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2012年11月 4日 (日)

森鴎外翻訳 グルック 歌劇『オルフエウス』 鴎外生誕150周年記念事業(文京区) 10/28

【鴎外翻訳の特徴】

森鴎外訳(正確には『鷗外』だが、環境依存文字であるため左のように書く)によるグルックの歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』が舞台にかかると知って、私は目を細めた。単に「明治の文豪がオペラを訳していた!」というのではなく、訳語の母音数を原語の母音数とあわせるなど、音楽的な繊細な配慮があることが宣伝チラシに示してあったのがポイントである。序曲のあと第1幕が始まって、この文句が誇張でないことを知るのに時間はかからなかった。暗鬱なテーマに乗って、「この小暗き森に、エウリヂケ、汝が影墓の辺にゐば、聞けこの嘆を。涙を、涙を見よ。流す涙を。見よ、流す涙を。」と合唱が歌うところで、私は鴎外の想いのすべてを受け取ったように思う。

まるで初めから、この音楽に、この言葉が当て嵌められていたような、そんな響きの痛快さに私は胸が詰まった。この歓喜の瞬間は、エウリヂケの死という厳粛な瞬間を囲んで訪れる。鈴木優人の指揮による序曲の光り輝くような感じから、しばしの沈黙、客席を容赦なく照らす眩しいスポットライト(不快さを催すほどの)、その光の減少と、それを遮るようにして出現する葬列のなかに、この言葉が染みわたっていく。群衆のなかから、渾身の「エウリヂケ!」コールとともに、青木洋也演じるオルフエウスが存在感を示す。振り返ってみれば、言葉の面で、紛れもなく明解なこの両者の対話が終始、上演を支えることになったのは間違いない。鴎外の和訳は素晴らしいが、ドイツ語の上演に精通した歌い手によるアジャストがなければ、これほど見事に、訳が音楽の響きにぴったりと嵌ったかどうかは疑問であった。

ただし、青木と合唱に関しては(つまり、女性二役を除いては)、既知の原語に訳語を(仕方なく)巧みに合わせこむのではなく、2つの対比を踏まえた上で、再び鴎外のつけた訳の味わいに戻して歌うことができていたのである。例えば、「エウリディーチェ」はあくまで「エウリヂケ」であり、鴎外が聴いた生の言葉の響きが青木の発する言葉から聴こえてくるようであった。言葉に対する深い観察と自己省察は、自然、その奥底に潜む内面との対峙を意味することになる。例えば、「汝」は「ナ」「ナレ」「ナンジ」の3種類の読み方が出ていたが、それらは単に言葉の音律をあわせるためだけに工夫されたものではなく、それぞれの使用に厳格な意味合いが伴っているように見えたのだ。このなかで、鴎外がベースとしたのは「ナ」であるが、これは「ナレ」や「ナンジ」に対して、親密で気の置けないイメージを感じさせる。

この一文字の美学は、有名なアリア「エウリディーチェを失って」でも強烈な印象を残す。訳文は、こうなっている(最後の部分)。「世にあるぞ憂き。など、など生れし。あな、世にあるが、あな、あるが、あな、あるが憂」。最後の「憂」(ウ)が傑作である。もはや、そこで、オルフエウスは言葉を失っているような印象さえ受ける、この一文字の活き活きとした表情に注目せよ。付け加えるなら、これは直前の「あな」や「ある」の連呼とも関係しているのだ。ただ、フランス語歌唱と異なり、ドイツ語歌唱、つまり、鴎外のもとにした版では、アリアの重要性は次のレチタティーボに比べて明らかに劣っている。エウリディーチェを追って死のうとするオルフエウスの台詞を、鴎外は音楽的な響きに乗せて、この上もなく上品に彩っているが、それも短い間で、最後は「やよや。待てよ。待てよや」云々という非言語的な表現に陥っていく(無論、これ自体は意味の通っている表現であるが、鴎外は明らかに、この言葉の無秩序な雰囲気に主人公のこころを託しているわけだ)。

【腹の底から出てくる言葉】

青木洋也という歌手は、こうしたことをきっちりと理解して歌っている。正確には、もっとこころの深い部分で捉えているのだ。青木というと、宗教音楽やバロック・オペラでの傑出したフォルムの美しさが印象的だが、オペラのなかで、これほど煌めく表現を見せつけたのは、私としても初めての体験だ。そして、それを大事にせねばならぬがゆえの、日本語の徹底した磨き上げ。これには、私も参ったというほかない。

しかも、青木が示すのは、単に鴎外の訳文の気位の高さや、その美しさばかりではなかった。鴎外が作品をいかに愛し、オルフエウスというキャラクターに没入していたか、彼のパフォーマンスでは実に明らかであろう。漱石と比べれば、鴎外はクールな知的教養人として見られがちだが、中学生ではじめて『舞姫』を読んだときから、私もそうしたエリート的な物書きが自伝的要素を含めて書いたという作品から生じるイメージに混乱を生じていた。そのころから長く、私は鴎外の熱心な読み手ではなく、ひたすら漱石を追うヘボい書生であった。それがこの日、突如として閃いたのだ。鴎外の訳文の底に潜む、汲めども尽きせぬようなロマン性の深さについて!

もしも鴎外が情の伴わないクールな文筆家であれば、この作品をもっとスマートに描き上げることも可能だったであろう。だが、例えば、読みからの帰途でエウリヂケが夫の誠意を疑う場面など、そこからの逸脱も激しい。鴎外は完全に、オルフエウスの位置で考えている。「あな。帰り来ぬ。わが、わが死なせつるよ」。単に情感ゆたかというよりは、腹の底から出てくる言葉だ。

【文体の限界】

このような強靭なベースの上でおこなわれた公演は、既に成功への近道にレールが敷かれていたといえる。問題は、その幸便をどのように生かしきったかだ。優れていたのは、既に触れた青木洋也と合唱のパフォーマンスであるが、そのほか、鈴木優人の率いる長岡京室内アンサンブルの演奏もこちらに入る。スコアはペータース版を用い、ベルリオーズ校訂の要素も入っているということだが、そのあたりを正しく判別する能力はない。だが、フランス的な華美な響きの甘みと、ドイツ的な重たいレチタティーボの味わいとがハイブリッドになっていたことは感じ取れる。これらのうち、後者の要素はグルックの選んだテクストの古風なところに由来するのではないかと思うが、これと鴎外の訳文が絶妙にマッチしていたのは面白いことだ。

だが、鴎外はやがて、こうした翻訳からくる成果を半ば見切って、雅文体のほうに舵をとることは周知のとおりである。これはいま申し述べたように、古風な硬いテクストを扱う場合には、鴎外の文体は「言文一致」にも近づくであろう。しかし、この言葉で、例えば『魔笛』を訳したらどういうことになるのであろうか。そういうところに、彼は疑問を感じ取ることができるほど客観的な知性の持ち主であり、実に真剣に、この作品に取り組んだ結果として、自分の思い描いていたものの可能性を使いきってしまったのだ。オペラの訳からもわかるように、鴎外は言葉の美しさに繊細であったし、「日本語」の黎明期でもある当時であってみれば、一際、妥協はできなかった。彼の目指していたものは、単純な話し言葉と書き言葉の統一ではなく、それらのハイブリッドによる美しい文体の実現であったように思う。

このことを、鈴木優人の演奏姿勢と衝き合わせることは、もしかしたら、すこぶる興味ぶかいことかもしれない。フランスで特に発展したのは、舞踊の音楽であり、ドイツにおけるオペラの発展と対照的である。このグルックの作品もほとんど筋書きが片づいたあとの回想的なバレエ音楽のほか、要所に間奏曲的なバレエ音楽を挟んだ舞踊音楽の多いオペラである。これは、フランス・バロック・オペラの良き伝統を受け継ぐものであり、リュリやラモーの手法をほんのり匂わせるものといえる。鈴木はそうした作品のもつ機動性をしっかりと引き出し、マイナーの甘み(地獄)に引き込まれようとする音楽を地上に引き戻すのである。その結果、私のアタマのなかに、いまもハッキリと響いているのは、序曲のあとの最初の場面で、まるで『マタイ受難曲』でも聴くような印象で神々しく響く、葬送の場面を描く音楽なのである。

鈴木優人は偉大なる父親の下で、コンティヌオとして頑張っている印象が強いが、こうして本指揮を務めた場合にも、活き活きとしたパフォーマンスで既に一流の域にあることがわかる。父親、雅明氏のつくる清楚な音楽と比べれば、より華やかで新鮮な美観を放ち、欧州でいえば、ミンコフスキのようなアイディアの持ち主ではなかろうか。今後、指揮の分野でも、父親を凌ぐ活躍を期待したい。

【演出の功と罪】

演出は決して悪くはないが、多少、煮込みの少なさが目につく感じである。音楽が始まる前に小芝居が始まっており、時代背景は着物などからみて、鴎外の生きた明治初期になっている。しかし、オルフエウスが地獄に妻を迎えに出て、ほとんどのエピソードが向こうで起こる物語なのだから、この設定が大して意味を持つことはない。バレエは日本舞踊に置き換え、冒頭と最後にはアモオルよりも上位と思われる超越神が出現し、見事な舞踊を披露する(特に最終幕)。少ない動きで、より多彩な機動力を示すバレエを凌ぐ印象を残すあたりは、日本の伝統文化の「強さ」を物語るものであり、鴎外の素晴らしい文体とともに、日本語で訳した舞台を、日本人が、日本的に演じることの意味をしっかりと感じさせる。

ただし、これと似た動きを舞踊を専門としないキャストやコーラスに真似させて振り付けるアイディアは好ましくない。それをやるならば、最低でも1年くらい、しっかりとニチブの稽古をつけてから上演するぐらいの準備が必要だ。それを経ない付け焼刃の動きはいかにも幼稚なものにみえ、滑稽ですらある。そのため、丈が短くポップな着物も、その魅力を十分に訴えかけない。例えば、神田慶一の青いサカナ団が『あさくさ天使』の舞台で用い、デイヴィッド・ビントレーが新国立劇場の『パゴダの王子』で、似たようなものを用いたときの優れた印象とはかけ離れている。

ただし、主要な舞台を中央に設えた細い花道だけに限定したのは、今回の演出コンセプトと思われる日本的な印象を象徴するような気がして秀逸な発想であった。奇抜なのは、普通、下手に来る花道を抜けて主舞台となるはずの空間がなく、花道そのものが舞台となっていること。このアイディアは、同じ素材を扱ったモンテヴェルディなどと比べ、結局は似たようなものである地獄での試練を大きく省略し、地上と地獄の間での行ったり来たりするドラマを凝縮させたグルックの発想に見合っている。

一方、もっとも違和感があったのは、アモオルの扱いだ。今回の演出では、アモオルは少女のような存在として描かれ、基本的に無邪気なお助けマンのようなもので、神々しさはあまりない。だが、グルックのオペラにおいては明らかに、アモオルはユピテルの代理人を務めており、それ自体(および、その妻)が出現するモンテヴェルディの『オルフェーオ』とは一線を画すのである。彼女がうたう歌の内容をみても、アモオルは一貫して気高い存在であり、無邪気な天使のような存在とは異なるようだ。あのように可愛いべべを着せて、アニメ的な造形でこの作品のアモオルを描く意味はわからない。

ここのところ、クラウス・グートやウィリー・デッカーの優れた演出に出会っているだけに、カネの使い方がちがうかもしれないが、それを差し引いても、この演出の隙間の多さは気にかかる。歌そのものは拙かったが、新国のバレエ部門でやった公演も、これと比べればずっと作品の本質を描ききっていた。日本舞踊とのコラボレーションは興味ぶかいが、新国のバレエ団とちがい、ニチブを踊れるのはそちらの専門家だけだ。今回、非常に良いチームが組まれたと思うが、これが足し算ではなく、かけ算になったときに、演出は成功したといえる。残念ながら、かけ算になったのは、鴎外の訳文×青木洋也と合唱の歌×鈴木優人率いる管弦楽の部分のみであり、あとの要素は、単なる足し算でおわってしまった点は反省すべきだ。

【まとめ】

それはそれとして、この森鴎外によるエディションは、明らかに優れていた。

欧州では、歌劇場に近年まで字幕がなかったそうで、その点では日本のほうが対応が早かったぐらいである。なぜ、そうだったかといえば、外国語の作品は基本的に、自国語に直して演奏するのが普通のことだったせいだろう。その分、訳文に対する芸術性は必要最小限の要求でしかなかったはずだ。欧州諸国では周囲の国の言語の理解は、日本に比べて圧倒的に容易であるので、どうしても訳文に不満があるなら、すこし勉強して原語による上演を観ればよいだけのことだった。

それと比べれば、鴎外の翻訳には、単なる日本語による置き換えばかりではない要素がたくさんある。外国語と日本語のちがいを徹底的に見つめなおし、そこに発見できる障壁をなるべく少なくして、新しくなりつつある日本語の、もっとも美しい語彙でそれを表現することが鴎外の狙いである。それは日本語をより美しく、際立たせようとする運動のなかで、奇跡的に出現した煌びやかな文体であった。「言文一致」とは学校でも習うキーワードだが、その本質は、こころの表現にある。「言」とは話し言葉というよりは、それによってこころを表現することだ。平易でわかりやすい合理的な文体、例えば、「べらんめえ」調で作品を書いたのが漱石である。一方、鴎外は晩年の史伝『澁江抽齋』を、先人が外題の人物を評した漢文を引用することで始めていることからもわかるように、格調高い漢文のエッセンスが、洗練された哲学と結びつくこころの深奥を描くのに最適と考えていた。

当たり前のように常識的な言葉をもつ私たちにとって、鴎外のこの翻訳に接することは、遠く生き別れになった顔も知らない母親との再会、というような感慨を引き起こす。この母親は、例の「わが、わが死なせつるよ」といったような表現をみるにつけても、平安以前の古典に遡って日本人のこころに迫ろうとしたようだ。音楽でいえば、さしずめラヴェル的である。あるいは、グルック的といっても一向に差し支えない。無論、音楽史的なはなしではなく、その精神に宿るこころの話をしている。正にグルックと同じ感覚をもって訳された、歴史的な巨匠によるオペラの翻訳を我々が手にしていることは世界に誇るべきことである。

翻訳を依頼したのは、国民歌劇会を引率した本居長世で、鴎外が留学中、ライプツィヒで目にした公演の特別エディションを、それと知らずに底本としたため、歌劇会は巨匠に台本の書きなおしを依頼。鴎外もそれに応じたが、WWⅠが勃発する厳しい世界情勢のなか公演は立ち消えとなり、2005年に東京藝大が上演するまで、このエディションは文字どおりのお蔵入りになった。2009年には鴎外による自筆訳稿が見つかり、リバイヴァルへの道は深耕される。そして、2012年のこの日の公演で2回目。比較的、良い調子である。このまま上演を重ねて、この翻訳・・・というよりは、一篇の文化財を我がものとしていくことは、あらゆる意味で意義ぶかいこととなろう。

あまりにも満足な公演。この日の上演には外国人のオーディエンスも少なくなかったが、言葉を異にする彼らにとって、この上演はどのようにみえたのだろうか。きっと彼らも、敬意を払ってくれることだろうと信ずる。特に、ドイツ語の上演を知っている人たちにとっては、この翻訳の意味は手に取るように分かるはずだ。もういちど、言おう。あまりにも、あまりにも満足な公演!

【公演情報】 2012年10月28日 於:文京シビックホール

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