2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

« アリベルト・ライマン 歌劇『メデア』 日生劇場 開場50周年記念公演 (千穐楽) 11/11 ① | トップページ | ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管 with カヴァコス プロコフィエフ 交響曲第5番 ほか NHK音楽祭 11/15 »

2012年11月19日 (月)

アリベルト・ライマン 歌劇『メデア』 日生劇場 開場50周年記念公演 (千穐楽) 11/11 ②

【レヴェルの高い作品をコントロールできなかった演出家】

より高いものをめざした作品ほど、より高い実践が伴わねばならない。その点で、私はこのレヴェルでも、上演に満足というわけにはいかないのだ。声楽陣、管弦楽、演出の3要素のうち、特に前二者の健闘については巷間でもよく言われており、反対に演出についてはミニマムの条件のなかで頑張ったという評価と、それにしても無力だという評価で二分されている。

まず、演出については、私の評価はネガティヴだ。この会場でみた『マクロプロス家の秘事』のときと比べれば、舞台を限定してコンパクトにつくってきた点については、一定の評価を与えたい。舞台を前面に張り出させ、しかも、その舞台の前方だけをメインに使う発想は、先の記事で述べたような作品の解釈に見合っている。その分、ピットに楽器が入りきらないという問題が生じたが、舞台の左右端にひな壇をつくり、しばしば合唱が配置されるところにプレイヤーを置くことで、「コロス」のような存在感があり、素材のギリシア悲劇からの発想がみられることはわかりやすい。また、この発想は声の弱い日本の声楽家を、このようなデッドな空間で生かしやすいというメリットも生み出している。

ピットと言っても、この日の上演では、ほとんどオーケストラは剥き出しである。したがって、全体の印象はセミ・ステージ形式にちかい。そこで利益を得るのは、その響きの魅力を端的に示しやすいオーケストラである。音楽面の成果が強調されやすいのは、以上のようなステージングの都合と関係している点が多いように思われた。

ここで演出家の飯塚にとって重要になることは、正にそのスタンスを越えたなにがしかの印象を残すことになるはずだ。しかし、私のみるところ、演出がもとからある音楽やプロットの凄まじさを越えて、作品のもつ味わいをうまく引き出したり、強調したような部分はあまり見られなかった。強いていえば、メデアの感情や行動の性質を引き立てるダンサーを導入したことがあり、これはライマンの言う「波動」と対応しているようにもみえるが、このコンセプトを押し詰めていくためには、メデア以外のキャラクターにも「おつき」のダンサーが必要なのではなかろうか。実際、ダンサーたちが私たちに与えた印象は、メデアの力や行動のものものしさを強調するぐらいのものであった。

それぐらい、音楽とプロットの枠が構築的であるということが言えるわけだが、それをさらに高度にコントロールするようなテクニックは、まだ日本の演出家のなかには育っていないというべきだ。これは最近の舞台で素晴らしさを示したヴィリー・デッカーやクラウス・グートとの比較から、ハッキリということができる。もちろん、予算や条件などのちがいも考慮に入れるべきだろうが、それを計算に入れても、まだアイディアのなさが拭えないように思われるのだ。

【本当の輝きを得るために】

前回の記事でも、歌手のパフォーマンスについては非常に高く評価した。しかしながら、これにもまだ、私は完全な賛意を示すことには躊躇いを感じる。端的にいえば、歌手たちはまだ歌い演じることにこだわりすぎているということだ。題名役とクレオン役に、その傾向は顕著であろう。特に飯田は、この役を立派に演じて舞台を成功に導いた立役者であるが、その彼女がなぜ、私をこれほどまでに苛立たせるのか。彼女の発する「こころの声」が、私にはあまりにも切実すぎるように思えたのだ。前の記事で、ライマンの作品を歌い演じるときにもっとも大事なことは、腹の底から来る声を響かせることだと述べたのだが、同時に、それを客観的に見つめる、ちょうど歌曲の歌い手のような立場が際立っていなければ、作品は本当の意味での輝きを放つことはないのである。

例えば、シューベルトの歌曲『美しい水車小屋の娘』を歌うときに、歌い手がそこで歌われる恋する青年と同化してしまっては、理想的な表現は望めない。優れたリートの歌い手は最初は昔話の語り手のように始め、そこから、段々と、聴き手も気づかないうちに青年の内面へ忍び込んでいく。この客観性と、演技性のバランスが、作品表現のすべてを決めることになる。この面で、やはり、最高の見本となるのはフィッシャー・ディースカウのパフォーマンスであろう。

歌劇ともなると、このように巧妙なトリックで、時間をかけて役を煮詰めていくことはできないのかもしれないが、正に、このような作品においては、2つの要素が2匹の蛇のように活き活きとして、ひとりの人間を支配しているような、そんな印象が不可欠だと思われるのだ。体当たりというところまでは、非常にうまくいった。だが、次のレヴェルをめざすためには、この「体当たり」をいかに巧妙なコントロール下に置くかが重要なのである。私はそのイメージを、森川栄子が歌うライマンの歌曲において得た。過去の記事で、私は次のように書いている。

「多くは作曲家のもつ言語(発語)センスと結びついた複雑なフォルムのなかで、理知的に配置されている響き。その意味をはっきりと示しながら、かつ、直感的にも鋭く動く響きを身体全体で捉えるというパフォーマンスに、私は芯から揺さぶられる想いがしたものだ。」

また、次のようにも述べている。

「この作品でより明らかなのは、1つ1つの言葉に対する作曲家の単に批評的ではない、全人格的な衝突である。」

この理知的な部分に関する感覚が、この日の歌唱では、十分に感じられなかった。正確にいえば、そこを煮詰めようとする哲学が、上演全体にわたって欠如していた。なお、同じ公演で、アクセル・バウニが務めた伴奏についても、私は以下のように述べている。

「私が捉えたのは、歌い手の言葉に反応して、ピアノの響きが揺動し、そこからシャボン玉のように形が生まれるというような、流動的なスタイルであった。(中略)予定調和的にプログラミングされたような、ファンクションは感じさせず、ひたすらに直感的であることろが醍醐味である。」

ここで指摘するような流動性からみれば、高く評される下野竜也&読響のパフォーマンスが、あまりにも予定調和的なものであるという欠点から免れることはできないのは明らかだ。むしろ、そのような流動性を奪ったところに、下野はライマンのイメージを閉じ込めることにより、本来、歌手たちがもつパフォーマンスの可能性を限定したといえる。だが、もしも、下野がそういうことをしなかったら、歌手たちはもっと深いカオスに悩んだであろうから、指揮者の判断はきわめて現場主義的な成功であったとはいえるかもしれない。その代わり、私にはライマンの音楽的な特徴が、例えば、リヒャルト・シュトラウスの『サロメ』などの段階にまで引き下がっているような感じを受けた。

以上のような批判を踏まえても、作品に取り組む今回の音楽たちの哲学は統一されている。ライマンの歌劇を、作曲者本来のイメージであった室内楽的なコンパクトさに戻して表現すること。歌い手は感情を前面に出し、腹の底から来るメッセージを直截に歌うこと。このような部分の成功において、ライマンが日本における上演を高く評価したのはリップ・サーヴィスではないはずだ。私はこの高いレヴェルを、来季の『リア王』で飛躍的に高められることを期待している。

【まとめ】

それにしても、ギリシア神話というのは面白い。私が特に「面白い」と思うのは、ある一連のストーリーで英雄視された人物が、別のストーリーでは罰を受けたり、正反対の評価さをされることである。例えば、トロイ戦争では戦局を左右する英雄のひとりで、知的で容赦ないオデュッセウスは、味方であった大アイアースや征服されたトロイア人たちの怨念を引き受けるように、帰り道では酷い目に遭う。この作品のもととなるストーリーでも、金羊毛皮を求める旅では英雄であったイヤソンがその後は精彩を欠き、国を簒奪し、約束を違えて王座に居座ろうとしたペリアスの罪科は追求されずに、それを計略によって討ち果たしたメデアの行為は、あまりにも非道な罪として扱われる。

この作品のもつテーマのひとつは、ある価値体系において善、功とされたものが、別の価値体系においては悪、罪科として扱われるということの虚しさだ。もちろん、これは搦め手の搦め手であろうが、最終的に、メデアはデルフィへ出かけて金羊毛皮を捧げ、神託を得ると言っているほどで、作品全体を覆う問題のひとつであることには間違いない。メデアは、自分が正しいことをしたと信じているが、そのことを自分で判断することはできない。ライマンは、そのことを問題にしているのだ。メデアは本来、力があって自由な人物だ。でも、それを封印してでも、イヤソンに仕えることに意味があると思った。そして、同時にイヤソンが、同じように自分のためにすべてを捧げるべきだと思ったようである。そうして選んだ2人の道が受け容れられないなら、静かな海の果てで、ひっそりと住めばよいのではないか?

こういう発想において、私は、メデアのなかにカルメンの肖像を見つけるのだ。無論、その要求をジョゼがそのまま受け容れることはできなかった。イヤソンも同様である。あるいは、メデアはアンゲロプーロス監督の映画『シテール島への船出』で、ともにフロートに乗っかって流されていく老夫婦のようになりたかったのかもしれない。いずれにしても、メデアが求めたのは現実的な成功とは無縁な、純真な愛の結びつきだった。この避けようのない神の一撃のような根源的問いかけは、カルメンを死へと導くほかなかった。だが、ビゼーにおいては死刑宣告であったものが、ライマンでは復活への鍵になっている。愛する者のために現実を殺すという、この魔法の時代の産物に、彼はすべての希望をみた。遠ざかっていく絶望的なフロートの上に、幸福が詰まっている。それと同じように、悲劇の象徴である金羊毛皮はあくまでも美しかった! そして、あまりにもグロテスクであった!

« アリベルト・ライマン 歌劇『メデア』 日生劇場 開場50周年記念公演 (千穐楽) 11/11 ① | トップページ | ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管 with カヴァコス プロコフィエフ 交響曲第5番 ほか NHK音楽祭 11/15 »

舞台芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/56144023

この記事へのトラックバック一覧です: アリベルト・ライマン 歌劇『メデア』 日生劇場 開場50周年記念公演 (千穐楽) 11/11 ②:

« アリベルト・ライマン 歌劇『メデア』 日生劇場 開場50周年記念公演 (千穐楽) 11/11 ① | トップページ | ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管 with カヴァコス プロコフィエフ 交響曲第5番 ほか NHK音楽祭 11/15 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント