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2012年10月30日 (火)

瀬尾久仁&加藤真一郎デュオ ドビュッシー 白と黒で ほか 10/23

【ドビュッシーの新しさを弾く】

瀬尾久仁&加藤真一郎デュオは、既に個性を確立しているアーティストだ。彼らは「ピアノによる室内楽」という可能性を追い求め、それを限界まで突き詰めるための「旅」の途上にある。前回、彼らの演奏を聴いた際にも述べたように、2人はそれぞれに傑出しているが、まったくちがうタイプのピアニストのようにみえる。私の印象では、瀬尾は直感ゆたかで、表現に屈託がないわりに、あんまり羽目を外すのは好きではないように見える。一方、加藤は几帳面な弾き手だが、ここぞというところでは大胆に構造をぶっ壊して、必要ならば自分でつくってやる・・・というくらいの気位があるようなのだ。無論、これは印象であって、事実は異なるのかもしれないが。

今回は『6つの古代の墓碑銘(エピグラフ)』と『白と黒で』という晩年の傑作で静謐なシンメトリーを築いたプログラムとなっており、「故きを温ねて新しきを知る」ドビュッシーの真骨頂を聴き手に対してリアルにイメージさせるものであったし、その表現には一切の誇張が排されていた。ドビュッシーはこの時代、もしくは、前後の数十年を通してもっともラディカルな進歩主義者であり、形式主義的、保守的な同時代の作曲家に対しては口さがなく批判している(例えば、チャイコフスキーやフランク)。そんな彼といえども、音楽芸術の伝統をすべて否定して、新しい、唯一無二の創造をできるという傲慢な考えはもっておらず、近くはワーグナーや師匠のフォーレ、遠くは古い教会旋法など、ほかにガムランのような民族楽器の響き、さらには同時代の文学や絵画などから多大なインスピレイションを得たという。

ドビュッシーの新しさを弾くことは、これらのあらゆる要素を強調することから始まるはずだが、実際には、作曲家はその秘密を上手に隠しながら、奥ゆかしい態度で、彼なりの新しさを探っていくことに長けていた。彼の作品は一見、『エピグラフ』の素材のようにあからさまでありながら、その実、音楽にはいつも謎めいたところがあるものだ。ドビュッシーの作品には詩をモティーフにしたものも多いが、その原詩からの直喩になっているような作品は多分、ひとつもないのに、その音楽をアタマに入れてテクストを読んだりすると、どういうわけかピッタリとイメージに合う。このような面では、声楽におけるヴォルフと器楽におけるドビュッシーが両方の極致をいっている。

瀬尾と加藤の演奏からは、実に、そのようにコンパクトで、婉曲な表現をみることができるだろう。彼らの弾くピアノから聴こえてくるのは、潔癖な進歩主義者の叫びではなく、ひときわ優れたサロンの道化師による、いかにも上品な風刺劇であった。その道化師は実のところ、真の芸術家でもあって、譬えてみれば、カルロス・クライバーが偽名を使って、チェリビダッケへの反論をおこなったように、彼の正体は紛うことなき本物であるはずだ。あるいは、名人の落語にちかい味わいというべきか。彼らは決して、若手のお笑い芸人のように大ウケを狙うことなく、わかる人にしかわからない音楽だけを奏でている。だが、そうでありながら、ときどきは私のように「わからない人」をも捉える鋭い魅力にも満ちていた。

【小組曲】

演奏会は、『小組曲』で始まった。その第一音の研ぎ澄まされた青灰色の音色を聴いて、私はこの演奏会の類稀にみる成功を予感する。弾き込んでいくにしたがって、その予感は2倍、3倍と高まっていくだけであった。肩をあわせて弾く2人のイメージは、ビシビシと聴き手に伝わり、限界まで研ぎ澄まれたイメージの鋭さと、2人の描く精緻なアーティキュレーションの美しさに魅了されていかざるを得ない。1人ずつ取り上げれば、もっともっと腕の立つ人もいなくはないだろうが、こうしてアンサンブルとして、2人がまったく同じ重みで浮きつ沈みつ、波の動きを決めるような演奏会には、そうは出会えるものでもないだろう。その打ち上げるところに、例えば第2曲の終結和音のような鋭い響きが来る場合には、このデュオほど厚みのある響きもつくれる人といったら少ないはずだ。だが、その音を納得させるに足るだけの、それだけの流れが・・・波の動きが、立派であることが前提条件となる。

第3曲のメヌエットは舞踊楽章だけに個性の競い合いとなるが、瀬尾&加藤の解釈はいたってシンプルなものである。この曲の演奏を分析することで、デュオの作品に対する考え方がよくわかるであろう。その中心的な考え方は、拡大よりは縮小に近しいようだ。のちにビュッセルによって管弦楽曲へとアレンジされるように、この作品の内部にある機動性を大きく膨らませて、スケールの大きな演奏に変えてしまうことは簡単で、そのほうが多くの人々に対して好意的に受け取られやすいようにも思う。しかし、瀬尾&加藤はその「大きさ」をあくまで内部に閉じ込めることで、ほんの少ししか仄めかさないような、そんな演奏で作品の魅力を必要最小限しか示さなかった。

このことはもしかしたら、彼らの演奏に対する批判として受け取られるかもしれない。ところが、実際に私が言いたいことといえば、そのほうが、ドビュッシーの音楽をむしろ輝かせるという事実なのである。その音楽は、たった一粒の小さなダイヤモンドの放つような、ごく静かな響きといえようか。それが第4曲のバレ音楽で、最後、僅かばかりの爆発をみせる。そこに、私たちはとても愛らしいポエジーをみるのかもしれない。テオ・アンゲロプロスの映画『霧のなかで』の終盤、現像のおわったばかりの小さなフィルムを覗き、主人公と技師が子どものように笑いあうときの、そんな美しさ、あるいは、ユーモアを感じさせるのである。

そうはいっても、最後のバレ音楽のスケール感などは、上の範囲において、十分な重みをもっているのも事実であった。このバランスの、絶妙の加減が私たちのこころをくすぐるのである。

【墓碑銘と交響曲】

この流れで、『古代のエピグラフ』が演奏されるのは、すこしも違和感のあることではない。6曲はいずれも個性的な響きをもち、古代エジプト、アラヴ、イスラム、ギリシア(ヘレニズム)など、古い時代に対するイメージの豊富さを絶対不可欠とするが、瀬尾&加藤のイマジネーションの充実からすれば、その点に問題はなかった。作品はデュオの演奏では、非常に音の少ない点が悩みの種である。その分、2人の奏者のバランスの配分や、アーティキュレーションの精緻なデザインが鍵を握ってくるはずで、その抑揚の美しさをみれば、デュオの連携の到達度をたちどころに知ることができるはずだ。瀬尾&加藤の場合、この点も聴いているほうがヒヤヒヤするほどのギリギリのバランスとタイミングで、この上もなく味わいぶかい演奏に仕上がっている。

この曲は、私としても好きな曲のうちに入っていて、特に、ドビュッシーの豊富な鍵盤作品のなかでも、デュオにしかみられないような味わいが感じられるところが素晴らしい。そして、どの曲も全部を語りきらず、少しずつメッセージを隠しているような感じもして、そこにより多様なイメージを匂わせるような演奏こそが面白いのだ。今回の演奏では、特に最後の2曲でそっとヴェールをかけながらおわるような、そんな謎めいた雰囲気が忘れられない。だから、曲が6つしかないとわかっていても、最後のナンバーがおわっても何かもうすこし出てくるような、不思議な感興が生じていた。

それに応えるかのように、3曲目に『交響曲』を置いているのはアイディアである。この作品は周知のように、ナデジダ・フォン・メック夫人と関係がある。チャイコフスキーのパトロンとして有名な夫人だが、ドビュッシーがまだアカデミーにいた頃、彼を夏期休暇の間、娘のピアノ教師として雇っていたことがあるのだ。音楽への造詣のふかい夫人だけに、彼の才能を早くも見抜いていたのだろうか。その注文により、伝統的な形式に基づく単一楽章の交響曲の「断片」を残した。やがて、ピアノ教師が娘と昵懇になりかけて、夫人がそれを許さなかったため、ドビュッシーは追い払われたという。そのためか、交響曲も最初の楽章だけでおわる。

作品は、濃厚な第一主題と、その繰り返しからシンプルに形式を追っていく。言われてみれば、「ロシア主題」ともいえそうな分厚いロ短調の和声に覆われたテーマと、それを中心に織り成されるロマンティックな旋律美が際立つ。このような作品はのちのドビュッシーからすれば、批判の対象であり、先に示したような状況でもなければ、生まれることはなかった作品である。しかし、典型的なソナタ形式に押し込められた窮屈な楽想は、そのままドビュッシーのアイロニーを示すものとなるだろう。特に、後半、ドビュッシーが自由な発想で形式から外れていくときの面白さがこのデュオの演奏では際立っていたが、最初の主題から紡がれる丹念な形式美も十分に味わいぶかい。最後は、ここまでのシーケンスで十分に用いなかったスケール感を一気に解放し、圧倒的な印象を残した。

【牧神の午後にみられるシステム】

休憩後の後半は、『牧神の午後への前奏曲』から始まる。この作品をドビュッシー自身が2台ピアノ版に編曲しているが、それ以上に様々な編曲があり、作曲者自身によるアレンジを使った演奏は、むしろ珍しいと言えるかもしれない。その理由は多分、ドビュッシーが2台ピアノの表現における可能性を突き詰めるというよりは、もっとシンプルな意図で作品のフォームを移植したからであり、原曲の多彩なイメージからすれば、ずっと淡彩な表現に努めたせいである。そこにはドビュッシーなりの意図があったが、それよりは、より派手な表現形式が好まれたということであろう。

そのシステムはまず第1パートの響きを、第2パートの響きが補強して拡大するという地味な仕事に始まっている。ひとつの鍵盤を奏でると、それに反応したコンピュータ・プログラムによって思いも寄らない響きが起き上がる現代音楽のような効果で、そのアンサンブルは観察される。この至極、単純な構図から、2人のピアニストの関係が少しずつ熟成し、最終的にセカンド・パートがファーストと同じか、もしくは、それに勝るような印象を獲得しておわるまでの、ひとつのストーリーが編曲からは窺われるのである。なるほど、このようなシステムはバレエ音楽としての作品の感興を多少、削いでしまうことにはなるだろうが、そもそもバレエ音楽としての味わいを大事にしたいなら、特に編曲の必要もないわけだ。

デュオはこうした作品の特徴をこねくり回すことなく、きっちりと器楽的なアンサンブルで織り上げたと言えそうである。ファーストの瀬尾久仁と、セカンドの加藤真一郎の響きは、連弾からこうしたセパーレートな2台ピアノによる演奏となっても、変わらず緊密で、彼ら独特の精緻な響きあいが、こうした作品にとりわけ優れた効果を発揮するのは言うまでもない。

【委嘱新作は発想の勝利】

このシーケンスで、デュオの委嘱による小林寛明の新作が演奏されるのは、意外と違和感がなかった。プログラムを論理的に眺めれば、古い時代との向き合い、とりわけギリシアやそこで愛されたパン神の印象を中心に、きっちりと整理された内容になっている。そこに、「温故知新」とは何の関係もなさそうな小林の技巧的な作品を置くことは、本来なら、多少、ギクシャクする印象も拭えないところだ。だが、演奏会をあくまでデュオの魅力という観点で楽しんでいく場合には、何の障害もない。私たちはただ、この作品をデュオがどのように解釈し、どのような仕方で表現するかに注目するだけでよいのだ。

この作品には特に感動的な新味も、表現性も感じられないが、時間を半分にして内容を濃くし、それを2台ピアノではなく、連弾の閉じられた可能性のなかに押し込めて表現する、という発想そのものに勝利の原因がある。狭い領域のなかで、所狭しと書かれた響きの演奏の難しさについては傍目にも明らかだが、とにかく、この濃縮された響きを一応、聴き手の感じ取れるだけの美的なフォルムにまとめて表出するのは、並大抵の苦労ではないように思える。デュオはとにかく、その最低限の条件を難なくクリアーしたが、最終的に、ひとつでも音を省けば成り立たないようなドビュッシーの作品と比べてしまうと、小林の作品にはまだまだ無駄が多いように思える。

むしろ、小林の作品はその無駄のなかに、ある種の表現性をみているのであろうが、それについて詳論を組み立てることは省きたい。

【交換可能な価値】

最後は、ドビュッシーの2台ピアノおよび連弾作品のなかでも、最高峰に位置する『白と黒で』である。この作品は多義的で、肝心の「白」と「黒」についても多様な解釈を許すと思われる。しかし、この日の演奏では、それは一種類に絞られたというほかない。それは意外にも、『牧神の午後への前奏曲』の演奏と関係があった。機能的な善と悪の使い分けを通して、2つのカラーの関係を多様に変えてみるという手法がまったく同様に思えたのである。規則的で、しなやかなファーストの動きに対して、セカンドは大胆で、ときにグロテスクな展開も辞さない。このスタイルは、WWⅠにおけるドイツとの衝突に絡み、フランス・ドイツ双方の国家が引用される第2曲で典型的である。

しかし、善悪といっても、ドビュッシーの描く世界のなかでは、その価値は互いに交換可能なものだ。そのハイブリッドぶりが、デュオの役割の交換を通して神秘的に描かれていく。結局、こうした役割の交換と、置き換え可能な価値の存在が、ドビュッシーの作品の根底にある秘密とわかれば、前後のナンバーにも通底する秘密を知ることができる。例えば、友人で尊敬する進歩主義の同人、ストラヴィンスキーをめぐる第3曲でも、その秘密は生きているようだ。作品のエピグラフとして、「冬よ、お前はいやなやつだ」という文句が掲げられていることはよく知られている。このシャルル・ドルレアンの詩では、冬は雪や風、雨やあられが多いから、「追い払われるであろう」と歌われているようだ。ストラヴィンスキーもまた、そのように追い払われるであろうという意味で、自虐的な要素を含んだユーモアが働いている。

つまり、ドビュッシーはそうしたストラヴィンスキーの位置、つまりは、自分の位置を、その鋭角的な響きで示し、それが追い払われるようなイメージで、ポップな流れ(ジャズの要素が入っているだろうか?)を対立軸として示しながら、作品を神秘的に彩っていくのであった。こうしたことがわかりやすいのは、演奏における各素材の対比が十分に明確なときだけである。

【まとめ】

こうして演奏会全体を振り返ってみると、『交響曲』の演奏に代表されるように、ダイナミックな流れも豊富にあったように思われる。だが、私の印象に残るのは、そうしたなかにも繊細な対話力を常に前面に出し、緻密なパフォーマンスを決めていく2人の姿でしかないのだ。彼らはドビュッシーの新しさを描くが、それをワーグナー的なものである、壮大な社会的背景のなかに置くことは避け、むしろ、より小さなスケールでサロン風に・・・つまりは個別に描いていくことをよしとした。作曲家の生きた時代や彼の個性を考えたときには、きっとそのほうが相応しかったにちがいない。

いまは亡き、ブリジット・エンゲラー女史はJFJのマスタークラスにおいて、モダン・ピアノが失ったものは古い鍵盤楽器のもつ音色のゆたかさだと述べた。ドビュッシーはそうした楽器の弱点に、はじめてアンガージュマンをかけた作曲家である。偉大な先人のなかで、フランクにはそうした発想そのものがなく、フォーレにはその萌芽ぐらいはみられるが、これらの作曲家はピアノというよりは、オルガンで発想することに慣れていた。フォーレの目指した鍵盤音楽の理想は、いつもオルガンと関係していたように思える。現代のヴァイオリンの名工たちが、いつもストラドをイメージして作品を仕上げていくように、フォーレのアタマのなかにあったのは、常にオルガンの神々しい響きであったのではなかろうか。フランスには、オルガンとチェンバロで、既に分厚い響きの蓄積があったのだ。

これに対して、ドビュッシーだけが新しいピアノの響きというものに注目した。ショパンですら、徹底的にそれを道具として用いようとすることしか思い浮かばなかったのに、はじめて、この楽器に新しい響きへの可能性があることを発想したのは彼である。だが、その可能性を交響曲の鳴り響くような空間で現実のものとすることは、もちろん、難しかったであろう。管弦楽の分野と、室内楽の分野では、ドビュッシーの考え方は必ずしも同一ではないようだに思える。『海』や歌劇『ペレアスとメリザンド』の響きから、『白と黒で』や『6つの古代のエピグラフ』を想像することができるだろうか。それらの間には単なるジャンルのちがいという壁ばかりではなく、より決定的な齟齬を来すような崖の存在がある。

瀬尾久仁&加藤真一郎デュオが示したのは、こうしたものも含めた総合的なドビュッシーの新鮮さではない。連弾や2台ピアノという・・・つまりは、ピアノによる室内楽という限定のなかでのみ光り輝く、ドビュッシーの新しさである。それは古い時代の鍵盤音楽を正しく認識し、リアルに感じ取ることからしか始まらない。しかし、その王道を敢えて避け(例えば、クープランやラモーの作品を演奏せず)、ドビュッシーのみを演奏して、さらに現代作品を入れるというところに、デュオの発想の意外さがある。しかも、その発想に酔わず、きちんと感じさせるべきことは感じさせているところも小憎かった。

フロアからは派手な掛け声こそかからぬものの、心底、感銘受けたかのような深い共鳴が感じ取れる。素晴らしいデュオが、この日本で活動してくれていることの喜び。聞けば、2人は夫婦ということである。

【プログラム】 2012年10月23日

1、ドビュッシー 小組曲
2、ドビュッシー 6つの古代のエピグラフ
3、ドビュッシー 交響曲
4、ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲
5、小林寛明 Asseblage
6、ドビュッシー 白と黒で

 於:東京文化会館(小ホール)

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コメント

アリス様、いつも楽しく読ませていただいています。

このたびは、私たちのリサイタルへお越しいただきありがとうございました。そして、とても共感をもって聴いて・考えて・書いていただいたこと、本当に感謝しております。

サマーフェスティバル、ブラームスのリサイタルの際にもコメントを残そうと思ったのですが、ペンネーム(というのでしょうか)でどのように書くべきかわからず控えておりました。ご挨拶が遅くなり、申し訳ありません。

できましたら、どこかで一度お目にかかり、お話できたらうれしいです。それにしても、もしアリスさんが「わからない人」だとしたら、私たちは恐ろしくて演奏会などできなくなってしまいます。2時間弱の時間で私たちのことをここまで把握されてしまうことに(もちろん過大な評価もいただいておりますが)びっくりしています。

まずは取り急ぎお礼まで。今後の活動の大きな励みになりました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

Duopianist さんより直々のコメントを頂けることは、当方にとっても、非常に励みになります。私の書くような駄文が、励みになったと書いていただけるのも幸甚の至りです。

会ってみれば、口数すくなで、つまらないオトコだとは思いますが、リップ・サーヴィスでも会いたいと言っていただけるのは幸福な体験です。下記メール・アドレスまでご連絡くだされば、どこへなりとも出かけるつもりはあります。

 hzk02230@nifty.com

僕がいちばん望むことは、正しい努力が正しく評価されることです。私は自分が社会のなかで、正しい努力をできているのか、いつも疑問に思いますが、能力が低いなかで、自分なりの努力は続けています。しかし、この道が自分にあったものものなのかどうか、本当はよくわかりません。想いと行動は、必ずしも一致せず、人々の抱く清らかな志が、正しい行動を導くまでには数々のハードルがあります。それを乗り越えられている音楽家の方を、私は等しく応援するつもりです。

仕事以外に、なにか真剣に考えられることがあるのはいいことだと思います。そして、音楽家のみなさんは、私にそのような体験のきっかけを与えてくださいます。このデュオを見つけたことは、私にとって大事な、いくつかの幸運のうちのひとつです。

お二人は今年、関西でオケへの出演もありましたが、まさに正しい努力が正しく認められた結果でしょう。今後の活躍に、いっそうの期待を寄せております。

ただ一言のみ、この日の瀬尾&加藤デュオを共に体験した身として、実に適切かつ正しく、彼らおよびこの演奏会について述べられている評であると申し上げたいと思います。

西澤さん、温かい言葉を頂き、ありがとうございます。私はこうした記事を書くことで、演奏家やそれに類する立場の方から支持されることはないと考えておりました。その分、なるべく傲慢ではなく、誠実な書き手でありたいと願ったのです。その姿勢が、多少なりとも共感を得ているのであれば嬉しい限りと存じます。

私の愛する人物に、ジャン・コクトオがいます。芸術に関することならなんにでも口を出し、各分野の才人からしばしば嫌われたコクトオが私のこころの師です。

加藤さんのご案内を頂き、貴兄の作品による今度の個展に足を運びますことは楽しみにしております。動画チャンネルで拝聴できるピアノ・デュオの作品などは、独特の時間の揺らぎ方がとても心地よく感じられました。コクトオよりさらにレヴェルの低い門外漢ではありますが、再び適切、かつ正しいと仰っていただけるように頑張ります。

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