2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« ラ・フォンテヴェルデ ジェズアルド マドリガーレ特集 「愛と狂気のマドリガーレ」 東京公演 9/28 | トップページ | 作曲家の個展2012 藤倉大 アンペール ほか サントリー芸術財団コンサート 10/11 »

2012年10月 5日 (金)

ミシェル・アリニョン(cl) with モルゴーア・クァルテット ブラームス クラリネット五重奏曲 ほか 10/1

【自分の積み上げたものを何度でも手放す音楽家】

クラリネットの巨匠、ミシェル・アリニョンとモルゴーア・クァルテット、誰がくっつけようとしたのか知らないが、途轍もない公演になった。パリ・コンセルヴァトワールで教授を務め、2009年で定年したアリニョンを聴きにいったはずが、本格的な室内楽の公演に出会った気がする。コンマス・首席型のクァルテットのなかで、モルゴーアQとクワトロ・ピアチェーリは一応、「室内楽」として聴くことのできる成功例だ。特に、モルゴーアQは単純に技術的なレヴェルでいえば世界的にみても冠たるレヴェルにあると思うし、こういう演奏をされると、専門の室内楽アンサンブルもお手上げになってしまう。

ブラームスにおいては、特にオーケストラをよく知る集団の室内楽が、うまい具合に嵌った演奏だった。作曲家によっては、室内楽とオーケストラで、まったく別の顔を見せる人もいて、その代表格は、なんといってもベートーベンであろう。私は毎年のように、年末の「ルートヴィヒSQ」を批判するのだが、彼らが気づいていないことのなかでもっとも致命的なのは、オーケストラにおけるベートーベンのイメージは、室内楽の分野ではそのまま通用しないということである。彼らは私たちよりも、ベートーベンに対して高い知見を誇っているはずだが、そのイメージは室内楽の分野で、かえって音楽をおかしくすることがあるのだ。もしも彼らがその点に気づいて、いままでやっていたことをかなぐり捨てたあと、もういちど一からやり直したとしたら、彼らの音楽はどれほど素直に、光り輝くことであろうか。

だが、あのレヴェルの音楽家が、自分たちの積み上げてきたものをそうそう簡単に手放すとは思えない。

ミシェル・アリニョンの場合、そこがちがうというべきかもしれないのだ。彼がこの日、日本で出会ったブラームスはもちろん、彼のイメージとはかけ離れていたにちがいない。彼にとってのブラームスは、やはりウィーン音楽の伝統に連なるものであり、それゆえ、モーツァルトと並べて演奏することも自然なのである。ブラームスだって、そのことを意識していたのは確実で、2つの作品は楽曲の構成などにおいて似通っている。彼のなかでは、モーツァルト、ウェーバー、そして、自分がクラリネットを使ったクィンテットという分野で、脈絡たる伝統をつないでいくべきだという強い意識があった。彼がそれを書くとき、モーツァルトに対する謙虚な挑戦心が働いていたのは確実である。

【ある種の狂気】

幸い、ブラームスの傍には、モーツァルトにおけるシュタットラーに匹敵するような、ミュールフェルトという名手がいた。音楽のネットワークをつなぐもの=優れた奏者がいて、はじめて魅力的な作品があるということ。そのことも、アリニョンの主張であったろう。そして、もちろん、優れた奏者には質の良い楽器が必要である。ビュッフェ・クランポンの主張は、そこにあった。定価にして100万円をすこし切るぐらいという高級楽器「トスカ」が、この日の演奏で用いられた。より古いものが尊ばれる弦楽器の世界とは異なり、管楽器は新しいものほど響きが浅いということはないようだ。逆に性能が良すぎることが、楽器と奏者の関係にとって真に素晴らしいことなのかはよくわからないが、管楽器の世界では楽器の洗練がより幅広い表現の獲得につながる可能性が高い。

アリニョンのような名手が吹いてさえ、石畳の道を時速 150㎞/h の性能をもつ高速自動車で走るような違和感がまったくなかったといえば嘘になろう。しかし、一方で、こうしたいという奏者の自由度が従来の楽器に比べて高まっているという印象は強烈だ。その結果として、アリニョンは、モルゴーアQのつよいスタンスを受け容れることも可能だったのである。モルゴーアQがどのような哲学において、また、どのような経過を経てあのような演奏をしたのかは定かではないが、最終的には、やはりオーケストラ的な演奏でアリニョンの実力を遺憾なく発揮することがベストであるとの判断が基底にあったのは間違いない。モーツァルトのときと比べると、別人のようにアクセルを踏み込んだ4人の姿に、私は一種の狂気じみたものを感じていたことを告白する。

序盤、そのような演奏姿勢とアリニョンの演奏スタイルはまったく噛み合わなかった。私のような素人からみても、アリニョンがもっとゆったりしたテンポ感と呼吸を要求し、ウィーン音楽の伝統に敬意を払いたがっているのは明らかなように見えたし、クァルテットのほうだって、そのことは百も承知のように思えたものだ。しかし、その理性を破って、4人はフレーズ全体を思いきり叩いて彫り込むような仕種で弾いていく。クラリネットの音色を、引き下がって生かしてやろうという配慮もなくはないのだろうが、作品全体のイメージを生かすためなら、それも止むを得なければ捨てるという覚悟である。

一か八かだった。もしもアリニョンがのってこなければ、彼らによる共演は、それこそ痛々しいものになったであろう。

幸い、アリニョンという音楽家の音楽的なセンスは飛び抜けており、それに、程よく年をとっていたのもよかったのだろう。彼が若いころなら、これと信じて疑わなかった音楽も、その年齢では、より若い世代の主張と調和させることができるからだ。アリニョンは大きくいって、2つのアジャストをおこなった。ひとつは当然のように、響きをすこしだけ強くとることであり、もうひとつは、演奏のポジションを前向きに調整し、協奏曲を吹くときのようなスタンスに変えたことだ。特に、後者の重要性は高く、この点で両者はぴったりと通じあったといえる。それが成功であったのは、クァルテットがオーケストラの団員のような態度をとり、また、アリニョンが思わず、第1ヴァイオリンの荒井だけに特別な握手を求めたことからもわかる。彼にとって、荒井はオケのコンマスと同じような存在に見えたのだろう(実際、そうなんだけれどもね!)。

【響きのみによる悲劇性の追窮】

これによって、ブラームスの作品はそのもととなったであろうモーツァルトの作品と、明らかに区別される。なぜなら、モーツァルトではクラリネットと弦楽クァルテットの間にヒエラルキはなく、ともに歌うという性質があるが、ブラームスにおいては、それらの役割は明確に区別されていることになるからだ。クラリネットは協奏曲における独奏楽器のような重みをもち、弦楽クァルテットはそれをより強固に支える態度が必要になる。そして、これはオーケストラをよく知る人々による独特の知見であるが、この場合、弦楽クァルテットはより強力な哲学によって支えられる必要があるわけだ。

それはつまり、こういうことである。オーケストラとは、集団だ。演奏することの意味は、独奏においてもっとも明解であり、人数を増すごとに、その伝達力は次第に低下していく。オーケストラのような大集団となったときに、その演奏が立派なものと認められるだけのメッセージを発するためには、それを発揮するための技術やコツのようなもののほかに、演奏を支え、集団を統一するアイディアの共有が欠かせないというわけである。そこで、モルゴーアQがブラームスのクラリネット五重奏曲に対して思い描いたイメージはといえば、響きにおける悲劇性の追求を窮めることにあったようだ。

音楽の悲劇性は大昔から頻りに追究されてきたことであろうが、響きのみによる純粋な悲劇性は、標題性を伴わないあらゆるマイナー・コードの音楽のなかに集約されているとはいえ、そのことを本質的な音楽テーマとして追い求めた作品となると、私には思いつかないのである。例えば、モーツァルトの作品では、白痴のようにバカバカしい音楽のなかに思いも寄らない哀しみの要素が紛れ込んで、私たちを戸惑わせる。それはそれで別ものの凄みをもつが、ブラームスのこの作品には響きのうえでの哀しさ・・・あらゆる具体的な感情や、もちろん、宗教ともハッキリ結びつかない、永遠の悲しさがある、とモルゴーアQは看破したのであろう。そして、彼らはその潔い格好よさのなかに、ブラームスのロマン主義を見出したのである。

このような発想は多分、アリニョンのなかでまったく新鮮なものだったであろう。彼のアタマのなかにあったのは、モーツァルトを直接の手本に、余裕たっぷりにウィーン音楽の決まりきった、それだけに豪華な形式の絵巻を描き上げた、狩野派のような仕事をする作曲家の姿だった。この日、彼はそのイメージから抜け出して、悪魔の姿に変容したのだ。彼はかつて、自分がアンサンブル・アンテルコンタンポランで吹いていたときのことを思い出したかもしれない。第2楽章のトリオで聴かせた響きの振動は、ブラームスの新しさそのものを象徴していたし、反対に、後半の主部のおわりでは、ブラームスの変わらぬ信仰心を示している。

そして、スケルッツォ楽章では、第1トリオにクラリネットを書かず、第2トリオで完全にクァルテットを従えてしまうモーツァルトの凝りに凝った構想を参考に、アンダンティーノの主部で、急速なトリオをサンドウィッチする独特な構想を練り上げた。アンダンティーノは第2楽章の信仰心と関係し、舞踊楽章を意外な味わいで染め上げる。ところが、ついに舞踊楽章の本体がトリオに出現すると、対象化された主部はまるで秩序を失い、それが引っ込んだあとも不安定な動きをつづけ、宙づりで締められるのだ。

第4楽章は、第1楽章で示していた深い陰影を伴い、第2楽章と第3楽章で示された要素を経由して、チェロ独奏で総括される。これが真の味わいを持ち得るのは、この日の演奏のように、木管と弦楽器の音色が非常にふかいレヴェルでリンクしたときであろう。もしも、その点のみに注目するならば、結局のところ、アリニョンとモルゴーアQは、そのことを実現するために全曲を費やしたとでも言えそうなほどである。チェロがクラリネットの低音と重なり合い、ときどき通奏低音のようなハーモニーのゆたかさを物語ったかと思えば、次にはヴィオラとクラリネットが、共有する深い音色で語り合い、ヴァイオリンはその高音に優しく紅をさすという具合だ。藤森のチェロが、王のような威厳を示しつつ、息の長い支えを見せるとき、私はそのことに気づいてハッとした。

もちろん、これらの重なり合いは、モーツァルトのときにまったく見られなかったわけではない。いつかメナヘム・プレスラーも言っていたように、ピアノが弦の模倣を完璧にし、同時に、弦楽器がピアノの音色に近づくというのが室内楽の最終的な「関係」である。アリニョンと、モルゴーアQはこのレヴェルに限りなく接近した。これは終楽章のヴァリュエーションで、様々なバランスがコントロールされるとき、決定的に衝撃的である。

モーツァルトのフィナーレのコーダは、非常にシンプルなわかりやすさで導入され、思いどおりの効果を上げるのだが、ブラームスのそれは、まったく知らない曲ではないとはいえ、こうして聴かされると、やはり軽いショックを感じずにはいられない。今回の演奏では、終盤の流れが非常に爽やかである分、コーダの印象は一際、辛いものに思われる。それはブラームス晩年の哀愁なんて、すこしも感じさせないだけに、なおさら辛辣に響くのだ。この言葉によって、響きのみによる純粋な悲劇性を追窮するという彼らの演奏意図が、見事に実を結んだのは確かであることがわかろうと思う。

【威張らない音楽家の挑戦】

アリニョン自身、本当に楽しそうだったモーツァルトの演奏については、ここに詳しく触れないが、ここまでの文章をよく読んでいただければ、それがどのような演奏であったかも言外に示されていることがわかるはずだ。

レニン(高血圧を引き起こす物質)の研究で有名な、筑波大の村上和雄名誉教授は、大したことない研究者ほど威張っている。偉い研究者ほど謙虚であり、他人の言に耳を貸す、と仰っていた。音楽家の世界でも、その常識は通用するのであろう。アリニョンは正に、他人の解釈に耳を貸すタイプの音楽家であった。そして、「とにかくやってみよう!」というスピリッツがある。実際、彼の年齢で、そういう挑戦心をもつことは容易ではないと思うが、この日、彼のそういう部分は巧まずして発揮されたわけだ。凄いコンサートに巡り合った。

アリニョン氏、ブラームスの演奏がおわったあとは、感極まったような表情をしていたように思うが、私の勘ちがいであろうか? それにしても、この類稀なる謙虚な音楽家の挑戦は、今後もまだまだ続くだろう。日本では、是非、オケの定期にも呼んでほしい特別な才人である。

【プログラム】 2012年10月1日

1、モーツァルト クラリネット五重奏曲
2、ブラームス クラリネット五重奏曲

 於:紀尾井ホール

« ラ・フォンテヴェルデ ジェズアルド マドリガーレ特集 「愛と狂気のマドリガーレ」 東京公演 9/28 | トップページ | 作曲家の個展2012 藤倉大 アンペール ほか サントリー芸術財団コンサート 10/11 »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/55814945

この記事へのトラックバック一覧です: ミシェル・アリニョン(cl) with モルゴーア・クァルテット ブラームス クラリネット五重奏曲 ほか 10/1:

« ラ・フォンテヴェルデ ジェズアルド マドリガーレ特集 「愛と狂気のマドリガーレ」 東京公演 9/28 | トップページ | 作曲家の個展2012 藤倉大 アンペール ほか サントリー芸術財団コンサート 10/11 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント