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2012年10月17日 (水)

ウィリー・デッカー演出 ブリテン 歌劇『ピーター・グライムズ』 新国立劇場 千秋楽 10/14 ①

【作品と演出の概要】

ブリテンの歌劇には、隠されたメッセージが多い。声高に叫ぶのではなく、隠語を交えて、あくまで上品な風体でアイロニーを流すのだ。中期(オペラ作品群からみると初期に当たる)の『ピーター・グライムズ』と、晩年の『ヴェニスに死す』を頂点に、『ビリー・バッド』『ねじの回転』などが欧州の劇場では頻繁に上演されており、『アルバート・へリング』などライトなリーブレットに基づく作品の人気も根強い。今回、『グライムズ』をようやく生の舞台で観ることができたが、ブリテンがヤナーチェク、それにヒンデミットと並ぶ20世紀中葉~後半のオペラ界における、真の巨匠であることは争う余地がないほど明確だ。

1945年に書かれた『グライムズ』は2つの世界大戦を下敷きに、ゲーテの『ファウスト』に描かれていたような理想郷から、落ちぶれてしまったような英国東岸の寒村が大嵐に晒される物語である。嵐は自然のものと、人工的な災厄を引き起こす貧しい漁師、ピーター・グライムズの2つによって引き起こされ、これらが大きく関係するドラマである。グライムズはワーグナーの「オランダ人」のパロディであり、ヒロインのエレンがゼンタと比較されているのも疑いない。しかし、グライムズをつくったのは村人たち自身である。

この作品のテーマは複層的で、とても一言で述べることなどできないが、大きく括れば、豊かであるはずの英国を覆う、戦後の激しい貧しさが捉えられている。これは世界全体が不況に喘いで、(自国に対する)ネガティヴ・キャンペーンによる通貨安売り競争をおこない、市中にジャブジャブとマネーを流し、次々に安い労働市場=新興国を生み出してはバブルをはじけさせるということの繰り返しをしている、現代社会の様相とかなり通じるところも多い。しかし、演出のウィリー・デッカーはそういう安易な読み替えによらず、まず、ブリテンの作品に描かれたアイロニーをひとつひとつ丁寧に解きほぐしていくことに腐心した。デッカーの優れた手腕は、この作品に描かれている「社会」問題を、人々の内面の問題として描いたことにある。その結果として、あの大十字架が形象として現れることになったのだ。この発想は確かに凄いし、こうしてみると、音楽もそこに集約しているのがよくわかるというものだ。

【作品の社会的背景~世界大戦との関係性】

だが、ここでは敢えて、「社会」問題のほうを先に取り上げたいと思う。

作品は、裁判の風景から始まる。神に宣誓し、証言を始めるグライムズ。しかし、ほんの僅かなやりとりで、よく調べようともせず、判事は不慮の死として「徒弟」の死をうやむやに解決してしまう。その結果、グライムズが利益を得たかといえば、そうではない。彼はむしろ、もっと深々とした審理を望んでおり、判事に食って掛かる。それに対して、判事は有無を言わせず全員の退廷を求めるのである。WWⅠのパリ講和会議について勉強した人ならば、「おや!」と思うことだろう。これは正に、講和会議の状況に似ている。グライムズが、ドイツの立場だ。徒弟とは、WWⅠにおけるオスマン・トルコなどの同盟諸国、WWⅡにおけるイタリアなどの枢軸国を指すのかもしれない。

ドイツは米国のウィルソンに、うまく講和をまとめてやると言われて交渉の席に着いた。しかし、実際には多大な賠償金を選挙公約とした英国のロイド・ジョージと、ドイツの徹底した没落を願うフランスのクレマンソーの思惑をウィルソンは突破する能力をもたず、結局、講和条約の締結には半年もかかり、法外な賠償金がドイツに課されるという結果をもたらした。のちに英仏は賠償の低減を決めるが、そのころにはもう、ナチスが台頭していたのである。講和条約が長くかかりすぎたのと比べて、グライムズ裁判のスピードは速い。しかし、よく議論しなかったという点にかけては、なんら選ぶところがないであろう。

ドイツは敗戦国という不名誉と、エルザス・ロートリンゲン地方の割譲といった実質的な被害に加え、多大な賠償金で苦しめられた。この状況は、ポール・ヴァレリーが驚嘆したような近代ドイツの発展史のなかで、明らかに不当な苦しみであったようにみえる。同じように、グライムズは貧しいが、知能に優れ、プライドも高い。エレンが愛したのも、多分、そのような部分だ。こののち、英国は ’Do It Yourself’(DIY) の精神で、政府に頼らない復興を目指すことになるが、その理想とは反対に、グライムズを階級社会の英国の現実のなかで捉えれば、まったく救いようのない物語になるはずだ。この2つの現実が、月と太陽のように比較され、アイロニーとして描かれているわけである。

ブリテンは、ドイツよりも彼らを追いつめた者たちに、つまり、英国に。グライムズよりも、彼を貶めた人たちに対して批判的だ。酒保の女主人、アーンティは次のようにいう。「牧師は道徳を説き、愚か者は決めつける。でも善き女主人はどちらの支持もしないわ」。牧師は長老派の重鎮だった米国のウィルソン、決めつける愚か者はフランスのクレマンソー、「善き女主人」は過去にヴィクトリアやエリザベスⅠを輩出した英国のことを指しているのは言うまでもない。

ここで、徳のある老人のバルストロード(その徳は不労所得から生まれる)が慌てて助けに入り、ネッドは皮肉を言いながらもこれに加勢し、ボウルズとアーンティはそれぞれ自分勝手に主張をする。その反対に、バルストロードとネッドは「潮はやがて変わる」といって、その主張の危うさを指摘している。このことは敗戦を境に、180度の価値転換が起こった私たち日本の立場からはよくわかることだ。一種のクライマックスとなるこの対話で、音楽は激しくうねりを打つ。この対話のあと、問題の第二の徒弟が現れるのは必然である。酒保の扉のところに徒弟が立ち、音楽が沈黙して人の動きも凍りついたあの場面は、ちょっと忘れがたいものになりそうだ。演出家のデッカーと、指揮のアームストロング&東京フィルによる共謀である。

このような背景をアタマのなかに思い描きながら観ると、この作品の物凄い毒の作用に気づいて、随所でグサリと胸に突き刺さるものを感じることだろう。私には、涙の止まらない作品であった!

【内面を象徴する宗教】

そこで、デッカーの工夫である。この作品を構成する「社会」問題のなかで、もっとも描きにくいものが宗教であるからだ。ベンジャミン・ブリテンがどのような信仰の理念を抱いていたか、残念ながら私には十分な知見がない。しかし、この作品をみても、随所に宗教的なやりとりがみられ、同じ信仰者でも牧師のホレースと、メソディスト派の漁師(メソディスト派では信徒が説教をおこなう)であるボウルズでは役割が異なっている。また、エレンの美しさは、実は信仰の美しさ、それを表現する言葉の美しさとして表現されていることにも気づく。

ブリテンの歌劇においては、社会における人間というイメージが大事になってくる。ここで、そうして描かれる社会というものが、一体、どのようなイメージで描かれているかということを論じるのは、ここまでやってきたように、大事なことだが、ブリテンが真に描きたかったものは、なんといっても「人間」のほうである。エレン・オーフォード未亡人はこの作品のなかで、もっとも徳の高い人物だ。第1幕第1場で、エレンが徒弟を雇いたいグライムズのために、助け舟を出すために出てくるところで、ブリテンは「辛い人生に屈することなく、より寛容になった女性」であるとト書きをつけている。

結局のところ、この最高の女性であるエレンが、グライムズに光を注すことができるのかどうか、これが作品のなかで絶えず追究されたテーマであるように思われるのだ。エレンが聖書の言葉を引用し、自分がグライムズを助けることにどんな意味があるかを演説する、直後の場面は、ワーグナーとはまた一味違ったところで、見事なブリテンの聖なる表現を形成しているだろう。しかし、実際には、ドイツの蛮行をいかなる信仰の「真実」も立ち止まらせることができなかったように、エレンの光はグライムズに届かなかった。音楽がなくなり、厳格な映画の一場面のように、言葉だけが孤独に音楽を辛うじて構成する終幕の第2場を思い出すとよい。グライムズは、ここで「狂乱の場」に入っている。もはや、誰の美しい声も耳には入らない。ただ、悪魔の言葉だけにフラフラと反応する魂があるだけだ。

だが、先走るのは止めよう。この作品には、もっと複層的に、様々な「こころ」が描かれているのだから。例えば、どうしてもグライムズを排除しなければならないと、気狂いじみた高揚で村人たちが狂奔する場面など、ほかのオペラでは、なかなか体験できないリアリティをもっている。今回の上演で特に見事なのは、第2幕第1場、エレンが自分の過ちを認めて弁明するなか、人々が怒りを募らせてグライムズへの襲撃を決意する場面だ。舞台奥に向かって、隔離された空間で、嵐の惨禍から辛うじて救われた人々が浜辺でミサをおこなう場面と、その背後で、グライムズとエレンが決定的な齟齬を迎えたあとの展開だけに、それは衝撃的なものとなる。

グライムズとエレンの対話は、典型的なミサの祈祷文と鋭く突き合わされ、アイロニカルに描かれている。その矛盾が、ここで決定的に打ち破られるのである。村人たちを全部、下手の一角の狭いエリアに集め、ホブソン役の大澤建が自ら叩く太鼓の響き(見事!)が強烈に轟くなか、コーラスの声と表情の圧倒的な団結による響きを聴けたことは、このプロダクションを永遠のものとして記憶させるであろう。だが、その背後で、この気ままなパフォーマンスをガッチリ支えたアームストロング率いるオーケストラの功績も忘れてはならない。そして、この記事の前半で述べたような社会的な要素も、この響きのなかに溶け込んでくる。1945年、未だ忘れがたい戦争の記憶・・・というよりは、現実である。ここにおいて、宗教は人々の内面を象徴するものにちがいなく、そこに演出家は注目した。

この公演については、以上のように分厚い連鎖のなかで、いくらでも語る要素がある。まずは、その作品の見事さに敬意を払うべきだ。とりあえず、ここで前半の記事を閉じ、いま、申し述べたような、こころの問題に注目して、さらに作品と上演について、読み解いていこうと思う。

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