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2012年10月14日 (日)

作曲家の個展2012 藤倉大 アンペール ほか サントリー芸術財団コンサート 10/11

【作曲家に求められる役割】

何年か前までとは異なり、藤倉大がブーレーズとの関係において批判される文脈はあまり見なくなった。彼がいわゆる「ブーレーズ・スクール」のなかからアタマひとつ抜け出し、アンサンブル・アンテルコンタンポランなどでも一目置かれる存在になりかけているのも、実は、ブーレーズともっとも似ていない作曲家だからではなかろうか。しかし、そのなかで藤倉が、偉大な「父親」から忠実に受け取ったものもあり、その最たるものは現場から発想するという作曲家に欠かすべからざる視点である。

作曲家が優れた作品を書くのに絶対に欠かせないことといえば、現場、つまり演奏や楽器そのもの、それを奏でる人から発想するということだ。この課題を克服するためには、自らが現場監督となるか、あるいは、現場で働く人たちと親密になるか、いずれかの道しかないわけである。ブーレーズは正に現場監督型の作曲家であり、彼は同時に優れたピアニストであり、ご存じのように、傑出した指揮者でもある。彼の下には、これまた傑出した音楽仲間が集まり、その存在が彼の創作を力強く支えたのは言うまでもないだろう。だが、優れた建築においては、現場監督にときには困難な要請をつきつけたりしながら、建築全体をエレガントにまとめあげるデザイナーの存在があるのも、また言うまでもないことだ。

作曲家には、これら2つの側面がなくてはならない。ときに、現場をまったく知らずして、エレガントに構築された天才的な傑作も存在しようが、今日においては、このような手法で傑作を編み出す道はいっそう狭くなっているというほかはない。一方、現場監督型の作曲家は非常に多くなってきたが、優れた演奏家と一緒になり、あっちを掘り、こっちを掘り返ししているうちに、その遍歴がそのまま作品となっているようなものも多く、このような作品は得てして出来かけの印象を与え、一種の素材集のような印象を与えるものである。現場監督とデザイナーと、その両方を高いレヴェルでこなす作曲家となると、これはあまり数が多くなく、それらの才能を用いて、作曲家=演奏家=聴き手を上手に結びつけることができる作曲家といったら、なおさら限られてくる。

【バスーン協奏曲】

例えば、この日に演奏されたサントリー音楽財団からの委嘱作『バスーン協奏曲』は素材集的な側面も少なからず見られ、途中、このままおわったら、藤倉への評価も下方修正しなければならないと思ったものだ。この作品を通じて、パスカル・ガロワの吹くバスーンの響きはプレ・トークで彼が言っていたような黄金の歴史を象徴し、この楽器が他の木管楽器や弦楽器がもつような、あらゆる役割をこなし得る可能性について鋭く物語っていた。意外なほど涼やかな高音の輝かしいサウンドや、低音から高音に動く響きのワイドな展開は、例えば、クラリネットと比べてもずっと優雅である。同じことをこの楽器(cl)でやろうとすれば、もっと鋭角的な印象しか与えられないだろうというところで、バスーンの響きは一際、まろやかであった。

作品は序盤から、クラリネッのト響き(倍音)を、それを取り囲むオーケストラの響きが模倣していく流れに終始する。バスーンはねじ巻きの役割を担当し、それに感応して、全体の音響装置が動き出す。あらゆる楽器の組み合わせの見事さによって、中心のガロワが出す多彩なバスーンの響きがより象徴的に聴き手に伝わっていくのである。いつもワン・パターンなデフォルメではなく、むしろ、楽器と等身大の響きがコンパクトにつながっていく場面も多いのが、藤倉の発想の面白さである。ねじ巻きの具合によって、全体の音響の動き方に変化がついていく仕掛けも楽しい。

しかし、そのままおわってしまえば、やはり、「素材集」との印象は免れがたかったはずだ。それは先の譬えを踏まえれば、ねじをいくら熱心に巻いてみたところで、それ以上の発展はなく、いつかは静止に至るということを思い出せばよいのである。最後のシーケンスでこれらの素材が僅かながらも構築され、ようやく、それらの素材が生かされてこそ、作品の味わいというものは生じる。それは正に、宇宙からくる響きのように神秘的であった。最初と最後のいかにもアイロニカルなトレモロは、宇宙から弱い電波を受信するときのようなイメージを具体的に模倣し、響きの味わいをアイロニカルに説明する。それは湯浅譲二が言うのとは異なる意味で、より直接的に(!)、宇宙から来た音楽であった。

岡部慎一郎が興奮気味に語ったプレ・トークは若干、ハードルを上げすぎの印象もあるが、のちに述べる「アンペール」がそのジャンルにおける究極的な作品だとすれば、このバスーン協奏曲は、チャンスさえあれば、より華やかな発展をみるような、そんな可能性を感じさせるものであったと思う。

【藤倉大の創作姿勢】

さて、藤倉の創作姿勢には、いくつかの特徴がある。

①ほとんどの作品で遊びの要素がある
②大抵の場合、始まりがあって終わりがある
③用いる楽器の可能性をほとんどすべて引き出す
④機動性が高く、それを生かす発想も豊富である
⑤人工的なものと自然なものとの組み合わせ

そして、これらの要素を集約するのは、作曲の流派やストリームには関係なく、いま、そこにある条件をすべてイキイキと活かしきるという鉄則なのであった。藤倉の作品がまったく新しくないというつもりはないが、彼の作品を湯浅譲二的に、あるいは、6-70年代的な感覚で「新しい/新しくない」という視点で捉えるのは、多分、適切ではないように思われる。そういうことよりも、作曲家が優先しているのは、自らの生み出す響きがどのように生かされるかという問題であり、そこに表れる音楽のヒューマニティの追求なのである。

このような青臭い音楽哲学は、現代音楽の発展のなかで実に軽視されてきたもののひとつであるが、藤倉大は、三枝成彰や吉松隆がそれを良しとするようなロマン派音楽への後戻りを引き起こさずして、この人間的な課題をいかに克服するかを真摯に追いつづける作曲家である。そのために、上のような5つの課題を自分に課しているのである。しかし、それは単なる人間中心主義の一変奏なのではなく、むしろ、⑤に示したように、人間的なものと自然なものとの緊張関係を常に含んでおり、作品に神秘的な印象を与えるのである。

【Mirrors】

わかりやすいのは、元来はシカゴ響の6人のチェリストのために書かれた ”Mirrors” という作品である。今回はこれを12人のチェリストのために編曲して演奏した。序盤、題名に象徴される対応関係で、ミニマリズムのような動きで始まる音楽は、いくつかのシーケンスにわかれる。もっとも人工的な感じのする最初のシーケンスは、原曲の6人の演奏では、なおさら室内楽的な緊張を孕んで素晴らしいのであろうが、この編曲では、多少、重たい印象を与える。しかし、例えば、起き上がりこぼしは、中心下部におもりを置いてはじめて、面白い動きが導き出されることを思い出すべきだろう。序盤の何の変哲もないミラー反応が、徐々に歪みを大きくし、起き上がりこぼしのおもりの位置を巧みに変えてやることで、作品は思わぬ奥行きに到達していく。

おわってみれば、私たちは前のバスーンのコンチェルトと同じように、チェロの機能のほとんどすべてを味わい尽くしたことに気づくのである。12人への拡張は、この作品本来の室内楽的な味わいに、ダイナミックなオーケストラの要素を付け加えることになる。この二重性が、作品をいっそう複雑な味わいへと高めているのは言うまでもない。

【Tocar y Luchar】

もうひとつわかりやすいのは、最初に演奏された ”Tocar y Luchar” である。この作品は音楽を用いた社会構造改革「エル・システマ」のなかで育て上げられた、シモン・ボリヴァル・ユース・オーケストラのために書かれ、題名はその運動のための「奏で、そして、闘え」というスローガンそのものであるそうだ。とはいうものの、私にとってはより大陸的な音楽のスケール感が印象的である。私がイメージしたのは、欧州人はまだ来ない、古い時代の北米の先住民からみた大地の光景だ。そこには鳥が群れを成し、獣が活き活きと呼吸していたであろう。鳥の羽ばたきとも、獣たちの草原を走る音ともとれる響きが、まずパッと聴き手のこころを開いてくれる。藤倉がつくる響きのイメージを、具体的に何であるかをイメージするのは聴き手の自由である・・・作曲家自身は明確なヴィジョンをもちながらも、音楽にはそのような味わいがあった。

この作品に顕著にみられるのは、④と⑤の要素であることは明白だ。しかしながら、①の要素も味わいぶかく活かされているように思われた。自然や動物の単なる描写というよりは、それをみてなにかの印象を得た作曲家の、例えば、動物園でゾウを観た子どもたちの歓声に似たような素朴な感情の表現が、そこにはあるように思われる。ただし、そのイメージは現代的な価値観からはどうしても導きがたいもので、アメリカ先住民と自然の間にある緊張関係のようなものを、必然的にイメージさせるのであった。一方、最後のブワッとした響きなどは、水牛のつく豪快な呼吸のようにも思われ、その点、アジアのイメージが急に潜り込んでくるのも面白いことだ。

【ここまでここを過ぎず】

現代音楽は旋律や調性のほか、クライマックスや、開始、終止といったものを、すべて否定したところに新しさを見出してきた。藤倉の作品は、このような潮流のなかで、ほぼ例外的に始めと終わりがしっかりあるタイプの音楽である。このことについては意見が完全にまとまっておらず、いま、この記事で詳細に述べることは避けたいが、彼の音楽にとっては、非常に重要なテーマになっているように思われる。ただ、「生から死まで」というような、巨大なスパンを追った作品は、私の知るかぎりではまだないようだ。現段階で作曲家が追求するのは、もうすこし手の届きやすいコンパクトな表現である。その点、藤倉の作品が未だ過去の作曲家と比べて低い水準にあり、彼の才能に大騒ぎすべきでないという議論もあり得る。

しかし、誰も「大騒ぎ」なんてしていない。欧米での勢いも、まだ始まったばかりのところだろう。私たちはただ、彼の溢れるアイディアに驚嘆し、その可能性の深さにつよく期待している段階にある。

2009年、読売日響の委嘱によって世界初演された ”ATOM” は、そんな凝縮を象徴するような作品であった。この題名から、日本人は「原子」という意味と同時に、手塚治虫のアニメ『鉄腕アトム』を連想する。しかし、それに相当するファンタジックなエネルギーに溢れているというわけでもなく、この日、演奏された5つの作品のなかではもっとも内省的な作品とみえた。

この作品の主役は、打楽器である。現代音楽ではしばしば打楽器が大活躍するが、この作品はバスーンの場合とは対照的に、そのような活躍をアイロニカルに眺めた視点で描かれている。ただし、冷笑的というのではない。彼がこの音楽で示した「行動」は、膨張しすぎたイメージをもとの場所に、きれいに置きなおすというようなことである。そして、その位置から、再び打楽器の魅力を再創造するような意図が顕著であった。ここにいう打楽器のなかには、実は弦楽器なども含まれている。あらゆる意味での打撃音が、同時に藤倉大のアルヒーフに集められた。そして、様々な種類の柔らかさを自由に組み合わせて、作品世界を構成していくのである。

作品のほの暗さは、作曲家の生きる時代と無関係ではない。藤倉が具体的に、どのような現象を踏まえて、かような静的なイメージに至ったかは定かでないが、そうであっても、この作品がこの時代と何らかの形で向きあっているのは明白であり、また、それを見つめる作曲家の、独特の視線が生きているのは間違いのないことだ。なお、この作品のおわりは、非常にユーモアに満ちている。それは直前のシーケンスがきれいにまとめられ、さらに、ひと頑張りして上向した音符が3つほど並んだところで、おもむろに終わるのだ。しかし、その唐突さにもかかわらず、聴き手には、そこがおわりであることがハッキリとわかる。

振り返ってみれば、5つの作品すべてで、聴き手はどこが終わりなのか、まったく迷うことはなかったはずだ。そして、その作品の余韻がどのくらいあって、どういう反応が期待されているのかも、明確であった。ソナタ形式の素晴らしさは、始まりと終わりが明確で、そこに至る道筋がきっちりとまとまっているからである。藤倉の音楽には、それにちかい味わいがあるようであった。

全否定だけが、現代音楽なのではない。神田慶一の歌劇『あさくさ天使』のなかで、重要なキャラクターの1人「オヤジ」は、自分の両腕を広げてココからココまでが自分の身体の領域で、それを越えるものは不自然だと歌う。藤倉がやっているのも、正にそれと同じ表現なのだと思えてくる。オヤジが歌うように、ボタンを押せばメシができるような便利さ=発展が、現代音楽のなかでも求められているのかもしれない。だが、藤倉は自分がまだ若いということもあるが、無制限に大きな世界(新しさ)を求める時代の潮流には批判的である。そこで、彼はココからココまでと範囲を区切って、そこで自分なりに定めた課題にひとつずつ取り組んでいるわけだ。TVドラマ『刑事コロンボ』の最終回に登場したアイリッシュの詩人がウィスキーのボトルを手にとって、今日、これ以上は飲まないと決めて、こう述べるようにである。

「ここまで、ここを過ぎず」

それを批判するような人は、もう、素晴らしい作品がどこかから、勝手に湧いてくるように勘違いしているのにちがいない。モーツァルトの時代にはそれもあり得たろうが、「進むべき道はない、だが、進まねばならない」というような時代においては、容易ではないのである。私は藤倉のその区切り方が、とても真摯だということにも共感する。ひとつひとつの課題に対する、この上もなく真剣な取り組みにも感謝する。

【アンペールにおける価値観の転倒】

最後に、『アンペール』について述べる。これは実質的なピアノ協奏曲で、英国のフィルハーモニア管と名古屋フィルが共同委嘱し、それぞれ、マーティン・ブラビンス(英国)とティエリー・フィッシャー(日本)の指揮で両国初演されている。独奏者は、いずれも小川典子である。登場した小川は赤を基調とした見たこともない衣裳で、見目麗しい女性とはいえ、その年齢を考えると、一瞬、その少女趣味にギョッとした。しかし、これには意味があったようだ。

題名のアンペールは周知のように、フランスの科学者の名前からとられ、英語読みの「アンペア」が電流の単位となっている。なお、アンペールの父親はリヨンで判事の役職を務め、フランス革命の行きすぎを批判して憚らなかったため、反革命の保守派として断頭台の露と消えた。そのとき、アンペールは18歳であった。アンペールの発見は主に、高等学校の物理で習うアンペールの法則で知られている。電磁気学の祖であり、電気、電流、電圧という語彙を、はじめて使った人物でもある。そのような歴史とは関係なく、藤倉は電気のイメージをこの作品に詰め込もうとしたようだ。しかし、直接、エレキを使ったりする(現代音楽ではよくあることだ)のではなく、あくまでアコースティックな楽器にこだわって電気を表現しようとしたところに、作曲家の発想の面白さがある。

この作品の特徴は、なんといっても、2つの楽器が対比的に使われることだ。それはモダン楽器の最高峰に位置するスタインウェイのピアノと、おもちゃのトイ・ピアノである。作品の2/3ほどを占めるスタインウェイのパートで、藤倉は2つのカデンツァを含むピアノの豪勢な魅力を存分に歌い、オーケストラも力いっぱい、これに呼応するヴォリュームで書かれている。ところが、その頂点に達すると、ピアニストの小川は今度はトイ・ピアノの前に座り、不思議な並びの旋律を奏でて、新しい響きを創造していくことになる。この響きの、なんと愛しいことであったろうか。安っぽいはずの玩具の音色が、150年ちかい洗練のなかに置かれる素晴らしい楽器を凌いで、美しく響くのを聴いて、私は呆気にとられた。

その衝撃は、グランド・ピアノにおける演奏が凄まじければ凄まじいほど、力づよいものになる。スタインウェイを相手にして、王女の気品を放っていた小川のパフォーマンス抜きに、この作品を語ることはできない。とりわけ、カデンツァの奔放なアイディアは、シンプルにまとまってこそいるが、このジャンルにおける過去の名品と抜き差しならないほどの緊張感を含んで向き合っている。つまり、ピアノの機能のあらゆる部分が、見事に生かしきられているのである。

この響きに、トイ・ピアノがどのように対峙するのであろうか。そもそも玩具用(子ども用)の鍵盤だけに、大人の奏者にとっては、指の大きさなどからいって、すこぶる弾きにくいものであるにちがいない。このピアノにおける表現は可能性が狭められており、それは端的に、鍵盤の数ひとつをとってみても明らかであろう。それだけに、藤倉はトイ・ピアノで奏でる旋律を思いきって限定した。そして、それと歯車のように噛み合う響きだけが、オーケストラのなかで鳴り響くようにコントロールしたのだ。限定的な可能性のなかから、あのような美しい音符の並びが生まれたことは、それこそ奇跡にちかい。

ピアニストは王女から、少女になった。そして、その少女に例の衣裳はいかにも相応しかったであろう。だが、いちばん問題なのは、その少女の奏でる響きの、なんとも神秘的な魅力だった。それは先刻までの、見事なグランド・ピアノの響きを完全に消し去るほどに美しかったものである。ここから、私のアタマに急速な崩壊現象が訪れた。スタインウェイの素晴らしさは決してなくならないとしても、その豪華な響きが、玩具の響きに塗りかえられていったのだ。そして、王女よりも、少女のほうが素晴らしいように思えてきたし、そして、挙句の果てには次のように思うに至った。最高峰のグランド・ピアノを生んだ技術は、確かに素晴らしいだろう。しかし、幼い少女のためにミューズの手助けをするトイ・ピアノって、なんとエレガントな楽器なのであろう!

思えば、この転換は作品に決定的な衝撃をもたらすものだが、この工夫だけが、すべての源だったわけではない。それは「右ねじの法則」に象徴されるアンペールの法則から導き出される渦巻き状の響きから始まって、単純な音のエレキ的増幅だけに止まらない、数々のイメージをコツコツと蓄えるところから始まり、そのストリームは第1カデンツァで一旦、コンパクトに凝縮される。ところが、その後はイメージが多彩に変化して、もとの発想を完全に打ち壊すところまでいってしまう。その象徴として、グランド・ピアノにおける最後の響きとなる第2カデンツァへと、構造は激しく流れ込むのである。トイ・ピアノにおける最後のシーケンスは、こうした蓄積と混乱、崩壊の否定であり、単純で、かつ、神秘的な、いわば、ワーグナーにおけるパルジファルのような、そんな響きによって浄化されるのである。

藤倉の発想は、トイ・ピアノという象徴から、その弾き手である子どもや、彼らのために玩具を用意する大人たちの情熱を徹底的に賛美するところへと行き着いた。そして、その発想は、小川典子も「ジェイミーのコンサート」(自閉症の子どもたちや家族のために、彼女が定期的に催しているコンサート)などでよく共有しているところであろう。子どもといっても、決して純真無垢というわけではない。この日の小川にしても、少女のように見えることもあれば、悪魔のように見えることもあった。それはきっと、音楽がそのように書かれているせいでもあろう。この作品は大人より子どもが優れているということの否定であり、しかも、子どもが親たちより優れているという転倒でもないところで生きてくる。いわば、2つのものが支え合って、はじめて生きる響きというのを作曲家は追求したのであろう。

作品一覧をみると、トイ・ピアノの使用は2004年のものが最初で、その後、もう1回、これを使った作品を見つけることができる。藤倉にとって、この神秘的な、愛らしい楽器への関心は長いようであるが、文句なく、その最高峰にこの作品が位置づけられるのは間違いない。

【まとめ】

藤倉にとって、遊びの要素は非常に重要だ。いまのトイ・ピアノのはなし、動物や自然のこと、鏡の遊び、バスーンをめぐる響きの冒険・・・。それらの要素はすべて、彼の音楽の主張と不可分に結びついている。そのなかで、彼がいちばん好む遊びは、日本的な要素を入れることである。しかし、あくまで遊びなのだ。それは隠し味のように生かされて、私たちが日本人であるから、はじめて「おっ!」と思えるような要素である。過剰になれば、娼婦のように醜いことだが、その点のコントロールも文句ない。このことを最後に付け加えて、レヴューをおわる。

調べてみれば、私がはじめて藤倉大の作品に触れたのは、2005年の芥川作曲賞の選考会のときであった。そのときの作品、”Vanishing Point”での授賞はならなかったが、凄い才能の人が出てきたことに気づき、一時、大きな期待をかけたが、その次に出てきた ”Stream State” で評価をすこし下方修正した。小川典子の演奏会で聴いた短い曲、”Returning” も、パッとしなかった。そういうわけで、2009年、いよいよ芥川作曲賞を授けられるに至っても、私の眼は冷やかだったのである。その後、”SAKANA” を聴いて、彼が良い方向に向かっているのを予感したが、ことしのアルディッティSQのときまで「再会」は持ち越された。それが、どうだろう。いまの彼は、本当によいところにギアが入って、たくさんの優れた音楽家に助けられて、素晴らしいサイクルで仕事をしている。これほど恵まれた作曲家は、世界でもほんの一握りしかいない。

そして、そうなっているのには、もちろん、理由があるはずである。2005年、授賞しようがしまいが、既に藤倉の成功は約束されているとみていた。結果的に、それは正しかった。しかし、その間に、作曲家がいかに深く悩み、苦しんだかということについては、今回の作品をみて、逆に、いっそう明らかなように思えるのである。藤倉大は天才肌の作曲家とみられがちだが、彼の音楽の本質はもっとコツコツと積み上げられてきたものによって成り立っている。日本人らしく、勤勉だ。それを、多くの音楽家たちが認めてくれているのであろう。この良いサイクルが、いつまで続くかはわからないが、この2012年という良い時期に、彼の「個展」が聴けたことは望外の喜びである。

天国の江村哲二氏は芥川作曲賞の審査員として、2006年に藤倉作品を評価して、その非凡な書法の鋭さに共感しつつも、ブーレーズ・スクールの影響が抜けきらないという理由で評価しなかった。いま、彼が生きていたら、どんな風に藤倉の成長を評するのだろうか。私は、彼の音楽も好きで、歿後、サイトウキネン・フェスタで武満らの作品と一緒に演奏されたときは、はじめて松本に足を運んだほどである(オペラや小澤は聴いていない)。そのときの、指揮者の板倉康明氏のスピーチも忘れられない。そして、いま、はじめて江村氏の才能に匹敵するような若者が現れたと感じるのだ。もはや江村氏の音楽を追いかけることはできないが、その後継者に、私はここにひとつの才能を見出した。

江村氏は控えめで、不器用なタイプだったが、幸い、藤倉は外向的で商売上手でもあるようだ。最近、リリースされた録音の売れ行きも好調と聞いている。願わくは、その素晴らしいサイクルを育てて、日本の現代音楽界を支えるような存在として、長く活躍してほしいものである。

【プログラム】 2012年10月11日

1、藤倉大 Tocar y Luchar for orch.
2、藤倉大 バスーン協奏曲
 (fg:パスカル・ガロワ)
3、藤倉大 Mirrors for 12 vc.
4、藤倉大 アンペール for piano&orch.
 (pf、トイ・ピアノ:小川 典子)
5、藤倉大 ATOM for orch.

 東京都交響楽団(cond:下野 竜也)

 於:サントリーホール

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