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2012年10月24日 (水)

フェドセーエフ ショスタコーヴィチ 交響曲第10番 ほか ロシア放送チャイコフスキー管弦楽団 10/17

【オーケストラと個性】

オーケストラが個性を発揮するためには、どのような条件が必要なのだろうか。当然、その前提として、表現に値する個性を備えているということは前提的なことだが、これは何十年、何百年という歴史のなかで、自然に堆積していく性質のものである。壊すのは容易だが、いちどバラバラになってしまえば、取り戻すのには途方もない時間がかかる(実際、取り戻せるかどうかもわからない)オーケストラの個性は、各地で簡単に台無しにされる傾向にある。例えば、いま、それは米国のミネソタ管で起こっていることであり、ドイツでも合併に次ぐ合併、地方劇場の縮小や廃止で、次々に音楽文化の拠点が荒廃してきている。

ソ連崩壊以降、ロシアでもそれは起こってきたことだろうし、モスクワという土地は、ペテルブルクと比べても、そうしたロスを受けやすい地方のように思われる。政治的にも翻弄され、例えば、2つのナショナル・フィル(プレトニョフ・オケとスピヴァコフ・オケ)の分裂騒動はロシアの高度な音楽文化の黄昏を印象づけた。そのなかで、このロシア放送チャイコフスキー管弦楽団(以下、チャイコフスキーso/旧モスクワ放送響)が1974年以降、芸術監督兼首席指揮者のウラディミル・フェドセーエフとともに守り抜いてきたものは貴重である。

名刺代わりにスヴィリドフをやり、間にリムスキー・コルサコフの楽天的な作品を挟んで、最後にショスタコーヴィチというプログラム構成も、フェドセーエフだけに味わいがあるが、それ以上に私が感じたのは、オーケストラのつよい個性だった。どの曲も彼ら以外のオーケストラで、ああいう演奏にはなるまいと思うようなものだったからだ。単に古いものが残っているというだけではなく、フルートの首席や、交代出演したホルンやトランペットの若手奏者は、それはまたそれで、新しい感覚で演奏している。しかし、彼らはキッチリと先輩たちの響きを習っており、あるいは肌で感じて、たとえ腕で勝っていても、謙虚に楽団の響きに尽くす術を身につけてきているのだ。

クラシック音楽とは継承の芸術であり、古いものと新しいもの、伝統的なものと個人的な主張のぶつかり合いから、妥当なものだけが生き残っていく。いま、そのようなサイクルが崩れてきているのは、伝統的なものに対する尊敬が薄くなり、そのようなものすらが売り買いされるような時代になってしまったからだ。社会的な余裕は排除され、世界がギリギリの競争に明け暮れている。オーケストラのインターナショナル化とは結局、効率主義、実利主義に基づく無駄の排除とつながる問題なのだ。私たちは音楽家に十分な準備の時間を与えずに、昔よりも難しいプログラムを高レヴェルで成功させろと迫っている。2-3日、もしくは、極端な場合、ほとんど数時間のプローベだけで、この困難なミッションをつづけているのだから、誰だって個性の出しようもないはずだ。

私たちも、そうして出てくるものに満足してしまっているし、違いがわからなくなっているのだろう。そうしたなかでは、この公演は比較的、よく準備されていた。

【スヴィリドフ】

スヴィリドフ(交響組曲『吹雪』)の最初の一音を聴いただけで、鳥肌が立ったものである。フェドセーエフは9曲のうち、本来はいちばん最後に置かれる「冬の道」を最初の曲に選んだが、弦楽器による濃厚な刻みと、重いクラリネットの響きだけで、完全に音楽の内面描写がおわっているのがわかったろう。ああ、これはちょっと日本にはない響きだなと直感した。打楽器の響きによる鋭い切断や、強弱の入れ替えの柔らかさが堂に入っているのは、この作品を知り尽くしたフェドセーエフならではのコントロールだ。十八番の「ワルツ」は、いかにもスラヴの哀愁に満ちた金管の垂れ下がる音が地味に凄かった。ソリスティックな魅力に溢れ、コンマス(ミハイル・シェスタコフ)の活躍も頻りなうえに、音色やリズムの感覚など、彼らの良さを物語るのに必要な要素が残らず揃っている同曲は、この楽団にとっては正に名刺代わりのパフォーマンスとなっていたようである。

作品はその創作目的からいっても、語法の新しさなどが感じられるものではない。だが、その響きには明確な個性が感じられると同時に、外国の音楽が、ロシア音楽を構成するうえで欠かせない要素になっていることも思わせる。特に、一時期、ロシアを夢中にさせたヨハン・シュトラウス一族や、その後裔のフランツ・レハールの影響は拭いがたい。今回、紹介されたなかでもっとも濃厚な「ロマンス」などは、そのうらぶれたピアノの響きなどが、レハール晩年の傑作『ジュディッタ』を思い起こさせる(リンクの録音の、特に最後のトラックを聴いてほしい)。クライマックスで、作品を力づよく彩るトランペットの爽やかな音色は忘れがたいが、様々な楽器が交代で同じような旋律を弾き、受け渡していくときの味わいがポイントであった。前半では当然、ディヴィジになっているフルートとピッコロが、大詰めではユニゾンを吹くのが示唆的な意味をもち、じんと来たものである。

最後は、先の「ワルツ」のエコーになっている。この一種のスケルッツォで終えるあたりが、フェドセーエフの発想の面白さを示すであろう。聴き手のこころをくすぐるのが、実にうまい!

なお、ゲオルギ・スヴィリドフは1913年生まれ、ショスタコーヴィチの弟子。親交のあったフェドセーエフはしばしばアンコール・ピースなどとしてスヴィリドフを引用し、この作品の「ワルツ」などは日本でもお馴染みとなっているようなものだ。今回、全9曲ではないものの6曲までが紹介され、コアなファンから喝采を浴びた。今回、演奏されなかった『トロイカ』はほぼ『冬の道』に入っているといって間違いないが、「田園」や「春と秋」といった長閑なナンバーも十分に魅力的である。

【より知的で深い心理に迫るショスタコーヴィチの10番】

メインのショスタコーヴィチは、東京フィルでフェドセーエフの指揮する演奏を聴いたこともあった。その後、高関健と群響の演奏を聴き、「頼むから、勘弁してください!」と泣いて謝らなくてはいけないような、コワい演奏に出会ったのも記憶に残っている。確かに、私には反骨の相があるが、あの音楽が真実のものならば、この時代に自分が生きていたとして、その反骨を貫けたかどうかは疑問に思った。それで、いよいよロシアのオケがやるのだから、さぞかし恐ろしいものが聴けるのではないかという予想を立てていたが、フェドセーエフが演出したのはまるで別物の音楽のようだった。

より知的で、ショスタコーヴィチの深い心理に迫るフェドセーエフ&チャイコフスキーso.の解釈は、第1楽章、マーラーの9番との短くも、明確な対比から始めている。ごく短い序奏の低音弦のモノローグから、より幅広い弦の低い音によるゆったりした、しかし、分厚い響きを以て、マーラーの9番のフィナーレからくる印象と同じものをもたらす。断片化され、すぐに抜けていくこのモティーフが、同じ楽章のなかで何度も繰り返される。これは「死」をイメージさせるマーラーのシンフォニーの特徴とあわせて考えれば、もちろん、よく言われるスターリンの死との関係性において考えられる響きだ。

しかしながら、フェドセーエフの追求は、むしろ、そうした政治的、歴史的なテーマから抜けたところに訪れた、ショスタコーヴィチの屈折した「自由」についての問題だ。彼がマーラーの後継者として音楽を書きたかったというのは多分、本当のことだろう。専門的には、第1楽章の第1主題で D-Es の音型が断片的に繰り返し用いられ、それがのちに出る DSCH 音型に繋がっていく構造がよく指摘されている。これもマーラーからショスタコーヴィチへという流れを暗示する、証拠のひとつだ。ただし、そうした継承が堂々として可能となったときには、もう彼の精神はマーラーのいた創作的位置からは大きくずれてしまっていた。スターリンが死んだからといって、すぐに新しい発想に移れるというほど、ショスタコーヴィチは妥協していなかったからである。

フェドセーエフの演奏では、この第1楽章はあまり大袈裟ではない。響きの緊張は高く維持しながらも、対峙するものの巨大さに、ショスタコーヴィチが怯んでいないことを示しているのだろうか。むしろ、こうした空騒ぎのなかで、丁寧にオーガナイズされる響きの流れに、あらゆる虚飾を乗り越えたショスタコーヴィチのありのままの美しさをみようとしている。随所に書かれたマーラーの音型=死を乗り越えて、いま、そこに自分があり、創作をつづけられるということの神秘性が、この楽章のテーマである。政治的な恐怖や、歴史的な描写が目的なのではない。そして、そのことが独裁者に対する決定的な勝利を物語ってもいるのだ。

その姿勢は、スケルッツォにも影響している。フェドセーエフの演奏を聴くと、厚みのある響きが爽やかに用いられ、特に、ヴィオラを中心とする低音弦の動きに焦点を絞った室内楽的な面白さが際立っている。それはあらゆる誇大的な、ダイナミックな解釈にも負けない響きの逞しさとして表れ、我々を歓喜させる。引き締まった響きの、身も竦むような厳しさにもかかわらず、私のイメージにはこのような「喜び」のキーワードしか浮かんでこない。

フィナーレも、このような第2楽章との対比から成り立っている。特に、アレグロに入ってからの流れは、第2楽章の完璧な美しさと対応し、なおかつ、飛躍的である。アンダンテでも、既に管楽器による静かなる協奏曲の雰囲気を漂わせているが、フルートの動きを合図にテンポが上がってからは、非常に楽天的な演奏である。このシーケンスで特に目立つのは、終演後は特に熱い称賛を受けたファゴットの妙技であろう。あの難しいパッセージを図太く奏でながらも、片手で譜面をめくるなんて考えられない!

しかし、それだけではない。フェドセーエフが示したのは、この作品が決定的に傑作と言われるに値する、完璧なフォルムを備えた作品であることを、正に響きの面から力づよく主張することであった。そのために、彼がとった手法はきわめてシンプルで、プレイヤーの自由なアイディアに任せることであったようだ。政治的な側面が強調される一方、モーツァルトにも比されるショスタコーヴィチの特徴を、これほど身近に感じたことはない。その本質は室内楽的なアイディアの交歓と、喜びに満ち溢れた響きだ。そして、ジョナサン・ノットが先日の会見で述べたように、プレイヤーが普段、自分だけならやってみようとも思わないチャレンジを導き出すのが、指揮者に対する信頼感なのである。この日の演奏は紛れもなく、30有余年をともに歩いた楽団とフェドセーエフの関係によって実現したものにはちがいない。

白眉は、アレグレットによる第3楽章だ。この楽章に対するあらゆる偏見を洗い流し、抜群の見通しの良さで描き上げた名演となる。形式が進むごとに、それまでの展開が出汁のように使われて、段々に深いところに染み入っていくという類稀なるコントロールが聴けたのは幸せだ。響きから導かれるあらゆる印象を、本筋のところとは別のところへは絶対に逃すことなく、一本の雄渾な川の流れへと戻していく。なかなか表現が難しいので、参考として、カレル・アンチェルの録音を紹介するのでその第3楽章に接してみていただきたい。初演者であるムラヴィンスキーとか、スヴェトラーノフとはちがった客観性で、この作品を捉えているのがわかると思う。そして、そうした姿勢が、いかにショスタコーヴィチの音楽を輝かせるのかも!

【まとめ】

フェドセーエフの優れた特質とは、一体、どういうところにあるのだろうか。彼は伝統的なロシアの巨匠、いま、名前を出したムラヴィンスキーやスヴェトラーノフといった存在とは、まったく別の個性を宿している。これらの指揮者は父性的な、強烈な指導力を以て鳴らした人たちだが、フェドセーエフは同じ一家の主でも、より柔和な表情と肌理細やかな配慮に恵まれた優しさを備えており、ロシア音楽への傾倒は人一倍でも、いま言ったアンチェルのようなスタイルで、抜群の批評力に基づいて引いた視点も同時に備えているわけだ。スクロヴァチェフスキ、フルネ、ベルティーニ、そして、エリシュカといった私の好きな指揮者たちは、すべてこのタイプである。例えば、ベルティーニのマーラーが素晴らしかったのは、その音楽のロマンティシズムに浸りきることなく、いつも、シニカルな視点をもっていたことが大きい。彼はマーラーを誰よりも愛していたろうが、それゆえに、もっとも厳しい音楽を奏でた指揮者である。

フェドセーエフも、同じだ。スヴィリドフにしても、ショスタコーヴィチにしても、彼の指揮にかかれば、その長所も短所もたちどころに明らかになってしまう。例えば、この交響曲第10番は無駄なく、厳しい組織によって凝縮した名品であるが、5番などと比べれば、ひとつ旋律の重みのようなものが不足している。5番や12番にあるような図太いロマンティシズムと対比しながら、私はこの作品を味わった。なお、交響曲第10番では、こうした要素は素材の機動的な扱いによって克服されている。

ところで、巷の論調によれば、この演奏会はなぜか、パーカッションを鳴らすベテランたちの、抜群の遊びごころなどが中心に語られている。それも個性かもしれないが、こういうマニアックな、本質とかけ離れた議論を聞くと、私が多くのクラシック・ファンとは別の道を歩んでいることを感じる。別に、私が孤高の存在と思っているわけではない。だが、私は大分、真面目に音楽を受け取るタイプだ。フェドセーエフとオーケストラが描く個性は、もっとズッシリとしていて、コツコツと慎重に磨き上げられてきたものである。そのことを書かないで、こういう些末な議論につきあうつもりはない。それはただ、彼らのパフォーマンスを面白がっていることのように思われるからだ。

オーケストラが個性を発揮するためには、どのような条件が必要なのだろうか。冒頭に発したこの問いを、私は留保してきたようにみえるだろうが、演奏会の描写のなかで少しずつ書いてきたつもりでもある。最後に付け足すならば、こういうことだ。そのためにいちばん重要なことは、オーケストラのメンバー同士が信頼しあうことである。優れたプレイヤーたちが主体的に向き合い、上下関係をつくらず、対等に向き合うこと。このことを忘れて、中途半端に調和することを好む日本人は多い。私はそういう現場で、いたくこころを痛めることが多いが、それはもちろん、私が未熟な「プレイヤー」であることとも関係していることだろう。

チャイコフスキーso.のメンバーたちは、とにかく頻りに握手をする。周囲のプレイヤーたちとコミュニケーションをとり、うまくいけば、手を握り合う。こういうことが自然にできるオーケストラといったら、世界的にみてもあまり多くはないように思われる。この家族的な雰囲気が、演奏のなかで大きな力になっていくのは間違いのないことだ。それをまとめ上げるのはフェドセーエフという巨匠だが、それ以前にあるプレイヤー自身の分厚い結びつきが確認された。こうしたオーケストラを聴く喜びは、どんな巧みなオーケストラの、整然として乱れない演奏を聴くことにも勝るものだ。ドイツの田舎にありそうな、そんなオーケストラが選りによってモスクワという場所にあるのは、ミスマッチなことのように思われたものである。

私にとって、また貴重な体験が増えた。参考までに、これは個性的だと思った海外のオーケストラ(アンサンブル)は、次のとおりだ。ル・コンセール・スピリテュエール、ベルリン古楽アカデミー、ヴェニス・バロック・オーケストラ、ウィーン・ヴィエナコラージュ、レザール・フロリッサン、レ・ミュジシャン・ドゥ・ルーヴル、マーラー・チェンバー・オーケストラ、シンフォニア・ヴァルソヴィア、ラハティ響、フランス国立放送フィル(張明勲)、ノルトハウゼン歌劇場管(増田宏三)。圧倒的に、古楽系が面白かった。一方、そうでなかったのは、チェコ・フィル(マーツァル)、シュターツカペレ・ドレスデン(ハイティンク)、バイエルン国立歌劇場(ボルトン)、マリインスキー劇場管(ワーグナーは悪くなかったが、ロシア・プロはすこしも個性的ではない)、ロイヤル・ストックホルム・フィル(A.ギルバート)など。こういう結果から、私は大金を払って、外国のオケや劇場の公演に行くことは少ないのである。

彼らにとってのアウェイで聴いているせいかもしれないが、日本にいるなら、信頼できる指揮者で日本のオーケストラを聴くほうがずっと良い印象をもたらすことが多い。そういうなかで、ここは本当に異質なオーケストラだった。

【プログラム】 2012年10月17日

1、スヴィリドフ 交響組曲『吹雪』より
2、リムスキー・コルサコフ スペイン奇想曲
3、ショスタコーヴィチ 交響曲第10番

 コンサートマスター:ミハイル・シェスタコフ

 於:サントリーホール

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