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2013年1月15日 (火)

メッツマッハー アルペン・シンフォニー 新日本フィル トリフォニー定期(第1夜) 1/11

【メッツマッハー&NJP】

インゴ・メッツマッハーが新日本フィル(NJP)のトップ・ポストに就くことが発表されてから、はじめての演奏会となるこの日、私はこの組み合わせをはじめて聴いた。メッツマッハーについては以前から高く評価していたつもりだが、残念ながら、生で耳にする機会はなかった。1997年~2005年まで、彼が黄金時代を築いたハンブルク歌劇場の日本公演なんていうのもなく、NJPの公演はどれも興味があったが、諸般の事情で行くことができなかった。その間、一貫して、メッツマッハーのことは知的で、能力の高い指揮者としてイメージしていたが、実際、耳にしてみないとわからないことも多いものだ。幸いNJPでの評価は高く、現任者のアルミンクに代わって「コンダクター・イン・レジデンス」に就任することが発表された。

【豊富な舞台経験を反映した解釈】

いよいよ、その演奏に触れるや、私は非常に複雑な感銘を抱いた。正直いえば、思ったほど好きなタイプな演奏ではなかった。しかし、ヨハン・シュトラウスⅡ、ヤナーチェク、リヒャルト・シュトラウスの3曲で、どれも徹底的に個性的なイメージで演奏されていることは間違いなかった。このうち、ヤナーチェク『利口な女狐の物語』が多分、もっとも優れた演奏だと思われる。とはいえ、私がエリシュカ先生に「習った」ものとは、すこしちがうようだ。のんびりしたところと、鋭いところのメリハリ。狐にしか感じられないような土の臭いや、それを踏みしめる柔らかい感覚。独特の透きとおった、微かに優しい、ときに冷徹な空気感といったようなものは、彼の演奏からは感じられない。その代わり、メッツマッハーが示したものは豊富な劇場経験に基づく、舞台音楽のフレキシビリティの鋭さだ。

今回、エリシュカが用いたターリヒ版ではなく、その弟子で、欧州におけるヤナーチェク伝道のキーマンだったともいえるマッケラスによる編曲を用いての演奏となった。描かれる場面は師匠のものをほぼ踏襲しており、同じく第1幕の音楽を歌抜きでつなぎあわせたものにすぎないから、編曲に際し、師匠の版が念頭にあったのは間違いない。だが、マッケラスは当時の慣習により指揮者(ターリヒ)がフレキシブルに書き加えたり、バランスを変更したものを元に戻し、なるべく、もとの歌劇と同じ音像で聴かせたかったようだ。

メッツマッハーは、この版の良さをきわめて深く知り尽くしており、テンポよく、小気味のよい舞台をイメージさせる響きの構築で、全体をそれらしくまとめ上げた。このような抜粋版からも、ヤナーチェクの書いたオペラ独特の雰囲気を聴き手に感じさせたかったマッケラスの意図は、彼の演奏によって明快である。特に、第1幕の幕切れに向かう最後のシーケンスに焦点を傾け、力づよい響きと揺るぎないテンポの維持で、厳しく追い込んでいくような演奏は否応なく気持ちの高揚をもたらし、ついに森番のくびきを脱して逃げ去る女狐、ビストロウシュカの痛快さを激しく印象づけた。

だが、私は全体的に、この作品にもっとのんびりしたイメージを抱いている。特に、最初のプレリュードの部分などは、もっと謎めいた深い霧のなかに(ト書きには、真夏の午後の日が照りつける・・・とあるにしても)、具体的な場面がおもむろに、ぬっと浮き上がってくるような味わいが、なんといっても大事だと思う。そのためには、ある程度、響きが熟すのを待つ必要があって、多分、今度のメッツマッハーや、録音で聴かれるラトルなどにとっては、それでは、いささか間延びした雰囲気を禁じ得ないのであろうし、劇場的な処世術として、あのような速いテンポのなかで、あっという間に要素が固まっていく様子をみせることは、作品のもつ鋭い個性を際立たせることになるであろうことも想像がつく。

だが、エリシュカの演奏においては、むしろ、同じ響きを粘りづよく待って、もっとじっくり使うところに特徴がある。それが一面では大らかで優しいイメージを与えるとともに、スケールの大きな劇の構築を可能にするものだ。ただし、氏は劇場経験が薄く、主にコンサート指揮者やアカデミシャンとしてのキャリアを送ってきたため、その演奏スタイルによって、舞台上の出来事をうまくカヴァーできるのかどうかまでは判断しきれない。

【メッツマッハーの盲点】

だが、次なる『アルペン・シンフォニー』を聴いて、私はやっぱり、一見、完璧主義なメッツマッハーにも大きな盲点があると確信した。その「盲点」とは、正に彼の音楽性の繊細さに根差している。つまり、彼の譜読みが深く、誰よりも多くの情報をスコアから掴み取ることができるのは、私のような素人目でみても明らかである。だが、彼はそうした情報を寝かせることを好まず、すぐに生かしきって、鮮やかな音像を描き出すことを美しさであると心得ているのだ。メッツマッハーの音楽を好む人たちは概して、響きの整然とした美しさに「見惚れる」傾向があると思う。私はそうした部分に、まるで過負荷が人間の腰にかかってギックリいってしまいそうな、そんな余裕のなさを感じるのである。無論、ときおり訪れる、みるも見事なテクスチャーの鮮やかについては、もはや議論の余地なく美しいというほかない。ところが、その究極的な美のために、活き活きとした響きの生命感を抑えられたいくつかの部分、また、それ以上に、あまりに頑張りすぎて、凝縮しすぎた響きの存在に気づくと、私はどこか、いたたまれない気持ちにさせられるのだ。

ただし、だからといって、私はメッツマッハーの演奏を徹頭徹尾、批判の対象にしたいとは思っていないのだ。私はこのような具合的な音像に対するイメージを越えて、メッツマッハーの音楽にどっぷりのめり込んでしまった。彼は全体の構造を厳しく評価し、その頂点でなにが起こるべきかを踏まえながら、音楽を組み立てていく。そして、それが作品に込められた作曲家の想いと思わぬ一致をみせるとき、私はそこにひとつのメッセージを聴くことになる。そのメッセージを読み解くことに、私は専念することにした。彼はこんな演奏をして、一体、なにが言いたいのだろうと考えつづけたのだ。無論、それは作品に対するイメージと不可分に結びついている。

【人間の手ではどうにもならないもの】

特に顕著に感じられたのは、なにか思いどおりにならないものが、常に私たちを見つめているという感覚だ。このメッセージは序盤、音像としてはハッキリと表れているにもかかわらず、メッツマッハーはより堅固で、煌びやかな素材をつよく押し出すことで、こうした内面的要素が露出しないように響きを確立する。この作品には、風景的描写とそれと結びついて表現される内面性、さらに、音響的な煌びやかさという3つの特徴があるが、メッツマッハーはまず第3の音響的要素を重視してバランスをコントロールしていた。ただ、若干、その過程には苦労がみられた。なかなか彼の思うような、安定した響きのベースが整ってこなかったせいだ。その安定が、私にハッキリと聴き取れたのは、作品も半ばを過ぎるころであった。具体的には、「氷河」のあたりである。

ただし、それ以前の演奏が、総じて台無しだったわけでは決してない。この間、メッツマッハーとNJPのメンバーたちは、弦楽器と管楽器が常に同じような響きで聴こえるような、室内楽的な響きのコントロールをすこしずつ達成しつつあった。このミッションは演奏会の全体を通じて、絶えず追求されたものであったが、特に、このシンフォニーでは繊細のうえにも繊細に、作品を織り上げる糸として扱われた。

一定の安定のうえにしか、まともなメッセージを積み上げることはできないが、それ以上に、メッツマッハーはこの出しどころを待ちに待ったのである。それはすべて、頂上を極めてのち、主に下山の過程に集中して発揮されたというべきだろう。登頂を窮める英雄的な登山者の姿にではなく、その些細な失敗(道に迷う)や、それが導くことになる致命的な事態、そして、それらに対する宗教的ともいえる惧れについて、彼はより雄弁に語ろうとしているのだ。こうした内面的な描写は、できるだけ後半に寄せておいて、それまでは何食わぬ顔で響きの「調整」に明け暮れているのである。

「嵐の前の静けさ」と、つづく「雷鳴と嵐、下山」は名実ともに、作品のクライマックスを成す。特に後者のパーカッションの用い方などはいかにもメッツマッハーらしいもので、現代音楽的な凄まじい「無秩序の美」を示していた。雷鳴を表す高音は通常、微かなリズムのアーティキュレーションを構成するものだが、そんなものよりも、身を襲う風雨の重みだけが、登山者にとって脅威であることを示す端的な表現である。よって、この部分はもはや描写的な・・・自然描写の役割は止め、単に恐怖と惧れの表現だけによって染め上げられる。あらゆる英雄的な音響の美しさは存在せず、もはや、この事態が人間の手ではどうにもならないものであることを如実に語るのだ。

終盤はオルガン音が効果的に強調され、正に、人間の手ではどうすることもできない恐怖が、宗教的な畏怖と結びついて、作曲者の内面を照らすことになる。ニーチェの哲学を基礎に、リヒャルト・シュトラウスが組み立てた哲学は、こうした超人間(哲学)的な現実が、(少年期の)彼自身の目の前にあった(現れた)という事実そのもののなかに求められるのではなかろうか。これをメッツマッハーたち演奏家のレヴェルでみれば、現実とは実に、作品の偉大さにほかならないのである。彼がポスト就任を控えて、この作品を取り上げたのは意味のあることなのだ。彼のメッセージは、簡単にいえば次のようになる。

【メッセージ】

私たちはいま、巨大な山を登ろうとしています。確かに、考え方のちがいは、一見、親密な我々の間にもあることでしょう。ですが、あなたがたは私のことを受け容れてくださいます。この偉大な霊山を前にして、小さなちがいなど取るに足らないと思います。否、むしろ、そのようなちがいがあることが、我々にとっては当たり前のことであり、それこそが幸いなのであります。我々は道に迷い、重大な過ちが致命的な問題につながっても、きっと切り抜けることができるでしょう。そのために、私は命を賭けて、あながたを支えてみせようと決意したのです。あなたがたも、一緒にやってくださいますね!

【作品の終盤】

オルガンの響きに乗って、交響曲のきまりごとにしたがい、最後に回想的なテーマが響くところで、この作品に限らず、私はこの日の演奏会のすべてを思い出した。そこではウィーンの森に響く鳥たちの声も、ビストロウシュカたち、モラヴィアの動物たちも、すべてが同時に響いて、私たちを見送ってくれているような気がしたものだ。

作品は、「夜」に入る。ここで、この作品の大部分を占めた「調整」が決して無駄ではなかったことがわかるのだ。山の動機を奏でるトロンボーンが、なんといっても、この部分の主軸だと考えてきたし、それは間違いではないはずだ。だが、メッツマッハーの演奏では、ここに投入される楽器の響きがすべて等価で、互いを真似ながら尊敬しあうようにしたかったのが明らかである。オルガンも弦も、すべてだ。つまり、室内楽的な理想なのである。これこそが、彼らの追求してきた作品の響き、その本質にあるものなのだ。これをやるために、彼らは辛い努力を惜しまなかった。

思えば、私は、こういう演奏をまるで知らずにきたのかもしれない。それは古い録音を聴くほど、しっかり感じられる特徴で、アナログ録音のため、その特徴が隠れがちであるものの、作曲者による自作自演や、オスカー・フリートディミートリ―・ミトロプーロスといった指揮者による録音から、なんとなく感じ取れるものだ。分離が良くなり、サウンドが清潔になって旋律がハッキリ浮き上がるほどに、味わいは薄れている。メッツマッハーの音楽は、そうなる以前の混沌とした魅力を復活したものだろう。

【ヨハン・シュトラウス】

こうしたコミュニケーションの濃厚さについて述べたあとで、ヨハン・シュトラウスについて語るところがあるだろうか。しかし、スコアの指定どおりにツィターを用い、その温かい響きを軸として、作品を織り上げた姿勢についていえば、これは3曲を貫く演奏姿勢である。具体的には、ルバートをさほど協調せず、響きの流れをぐっと引き締めて表現するルドルフ・ケンペクレメンス・クラウスのようなスタイルと、もっと自由に、ルバートを華やかに使うウィリー・ボスコフスキーのようなスタイルが折衷されている。折衷的にもかかわらず、それらは作品表現の細部や構造的な必然性にぴったりと見合っており、綜合的な表現の巧さは、ウィーンのニューイヤー・コンサートにおけるヴェルザー=メストを子ども扱いするほどに洗練されていた。

だが、金管の圧力は、やはりウィーン・フィルには遠く及ばないのも確かである。そうしたところに賭けるよりは、メッツマッハーはこの日、舞台に上がっていた吉永雅人、服部孝也、箱山芳樹といったところがもつ、日本人的な繊細な金管の音色に注目し、そうした響きのアンサンブル力を最大限に生かす道を探ったというべきだ。日本のアンサンブルは、決してこうしたウィンナー・ワルツのリズムや響きを得意としないが、弦を中心に鮮やかなアンサンブルを輝かせ、最初と最後だけに表れるツィターの響きを有機的に結合させながら、優しい響きを基調とした内面的な演奏に仕上げたことは大いなる評価に値するのではなかろうか。

【まとめ】

なかなか得るものの大きいコンサートであったが、まだまだ、オーケストラが指揮者の求める響きに追いつかない場面は散見された。特に、弦が精一杯の響きを盛り上げ、崔コンマスが必死に全体の響きを押し上げていた場面などは、正直、まだ美しいとは言いかねるレヴェルにある。そのような点で、現任者であるアルミンクの手腕には限界があったと言わざるを得ないだろう。東響がユベール・スダーンを新監督に迎えたあと、最初に出したブルックナーの録音は決して満足のいくものではなかったが、NJPも、いまはまだそんな時期にあるのだろうか。だが、現在、東響はあのときとはまるでちがうサウンドを誇っているように、NJPにもこの先、豊富な可能性が見込めることは、メッツマッハーの指揮によって、いよいよ明らかとなった。

次の週で、私はブルックナーを聴く。そこでも多分、私は同じような種類の不満を感じるだろうが、その不満とは、彼らにとっての伸びしろを意味するのである。新しいポストに就く指揮者は、それを広げるというミッションを得るのであり、やがて、その可能性を現実のものとして回収することが役割なのだ。そうすることで、楽団は成長する。同じ指揮者の下で長くやると、アンサンブルの温かみと一体感が高まって、個性的な響きになっていくものだが、ある程度の成熟に達すると、それを高めるという方向から、維持する、あるいは、守るという方向にむかいやすい。何十年と立派にオケを率いて、その価値を高めた指揮者もいるにはいるが、一般的には、長くても10数年がちょうどよいところだろう。

そういう意味では、NJPも良い時期に来ていたということである。そして、メッツマッハー氏は、彼らにとって望み得る最高レヴェルの、新しく、大きな伸びしろを示すことができる人物であろうことは間違いない。とりあえずは最初の2シーズンを高いレヴェルでこなし、支援者たちの理解も得て、レジデントからより堅固なポジションを得て長期契約が結ばれるまで、両者が順調に関係を深めていけるように望みたいものだ。

【プログラム】 2013年1月11日

1、J.シュトラウスⅡ ウィーンの森の物語
2、ヤナーチェク 利口な女狐の物語(組曲/C.マッケラス編)
3、R.シュトラウス アルペン・シンフォニー

 コンサートマスター:崔 文珠

 於:すみだトリフォニーホール

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