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2012年12月15日 (土)

エリシュカ ベートーベン 交響曲第9番 札響 特別演奏会 12/8、9

【エリシュカの演奏は新しいのか?】

もっとも深く伝統に根差したものだけが、もっとも新しい形式を生み出すことができる。クラシック音楽の分野においては、そういうことを感じることが多いが、エリシュカ&札響によるこの日の第九の演奏も、正に、その観点から興味ぶかいものであった。正確には、「その観点からも」というべきであろうか。私はいま、任意のいくつかの焦点からどこを選んでも、立派にレヴューを書き出すことができそうな気持ちでいる。最終的に全部を書いてしまうのだとしても、一体、どこから書き出すかによって、少しずつ結果がちがうように思われる。そして、いまは、先のように書き始めたところだ。

エリシュカの演奏は新しいものであったのか、それとも古いものであったのか。私には、徹底的に新しいものに思えた。実際、合唱の文句を巻き舌にしないこと、第4楽章の最初のクライマックス ’...vor Gott’ の部分で、ティンパニだけをデクレッシェンドして、合唱をつよく保つことなど、比較的、新しいトレンドに属するイディオムも取り入れられた演奏であったのは確かである。これらはいずれも合唱に関するもので、コーラス・マスターの長内勲の研究に譲歩したものかもしれない。しかし、それにも限らず、アーティキュレーションやバランスの徹底した新鮮さなどは明らかにエリシュカ独自のものであり、特に、全体的に交響楽というよりは室内楽としてのパフォーマンスを貫く姿勢は、この作品の演奏としては、すこぶる画期的なものにはちがいない。

【ベートーベンと対位法的魔術】

どのように語るにしても、エリシュカの思い描くベートーベンに対するイメージを固めておく必要がある。彼にとって、ベートーベンとは「魔法使い」である。ポール・デュカスに『魔法使いの弟子』という作品があるが、これが大きなヒントになるかもしれない。この作品は狂言のような筋書きをもち、未熟な魔法使いの弟子が師匠の留守中、命じられた水汲みの仕事を魔法によって片付けようとして、取り返しがつかなくなるユーモアを言葉なしで伝えている。さて、その作品は華麗な管弦楽法を除いてみると、実はシンプルな対位法の旋律をもとにしたアイロニカルな変容によっている。そして、最終的に出現して事態を収める師匠の音楽はずっと静謐で、しかも、それだけで驚きに満ちているのだ。

この作品は対位法への尊敬が少なくなった時代に、その形式の復元を試みたフランクや、その遠くてちかい先祖であるベートーベンらに代表される、その道の先達に逆らって、安易な形式の拡大に迷う自分たち、若い作曲家に対する自虐的なアイロニーを伴った風刺作品なのである。

エリシュカの第九の特徴のひとつは、バロック的な要素を実に自然な形で作品のなかに息づかせて、古典的な表現から、エレガントな新しさを生み出していることである。この作品におけるバロック的な要素とは、象徴的には第4楽章がわかりやすいが、例えば、金管楽器と低音弦のベースによる男声合唱のコラールなどは、きわめてバロック的なものであろう。また、第1楽章のクライマックスのひとつで、ティンパニのトレモロが激しく轟音を打つなか、主要主題が稲妻のように閃く部分は、今回、モンテヴェルディの描く戦闘の場面(タンクレディとクロリンダの戦い)を想像させた。この作品で、ひとつの音符が十六分音符に分割されて多用され、それが怒りを表すのに表現されたのは音楽史的にも、当時、きわめて重要な新しい出来事だったと認識されている。

そして、第九におけるバロック性で、もっとも大事な点は、対位法的多声音楽の要素のなかに求められる。多声音楽の特徴は言うまでもなく、各旋律が独立して主役を張ることだ。このことを論じるために、第4楽章を取り上げるのはきわめて自然なことだろうが、今回の演奏ではそのなかでも、序盤に聞かれるファゴットの動きに、私は特徴を見つけた。このパートには札響きっての名奏者である坂口聡がおり、その役割が明確なのである。

この楽章は無論、低音弦のモノローグと、オペラ的なレチタティーボによって始まる。これまでの楽章のモティーフが出てきては否定され、最後に、シンプルな低音弦の旋律が出て、これが展開され始めることはよく知られている。チェロとコントラバスのカンタービレにつられて、はじめにヴィオラの旋律が動き出す。ここまでは、誰もが動きを容易に追うことができるだろう。しかし、次に、それらの旋律とはまったく異なる旋律を、ファゴットが歌い出すところには、あまり気づかない人が多いのではなかろうか。自分の無能を曝け出すようだが、正に私はいままで、これにまったく気づいていなかった。そうして、坂口の吹くファゴットの響きに注意していると、実に面白いことに気づく。

ファゴットは歌いだしから、かなり長いフレーズで独自の旋律を歌っている。その響きは断片的に第2ヴァイオリンなどに移って、「変奏」される。だが、それとは関係なく、ファゴットは独自に動いていく。その自由な流れは、かつて、この楽器がヴァイオリンと並ぶ花形の楽器だった時代の、ファゴット吹きの気位を思わせるように華やかだが、上品に目立たないように書かれている。否、むしろ、それだからこそ、いっそう華やかに響くのである。やがて、ファゴットの響きは断片的になり、主要主題のオブリガートを奏で出すのだが、先の回想の方法を辿るようにして、いくぶん懐古的な響きになっている。そのためか、ファゴットはあとから旋律をなぞるにもかかわらず、まったく新鮮な響きを提供し、2つの旋律線がこの楽器の上で、運命的に出会うことも偶然ではないのだ。

これら旋律の関係の分析はあまりにも専門的すぎて、私には手に負えないが、少なくとも、この一本の筋を追うことで、作品の立体性が目にみえて膨らんでいくのは明らかである。演奏も2日目に入ると、このファゴットによる示唆は、オーボエをはじめとする全管楽器に拡大された。そして、そうしてみると、この作品の旋律の驚くべき豊富さに驚かされるのである。こうした多声的な構造に、ベートーベンが同胞(はらから)の限りなき独立性を認めて、世界を包む宇宙的な讃歌として第九を構想した意味が表れている。そのスケールの大きな発想と対応するようにフラッシュバックしてくるのは、実に第1楽章の弾きだしのところであった。

【ゆたかなミネラルを含む清水】

12月8日。午後3時すぎ。出だしの和音を聴いたときに、そして、そこから何小節かの展開で、私は早くも感極まってしまったことを思い出す。あのくすんだ、どこか懐かしい、ずっと昔に失った家族の声のような響き、例えば、東ドイツの巨匠が発していた響きに、私は瞬時に興奮してしまったのだ。念のために言っておくと、いま申し上げたすべてのことを、私は直接、体験していない。東ドイツは確かに存在したが、10歳前後のときに壁は崩壊しており、その当時、まったくクラシック音楽への興味をもたなかった自分に、当時の東ドイツの巨匠の存在など知り得るはずもなかった。また、私にとって、親族の死は既に体験済みとしても、本当の意味で大事な家族を失ったという経験はまだないのである。

いずれにしても、あの和音にはすべてが詰まっていたようだ。その響きが、弦のピーク(本来、鋭い突きだしのことである)音によって、いろいろに取り出され、ついに宇宙的な展開を経て第1楽章の主要構造が幕を開ける。このあとから思えば、天地創造のような深い響きに私は呑み込まれた。最近の演奏では、この「天地創造」はクリアに、混じり気がないように演奏されることが多い。ピークはひときわ鋭く、明瞭で、紛れがないのである。しかし、実際には、すべてが混ざり合っている。それだからこそ、あのような宇宙的な響きが生まれるわけだ。エリシュカの音楽の著しい特徴は、紛れがなく、直截な表現にあるが、それにもかかわらず、彼はこの種の濁りについては、まったく排斥するものではない。純水(それは膜や電気処理を組み合わせ、人工的に加工した特殊な水のことである)ではなく、ゆたかな鉱物を僅かずつ含んだ味わいぶかい水の、清らかさなのである。

このような問題は、エリシュカのつくる音楽を考えるときに非常に重要な点となるだろう。それはテンポやアーティキュレーション、バランスなど、多くの点について適用し得る「清らかさ」だからだ。例えば、テンポについていえば、エリシュカはこの作品に限らず、ダイナミックな変動をいつも上手に使っている。しかしながら、そのことで彼の音楽が誇張的に響いたことは、実にいちどもなかったといって差し支えないはずだ。第九においても、エリシュカは場面場面で印象的なテンポの設定や変化を取り入れて、私たちをハラハラさせ、しかも、結局は、その度ごとに深い感銘を与えることに成功していた。

例えば、合唱付き部分に入り、テノールの独唱 ’Froh..’ の部分では、最初はテンポを抑えてテノールの声を堂々と引き出すようにしているが、その終盤にさしかかると、強烈なアッチェレランドがかかり、演説者の気分が高揚して早口になるようなイメージを組み込んでいる。この早口に合わせ、同時にバックの管弦楽が高揚し、幾多のコーラスが轟々と独唱を呑みこんでしまうため、ときに、このイメージは二重のものとなる。つまり、独唱の演説が正しいものなのか、そうではないのか、対象化されてしまうのだ。この津波のような、猛然たるアッチェレランドはマーチの進行にあわせ、祝祭的な高揚にも関わらず、私たちを恐怖に陥れる要素をもっている。第九は正に、このような音楽がリアリティをもつ、戦争の時代の産物であった。

【メッセージ】

そのことは、第1楽章からそれとなく語られ続けているのだが、ベートーベンは決して、そのワン・メッセージによって作品を織り成したわけではない。彼には自分だけが思い描く理想的な社会があり、しかも、その理想をいつも相対化してみる癖があった。ベートーベンの作品はいつも安定しているが、同時に激しく揺れ動いており、その響きもまた、常にすこぶる保守的な様相を呈しながらも、どうしようもなく革命的なフォルムに親しかったという具合である。司祭のような静謐さと、アナーキスト革命家の激烈さが隣りあっており、それが作品に否応なく溶け込んでいくのだ。例えば、ティンパニのトレモロの場面については、既にすこし触れたが、エリシュカはこの場面をひとつのクライマックスとは見做していない。ベートーベンは、そこを通り過ぎていくだけだ。彼にとって、それは自分自身の抱く理想とは何の関係もないものだからである!

むしろ、老匠の演奏で印象的なのは、この嵐(もしくは戦場)の場面が生み出されるまでの用意周到な展開の見事さの提示であり、響きの高揚は力づよく示しながらも、それは次第に収めつつ、つづく優美で、華やかな旋律に移行するときのしなやかさである。

ベートーベンはこの作品のなかで、徹底して複線的な流れを活かし、多声音楽の理想で以て社会を描こうとしているようだ。その秩序を美しく彩るのは・・・この作曲家にとっては・・・なんといっても対位法の魔術であり、前半2楽章では特に、後半部分でその支配をくっきりと描き出して、響きがシャッキリとなるところを、エリシュカは自然に浮き上がらせている。第3楽章では、その構造はすこし見えにくくなるものの、その本体が巨匠のこころを支える宗教性と無関係でないことは、如実に物語ってくれる。対位法の伝統技法と宗教性の関係、それに基づく音楽の言語機能への尊敬は、この作品を語るときに欠かせないキーワードとなるはずだ。

【命懸けの音楽】

第3楽章では、特に繰り返すことの意味が問われている。バロック以前の音楽に由来する繰り返しは、今日のコンサート会場とは異なり、音楽を聴くことだけが目的ではなかった聴衆層に音楽的メッセージを伝えるための工夫である、と私は認識している。ベートーベンはそのことをアイロニカルにイメージさせながらも、ここで改めて、「繰り返す」ことの意味を問いなおす。エリシュカの演奏では、常にそこにある音符が徹底的に使い尽くされ、いちど出た響きは最後まで活かしきられるため、その意味はいっそう惹き立てられることになるのだ。

ここに出現するフレーズは、ほぼ必ず2回ずつ繰り返されながら発展し、連結されていく。その動きは第2ヴァイオリンの動きから顕著になり、全体に伝播していくようにできている。1度目で優しく仄めかし、2回目で明瞭にフォルムを織り成していく仕事が徹底されているが、今回ほど、そのことを切実に感じたことはない。ベートーベンは絶対に、無駄な音符を書かないという確信がエリシュカのなかに燦然と輝いているからだ。彼は巨匠の書いたすべての音符に何らかの意味があり、書かれた分だけの正確な保持がいかに大事かを神経質に意識して、演奏を作り上げた。すこしでも機械的な響きになれば、エリシュカは棒を置いて、手振りで表現に魂を込めるよう指示を送ったりもしていた。

正に、命懸けの音楽だったのである。

音符の正確な保持は、これまでのほかの曲の演奏でも目立った要素だったが、この第九では、俄然、その重要性が高まった。エリシュカはそのことを前提にテンポ、アーティキュレーションを思い描いていたし、すこしも妥協することは赦さなかったであろう。なぜなら、そこにすこしでも狂いがあれば、もはや、彼の思い描く音楽は完全に崩壊してしまったであろうからだ。そのうえで、あの第4楽章をみることは意味のあることである。特に、合唱の歌いおわりにかけての迫力が凄かった。たっぷりと響きを保持しての、強烈なルバートからコーラスは終結し(正にマエストーソだ)、それを詰めるかのように疾走するプレスティッシモのフィナーレ。しかし、適度なテンポは保ち、しかも、響きは速く感じさせるというマジックがついている。

コーダ直前の、ソリストによる四重唱も凄かった。リードのソプラノ(安藤赴美子)が、あの厳正に保たれた拍のなかで、最後まで響きを包み込んだ1日目には、何が起こったのか、私にはよくわからなかった。エリシュカは4人のソリストを完全にフル・ヴォイスで歌わせ、この4人の独唱者によって、実に「全人類は同胞となる」ことを体現させた(贅沢をいえば、この日のような演奏スタイルでは、テノール独唱にヘルデンが欲しかった)。そこからコーダ、終結合唱を経て、いのちのルバート、プレスティッシモとつづくのだから、このフィナーレはもう、人知を超えた新しさとして私たちを捉える。それは作曲から数百年を経ようとする今も、変わらず斬新で、聴き手だけではなく、それを学ぶ現代のハイテク作曲家たちをも震え上がらせるものだ。

もっとも深く伝統に根差したものだけが、もっとも新しい形式を生み出すことができる。このことを、私たちは目の当たりにした。エリシュカの伝えたかったものは、正に、この徹底したベートーベンの新しさだったのである。エリシュカの音楽は多分、古いのだろうが、それを徹底することでも新しさは生じるということを、私たちは学んだ。例えば、下野竜也(指揮)による演奏のように、新しい感覚で作品を生まれ変わらせ、そのことによって、ベートーベン演奏の美しい伝統を絶やすまいとする誠実な仕事がある一方で、エリシュカの演奏はそれと同等以上に新しいのだ。私たちの新しいと思うものはすべて、このような古さのなかにしかなく、そのなかにある鍵を手にしない限りは、いかなる新しい試みも虚しいということだ。

フランス・ブリュッヘンは、今日、ハイドン演奏をするための正しいルールは失われつつあるが、その答えは演奏家が、つまりは、自分が知っていると述べた。それと同じ意味で、エリシュカの示唆したものは深いショックを導き出す。こうして、従来、こうあってほしいと願っていたイメージを突き崩されはしても、私はそれにある種の快感を覚えながら聴いていた。エリシュカに、そのイメージを直されるのが楽しいのだ。普通、こういうことはあまり起こらない。私たちはどんなに未熟な聴き手であっても、自分の好きなイメージをもっており、そのイメージに反することは「嫌い」と感じるものだ。聴き手は、そのようにして傲慢なものなのである。ところが、エリシュカの演奏を聴いていると、そういう傲慢がまったく働かないのであった。

きっと、音楽家も同じなのであろう。特に、札響の音楽家たちは!

こういう現象を、カリスマ性とかいう言葉で片付けるのは簡単だ。しかし、エリシュカの音楽はもっと温かいもので出来ている。ドヴォルザークやヤナーチェク、それにスメタナの演奏などに接したときの、音楽から滲み出る優しさが、この厳しい音楽から不思議と垣間見えるのである。一体、このような巨匠がどこにいただろうか。唯一、思いつくのはオイゲン・ヨッフムだ。そんなことを想いながら、検索をしていると、この2週前の「ジュピター」がヨッフム&バンベルク響以来の名演という評言が見つかった。みんな、考えることは同じなのだね!

しかし、私は実のところ、そういう言い方は好まない。エリシュカの音楽の明るさと、ヨッフムのそれの明るさは、また別の味わいがあるのではなかろうか。他との比較はともかく、あの厳しさのなかで、エリシュカがいつものように、明朗で活き活きとした「いのちの響き」を紡ぎだしたことの奇跡について、私は報告したいと思っただけなのだ。

【まとめ】

ほかにも、書くことはたくさんあるが、既に相当の長文に達した。

ここでまとめておけば、エリシュカの音楽は、ベートーベンの音楽とは一体、何なのかということを、今更ながら、我々に衝きつけるものだった。彼は確かに、ロマン派へと育つ種を蒔いたかもしれないが、自身は常に古い時代からの審問を受けていたのである。ベートーベンの時代、既に古典派による形式の発展には限界が来ていた。もはや、「進むべき道はない」という時代だったのである。ハイドンやモーツァルトの傑作が、ベートーベンに語りかける。

俺たちは、もうやり尽くしたんじゃないか?

だが、ベートーベンはそれに肯んじない。彼はまだ、この形式を使いこなすことで、新しい音楽を生み出せる余地が残っていると考え、実際、それをやってのけたのである。彼はアイロニカルな音楽家であり、真に闘争的な音楽家であった。それゆえに、彼の音楽は正に古いものとの対決と、新しいものへの徹底した批判の上に、同時に成り立っていたのである。ベートーベンはどんな新奇な形式を考えついても、それがある程度、うまくいったと考えると、最後には神に感謝するように美しい対位法を駆使した音楽を書き添える。そういう作曲家のこころを、エリシュカは演奏家として、ほぼ完全に体現していた。

最初にも書いたように、エリシュカの音楽は、どのような方向からでも自然に論じることができるが、そのなかでも忘れてはならないのは、エリシュカの決めた演奏姿勢が、ベートーベンの音楽にほぼ完全に寄り添っているということだ。北海道に住む私の友人と演奏会のあと、語り合うことができた。彼は、気づいていただろうか。エリシュカの演奏について鋭く語るその言葉が、正にベートーベンの音楽について語っているのと同じことであるということを。

最近のクラシック音楽の世界では、過去の音楽を「再現する」と称して、実際には、新たに創造するスタイルが主流となっている。これはオペラ演出における現代の潮流と似ており、結局は、音楽そのもののもつ価値よりも、音楽の受け手との対話に重点を置いた姿勢になっているのだ。音楽がコミュニケーションの手段であることを考えれば、その姿勢はあながち間違っているわけでもなく、実際、そうした音楽についても私は面白いと感じるのだ。しかしながら、私たちはやはり、もうすこし音楽そのものと誠実に向かい合うことも忘れてはならないように思う。

皆さんは国会中継をみて、不快に思うだろう。その議論の内容の低調さもさることながら、自分勝手に相手を責める言葉が飛び交い、相手のはなしを聞かず、つまらぬ野次ばかりが飛んでいる議論の姿勢にも納得できない。だが、芸術も、これと似たような状況になってきているのではないか。

ベートーベンの音楽では、全員が主役なのだ。多声音楽、対位法、音楽修辞学、フーガ的技法、さらには宗教的頽廃のドン詰まりで、この作曲家がみせた大逆転の発想を、その後の時代の誰が乗り越えられたであろうか。その愉悦感が、民族の目覚めを謳うスメタナ、ドヴォルザーク、ヤナーチェクの響きと同じ明るさに満ちているのは、偶然ではない。このことは漏らしてもいいと思うが、エリシュカにとって、この第九はスメタナの『わが祖国』と同じくらい思い入れのある作品ということらしいが、そのことは演奏を聴いても、なるほど明らかである。このような素晴らしい演奏に直に触れられたことは、大きな喜びであった。

外は大吹雪。新千歳空港も閉鎖され、欠航が相次ぐなかでは、来札を諦めたり、無念にも阻まれたりした人たちもいたかもしれない。幸い、私は早い時間のフライトで、この場所に来ることができた。そして、2日間とも聴くことができた。札響としては初日の出来がいつもよりも良く、2日目とのちがいを論じるような手間も省けた。2日目の演奏は初日より輪郭がハッキリして、その分、勢いあまった点も目立ったが、エリシュカが理想とするように、2日間の演奏で大きなちがいはみられなかったのである。

これまで、チェコ音楽を中心に振ってきたエリシュカだが、今回の来日を境にドイツ音楽の演奏にも転じ、来季の定期ではブラームスやベートーベンの「田園」が組み込まれるなど、新境地をみせてくれる。そして、それは今回のように、世界的にみても稀少な演奏スタイルに触れられる好機会だということを強調しておきたい。

【プログラム】 2012年12月8/9日

1、ベートーベン 交響曲第9番「合唱付き」

 chor:札響合唱団、札幌アカデミー合唱団、札幌放送合唱団
 (cond:長内 勲)

 コンサートマスター:伊藤 亮太郎

 於:札幌コンサートホールKITARA

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