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2012年12月23日 (日)

小森輝彦&服部容子 シューベルト 美しい水車小屋の娘 デュオ・リサイタル vol.9 12/20

【特別なメッセージ】

シューベルトの連作歌曲集『美しい水車小屋の娘』。最近は「ストーカー」という便利な言葉も生まれ、主人公である若者のこころは安易にも、「異常」の烙印を押されることが多くなった。そういう言い方をすることで、失われるものは多いのに、私たちはそのことに目をつぶって、ポップに物事をみようとする。そのことで、自分たちが「異常」ではない、当たり前の常識人として振る舞えるように思うからだ。本質的なものから目を逸らし、青年の想いや行動に寄り添おうとしないで、飲み屋の人気者になれればよいとでもいうのだろうか? そういう「2ちゃんねる」的な歪んだ批判精神が日本には蔓延しているように思われる。そのため、「2ちゃんねる」そのものは不要になったのだが。

小森輝彦と服部容子は、そんな一言で片づけることのできないゆたかなメッセージを、青年のこころ、そして、シューベルトの音楽から汲み取って、聴き手のところに届けてくれた。過日、このブログに対する西澤健一氏へのコメントに対し、私は小森がアルテンブルク=ゲラ劇場の最後の公演で、舞台あいさつした言葉を要約して紹介した。我々の努力は聴衆の皆さんに届かなかったら何の意味もない、自分は客席に自分の視点を置くように努め、その称賛や批判からいろいろなものを学び、育ててもらった。だから、自分は皆さんのために歌う・・・というのがそれである。正に、このような姿勢を、今回ほど如実に感じたことはない。

12年もの間、専属歌手として所属するだけではなく、その間の相当長きにわたって、この小規模ながらも、芸術的な情熱に包まれる素晴らしい劇場で、名実ともにトップとして君臨した小森は、3.11 を境に募る祖国への想い、そして、日本で彼を信頼しつづける仲間たちの存在や、自分の経験をより広く日本に広めたいとの想いを胸に、日本へ帰国した。ご多分に漏れず、ゲラの劇場も予算削減の荒波のなかにあり、いまや劇場の看板にもなっていたドイツ宮廷歌手、小森輝彦を失うことは、現地で、我々が想像するよりもはるかに切実な事柄であったようだ。その惜別のコンサートに、小森が選んだのが『美しい水車小屋の娘』だった。

この歌曲集の文句を眺めていると、なるほど、それに相応しいようなメッセージが散見されるが、特に、第7曲「いらだち」(Ungeduld)における、「僕のこころは君のもの、それは永遠に変わらない」という文句などは、立場かわって、彼を取り戻す側の私たちからみても、胸に突き刺さるものがあった。相手がドイツ人でも、日本人でも、結局は、同じことなのだ。オーディエンスに対する深い信頼と感謝のこころに支えられた、芸術家の発する言葉としては! 無論、そういう社交辞令ばかりを上手に発しているというわけではなく、あくまで、彼は作品の表現をコツコツと組み上げていくだけだ。だが、彼が一際、こころを込めて歌わなければならないところに、こういう文句があるというのは偶然ではない。

【シューベルトの創作の新しさ】

ところで、ここで彼の歌のつくり方について、十分に空間を割いて考えておく必要があろう。今回の表現は、きわめて独特なものであったが、その著しい特徴は、歌手が朗読をして、オーディエンスに読み聞かせるような、そんな歌い方である。オペラ的なテクニックもすこしは交えていて、声音を変えてみたり、メルヒェンティックな表現法もあるにはあるが、全体としては、1ページずつページを繰りながら本を読んでいる感覚を抱かせる。これが実は、シューベルトの考えたであろう新しい音楽の表現法と対応しているのである。

シューベルトは「ロマン派」の代表選手に数え上げられるが、実際のところ、古典的要素への尊敬も根強い作曲家である。『水車小屋の娘』も、実は古くから愛された素材であり、例えば、18世紀を生きたパイジェッロにも同名のオペラ作品がある。また、シューベルトのこの歌曲集では、最初からバロック的対位法の構造がピアノ・パートへ明瞭に表れているが、さらに中盤では、恋の行方に行き詰った青年がリュートに緑のリボンをかけて封印しようとする場面がある。それをみて、水車小屋の娘は自分は緑が好きだからといって、青年のこころを淡い期待で満たす。リュートはもちろん、古くから愛されてきた楽器で、声楽との相性が素晴らしい。シューベルトはこうした古い時代の音楽に深い尊敬を抱いているが、それだけに、こうした世界といかに訣別し、新しい音楽を生み出すかということに悩んだ人なのである。

小森も正に、そういう想いで作品を歌ったのであろう。修業時代の自分を受け容れ、小さなスターにまでしてくれた愛する劇場との訣別、あるいは、そうした時代(自分)そのものとの訣別が、この作品に託して歌われているのは明白である。彼はそうして、自分らしい新たな表現を追い求め、その一部なりとも「教育」という形で、日本に定着させたいと願う。まあ、それはそれとして、シューベルトの創作の徹底的な新しさに、小森や服部はともに共感を示すものであった。その創作論は、例のリボンが登場する「中休み(休息)」(Pause)と、つづく「リュートの緑のリボンに」において端的に示されている。特に前者の表現は、両者の深々と踏み込んだ共謀で、質の高い表現に仕上がっていた。

【歌い手とピアニスト】

作品の中盤を締め括る ’Pause’ は、シューベルトの尊敬する修辞学の時代の語法を援用して書かれている。そこではピアノと声、そして、それらを支持する言葉の関係がきわめて綿密であり、これらの繊細なバランスの調節によって、はじめて音楽は真のメッセージを語ることができるのだ。古今東西の素晴らしい歌い手がこの作品に魅力的な録音を残しても、このメッセージを正しく語ることができたコンビとなると、ジークフリート・ローレンツ&ノーマン・シェトラー組など、ごく僅かにすぎない。歌い手がきわめて情緒的に、感情を込めて歌った場合には、つまり、激しい起伏をつけて歌った場合には、特に作品の味わいは僅かとなる。

例えば、ペーター・シュライアーの録音では、例のローレンツと同じシェトラーと組んだものもあるけれど、感情が先を急ぎすぎるために表現が予定調和的なものになっているようだ。かのフィッシャー・ディースカウでさえ、ジェラルド・ムーアとの古い録音では、その表現は深く内面的でありながらも、以下に述べるような点からは相当に物足りない。

小森・服部組の表現には度肝を抜かれた。最後の2行には、象徴的に「愛の苦しみの余韻」と「新しい歌の前奏」が対比的に置かれているが、それらを歌い手とピアノがきれいに歌い分けることで、作品の古典的な性質と、そこから脱出しようとするシューベルトの静かな決意が浮かび上がってくる。無論、これは「緑色」をキーワードに、水車小屋の娘との新たなステージに立とうと試みる、青年の固い決意に対応しているものだ。以前から、そのようにわかっていたというような表現だが、実のところ、私はそのことについて、この日、はじめて気づいたのであった。小森の落ち着いた、静かに燃えるような歌いくちと、服部のピアノの繊細な表情づけがちょうど適切な具合で噛み合い、いま書いたような表現が見事に浮かび上がったのだ。

重要なことは、歌い手は表現(意欲)を厳しく抑えながらも、たとえピアノが先行する部分であっても、常に音楽の流れを放さず、支配していなくてはならないことだ。同時に、歌い手はピアニストの音楽を、自分自身の表現以上に尊敬している必要がある。この2つのことを、併せて実現するのは相当に困難なことであり、声を使った室内楽として、作品を完璧に描き上げるだけの深い関係が不可欠なのは言うまでもないことだ。実際には、そのような濃密な関係を伴わずに、小手先の巧みな表現テクニックと相性の良さで、手早く仕上げられた演奏がどれだけ多いことだろう!

【シューベルトの不安とその克服】

緑色の2章を経たあとは、音楽はきわめて自由な様相を呈する。それと同時に、青年の恋は破綻へとまっしぐらに進む。これらの要素の出会いは、例えば、「嫉妬と誇り」において、ピアノが見事に角笛の響きを真似るような響きにおいて見ることができる。ここで服部がさりげなく鳴らす響きに、青年の不安のすべてがあるわけだ。実は、失恋を予感する青年の不安は、シューベルトの創作上の不安とつよく結びついており、それにもかかわらず、前人未踏の道を突き進んでいかなくては気が済まない作曲家のこころもまた苛酷である。周到なことに、第1曲において、シューベルトは予め、その想いを何度も繰り返して歌わせているほどだ。

「さすらいは粉挽き職人にとっての喜びだ」

喜びは、この場合、苦しみに通じている。実際には、後半部分でその「さすらい」が本当の牙を剥くのである。1曲ずつ見ていけば、第14曲「猟師」では、均等に分割された音符での活き活きとした怒りの表情が抉られ、第15曲「嫉妬と誇り」では例のピアノによる角笛の模倣が恋敵の姿を髣髴とさせ、歪められたマーチの響きが緊張を掻き立てる。最後は、強がりの文句で力づよく締め括る。第16曲「好きな色」と第17曲「嫌な色」は一対であり、第16曲は厳しい転調が、ゆっくりしたテンポのなかで青年の内面性を深めていくのに使われる。第17曲も転調が複雑であるが、前曲より心理的にも音楽的にも動的である。第18曲「枯れた花」ではリズムが奪われ、重々しく言葉だけが虚しくも空間に響く。第19曲では、青年と小川が語り合う不思議なフォルムをとり、終曲「小川の子守唄」も不思議な転調を繰り返して、聴き手を思いがけない世界へと連れ込んでしまう。

特に、取り出してみたいのは終結の第20曲である。この曲は、第1曲と比較して、完全に対照的である。この作品は、ほとんど童謡のような単純な繰り返しで始められる。そして、ついに、この玄妙な転調による終曲で幕を閉じるのである。シューベルト以外の誰も、この時代、そうした発想で作品を構想することはなかったであろう。彼だけが、このように見事な変容を駆使して、作品の形式的な発展と、ひとりのナイーヴな青年の恋物語の筋書きを一致させることができた。青年にとっては死を意味する子守唄は、シューベルトにとってはひとつの作品のおわり、つまりは、ここまで試してみたことの一時的な封印を意味するとともに、それを背負っての新しい旅立ちを意味していた。

第19曲とのセットで、小森はそうした作品の表情を端的に捉えた。死からの再生。これがどういう意味をもたらすのか・・・歌い手の内面を慮れば、きわめて多義的である。ひとつ確かなことは、小森が最終的に死以外のものを、青年と小川の関係に求めているということだ。特に終曲においては、彼の歌はまるで無限につづく転調の一部分を歌ったにすぎないように思われた。小川はなおもせせらぎつづけ、青年はその下で静かに眠っているだけだ。 ’Wandrer, du müder, du bist zu Haus.’= 旅人よ、あなたは疲れ、わが家へと戻ってきた。小森は、 haus を強調する!

【再び感謝のメッセージ】

その眠りの前に、小森はもういちど、素直な感謝のこころを曝している。ドイツの人々にとっては、最後に受け取った彼の誠実な言葉だ。

Und Blümlein liegen In meinem Grab
Die Blümlein alle Die sie mir gab

(僕の墓のなかに置かれている花々、
その花々はすべて、君から贈られたものなのさ)

これを含む第18曲と、先に示した第7曲のメッセージが、ドイツへのせめてもの置き土産なのであり、この2つのパートで、明らかに小森は緊張して歌っていた。

第2曲では、「これが僕の進むべき道なのか」という文句がある。次の曲で、彼はそれを確信する。かくあるべきか・・・かくあるべし、というわけだ。小森はよく働き、称賛も受けた。劇場に身を置き、認められていくときのことを、彼は回想しているかのようだ。しかし、最初の数曲は歌というよりは、ほとんど語りかけることにちかい。ドイツのオーディエンスは、こんな小森の歌い方にもたまげてしまったことだろう。その後も、彼の歩んできた個人史をひとつひとつ歌っていくような、不思議な符合に歌手自身、深い共鳴を感じながら歌っていた。1曲ごとに、よく練りあげられたアーティキュレーション、研ぎ澄まされた言葉の感覚は、現地ではより高く評価されたはずだろう。

【まとめ】

こうして苦労して書いてきてみると、徐々に、明瞭なマップが描けてきたように思う。小森の表現は、いま書いたような個人史的な要素。件の青年に対する深く内面的、かつ、慎重にして誠実な寄り添い。シューベルトが作品に込めた並々ならぬ想いと、その徹底した表現の新しさへの指摘。そして、聴き手に対する尊敬と感謝。以上の要素によって、複雑に構築されている。だが、それらの発露としての表現は、きわめてシンプルである。一歩一歩、丁寧に道をつけ、坂をしっかりとつくりながら、堅固な橋を架けていく。そういうコツコツした楽曲の構成が、結果的にどれほど巨大な成功を導くかは、近年、ラドミル・エリシュカ氏の下で、私たちが繰り返し学んできたことである。彼と比べれば、まだずっと若いバリトン歌手が、こうしてそれに倣っている・・・というわけでもなかろうが、期せずして、同じような正攻法に気づきつつあるということに、私は大きな喜びを感じる。

帰国した小森が、これからどういう活動を展開してくれるのか、まだハッキリとはわからない。だが、彼はいままでどおり、目にみえるような成長をつづけてくれることだろう。そういう音楽家と長くつきあってみたいという人のために、私はこのデュオのことをつよく推薦して止まないのだ。どうも出演者にとって知り合いの多そうな、この日のような会場は、どうしても盛り上がりに欠ける。それは、彼らが仲間うちでとってきた行動の経験に基づくのであろうし、つまり、音大や同門の演奏会でどういうことがおこなわれているか、想像がつくのである。この雰囲気を、本当に音楽を聴くのが好きな人たちの集まる会場と同じにすることが、私の夢なのだ!

そして、そういう栄誉を受けるべき権利が、この2人にはあると確信している。

【プログラム】 2012年12月20日

○シューベルト 美しい水車小屋の娘

 於:東京文化会館(小ホール)

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