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2012年11月28日 (水)

西澤健一 作品展2012 春は馬車に乗って ほか with 杣友惠子、小澤洋介 11/27

【横光利一を素材とした作曲家】

世の中で適切に評価されるものなど、ほんの僅かだ。新聞や雑誌の記事に載ることなく、より自由で幅広い表現空間であるインターネット上でさえ、さほど話題にならなくとも、明らかに特別な域に踏み込んでいる芸術家が、私たちの周りにはいる。西澤健一という作曲家を、私はまったく知らなかった。そんな人の「個展」に足を運ぶなど、普通なら考えられない。しかし、ピアニストで作曲家のK氏が、ひょんなことから私に声をかけてくれて、たまたまその日が非番だったことから運命めいたものを感じ、私の好奇心に火がついたのである。

聞けば、その演奏会では横光利一の作品が取り上げられるという。横光利一だって! 純粋小説論を唱え、『旅愁』や『日輪』といった作品で知られる作曲家だが、人口に膾炙するような人気があるわけではなく、批評家からも一定の価値は認められながらも、それほど格別な評価は聞かれないような存在だ。作曲家がどのような機縁で、その作品と出会ったかは疑問である。例えば、こんなゴシップがある。ノーベル賞作家の川端康成には、多くのゴースト・ライターがいたらしいことが取り沙汰されるが、例えば、三島由紀夫もそのひとりであり、本来の書き手である自分が適切には評価されず、川端の声望ばかりが高まるのに嫌気がさし、道を踏み外したのだとわが大学の恩師のひとりは主張していた。同じように、横光利一も川端のための有力なゴースト・ライターだった可能性がある。その真偽はともかく、横光利一について、今日、その作品を知っている人たちがそれほど多いとは思えないのだ。

西澤が作品にしたのは、『春は馬車に乗って』という短編小説で、散文詩といってもよいような体裁の作品である。病床の妻と、看病の夫。2人の関係はこじれており、過去に何らかの間違いがあったようにも読める。夫は投げやりになった妻から些細なことで詰られ、夫も売り言葉に買い言葉となって、感情的にぶつかりあう。さりとて見捨てるわけにもいかず、夫はついに狂気のような妻の口撃に耐え、ともに死んでも構わないと決意するに至る。ある春の日、馬車に乗って美しい花が到着したその日に、妻は息を引き取る。その間に、あらゆる象徴がときにはグロテスクに、ときにはアイロニカルに、可笑しげに描かれる個性的な散文である。

私はこの作品を、狂気の妻によって過去の浮気についての罪科がチクチクと責め立てられ、それに耐える夫の屈折した情念を描くマゾヒスティックな島尾敏雄の『死の棘』。徐々に崩壊していく精神のなかで、妻に対して、それまで隠蔽されてきた夫の罪科が明らかにされていく繊細な詩集『智恵子抄』と同じようなストリームでみることを強いられた。つまり、私はこの散文の主たるテーマが、何らかの隠蔽された罪や罰に対して、夫婦として互いに耐えることの強かさ、であると信じたのである。しかし、西澤は同じ作品をみて、むしろ、そうした修羅場の状態にもかかわらず、最終的に愛を確かめあう夫婦のドラマとして作品を解釈したようだ。オトコとオンナ、決定的なちがいを抱えながら、ついに重なり合っていく物語・・・!

私が驚いたのは、妻に乞われて聖書のエホバの段を読むところが、音楽的に、あれほど分厚くとられていることである。私はこの聖書の件が作品として、西洋かぶれの名残りであって、リアリティに欠けるところだと思っていた。確かに、その聖書を読ませることで、妻が夫に一種の贖罪を求めていることは自明であるが、いささか手が込みすぎているのではないか。しかもその聖書は文語訳で、過度に印象を加えすぎているのである。だが、西澤の作品において、この聖書の文句による「祈り」の場面はきわめて重要な、ほとんど主題といってもよいほどの位置を占めている。

【相手を変えたいと思ったら自分が変われ】

最近、私はツイッターのなかで、ある箴言にこころを惹かれた。相手を変えたいと思ったら、まず自分が変わらなければならない。この作品のテーマも、実は、そこにあるような気がする。作品は「祈り」の場面から、急速に解決へと向かっていく。「神よ」とメゾ・ソプラノ(杣友惠子)が腹の底から声を上げ、オルペイウスが黄泉からの帰途、妻に詰られて、ついにその顔をみてしまうときのような苦しみの声を発したところから、作品は俄かにその仮面の下の表情を明らかにする。

「2人は/もうしおれた一対の茎のように/日々黙って並んでいた」という、第Ⅳ部「春」のところから、スウィトピーの件に入るまで、言葉はおもむろにきれぎれとなり、その間にピアノの激しい変容が挿入されて、私たちを驚かせる。この変容が、夫の変化に対応しているようなのだ。うまいことに、散文から歌詞へと作品を編みなおした岸田洋一氏はその変容を直接は描かずに、省いている。しかし、変容の結果として、見事に妻は変わるのである。美しい花が海岸線を通って馬車で運ばれてくるというモティーフをめぐって、最後のロマンティックな優しい対話と、死への温かい感覚が流れる。これが、夫婦の最終的な和解を物語っているようだ。

後半のメインであるチェロ・ソナタ第2番も、このような変容と無関係ではないように思える。私の勝手なイメージかもしれないが、幾分、オペラ的な前半の歌曲(作曲者は浄瑠璃だといっている)と同じように、このチェロ・ソナタにもドラマ性を感じ取ることができた。チェロの弾き手、恐らくは人生の半ばをとうに通り越したオトコは、この何十年間というもの、我を張りながら生きてきて、仕事も家庭もうまくいかなくなり、見事に落ちぶれた。その様子は、第1楽章の嵌まらないチェロとピアノのアンサンブルで象徴されている。

チェロとピアノの旋律は多分、15%くらい、タイミングがずれているようだ。そのため、互いに魅力的な響きを張りあっているのに、いつもすれちがってばかりいて、合いそうで合わないのである。時折、局所的にピッタリとあう和音が出るだけに、聴き手はいつも、なんでこんなことをしているのだろうと訝しむ。あるいは、「このチェロのオジサンって、うまくないのかも」とさえ思うかもしれない。第1楽章はずっと、そんな風景でおわる。聴き手はきっと、この15%を勝手に調節して、「適切な」響きを思い描いている。だが、その間も、楽曲は容赦なく進むのだから大変だ。

第2楽章も、半ばまでそれと変わらないが、中間でチェロの態度が一気に変わるところがある。彼はついに自分のプライドを捨てて、相手にあわせようと必死になるのだが、この必死さが、なんとも堪らないのだ。そして、ついに2つの楽器は、その楽章の終止でピッタリとあってしまうのである。今度は偶然ではなく、必然の結果として。この第2楽章の終止を聴いて、最後の楽章で、作曲家がどのようにこの和解を高めていくのか、固唾を呑んで見守ることになった。そこで西澤が描いたのは、相変わらず不器用なチェロの仕種である。だが、彼は既に、自らの道を確信した。そのことは決して、なくなるものではない。それそのものだったか自信が持てないが、第1楽章で接したようなモティーフが今度は2人の協力によって力強く語られ、また、チェロの最高の見せ場は、この楽章の前半で、ピアノにより提示されていたモティーフをチェロがそのまま(だと思う)演奏する場面である。かといって、いまも述べたように、チェロはあまりにも見事に、これらのエピソードをこなしてはならないのだ。

不器用なまでに実直、そういう演奏姿勢が求められるのである。

これら2つの作品のテーマは、単に変わることではなく、その変わるときの精神的葛藤の凄まじさだ。人はどんな些細なことさえ、自らの習慣を変えることには戸惑いを覚えるものである。そうすることが、どれほど得かということがわかっていても、そう簡単にはできるものではない。それゆえに崩れていく人間関係というのは、この世の中にごまんとあるものだ。私だって過去に、あるいは現在においても、そのような間違いをまったく犯していないというほど傲慢ではない。あなただって、そうではなかろうか。

西澤は正に、人々が決定的にちがっており、しかも、そのちがいに気づきながら、些細なことが直せないという、その苦しみを語っているように思われる。聞けば、彼自身、音楽的な姿勢において大転換を果たしたということだ。そのことと、こうしたテーマがどれぐらい関係しているのか、私にはよくわからない。また、彼自身がプログラム・ノートとして書いているものと、私の受け取り方はまったく異なっているので、私は彼のことを、まったく理解していない可能性だってある。だけれども、そのような差異を西澤は当たり前のこととして受け容れる大きさをもっているようなのだ。

【クラシック音楽におけるロック精神】

既に書いたように、私は西澤健一について、まったく知らなかった。それゆえ、ロック・シンガーのような革ジャンを着て登場し、ピアノの前に座った彼をみて、なにかの冗談かと思ったほどだ。西澤はあくまで、クラシックという分野に身を置きながらも、ロックの考え方で音楽を構築していく発想力の持ち主である。しかし、ロック・ミュージックは既存の価値観を打ち壊し、新しくしていく傾向をもつものだが、クラシックにおけるロック精神は、むしろ、作品を遡っていくことから始まるように思われた。『ピアノのためのパッサカリア』。あまりにも重々しく、垂れ下がるような深いテーマをもった、この異質な舞曲が、西澤の拠って立つ現在の音楽的立場を象徴しているようである。その響きはしかし、一言でいって恰好よく、名刺代わりの作品としては申し分ない魅力を放つ。

私は彼の音楽が、近代フランス音楽のようなものを一応の手本としながら、最高でシューマンぐらいまで遡っていくのを聴いた気がする。あるいは、もっと古い要素も。だが、仔細に検討していけば、この響きは誰の真似でもあり得ない、彼独特のものであることがわかる。

それは近作の『ピアノのための主題と変奏』で、より徹底されているようにも見受けられた。この作品は私にとって、もっとも理解が難しいものであったが、肝心の「主題」が複雑なものであって、多分、複合的なものであることから、その印象が来るのではないかと思う。印象的なのは、この作品でたしか、古めかしいフガートが炸裂する部分であり、しかも、それはバッハ的というよりは、ベートーベン的な鮮烈さとともにあったと記憶する。

【まとめ】

最後は、アンコールで岡本かの子の詩に基づく歌曲『山茶花』が演奏された。これはすべての作品のなかで、もっともシンプルに、伝統的な日本歌曲のストリームに寄り添ったものであり、私の知っているところでは、特に信時潔のようなイメージを感じさせた。歌詞がユーモア・センスのつよいものであるが、それを露骨に曝け出すことなく、風雅に歌っているのがポイントであろう。

作品の素晴らしさもさることながら、今回は、杣友惠子(メゾ・ソプラノ)、小澤洋介(チェロ)、そして、西澤健一(ピアノ)という演奏陣が素晴らしかった。特に、メゾの杣友は、あらゆる声のテクニックが求められる難曲でタフなパフォーマンスを見せて、聴き手を圧倒してしまったのである。チェコ音楽祭のときに、メンサー華子という歌手を知り、日本の声楽家の層の厚さに驚いたものだが、今回もそれにちかい衝撃をもたらした。もしも日本にも、ドイツのような地方の中小歌劇場があったら、彼らの正しい努力が報われることだろうが、実際には、新国さえしっかりしていないというのが現状である。

それにしても、西澤健一氏をこういうことで知ることができたのは、とても幸運なことだ。K氏には、こころからの謝意を表しておきたい。こうした個展は、1-2年に1回ほど開かれているそうなので、次回にも期待したいと思う。また、楽しみが増えた!

なお会場は、最初の入会費さえ払えば、ホール使用料は無料(収益を折半)、チラシ作成なども安価でやってくれるというデザインKホールの六本木会場。天上が低く、銀座の十字屋ホールなどと構造がよく似ているが、響きは意外によく、生演奏というよりは高級ステレオで聴いているような感覚になる。オフィス・ビルを改装(それが本業であろう)したようなスペースにしては、驚きの響きが楽しめた。ここをつくった人は、相当の音響マニアかもしれない。

【プログラム】 2012年11月27日

西澤健一 作品展
1、ピアノのためのパッサカリア
 (pf:西澤 健一)
2、春は馬車に乗って
 (Ms:杣友 惠子 pf:西澤 健一)
3、ピアノのための主題と変奏
 (pf:西澤 健一)
4、チェロ・ソナタ第2番
 (vc:小澤 洋介 pf:西澤 健一)

 於:デザインKホール六本木

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コメント

そのK氏の「2時間弱の演奏会でここまでいろいろ伝わってしまうのか!とびっくりしているところです。」を、私も自分のこととして体験いたしました。お忙しいところご来場くださったのみならず、このように記事まで書いていただいて、恐縮しております。(あと、先日の私が残した走り書きにご丁寧に返事くださったことに今日気付きました。すみません…。)

なにしろ本人ゆえ、この記事を「適切、かつ正しい」と申し上げられる立場にありませんが(これは間違っているという意味ではなく、過ぎたるお褒めの言葉のように感じられる、という意味で)もしかしたらアリスさんは僕よりも僕の内面を覗いたのかもしれませんし、もしくは、音楽は作曲家よりも演奏家のなかで、演奏家よりも聴衆のなかで完成されることを物語っているかもしれません。

その、「聴衆のなかで音楽が完成され」ることに、私は深い喜びを覚えます。

重ねて謝意を申し上げます。また精進を重ね、新作を発表する折や個展を開催する際にはご案内を差し上げますので、どうぞよろしくお付き合いください。

思いがけず、素晴らしい一時を過ごさせていただきましたことに感謝します。

私にとって思い入れのあるバリトン歌手の小森輝彦氏が、今夏、ドイツのゲラ市の劇場を離れて日本に帰国されました。その最終公演の舞台挨拶で、小森氏は自分の芸術家としての信条について語られ、我々の努力は聴衆の皆さんに届かなかったら何の意味もない、と仰っています。だから、自分は客席に自分の視点を置くように努め、その称賛や批判からいろいろなものを学び、育ててもらった。だから、自分は皆さんのために歌う、と。

西澤さんの音楽からは、それに似たこころを感じるのです。しかし、貴兄のお言葉からは、私自身、多少の反省も感じています。私の文章が、あまりにも精神分析医のようになっていたのではないか。音楽そのものに、どれだけ寄り添えていたのかと。その点で、いささか踏み入りすぎた失礼な発言があったかもしれないことは、この場を借りてお詫びいたします。

それにもかかわらず、聴衆のなかで音楽が完成する、という美しい表現を以てご寛恕くださったのは望外の幸せとお伝えしておきます。

そのような言葉は必要ないかもしれませんが、ご自分の歩まれる道を信じ、表面的な技法に捉われない新しさ、「西澤健一」にしかできない音楽の道を、このまま追求していかれることを願って止みません。ほぼ同世代の人間として、最大の敬意とともに、その歩みを応援いたします。

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