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2012年11月15日 (木)

アリベルト・ライマン 歌劇『メデア』 日生劇場 開場50周年記念公演 (千穐楽) 11/11 ①

【メデア誕生の背景】

オペラはそのプロダクション、集められたチームのなかで最高のものを目指すが、その可能性が時間をかけて成長するということは、大抵の場合、期待できない。特に、劇場が専属の声楽アンサンブルを抱え、上演を重ねていくようなシステムが稀少になった現在では、どれほど上演の難しい演目であっても、平均して数週間の準備期間ぐらいで、コーラス以外は寄せ集めのメンバーが精一杯に上を目指すのが関の山である。その点、リートの歌い手は共演するアンサンブル・ピアニストと継続的なパートナーシップを結び、パフォーマンスの完成度を高めていくのに際限がない。

アリベルト・ライマンは、そうしたなかで経験を積んだホンモノを知るアンサンブル・ピアニストの最高峰にいた。高名なD.フィッシャー・ディースカウらのパートナーとして長く活躍し、そのアドヴァイスを受けて、作曲家としても出世作となる歌劇『リア王』を1978年に生み出すことができた。この作品は現在、多くの歌劇場でレパートリーに組み入れられ、現代の名品として高く評価されているし、オーディエンスからの一定の人気も獲得している。そのころのライマンの創作スタイルを十分に語れるほどの知見はないが、録音を聴いた限りの僅かな印象では、R.シュトラウスからベルクあたりまでの間に熟成されたシステムをもういちど煮詰め、歌手の声を完全に生かすための作曲法を探ることに主要な関心があったのではなかろうか。

世界中で読まれ、演じられているシェイクスピア悲劇のなかでも、とりわけ有名な『リア王』であるにもかかわらず、オペラを中心とする音楽での成功例がない。また、虚栄心から不実な娘の虚言を信じる権力者の物語が現代的なテーマを多分に含んでいることも、創作を決める条件には入っていたであろう。

それから30年、2009年に『メデア』を生み出したライマンの意図は、基本的に昔とあまり変わっていない。題材はいよいよギリシア悲劇に遡り、「魔法の時代は終わった」というところからスタートする。メデアの言葉は、現代音楽における創作の困難さと重なって、序盤からアイロニカルに響くものだ。それにトドメを刺すように、メデア以上に明晰な言葉で、乳母のゴラが自分の強みを封印する姫に向かって、過去も未来も捨てて、現在だけになさろうとするといって、その軽挙を嗜めようとする。メデアはそれに反論し、未来の始まりである現在において、過去を消滅させることがなぜいけないのかと問い質す。

【メデアの変身】

この序盤のやりとりに、作品すべてのアイロニーが詰まっていることは言うまでもない。先回りしてしまえば、この答えはメデアの破滅が決定的になり、ついに、復讐を決意する場面で激しく燃え上がることになる。借りてきた猫のように弱い女の役を必死に演じていたメデアは、ついに魔女の本性を示して、強い女として覚醒する。魔法の時代は、終わってなどいない。善良な人間にとって恥辱に満ちたこの時代だからこそ、魔法の、つまりは、音楽の力が圧倒的に重要だとライマンは主張したのだ。彼女の力を嘲笑ったイヤソンは、トロイ戦争に先立つ英雄たちの「饗宴」、アルゴナウタイの主役であった英雄の座から転落し、完全に・・・そ、完全に朽ち果ててしまったではないか!

ライマンはこの強烈な謎解きのために、作品の半ばで、観る側の期待を意図的に裏切ってもいるようだ。メデアは期待よりも弱々しく、蝶々さんのように同情される女性として描き、コステルニチカのように付き添う、あるいは、ブランゲーネのように忠実な乳母のゴラとセットで描くことにする。音楽的にもバリバリの新鮮さを装うことはせずに、私たちの「郷愁」を誘うような古さを意識的に多く使って、ときに退屈な造形も辞さなかった。前半のハイライトは、カウンター・テノールによる隣保同盟の使者、ヘロルドの告発である。イヤソンと子どもたちだけを庇い、メデアに追放を宣言する王に対しても、メデアはまだ「変身」を躊躇っているようにみえた。

前半の退屈は、むしろ意図された退屈だといえる。この退屈は、いくつかの芸術的な味わいによって、辛うじて保たれるような性質のものだ。それはゴラの堂々たる歌いくちや、起こったことの巧みな隠蔽に基づいている。後者の要素は、『パルジファル』におけるグリュネマンツの語りに発想が酷似しているように思えた。つまり、グリュネマンツはアムフォルタス王の失態について、最初の幕でゆっくりと少しずつ語っていくが、それと同じような効果を狙っているのだろう。ただし、最終的な告発は、例のへロルドの手に委ねられていた。ゆえに、このヘロルドの出番は作品のなかでも、特に印象的なものとなる。

また、もうひとつの鍵は、メデアとは対照的なクレオサの描き方である。終始、惨めな境遇のメデアに対し、一見、クレオサはメデアの境遇にも理解を示す賢女として描かれていた。しかし、ライマンはそうしたキャラクターにも、蝶々さんに対するケイト夫人のしたたかさというのをイメージしているようだ。同情から、イヤソンからの愛情と敬意を取り戻そうとするメデアに対し歌の稽古をつけるクレオサの善意も、その裏では、着々と子どもたちの籠絡に余念がないという悪意に基づいている。こうした一連の場面で、クレオサの表情は活き活きとしていたことを思い出そう。

オペラの前半では、こうしてゴラ、ヘロルド、それに、クレオサが、メデアを凌ぐ印象をつくっていった。私も、そのギミックに嵌まっていたが、後半は俄然、メデアが生き返るのである。ピンカートンやシャープレスの役目を担って、第3幕の最初でイヤソンとクレオンが恥知らずにもメデアを訪ねた。前の幕の最後で、これ以上の悲劇はないと思われたメデアに、つまり、いずれの子どももが母親に背を向けるという悲劇に対して、より大きな悲劇が訪れたことを私たちは知ることになる。可愛そうなバタフライならば、もはや、我が子を他人に託しての死しか道がなかったが、これはまさに現実の世界の出来事である。だが、この作品は魔法の世界からの反転によって、作品が内側から生まれ変わるようにできていた。メデアは、魔女として再生する。これこそが、先に示した悲劇を越える、この作品でもっとも悍ましい悲劇なのである。

メデアは、生き返る。その凛とした魔女の姿を目にし、イヤソンやクレオンの一家が落ちぶれていくのをみることは、ある意味、私たちにとって痛快な要素を含んでいる。しかし、その変わりようには、彼女にとって無条件の味方であるはずの、ゴラさえもついていけない。そこにあるのは、死ばかりだ。ライマンはそのような場所においてしか、もはや創作の可能性がないと主張したいのであろうか。そうではないのだ。彼はむしろ、そうした死を食い止めることに、音楽の意義があることを強調したかった。リゲティが歌劇『ル・グラン・マカーブル』をつくったのが、実に1978年のことだ。奇しくも、『リア王』が生み出されたのと同じ年に、オペラは最終的な死亡宣告を受けた。この2つの作品の関係は、本当に偶然なのであろうか。ライマンは2009年、リゲティとはついに反対の道を進み、オペラの生き返りを宣言したのである。

【腹の底から来るメッセージ】

ジャーナリスティックにみれば、ここに示したようなメデアの変容は、現代社会のあらゆる問題に通じており、より深い意義づけを与えるための要件には事欠かない。しかし、ライマンにとって、そのような筋はあくまで搦め手である。

このような作品を歌うのに、歌手たちがもっとも気をつけねばならないことは、何であろうか。正に、この問いのなかに、今回の上演の最大の特徴をみることができるだろう。結論を先にいえば、「腹の底」から歌うということである。彼らのパフォーマンスには、もはや、いかなる技巧的なごまかしも役には立たない。彼らがいかに巧みな技の持ち主であり、あるいは現代的な演唱の素晴らしさで鳴らしているとしても、ライマンの作品では、そうしたもののために、むしろ表現を壊してしまう可能性のほうがつよい。彼らは嘘偽りのない、自分のすべてを賭けて、その人物を演じ、歌いきることが求められている。すべてのオペラで、このことは同じなのかもしれないが、この作品では圧倒的に、その要素がつよい。いわば練り上げられた歌曲の表現で、オペラを演じないと形にならないのである。

そのことは、この日の公演でいえば、飯田みち代と大間知覚の比較で明らかになる。まず飯田について言えば、このようなアクのつよい役柄が、率直で自然な表現を好む彼女に相応しいとは思えない。そのようなことでいえば、明らかにミス・キャストであるが、では、この公演で彼女がすこしもメデアらしくないかといえば、無論、そんなことがあるはずはないのだ。ややロマン派的な表現が過ぎるとはいえ、彼女が歌ったメデアの表情のゆたかさ、特に、後半で魔女に戻っていくときの活き活きとした表情の出し方は、背筋に寒さを感じるものであった。良くも悪くも、彼女は全部を曝け出した。

これと比べ、疑問と決めつけによってメデアを追いつめていくクレオン役を演じねばならない大間知は、前半だけならブーイングものの悪いパフォーマンスしか見せなかった。それは正に、歌が表面的な表情しかもたないという、その決定的な弱点によってである。言葉を丁寧に歌い、清らかな高音を伸ばしていきたいという努力は感じられるものの、そうした丁寧さが「こころの声」を妨げているのだ。丁寧に歌うのが悪いわけはないが、この作品では、そうしたものさえも許されないほど厳しいところがある。彼は二期会所属のテノールでは、藤原的なハイテク歌手という印象もあるが、その彼をしても、この作品に溶け込むのは簡単ではないというわけだ。

僅かな例外を除き、歌手たちは腹の底から発した声でぶつかり合い、大抵、実力以上のものを出していた。例えば、いつも頑張っていらっしゃることとは思うが、宮本益光とか弥勒忠史があそこまで本気で歌う姿を初めてみた気がする。逆にいえば、普通のオペラにおけるような役づくりでは、この作品でまったく通用しないということなのだ。ライマンが求めるのは性格描写を緻密に重ね、コツコツと積み上げていくようなドラマでは決してない。幕が開いた瞬間、そこには紛れもないメデアがいるというような世界である。いきなり登場する隣保同盟の使者、ヘロルドでさえ、もう、いきなりそこに実存がなくてはならないのだ。多くの人たちは、このことを過小評価しているように思えてならない。つまり、あの裏から歌う「ア~、アア、アア~」のところでさえ、既にヘロルドはヘロルドたるすべてを備えている必要があるのだ。

このことは、反対からも考えられる。端的にいって、ライマンは音楽によって表現できる者以外、何者をも描いてはいないということだ。すべては、音楽のなかに生きている。ワーグナー以来のライトモティーフとはまたちがうものだが、メデアの世界、イアソンの世界、クレオンの世界、ゴラの世界・・・は、すべて異なる音楽によって描かれ、その重なり合いは巧みな音響構造の構築で明晰に提示される。そして、これらはその状況によって、各々が多様に変容し、例えば、最後のほうの場面でいえば、クレオサの死はその場面が描かれずとも、私たちのヴィジョンにハッキリと見えてくるような、そんな明らかなヴィジョンとして上がってくる。

演出上、このヴィジョンと可視化されたイメージが完璧に重なり合ったのは、終幕のメデアの姿(だけ)ではないかと思う。赤いアラブ風のドレスを脱ぎ、黒く神々しいいでたちに、赤子のミイラが抱きついているとも見えないことはない金羊毛皮をぶら下げた、あの姿と、ライマンのつくる音楽は正しく一致している。

【メデアそのものをみよ】

こうした事実をみるとき、なぜ、いまどきメデア(メディア)なのかという疑問を、私は予めもって観劇したことは愚かであったと認めるよりほかにない。ライマンがこの不思議な女の運命に関心をもったのには、様々な理由があると思うが、いちばん大事なことは、人間として、ライマンがメデアに共鳴していることなのだ。メデアの生き方が好きなのである。次に、なぜ、好きなのかを問うべきであろうか。それはあなたに、あなたの恋人のどこが好きですか、と問うようなものだ。つまり、ナンセンスであろう。とにかく、メデアのモティーフに作曲家のアタマに浮かんだイメージはすべて集められ、そこから、すべての音楽的要素、つまり、人物モティーフが緻密に構成されていくのが、このオペラである。正に、メデアは彼の音楽的体験のすべてであり、この歌劇の中心に位置しているのだ。

彼はなによりも、メデアそのものをみよと言っているのではないか。メデアから類推される様々な問題は、その影にすぎないのであって、我々はしばしば、それに怯えるとしても、決して本質的なものではないことも知っている。反対に、メデアそのものをみれば、つまり、音楽そのものに身を委ねれば、我々は万能となるであろう。社会について魔力を失うべきか、あるいは、魔力を優先して社会から弾き出されるべきなのか。ライマンはどちらかといえば、魔力の信者である。魔力による社会の再創造を試みているというべきだろうか。もちろん、彼にとっての魔力とは、音楽のことであるとして。

しかし、最後に問題になるのは、メデアが結局、打ちひしがれているという事実である。この道の険しさを、ライマンほど知り尽くしている音楽家も少ないのではなかろうか。ライマンがやっていることの本質は、当たり前に癒着する芸術と社会の関係を切り離すということに尽きる。この言葉が、読者にとって正しく理解されるとは思わない。私は一方で、例えば、デヴィッド・ビントレー振付のバレエ ”Still Life” にみられるような、芸術の社会的コミットメントを重要と認めるだろうし、文学、演劇、舞踊、その他の芸術分野のいかなる研究でも、その作品の裏にある社会的背景を読み込むことは当たり前になされていることも認知しているわけだ。だが、敢えて、この作品においては、そうした当たり前の方法を拒絶すべきだと思う。

繰り返すが、その道はきわめて厳しいものだ。だから、最後の場面のメデアに一種の潔さを感じることはあっても、幸福とか、解決といったキーワードとは無縁なのである。終幕で、イヤソンは死に場所さえ見つかれば・・・というが、彼にとっての死とは一体、何であるのか。それが芸術と社会の一致であるとすれば、メデアほど忌々しいものもない。彼女はいま、正にそれらを切り離そうとするところなのである。だが、ライマンにとっても、完全に自信があるというわけではないようだ。なぜなら、メデアは一旦、金羊毛皮を捧げてデルフィを信託を得ると言っているからである。

 (②につづく)

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