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2012年11月25日 (日)

ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管 with カヴァコス プロコフィエフ 交響曲第5番 ほか NHK音楽祭 11/15

【戦争と平和】

優れた芸術家ほど、その本質を理解することは難しいものだが、そこに政治的な色合いが重なってきたときには尚更のことである。ロシア音楽において、この方面の代表者はなんといってもショスタコーヴィチであろうが、プロコフィエフも同様に、読み取りにくい人生を送っている。皮肉と波乱に満ちた生涯を送ったプロコフィエフは、ピアノ協奏曲第1番の酷評に始まり、バレエ・リュスではストラヴィンスキーのような蜜月関係には至らず、日本を経由して、命した米国ではある程度の成功を掴むが、ピアニストとしてむしろ有名になった。

あれほど嫌っていたロシアにはスターリンが健在だったが、帰国したプロコフィエフは活き活きとしている。政治家やそれにへつらう似非芸術家からの批判に耐えながらも、その他の国に比べれば、そんなロシアでさえも、ずっとマシだったのだろうか。彼の作品リストのなかでは、もっともロシア的な音楽である、バレエ音楽『石の花』をはじめ、代表的な作品となる歌劇『戦争と平和』、そして、最後の交響曲第7番など、輝かしき精華を花開かせると、彼を苦しめたスターリンと同じ命日に亡くなる皮肉を付け加えて人生を終えた。

この作曲家の作品を一言で評せば、掴みどころがない。彼の創作は、歌劇やバレエの分野から、7つの交響曲、ピアノ、ヴァイオリン、チェロにまたがる協奏曲、室内楽、鍵盤作品、合唱作品、さらに、映画や劇のための音楽を含め、多岐にわたり、それらのほとんどで独創的な高いレヴェルの作品を発表している。例えば、『戦争と平和』はロシアの歌劇の分野において、『ボリス・ゴドゥノフ』『スペードの女王』と並ぶ傑作だ。バレエ音楽の分野でも、『ロメオとジュリエット』や『シンデレラ』が強力な勢力を築いている。これらの音楽を一刺しにするような、気の利いた哲学など存在しないが、強いて言うなら、正に「戦争と平和」という傑作の、その題名が象徴的である。そして、バレエ音楽が、彼にとってきわめて重要なステージであったことも忘れてはならない。

ゲルギエフ率いるマリインスキー劇場管の演奏を聴いていると、そういう感じがしたものだ。

【劇場人、ゲルギエフ】

プロコフィエフの交響曲第5番。1944年、戦時に生きる作曲家の使命を強く意識してつくられたという交響曲のなかの最高傑作である。起伏に満ち、ときに轟音による衝撃的な深い抉りも交えて、戦争とそれと闘う人々の力強さがアイロニカルに描かれている。その派手な部分をデフォルメしていけば怪獣映画のための音楽のような大袈裟な悲哀が浮かび上がり、それを実際にやってしまった日本の作曲家もいる。ゴジラの人だ。それはともかく、私はそのような伝統的な解釈を突き詰めたアンドレイ・ボレイコとN響の演奏を、正にこの会場で聴いたことがある。オーディエンスは少ないが、前半では尊敬する横川晴児がモーツァルトの独奏をやったり、思い出ぶかいコンサートだった。あのときに感じた深い戦慄、プロコフィエフと時代の組み合い方の驚くべき真摯なところに、私はそれまで感じていたプロコフィエフへの愛情をさらに強めることになった。個人的なことで恐縮だが、これはのちに、プロコフィエフのバレエ音楽に対する私の理解を深めることにつながっていくのである。

一方、ゲルギエフの演奏は、軽快さのなかに要約される音楽であった。ボレイコもロシア人だが、その活躍は独墺圏が中心で、構築的な音楽を得意とする。一方、いかに世界的な活躍を繰り広げようとも、母国への貢献を怠ったスヴェトラーノフを批判し、ロシアの片田舎に出張していく多忙人のゲルギエフは、本質的に劇場型の指揮者である。彼の音楽には常に歌劇、そして、バレエの要素が混在している。特にバレエ音楽の素晴らしさは、プロコフィエフ『ロメオとジュリエット』(Philips)の録音でもよくわかるところだ。また、歌劇では2003年の来日公演で絶賛され、テレビ放送(私が観たのはこちらのほう)もなされた『戦争と平和』の衝撃で決定的である。個人的には、2006年の来日で、『ワルキューレ』第1幕を演奏会形式で上演した公演の素晴らしさも記憶に残っており、その後におこなわれ、不評だった『リング』公演の定評とは見解を異にしている。

その彼によるプロコフィエフの交響曲第5番は、交響曲第1番やバレエ音楽のストリームから連想される音楽である。その響きは基本的に、明るさを柱として構築されている。第1楽章のみは、私のイメージともちかい重さを包み込んだな演奏である。巨大な咆哮はみられないが、全体的な響きの緊張は十分で、要所要所をきつく締めた演奏で、特に弦の入ったときの美しい響きの透明さにこころ奪われた。

しかし、第2楽章以降は、これまでのイメージだけでは、どうにも理解できない音楽づくりになっていく。特徴的なのは、その旺盛なモビリティ(運動性)であって、序盤は、それが第1楽章の重みとセットになり、ちょうどバレエ音楽『シンデレラ』のクライマックスのひとつで、時計の針が12時を打つときの音楽 ’Mid night’ で、題名役が逃げるように走り去っていく音楽と通じるものを感じさせた。

この場面は、作品が単なるメルヒェン・バレエとしておとぎばなしを追うのではなく、もはや、その範疇には収まらない現実的な悲劇、つまり、逃げ場のない戦争の記憶から離れがたいものであることを教える。ここでシンデレラは、魔法が解けそうだから逃げるというだけではなく、空襲で街の隅々までが赤く焼け、警鐘が悲しくなるなかで逃げ惑うのだということを、プロコフィエフの音楽は明解に描き出しているのだ。ウッド・ブロックによって時計の針がチクチク打つ音が場面に似つかわしくないほど重く響き、その後、打楽器と金管を中心とする崩壊音と悲劇的な教会の鐘の音が、爆撃される街の轟音のように響くのを私たちは聴くはずだ。この音楽は来月、新国立劇場恒例の12月のバレエ公演で、ミシェル・プラッソンの子息、エマニュエル氏の再登場による指揮、英国ロイヤル・バレエの装置を使った豪華な舞台で、魅力的に体験することができる。

スケルッツォに当たる第2楽章は非常に古い形式を追うような演奏スタイルで、作曲家が交響曲第1番の世界から、思ったほど前進していないことを窺わせる、そういうと消極的な言い方に聞こえるが、それほどプロコフィエフは最初の段階で、完全で独創的な交響曲の形式を仕上げてしまったということなのだ。ゲルギエフは、この交響曲第1番に並々ならぬ愛情を注いでおり、あらゆる重要な機会に演奏しているほどである。この5番も、その傑作にプロコフィエフ一流の装飾を施したものにすぎないのであって、また、それは交響曲とバレエ音楽のような舞台作品の統合という素晴らしいキーワードを生み出すのである。

【プロコフィエフへの新たなイメージ】

アダージョでさえ、このような流れを捨てない彼の姿勢には、賛否両論があることはわかりきっていた。特に、ロシア音楽独特の濃厚さに共感するようなタイプの聴き手には、ちょっと許せないものであろうと思う。たとえ怪獣映画の音楽のようであっても、彼らはその響きのエクスタシーに力づよい共感を示す。私も実は、そのような三流の聴き手のひとりでありながら、このゲルギエフの音楽から、プロコフィエフという作曲家へのイメージを新しく切り開いてみることにも関心があった。

私のことを彼の音楽に対する反発から繋ぎ止めてくれたものは、自分のイメージとは到底、ちがうものとはいえ、ゲルギエフとオーケストラが示す抜群の緊張感だ。交響曲第1番やバレエ音楽に通底する事情は、なんといっても、一瞬たりとも緊張が抜けない、そういう質の真剣さが求められることである。ゲルギエフがどのような音楽をつくろうと、そのことだけは変わらなかった。そして、そのモビリティの高さは、今回、劇場管がコンサート・ツアーのあとは、ガッツリとバレエ公演の日程を準備していたことと関係があるのかもしれない。いまにも踊り出したくなるような音楽の活力と軽快な運びというのが、今回は特徴的だった。ただし、先日のチャイコフスキー・オーケストラと比べると、やはり、いちど壊れてしまったアンサンブルの修復中という印象はつよく、それがどうしても足を引っ張る要因になるのは仕方がない。

しかし、このアダージョの清々しい流れは、プロコフィエフのあらゆる側面を語るもので、非常に真摯なものであったのは疑いない。最強奏でも響きが濁らず(アンコールのワーグナーとはちがい、積み重ねた練習の差だ)、揺るぎのない響きの構成と、その知的な抑制が音楽を単なる刺激物として扱うことを拒否するように聴こえたものである。迫力という点でいえば、ボレイコのときに遠く及ばないが、2人のめざす音楽、その理想像はまるでちがったものである。ボレイコはプロコフィエフのメッセージを剥き出しにして、聴き手に、彼の感じた恐怖やそれに対抗する諸々の勇気や処世術を、直接的に訴えかけた。だが、ゲルギエフはそうしたやり方が忍耐づよいロシア人の気質に相応しいものではなく、底冷えのする北国で人々が明るさを追い求め、例えば、ヨハン・シュトラウスに夢中になったのとは相容れないと考えた。そして、彼はいかに重いテーマがあっても、それは最初と最後の楽章の、ほんの僅かな部分に炸裂させ、あとの部分ではなるべく隠すようにした。

終楽章も、途中までは、このままではどうなってしまうのだろうという不安感しかなかった。名技性が美しく輝くのはよいが、プロコフィエフの思い描いた暗いテーマなど、どこかに吹き込んでしまったように思いながら、ロンドー・ソナタ形式もコーダに近づいていく。そのときだ。ゲルギエフは、ついに隠していたものを完全に剥き出しにして、おもむろに、作品の本質を響きの表面に押し出してきた。その激しいマーチの響きは、先の ’Midnight’ の明らかなつづきである。そして、それまでに示してきた名技性がこれと結託して、聴き手をハイブリッドに威圧するのを聴くと、私はもう締めつけられるように苦しかった。この音楽はみるに堪えない悲劇の最中で、同時に発せられた人々の歓喜の叫びである。

思えば、ここだけではなかった。本来、この部分ではもっと厚みのある悲劇が歌われるはずだという部分で、ゲルギエフは音楽をいつも明転してつくった。そのこだわりは、彼らの好むほの暗しい旋律の印象にも関わらず、私たちが思う以上に、ロシアの人々が明るさを好むということを印象づけたが、それと同時に、プロコフィエフという作曲家が自分がもっとも苦しいとき、あるいは、誰もが耐えられないような深い悲しさのなかで、どれだけ明るい発想ができるかを物語っている。このような資質は、古今東西のあらゆる作曲家を思い浮かべてみても、ほとんど他に例がないといっても過言ではないほどだ。

【生と死のドラマ】

今回の演奏会は特にそう記してあるわけではないが、「生と死」がテーマである。それはもちろん、社会的な関心が高いゲルギエフのこと、昨年の我々を襲った震災と津波に関係しているのは言うまでもない。だが、日本人の逞しさを信じる彼であってみれば、もはや追悼の段階ではなく、次のステージに入っていくべき時期にあることを見通している。彼はそれだけに、単なる哀しみの情念だけではなく、それを乗り越えるあらゆる精神的な強さを提示してみるのだ。最初のメシアンでは、紛れもなくそれは信仰に支えられる。第2のシベリウスでは、直接的なテーマにはなり得ないが、響きからはなぜか、老年の寂しさ、死そのものからくる「強さ」がイメージされた。これについては後述する。最後のプロコフィエフでは、正に苦しみや悲しみを乗り越えるという、その点にすべての集中力が傾けられていた。

さて、この日の演奏で、中心的に述べるべきなのはレオニダス・カヴァコスの独奏による、シベリウスのヴァイオリン協奏曲の演奏についてのことである。カヴァコスは私が知る範囲において、現代最高のヴァイオリニストと讃えるほどの人物であるが、それは録音における印象でしかなかった。しかし、この日、こうして聴いてみて、私のイメージがまったく錯覚ではなかったことを確信するに至る。これまでにも、ジル・アパップ、アナ・チュマチェンコ、フェリックス・アーヨ、スヴェトリン・ルセヴ、それに、フランク・ペーター・ツィンマーマンの演奏を聴いて、私はこの楽器の素晴らしい特徴に感銘を受けたが、それらのなかでも、カヴァコスの演奏はまた格別であった。

細々とした点をみれば、彼にしては珍しく、外した音も多い演奏であった。しかし、そのような状況にあっても、彼の表現はすこしも揺らぎない・・・どころか、まったく信じられないような奇跡的なパフォーマンスを見せてくれたのだ。彼がやっていることは、正に室内楽の延長線にある協奏曲の演奏であった。

ゲルギエフは、カヴァコスとの共演は初めてではなく、ともに録音も残しているが、そんな彼のことをすこしも理解していなかったようだ。彼はどんな派手好みのアーティストが来てもこわくないような、頑丈な器を用意して待っていたが、実際、カヴァコスにとってはそんなものは不要だった。彼はピアノか、あるいは、どんなに大きくとも弦楽四重奏を相手にするぐらいのやり方で演奏するだけだったが、オーケストラにとってはあまりにも意外な演奏であったとみえて、彼らは結局、その頑丈な器を必死に守るぐらいのことしかできなかった。それはあたかも、友好的に花の蜜を採りにきた蝶々に対して、頑なに花弁を閉じる植物のようにみえたものだ。

果たして、この演奏が一期一会の名演だったのか、あるいは、カヴァコスという奇才による珍演だったのかは俄かに判別しにくい。だが、私はカヴァコスの発するイメージの驚くべき多彩さに押され、その卓抜した表現力に呑み込まれるよりほかになかった。カヴァコスは開かぬ花弁にもめげず、隙さえあれば弦のトゥッティに加わり、可能なら、ボウイングさえあわせて、マリインスキー劇場管の響きを我がものにしようと奮闘した。そして、ついに花弁は開いていったのであるが、面白いことに、その花が開いてみると、私たちには驚くべき苦みの塊しか見つからないのである。この時点でまだシベリウスの死には遠く、晩年でさえないが、作品が放つ雰囲気は正に老いと死に立脚していた。

しかし、いよいよ花弁を開いた相手に対して、カヴァコスの演奏はいっそうキレを増した。嗚呼、あのハーモニクスの透明さひとつをとってみても、私には夢のように思えたものである。音階を駆け上がるパッセージもまた凛として、悠々としている。動きの多い演奏でありながら、そのアクションによって楽曲の構造そのものを損なうことはほとんどない。そして、既に述べたようなコミュニケーション能力の圧倒的な分厚さである。カヴァコス以外の誰に、あんな演奏ができるだろうか。私は彼のために、3つのオーケストラと3つの協奏曲を用意して、演奏させても面白いと思った。それほど、彼の演奏はマリインスキー劇場管の響きに立脚していたのであって、逆にいえば、オーケストラとヴァイオリンの間の、かかる濃密な関係こそがシベリウスの協奏曲の本質を成しているという主張から、彼の音楽を読み解くこともできる。

ただ、こうした演奏スタンスを通して「死から生への飛翔」というテーマを思い描くのは、作曲当時の時代柄も含めて簡単なことだが、もうひとつ、これにつけ加わる「老い」のイメージがどのようにして導かれたのか、私は十分、説明的になることができないし、第一、理解もできていない。それにもかかわらず、この老いの要素こそ、今回の演奏における鍵となっていることは議論の余地もないほどだ。カヴァコスが残したこの疑問を追って、私はしばらくシベリウスについての「研究」をつづける必要がありそうだ。

【まとめ】

演奏会の最後には、ワーグナーの歌劇『ローエングリン』第1幕への前奏曲が演奏された。露骨に訓練不足の演奏で、強奏における響きの割れなどが激しいが、最初や最後の和音は透徹として素晴らしかった。第1幕のへの前奏曲は、実は、第3幕のいわゆる「婚礼の合唱」と関係が深いとみており、ゲルギエフの演奏は、そのイメージを私に確信させるようなものだった。してみれば、彼の思い描いた最後のテーマは結婚であったのだろうか。だとすれば、それは親日家と言われる彼と、この日本との友情を物語る選曲であった可能性を指摘できる。

幾重にも積み重なるメッセージ。グレート・コミュニケーターとしてゲルギエフ。しかし、その上をいったのがカヴァコスであった。マリインスキー劇場管には相変わらず、十分な尊敬を持ち得ない印象だが、彼のおかげで満足なコンサートになったのだ。

【プログラム】 2012年11月15日

1、メシアン キリストの昇天
2、シベリウス ヴァイオリン協奏曲(最終版)
 (vn:レオニダス・カヴァコス)
3、プロコフィエフ 交響曲第5番

 於:NHKホール

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