしたのだ。グライムズは悪人であるかもしれないし、単に運のわるい人ともとれた。エレンは偽善者でもよかったし、聖女でもあり得たのである。こうした揺らぎが、満ちては引いていく潮の動きと同じように、時と場合に応じて微妙に揺らいでいくのが作品本来の面白さだったのではなかろうか。

そこへいくと、今回の上演はキッチリと作品の見方を決めていくようなやり方である。音楽は総じて印象が鋭く、その響きがどのようなイメージで鳴らされているのかは、労せずして把握できるように演奏された。アームストロングはその姿勢に賛成し、オーケストラも忠実に、その意図に喰いついて実際の響きへと育て上げていくことをも厭わない。揶揄するつもりはないが、とてもわかりやすく、かつ、シンプルな意図を感じさせる。この延長線上で、ときに響きがなくなってしまうことは、意外にもきわめて自然なことに感じられる。終幕のことについては既に触れたが、第1幕におけるグライムズとエレンの二重唱もアカペラであった。アカペラ以外に、深いパウゼも効果的に用いられ、また、幕切れの ’SLOW CURTAIN’ による余韻まで、多種多様な空間が作品を彩っているのである。

【言葉にこだっわったブリテン】

このことは多分、ブリテンが言葉にこだわったことと無関係ではないように思うのだ。英国では、ルネサンス~バロック期に大陸とは異なるトレンドのなかで、ダウランド、パーセルをはじめとする優れた表現を生み出したあとは、19世紀後半~20世紀初頭まで、英語による独自の声楽的表現が熟すことがなかった。その背景には、英国の政治史の複雑さが影響しているように思われる。ノルマン・コンクエスト以降、純粋な「英国」というものは、いつの時代も存在しなかった。アンジュー帝国のプランタジュネ王朝をはじめ、多くの王朝はフランスに起源をもち、そのときの政治情勢によって、フランス、ドイツ、スペイン、北欧などの王家と通婚した。18世紀からはハノーファー朝がつづき、その王朝名からも推察できるように、これはドイツ系の流れを組んでいる。

かといって、アーサー王以来の英国の文化が時代を経て消滅していくということはないのだろうが、音楽に関しては、せいぜいフランスやドイツの作品を、英訳で鑑賞することぐらいで満足していたようなフシがあるのではなかろうか。この矛盾に挑みかかった最初の人は、「サヴォイ・オペラ」のアーサー・サリヴァンであろうと思う。欧州では『低地』というライトな作品がレパートリー作品として有名なオイゲン・ダルベールもいるのだが、その氏名から想像できる出自もあり、その作品はドイツ語で書かれている。サリヴァンのあと、エルガーが宗教関連のオラトリオで大きな成果を挙げ、ブリテンの師匠であるフランク・ブリッジが個性的な作風で、英語の響きを生のまま、初めて俎上に載せた。それは弟子のブリテンによって、このように花開いたところだ。さらに、ティペットという天才が現れて、後年のジョン・アダムズ、トーマス・アデス、ジョン・タヴナーなどの歩む道を準備したと言えそうである。

言葉の問題に関して、日常英会話すらままならない私が論じるのは噴飯ものであろう。しかしながら、そのレヴェルからみても、ブリテンの鮮やかな言語の扱いについては気づくことができる。英語の響き、例えばドイツ語と比べたら流麗で、かつ、適度に機動的な言語の特徴を利用して、切れ目のない流れによる、いわば一篇の長詩のような方法で、作曲家は『ピーター・グライムズ』を彫り上げた。例えば、第2幕、’Grimes is at his exercise’ という言葉のもつキッチュな響きが、グライムズを嘲るような調子で響く。そうかと思えば、グライムズを死出の旅に誘う、バルストロードの最後の台詞もぐっと来るものだ。私はあの最後の台詞まわしだけで、その役を歌い演じたジョナサン・サマーズには脱帽したといっても大袈裟ではない。英語は本質的に、演劇的であるともいえようか。

こうした異質なものが、ブリテンの様々な工夫によって一貫性を以て響くのが、作品の真骨頂を成している。ブリテンはオペラばかりではなく、歌曲の分野でも、こうした可能性を突き詰めていくことになる作曲家だ。その仕事は初期作品、例えば、op.11 の歌曲集『この島国にて』などで既に試みられ、op.93 のカンタータ『フェドーラ』に至るまでのライフワークであった。

【異質なものの組み合わせ】

異質なものをつなぎ合わせること、それはブリテンの創作にとって鍵となるキーワードである。グライムズの構成をみても、それぞれの場は前の記事にも述べたように関係性が深いように感じられるが、実は、それぞれの場面がほとんどオムニバス形式のように、独立した世界を構成しているのもまた一面の事実ではなかろうか。それぞれの世界は退屈な序盤のやりとりから、コツコツとクレッシェンドしてドラマが高揚していく。これは間奏曲の構造とも一致しており、いまは省くとしても、前後の幕の筋書きや音楽の展開と、間奏曲の構造の間にある関係を調べてみても面白そうである。きっと、それらは巧みに連動しているのではないかと思う。

音楽はそこで描写されているものを越えて、示唆的に響く。全編を貫くイメージが海と密接に関係していることは誰にでもわかるが、やはり、先般の戦争を匂わせる響きもさりげなくではあるが、随所に登場した。そして、背景に響いていたはずの、そうした音楽がグライムズを襲撃すると決めた群衆の高揚のなかで、おもむろに位置を占めるのを聴くと、その場面はより大きな意味で満たされて、聴き手の背筋を寒くさせるのである。

もうひとつ私の印象につよく残っているのは、間奏曲Ⅲ「日曜の朝」につづく第2幕最初の場面であった。ここでは日曜のミサの場面と二重映しで、エレンと徒弟の関係がクローズ・アップされる。この徒弟があとで不幸にも「事故死」するのを私たちは知っているが、この場面で、私はその苛酷な運命に胸を突き刺されるような感じがしたものである。エレンの言葉や態度が優しければ優しいほど、運命はむしろ苛酷に響き、徒弟の死は必然となっていく。その必然を強く印象づけたという意味では、スーザン・グリットンの歌唱は素晴らしかったのであろう。

露骨ではない。こうしたほんの些細な仄めかしが、むしろ、運命の苛酷さを力づよく物語ることになる。そして、ブリテンの音楽、あるいは、その歌劇の構成は、こうした仄めかしの連続で構成されている。

【まとめ】

最後に、キャストについて書けば、主要役のネイティヴをはじめとして、粒揃いのメンバーであったという風に評価したい。題名役のスケルトンはバイロイトにも定期的に出演、特に英国でワーグナーをやる際には欠かせない人物で、その活躍を知っていることから、彼をヘルデン・テノールの声質と想像していたが、とんでもない。非常に透き通ったクリアな歌声で、こういう人がワーグナーのヘルデン役を歌うのだから、最近のオペラのキャスティングはわからない。もちろん、そのナイーヴな声の響きは、ピーター・グライムズにこそよく合っている。その他のキャストでは、本役のキャンセルで舞台に立ったカヴァーの糸賀修平が、ボウルズ役で素晴らしい演唱をみせていた。

二期会や藤原の公演をみても、よく選べば、日本人でも本役を立派にこなせそうな歌手がたくさんいて、そのうちの一部は海外でも活躍しだしている。そうしたリソースの活用も、国からの財政的支援を受ける劇場の使命であろうと思う。それで上演の質が下がるなら話は別だが、決してそんなことはないのだから!

デッカーの演出に、すべて満足かといえば、そうでもない。私はこの演出で、彼を褒めちぎるほどには納得がいっていないのだ。しかし、そうであっても、今回のプロダクションが世界レヴェルのものであったことは言うまでもない。東京室内歌劇場の公演でみた『ヴェニスに死す』と並んで、ブリテン作品における金字塔がもうひとつ立てられたことを素直に喜びたい。

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