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2012年12月31日 (月)

山田和樹 ショスタコーヴィチ 交響曲第12番 ほか 横浜市立大学管弦楽団 定期演奏会 (第43回) 12/26

【前衛に立つ指揮者の苛酷さ】

オーケストラの指揮者にとって、アカデミーでの勉学よりも、現場で揉まれることの意義がなんと大きいことか。山田和樹という青年をみていると、そのことをハッキリと感じる。彼はこの横浜市立大学管弦楽団(以下、横浜市大管)を含め、早い時期からアマチュア・プロを問わず、なるべく多くの指揮機会をつくるように努めてきたようだ。音楽的なことでいえば、師匠の小林研一郎にはまったく似ていないが、いま述べたような姿勢については、師が歩んできたのと同じような泥くさい道を、すすんで選んできたようにみえる。

しかし、山田の優れている点は、実に、そのような雑多の機会のなかにあって、常にプレイヤーとして前衛を守ってきた姿勢のなかにあるのではなかろうか。師匠の小林は結局、指揮者がいなくて済むなら、それがベストだという哲学のなかで仕事をしているのに対して、山田は常に弾き手たちのリーダーとして、音楽家たちの中心にいるのである。それも、(その中心で)采配を振るったり、参謀役のように、兵士に知恵を授けるだけではなく、いわば鬼軍曹の役割で最前線で矢玉を打ちまくるところに出ていくのが特徴なのだ。その気迫に押されて、じりじりとオーケストラがついてくるという風である。

これはオケが音楽を専門としない、大学生のものであることにもよるのだろうか。その点についてはよくわからないが、少なくとも、この日の印象からすれば、相手なりのものというよりは、山田和樹という音楽家の本性を示しているように思えてならないのだ。物腰は穏やかで、とても厳しい稽古をつけるような人にはみえないが、その音楽の苛酷さは、学生たちが見事に体現していた。

【待つ姿勢】

ショスタコーヴィチの交響曲第12番、第3楽章からフィナーレへのブリッジで、最終楽章を呼び込む打楽器のアンサンブルが和太鼓の乱れ打ちのようにして鳴らす、祝祭的な響きの鮮やかさときたら、これはもう、指揮者と打楽器奏者たちによる「室内楽」といったような趣があった。なお、ここでいう「室内楽」とは、妥協なき対話に基づき、最高度に練り上げられた緻密な音楽のことを指しているが、山田自身も太鼓をもたないもうひとりのパーカッショニストとして、アンサンブルのなかに参加しているような印象を受けたのが特別である。確固としてブレない、蒼然たる響きは、旗艦アウローラの号砲に始まる何らかの描写を越えた、音楽家の魂の響きそのものであった。

しかし、こうした響きだけが、凄いのでは決してない。私が今回の演奏で、特に深い感銘を受けたのは、それに至る雌伏の部分、具体的には、第2楽章のごく静かなアンサンブルにおいてである。こうした部分では力押しは通用せず、「待つ」姿勢がなんといっても重要となるはずだ。ショスタコーヴィチはこの時間を、非常に多くとっている。革命など、一瞬なのである。それを丹念に仕込み、機が熟するのをじっと待つ時間と比べるならば!

若く活動的な学生たちが、そのような「待つ」行為に耐えられるのであろうか。横浜市大管がこの作品を取り上げると知って、私が疑問に思ったのは真っ先にそのことだったのだ。実際には、多くの奏者が個別に部屋を覗かれるような、第2楽章の落ち着かない孤独にも立派に耐えたし、うまくいかない部屋があれば、隣人が見事にこれを助けた。この楽章の中盤以降から始まり、木管楽器がタスキを継ぐ巨大なエコーのような響き。丹念に織り上げる響きのなかには、多少、不出来なものもあった。だが、前の奏者の残したブレを拾って、反対に、見事な深い音色でプロ顔負けの素晴らしい夜想曲を聴かせたクラリネットのことを、私は当分、忘れないだろう。だが、個別にどうこうというよりは、これら全体の連帯として織り上がった見事なタペストリーの鮮やかな印象について、私は強調したいと思う。

そして、ショスタコーヴィチだって、きっと同じような気持ちでいたはずだ。確かに、ここにいますこし、作曲家のこころを支えるような、何か重要なものを付け足すことは必要なことだろう。例えば、宗教であり、また別の視点でいえば、自然のようなものである。だが、多くを求めすぎてもいけない。そうこうしているうちに、アウローラの砲声が聞こえてくるからだ。

【ショスタコーヴィチの明るさ】

以上のような第2楽章の描写と、第3楽章、そして、それに導かれて出現する第4楽章の関係は密接である。第2楽章で大事に隠されていたイメージが、一気に後半2楽章で花開くのだ。だから、終盤の壮大な音楽の成功は、実のところ、第2楽章の「部屋」のなかの様子から導かれる。そうはいっても、終楽章の厳粛な響きをしっかりと打ち出していくのは、これはこれで、また難しい作業であることは変わらない。その点で、特に目立ったのは、明確なテンポ=リズム・ベースの構築のうまさである。先に述べたパーカッション群をはじめ、このオーケストラの強みはなんといっても、この土台の堅固さに求められるようだ。

学生オーケストラにして、山田和樹があれほど自由に歌いこなすことができるのも、この楽団が多分、伝統的に培ってきた構造的な柔軟性を手にしているせいである。その柔軟性は、いま述べたような土台の確かさから生まれることは言うまでもない。一方、音色の多彩さということでは、さすがに味わいぶかいとは言いかねるところだが、それを補って余りあるカンタービレのゆたかさに、私はこのオーケストラの「若さ」をみた気がする。そして、その若さが、終楽章の徹底した明るさを助長しているのもまた事実である。

ショスタコーヴィチを「ネクラ」として理解する聴き手も多いし、表現者もまた例外ではない。どうしても政治絡みの印象が強く、多くの作品で風刺の色合いも濃いことから、彼のもつ性格的な「蔭」を強調するようなイメージは拭いがたい。しかし、それを承知でいうなら、ショスタコーヴィチは本来、社交的で明るい性格だった、と私は信じるものだ。もしも、彼がそういう人物でなかったら、例えば交響曲第15番の最後で、あのチャカポコを希望に満ちた、見事な表現に仕上げることができただろうか。あるいは、弦楽四重奏曲第8番は最後まで、重苦しいラルゴでおわるが、有名なDSCH和音が少しずつ反転して、最後、なんとなく上を向けるような響きで切れるのが、その証拠といってもよいのではなかろうか?

極めつけは、死を目前に書かれたヴィオラ・ソナタである。涙なしには聴けないこの1曲、いちばん最後の音についているであろう(楽譜はみたことがないのだ)フェルマータに注目したい。この世に別れを告げるヴィオラの長い音だが、どんな名手でも、これを最後までやると、僅かに音程が上がってしまうように思うのだが、それがポイントなのだ。ショスタコーヴィチは全部、わかっていただろう。その僅かな上がり方に、彼が人生の最後で放つ悲しいユーモアがあったのだ。悲しさ、あるいは、苦しさと、明るさがショスタコーヴィチのなかでは直結している。そして、そうした作曲家の音楽性と、時代やお国柄が奇跡的に噛み合ったのが、ドミトリー・ショスタコーヴィチを決定的に重要な作曲家にしたのだ。

【音楽は人間を描く】

いまは考えが変わったかもしれぬが、藤倉大はこの作曲家が嫌いだと言っている。なぜなら、彼は音楽をひとつも前に進めなかったからだそうだ。その考え方が間違いだと気づくまでは、どれほど高い名声を得たとしても、私は彼の音楽を支持することはないであろう。そんなことはないのだ。ショスタコーヴィチは誰よりも、時代と寄り添った作曲家だった。時代と寄り添わず、どうして音楽が書けるというのだろうか。確かに、彼の音楽は、その時代、一回的に重要だったというのは間違いではないかもしれぬ。それにしても、彼の描く人間の在り様からは、単に音楽の発展というには止まらない、幾多の生々しい情景が見え隠れするのである。

音楽は、人間を描くものではないのか?

そういう意味で、山田和樹と横浜市大管の演奏はきわめて印象的であろう。彼らは音楽というよりも、人間を描くということで一致した集団だ。そのことを直感させるのは、第1楽章の序奏部分だ。やや朴訥な低音弦の響きから、少しずつ響きが積み重なっていくごとに人間的なリアリティを増していく響きに、まず驚いた。さらに驚いたのは、この序奏をブレイクしたあとも、そのリアリティが継続的に加えられていくことである。ファゴットの名技的な見せ場から、各パートが思い思いに響きを膨らましていくときの迫力。すべての楽器が自信をもって、ほとんど無謀な自信をもって、作品をダイナミックに描き上げていく。そこに、人間的な立体感が生じるのである。

この中心にいるのは、紛れもなく指揮者の存在であった。自分のところがどういう結果になろうとも、最終的に、この人が全部を受け止めてくれるという信頼がなければ、こうしたパフォーマンスは成り立たない。

東響のシェフに就任することを発表する会見で、新しい音楽監督となるジョナサン・ノット氏が言ったことも、正にそういうことだろう。例えば、私がいま在籍する会社では、誰かがミスをすると、その人が全部を被って会社は責任を負わないようにする。これは企業として致命的な馬鹿げた経営方針であり、横浜市大管のメンバーが羨ましくなる。山田がすべての責任を引き受けてくれるから、彼らは自分にできるすべてを出そうとするし、また、それを高めたいという意欲も自ら湧いてくるのだ。あのパーカッショニストたちの響かせたような、彼ら自身の若さの如き輝かしい記憶が、こうして生まれ出たのである。

これに比べれば、私たちの会社の職員は無難に仕事をこなすことしか考えず、サーヴィスをイノベートしていくような発想もなければ、自らを変革し、主体的に成長していくという意志もない者がほとんどではなかろうか。それは彼ら自身の責任というよりは、会社の方針から必然的にそうなってしまうのだが。横浜市大管には、それとは対照的な雰囲気があるということだろう。確かに、エラーはすこし多いし、それは前半の曲目において顕著だ。多分、それは練習量に比例していて、実際、どうなのかは知らないが、最初の演目から「1:3:6」ぐらいの配分ではないかと思う。

【その他の曲目】

マイスタージンガーの前奏曲はダイナミック・レンジが小さく、表現が縮こまって、あまりにも素直な演奏だ。そのなかでも、小さく振ることはあまりなく、構造ごとにどっしり積み上げていくような山田の指揮の面白さが特に目立った。まだ経験不足ではあるが、こうした演目における彼の音楽づくりは独特であり、大きなブロックの組み合わせで作品ができていく感じである。

ショパンの協奏曲では、特に金管のエラーが多すぎるものの、それを助長するのは指揮者の解釈であった。この作品においては、スコアに書いてあるものをすべて活かしきろうとする(師匠のコバケンは、むしろスコアを簡略化する)山田の姿勢が、必ずしもこの作品の表現には相応しくないことを物語っている。なぜなら、歴代の指揮者たちが、それをしっかり演奏するとあまりにもダサいために丁寧に隠してきたような要素を、彼が全部、掘り返してしまうような演奏だったからだ。

それは端的には金管の用い方で象徴されており、作品のアーティキュレーションをコントロールしたショパンの先生たちは、バロック的な味わいを高め、作品を神々しく彩ろうとして、随所に、それを強調的に用いることを思いついた。実際、これを忠実にやると、この日のような演奏になってしまう。ピアノが折角、美しい流れをつくっているのに、この金管ですべてが台無しになるわけだ。ピアノと弦のパートには、ショパンらしい繊細さがある。そのため、ショパンはのちに弦楽四重奏による伴奏へと編曲し、さらには、それにも満足しないで、最終的にピアノ独奏用に編曲した。このピアノ独奏版に、もっともショパンらしいものが表れているという河合優子女史の意見に、私は諸手をあげて賛成するものだ。

横浜市大管の演奏は、ピアノの響きにあわせて、オーケストラがその響きを増幅するような動きにもっとも特徴があり、これまた、きわめて室内楽的な方法である。つまり、互いが互いの響きを模倣することで、響きのうえでの究極的な統一や対話を図る、ボザール・トリオ的な意味での室内楽が、このような学生オケによって為されていることには脅威を感じる。そのため、千万の味方を得たピアノの美しく、堂々と輝くこと頻りであって、ピアニストの寺本沙綾香は瞬時に、最高のショパン弾きとはなったのである。だが、アンコールで弾かれたものを聴くかぎり、それはあくまで幻想的な成功であった。

こうした響きのセットで培ったものが、あの金管の強調でいちいちひっくり返されてしまうのには辟易した。それは金管のエラーが多かったせいではなく、山田の正直すぎるバランスのつくり方のせいだ。

【まとめ】

ショパンだけは共感できないが、それを含めて3曲で、まったくちがうアプローチをみせた指揮者の資質は、なかなか奇特というべきかもしれない。例えば、この前、ひとりも入賞にしてもらえなかったコンペティションの参加者たちは、2曲に対するアプローチに、基本的にはあまり変化がなかった。ところが、山田はすべての曲で、独特のアプローチを組み上げている。ワーグナーではほとんど細かく振らずに大きな構造を重視し、ショパンではやや細かく振りながらも、客観的にオケとピアニストの関係をバランスしていた。そして、最後のショスタコーヴィチでは、指揮者自らがアンサンブルに加わったのである。

より具体的な観点でいえば、山田は非常に豊富な情報量を出せる音楽家であり、その点で、師匠とは一線を画す。ブザンソンの映像などをみると、指揮のアクションには師匠の影響も濃厚だが、実際にできてきた音楽は、コバケン得意の『幻想交響曲』(聴いてられない!)とは明らかに別物なのだ。今回は学生オケのせいもあろうが、時折、強奏での表現が大味となり、響きが汚くなってしまうのが師匠譲りで、こればかりは修正が必要だ。しかし、それを補って余りあるほど、深く濃厚な響きが出る瞬間も多かった。来年は数少ない顔合わせで、いきなりポストを与えられたスイス・ロマンド管を率いての来日があるようで、演目にもよるが、興味がわいてきたところである。

学生オーケストラは3年ごとにメンバーが引退し、入れ替わっていく。だが、既に述べたように、このオーケストラには伝統的なカラーが残っている。それを生み出すのは、あらゆる失敗を受け止める指揮者の姿勢によるところが大きい。失敗がなければ、より大きな成功は望めないことに、多くの人は気づかない。学生たちは、自分たちがここで体験したような素晴らしい環境に、社会のなかで、もういちど出会うことができるだろうか。そうあってほしいものである!

だが、人生には悩むこと、思うままにならないなかで、待つことのほうがはるかに長い。そのことをこうして学んだことは、彼らが本当に辛いとき、自分たちのことを絶望から救うための糧になるはずである。

【プログラム】 2012年12月26日

1、ワーグナー 第3幕への前奏曲
 ~歌劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
2、ショパン ピアノ協奏曲第1番
 (pf:寺本 沙綾香)
3、ショスタコーヴィチ 交響曲第12番「1917年」

 於:大田区民ホール「アプリコ」

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